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エジプト・トルコ旅行2008 全100話 写真1000枚!

エジプトとトルコへの初回訪問(2008年7月)!カルチャーショック満載の旅、すべて見せます、綴ります。全100話!

聖ミナス大聖堂&修道院

2008-08-25 | アブ・ミナ遺跡・ポンペイの柱・カタコンベ

昨日のブログ「アブ・ミナ」の続き。アブ・ミナはエジプト語で、ギリシャ語にするとミナス。上の写真は、1959年にアブ・ミナ遺跡の近くに再建された「聖ミナス大聖堂」。反対側には「聖ミナス修道院」もある。あの砂漠の中の荒廃したアブ・ミナ遺跡の中にあったものだが、復活した大聖堂はこんなに綺麗。
らくだと聖ミナスを描いた壁画。

大聖堂へ向かう道路。すっかり整備され立派な入り口。



聖堂内の天井画。光が優しく差し込んでいた。


 

聖堂内のステンドグラスもとても美しかったが、ピンボケしてしまい写真が少ないのが残念。







道路を挟んで、反対側にある修道院。ブーゲンビリアの花が優しい感じできれい。



敷地内の出口近くには、宗教画やキリスト教に関する書籍、十字架のネックレスなどなど・・キリスト教関連グッズを売る店がお祭りの時の出店のようにズラーッと並び賑わっていた。



それと対照的に、おじさん二人が暑さに耐えながら、地元でとれたオリーブの実の塩漬けやピクルスをセンスなく並べて売っていた。
売り上げは教会に寄付するのだろうか。

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世界遺産「アブ・ミナ遺跡」を歩いて

2008-08-24 | アブ・ミナ遺跡・ポンペイの柱・カタコンベ
アレキサンドリアから砂漠道路をバスで1時間半程度走ったところに、砂漠の中に忽然と、世界遺産アブ・ミナ遺跡が現れた。
  
レンガが崩れ、神殿の柱のかけらがあちこちに転がったままの荒れ果てた都市遺跡だった。





4世紀から7世紀にかけて、ここが、実はエルサレムと並ぶキリスト教の巡礼地だったということを、私は知らなかった。(勉強不足
エジプト史上最大のキリスト教(コブト教)都市だ。

当時は、世界各地から参拝に訪れる殉教者が後を絶たず、教会、聖堂、洗礼堂のほか殉教者の宿泊施設、温泉浴場、住居地までそろった大都市だった。
(下の写真は、温泉浴場跡と宿泊施設跡らしい)




では、なぜここがこんなに大規模な巡礼地となったか???

私は、首から提げているイヤフォンガイドの音量を上げて、ガイドのモハメッドさんの説明に聞き入った。
(本ツアーでは、離れていてもガイドさんの説明が良く聞こえるように、旅行会社からツアー参加者にイヤフォンガイドが貸し出されている。これ、スゴク便利!
移動しながらでも聞けるし、エジプト考古学博物館などガイドさんが大きな声で説明できないような場所でも全員の耳にはっきりと聞こえる。いいシステムだわ!)

「アブ・ミナ」はエジプト語の呼び名で、ギリシャ語では「聖ミナス」という。
(下の写真で2頭のらくだに守られ、両手を小さく挙げている青年が、聖ミナス。遺跡の中にプレハブのような小さな建物の中で写したもの。)



聖ミナスの両親は、敬虔なクリスチャンだった。
母は不妊だったが、聖マリアに熱心に祈り、紀元286年に聖ミナスが生まれた。
父親は社会的に地位のある役人で、聖ミナスをキリストの名のもとに生きるクリスチャンとして大切に教育したが、聖ミナスが9歳の時に亡くなってしまった。
その後は母に育てられたが、その母も彼が14歳の時に死んでしまった。
しかし、ミナスは敬虔なクリスチャンとして祈りを続け、立派な青年に成長した。

  

15歳の時、ミナスはローマの軍隊に入り活躍し、人々から信望も厚く高い役職についた。
ところが・・・

4世紀初めに、ローマ帝国ディオクレティアヌスによるキリスト教徒迫害が始まり、多くのキリスト教信者が、キリストの名のもとに死んでいった。

キリスト教徒だった聖ミナスは、教徒迫害の命令を拒絶し退職。自分がクリスチャンであることを公言し、キリスト教徒としての祈りを続けた。

するとローマ帝国軍は、ミナスを厳しい拷問にかけ残酷な殺し方で殺した。
ミナスの遺体は焼かれそうになったが、彼の部下たちが何とか引き取りらくだの背中に乗せてそっと運び出した。

ミナスを背中に乗せらくだは砂漠を歩き続けていたが、突然、ある場所で動かなくなった。
人々は、これをミナスをここへ埋葬しなさいという神のお告げだと思って、ミナスをその場所へ埋葬した。


その場所というのが、この地、アブ・ミナ遺跡。

すると、不思議なことに90もの泉が噴出し、その泉の水は難病を治し、人々を幸福に導く奇跡をいくつも起こした。

やがて、各国から多くの人々がやってきて、泉の水を持ち帰り、聖ミナスに祈りを捧げるようになった。

この地は、それ以降訪ずれる人々が後を絶たず、7世紀ごろまでの間ずっとエルサレムに並ぶ巡礼都市として発展した。





しかし、9世紀頃ベトウィン族の略脱・火災などによって都市は破壊され、12世紀には宿泊施設なども破壊されてしまった。

まだ全てが発掘されていないアブ・ミナ遺跡だが、現在、地下水位上昇などにより状態は悪く、2001年危機遺跡として登録されている。
(発掘はまだ終わっておらず、砂を運び出すトロッコ用のレールが引いてあった)

4世紀から7世紀のキリスト教徒の様子やその後イスラム教への移り変わりなどに関し、秘められていた事実が判明しそうな遺跡だと感じた。

発掘が順調に進みますように!

