有志舎の日々

社長の永滝稔が、 日々の仕事や出版・学問などに関して思ったことを好き勝手に 書いていきます。

「本のヒトハコ交換市」の思想的・社会的位置について(大げさか!)

2017-05-20 22:50:17 | 政治・社会
大げさにも、「本のヒトハコ交換市」の思想的・社会的位置づけについて考えてみました。
以下は、あくまでも私個人の考えであって、「本が育てる街・高円寺」の公式見解ではありません。

さて、
交換によってしか、欲しい本を得られないというのが交換市の第一原則です。
だから、会場でいくら欲しい本があっても、自らが本を持ってきて、しかもその本が元々の持ち主に気に入られなければ、交換してもらえず手に入れることはできません。
いくら大金を積んでもダメです。
が、一方で、双方で話が盛り上がれば「まあ、タダであげますよ」ということもあり得るかもしれない。
だから、この日・この空間だけは、私たちにとって当たり前になっている「資本主義的近代」が通用しない世界になるわけです(と強引に考える)。

また、デカイ話をすると、
『初期社会主義の地形学』(有志舎、2016年)を書いてもらった梅森直之さんによれば以下の通りだそうです。
資本主義というものは自動機械みたいなもので、剰余価値を生み、高い利益を出し続けるために、資本は既存の環境に向けて投下され続けなければならず、その結果、常に資本主義にとって最適な環境が作り出され続ける。戦後日本における高度成長期の「一億総中流」みたいな平準化された社会も、今のような格差社会も、資本にとって最適な社会(利益が最大になる社会)をつくりだしているに過ぎない。それが資本主義近代であると。だから、資本主義の発展はかつてのマルクス・レーニン主義のいうような一方向かつ一回きりのものではなく、何度でも起こる。一度平準化された社会もまた差異化され、差異化されたらまた平準化される。それはすべて資本主義という自動機械の活動によるものだと。

そのなかで、人間も資本主義近代的な考えにどっぷりと浸かり、それが一定の時代のなかの単なる一つの在り方であるに過ぎないことを忘れ、絶対の動かしがたい現実であるように思い込む。
しかし、「本のヒトハコ交換市」はそんな資本主義近代に関する違和感を現実生活のなかでもつ瞬間をつくり出すものではないかと思うのです。

前回の交換市の時、こういう光景がありました。
ある年配の男性がいくつか欲しいと思った本を手に取り、「これいくら?」と訊きました。
それに対して我々は、「交換なので、売ってはいないんですよ」と答えました。
すると、その方は「ええっ?! 買えねえのかよ!」と怒り、「ふざけんな」と言って本を置き、立ち去りました。
いかに人間の精神に資本主義近代が深く埋め込まれてしまっているかを見て、私は呆然としました。
でも、逆にそういう違和感が大事なのではないか、と思うのです。
お金で解決できないという事が現実の生活世界のなかで現出することは殆どありません。
だから、そういう違和感をもってもらうことが、この「ヒトハコ交換市」の意味の一つではないかと考える次第です。
一方で、前にも書いたように、初対面の人であってもチェ・ゲバラの本に関して楽しく話せる機会を持たせてくれたということもあり、それはお金では買えないことです。

ただのイベントごときに大げさなと思われるかもしれません。
でも、私はそれくらいの覚悟でこのイベントに携わっています。

次回の「本のヒトハコ交換市」は6月11日(日)です。
ぜひ一度、来てみて、資本主義近代が通用しない世界を体験してみてください(笑)。

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