アレキサンドリアから砂漠道路をバスで1時間半程度走ったところに、砂漠の中に忽然と、世界遺産アブ・ミナ遺跡が現れた。
レンガが崩れ、神殿の柱のかけらがあちこちに転がったままの荒れ果てた都市遺跡だった。
4世紀から7世紀にかけて、ここが、実はエルサレムと並ぶキリスト教の巡礼地だったということを、私は知らなかった。(勉強不足

)
エジプト史上最大のキリスト教(コブト教)都市だ。
当時は、世界各地から参拝に訪れる殉教者が後を絶たず、教会、聖堂、洗礼堂のほか殉教者の宿泊施設、温泉浴場、住居地までそろった大都市だった。
(下の写真は、温泉浴場跡と宿泊施設跡らしい)
では、なぜここがこんなに大規模な巡礼地となったか???
私は、首から提げているイヤフォンガイドの音量を上げて、ガイドのモハメッドさんの説明に聞き入った。
(本ツアーでは、離れていてもガイドさんの説明が良く聞こえるように、旅行会社からツアー参加者にイヤフォンガイドが貸し出されている。これ、スゴク便利!
移動しながらでも聞けるし、エジプト考古学博物館などガイドさんが大きな声で説明できないような場所でも全員の耳にはっきりと聞こえる。いいシステムだわ!)
「アブ・ミナ」はエジプト語の呼び名で、ギリシャ語では「聖ミナス」という。
(下の写真で2頭のらくだに守られ、両手を小さく挙げている青年が、聖ミナス。遺跡の中にプレハブのような小さな建物の中で写したもの。)

聖ミナスの両親は、敬虔なクリスチャンだった。

母は不妊だったが、聖マリアに熱心に祈り、紀元286年に聖ミナスが生まれた。

父親は社会的に地位のある役人で、聖ミナスをキリストの名のもとに生きるクリスチャンとして大切に教育したが、聖ミナスが9歳の時に亡くなってしまった。
その後は母に育てられたが、その母も彼が14歳の時に死んでしまった。

しかし、ミナスは敬虔なクリスチャンとして祈りを続け、立派な青年に成長した。
15歳の時、ミナスはローマの軍隊に入り活躍し、人々から信望も厚く高い役職についた。
ところが・・・

、
4世紀初めに、ローマ帝国ディオクレティアヌスによるキリスト教徒迫害が始まり、多くのキリスト教信者が、キリストの名のもとに死んでいった。
キリスト教徒だった聖ミナスは、教徒迫害の命令を拒絶し退職。自分がクリスチャンであることを公言し、キリスト教徒としての祈りを続けた。
するとローマ帝国軍は、ミナスを厳しい拷問にかけ残酷な殺し方で殺した。

ミナスの遺体は焼かれそうになったが、彼の部下たちが何とか引き取りらくだの背中に乗せてそっと運び出した。
ミナスを背中に乗せらくだは砂漠を歩き続けていたが、突然、ある場所で動かなくなった。
人々は、これをミナスをここへ埋葬しなさいという神のお告げだと思って、ミナスをその場所へ埋葬した。
その場所というのが、この地、アブ・ミナ遺跡。
すると、不思議なことに90もの泉が噴出し、その泉の水は難病を治し、人々を幸福に導く奇跡をいくつも起こした。
やがて、各国から多くの人々がやってきて、泉の水を持ち帰り、聖ミナスに祈りを捧げるようになった。
この地は、それ以降訪ずれる人々が後を絶たず、7世紀ごろまでの間ずっとエルサレムに並ぶ巡礼都市として発展した。
しかし、9世紀頃ベトウィン族の略脱・火災などによって都市は破壊され、12世紀には宿泊施設なども破壊されてしまった。
まだ全てが発掘されていないアブ・ミナ遺跡だが、現在、地下水位上昇などにより状態は悪く、2001年危機遺跡として登録されている。
(発掘はまだ終わっておらず、砂を運び出すトロッコ用のレールが引いてあった)
4世紀から7世紀のキリスト教徒の様子やその後イスラム教への移り変わりなどに関し、秘められていた事実が判明しそうな遺跡だと感じた。
発掘が順調に進みますように!