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「カタコンべ」の第一発見者はロバだった!

2008-08-23 | アブ・ミナ遺跡・ポンペイの柱・カタコンベ
アレキサンドリアの「カタコンベ」(世界最大の地下墓地)は、2世紀ローマ帝国支配時代に造られたものだが、約2000年後に、ある1頭のロバによって偶然発見された

発見当時(1990年)の第一発見者のロバの写真は、カタコンベの入り口近くの小屋で大切に展示されているというので、カタコンベを見学した後にこの小屋に入り見てみた。やせて弱々しそうなロバが写っていた!
 えっ!このロバが発見って?  どういうこと?
   それは・・・・

エジプトがローマ帝国に支配されていた紀元2世紀のある日、このロバが砂を運んで歩いていた。
すると、突然、姿が見えなくなった・・・・・消えた!
 ・・・・・・・実は、深~い古井戸に落ちてしまったのだった

人々の協力によって苦労の末、ロバは助けられたが、その際になんと、地下に広がる大規模なカタコンベがあることが判明!!!
2000年前に埋葬された多くの霊魂が、現代人に伝えようとしてこのロバに託したものは何だったのだろうか

アレキサンドリアのカタコンベは地下3階まであるが、地下水が浸水しているため地下2階までしか入ることができなかった。
(写真撮影は、一切禁止されていたので、残念ながら写真はない)

99段のらせん階段を下りていく。少し滑りやすい。
外の猛暑から、解放されながら薄暗い空間へ降りて行った。

洞窟の中にまた洞窟と言う感じの空間に、石棺を入れるための穴がいくつも並んであいていた。
「当時300人以上がここに埋葬されていたと言われています」と懐中電灯を照らしながら話すガイドのモハメッドさん。

ローマのカタコンベにも行ったことがあるが、ここアレキサンドリアのカタコンベには、古代エジプト人が神々の姿でミイラをつくっているところを描いた鮮やかな壁画や、当時墓参りに来た遺族や友人たちが集まって食事をしたと考えられるベンチ(大量の皿の破片がベンチの周囲から出てきたとのこと)などが残っていた。

守り神であるヘビのレリーフ、ソベク神とアヌビス神の像顔はローマ人で体はギリシャ人の2体の大理石像があった。
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ポンペイの柱

2008-08-17 | アブ・ミナ遺跡・ポンペイの柱・カタコンベ
本ブログに大変多くの皆様よりご訪問いただき、ありがとうございます!!!
 まだ始めたばかりですが、先週分(8/10~8/16)のアクセス閲覧数1,235PVを記録し、ビックリ!これからも、初回訪問だからこそ受けたショッキング~を感じたままに書き綴ります。
 今後とも、ヨロシクお願いしま~す

さて、カイロからバスで砂漠道路を走ること3時間半(途中でのトイレ休憩含む)
「地中海の真珠」と言われ、かつてはエジプトの首都だったこともある「アレキサンドリア」へ到着!

カイロとはだいぶ雰囲気が違い、海岸沿いの街並みも美しく、どことなく南欧リゾートのよう。以前訪れたことのあるギリシャにも少し雰囲気が似ている。
「たった一泊はもったいない、連泊したいね」と、この街にすっかり気に入り心がはしゃぐ私と同行者Nさん。

アレキサンドリアでは、「ポンペイの柱」「カタコンペ」「アレキサンドリア国立博物館」「アレキサンドリア図書館」そして、世界遺産「アブミナ遺跡」を観光。
まず、最初に訪れたのが、「ポンペイの柱」

小高い丘の上に、2体のスフィンクスに守られながら、ぽつんと1本だけ立っている。なぜ、1本?イタリアのポンペイと関係あるの?・・・と疑問が。
ガイドのモハメッドさんによると、
イタリアのポンペイと関係なく、紀元3世紀にローマ皇帝ディオクレティアヌスのために造られた神殿の柱で、当時約400本あったとされるのうちの1本とのこと。こんな高い柱が400本とはスゴイ規模だ(この柱の高さ27m、花崗岩製)


汗をかきながら、当時の神殿の規模を想像しつつ、階段を登り柱の近くまで行ってみた。





ディオクレティアヌスが悪事を働き別の支配者が支配した時に、氾濫がおきアレキサンドリアが封鎖された。食料が尽きて困っていた人々にディオクレティアヌスが食料を分けて救ったため、アレキサンドリアの人々はここに神殿を造りささげたらしい。


柱を見守るようにあるスフィンクスは、神殿が造られたときからあったものではなく、近くで発掘されあとでここに据えられたものとのこと。



ポンペイの柱のところまで歩く道には、まだまだ整備されていない遺跡物がごろっところがっていて、段差が多い。一緒に歩いていた同行者Nさんが、なんとその段差に躓き、足をひねった!
バスに戻ったところでこんなこともあろうかと準備していた湿布を貼付!翌日には歩いても痛みも軽くなったらしく、ひと安心。(湿布持ってきて良かった!遺跡めぐりは、足元要注意!)



実は、このポンペイの柱のある丘は、現在、周囲を庶民的なアパートに囲まれている。

アパートのどこかの部屋からコーランを唱えるような音楽が漏れ聞こえていた。
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