有志舎の日々

社長の永滝稔が、 日々の仕事や出版・学問などに関して思ったことを好き勝手に 書いていきます。

藤野裕子さん著『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代―』、読み終えました

2020-12-06 15:21:50 | 出版
藤野裕子さん著『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代―』(中公新書)をようやく読み終わりました。
早くにご恵贈いただいていたのに、申し訳ないです。
実は体調もあまりよくなく、さらに仕事も忙しかったもので途中まで読んで止まっていたのですが、この2日間でいっきに読み切りました。

この本に書かれているなかで最も大事なところは、
「権力への暴力と被差別者への暴力とは、どちらかだけを切り取って評価したり、批判したりすることが困難なほど、時に渾然一体となっていた」ということでしょう。
戦後歴史学や左派の中にある、民衆の先進性・自律性や運動を丸ごと良く評価したいという気持ちは分かるのですが、残念ながらそれは幻想でしかない。歴史はそれを教えてくれている。
こういう複雑な存在である「民衆」というものの歴史を新書で描き出したことはとても重要だと思います。
ぜひ、これから歴史学を勉強しようとする若い人たちは、この本をまず読んでいただきたい(若くない人ももちろん読んでください)。
歴史と歴史学というものは、歴史改ざん主義者が言うように、そんなにスパッとは斬れないもので、博捜してあらゆる史料を集め、一歩一歩、史料批判を地道にやって自らの思い込みや「こうあってほしい」という思いを、あえて自らのなかで批判しつつ検証し、苦しみながら絞り出して書くしかないものだということ。
だから、スパッと気持ちよくはいかないのです。

また、それも踏まえて、この本を読みながら、「日本民衆の宿痾だなあ」とも思えたのが「お上(や他人)に褒められたい」という精神傾向です。
つまり、行動原則が自分の内面に自律的にはなく(もしくは弱く)、常に「上のもの」や他人に認めてもらう・褒めてもらうことが自らの存在意義だとしか思えないという他律的意識しか持っていない(「いいね」をもらえる事が一番大事みたいな精神構造)。
通俗道徳という自己責任論に息が詰まって生きにくいと思い、そこからの脱出を望んで反・社会、反倫理的な姿を見せはしても、自らの内面に基準がないので、結局はその反・倫理的、暴力的な行動を通して「お上」の世界に認めてもらえるように行動し、通俗道徳の世界に復帰しないではいられない。
それが近現代日本民衆の精神構造なのかな、と考えた次第です。
そういう意味で、趙景達さんが『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』の中で言った、「日本人は本当の意味で通俗道徳を内面化していたのだろうか?」という疑問は考えてみる必要があると思っています。

もちろん、これは私の理解が浅いのかもしれないし、読み間違っていたり、勝手な考察であるかもしれません。
しかし、民衆史研究の成果だけでなく、私なりに勉強してきた竹内好の議論も含めて考えてみたとき、私にはそう思えます。
その一方で、もう一度、牧原憲夫・安丸良夫・鹿野政直・ひろたまさき氏、などといった日本民衆史研究の系譜は勉強し直さないと、まだまだよく分からないとも思っています。
いずれ編集者を引退したら、そういうことに没頭しようかな・・・。

なお、「暴力とジェンダー」「男性性」の問題についてはもっと書いて欲しかった気もしますが、それはまた今後のご研究のなかで進められるのでしょう。
藤野さんの描く「男性史」も早く読んでみたいものです。

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