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遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う

「遊行七恵の日々是遊行」の姉妹編です。
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「美男におわす」展に溺れる その1

2021-10-29 01:32:06 | 展覧会
「美男におわす」展を見た。
美男におわす、とは与謝野晶子の
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな
この和歌から採られている。
その意味では「美男に在す」ではあるが、他方チラシなどの文字配置からは「美男匂わす」でもあるのだ。
ダブルミーニング、錯誤させる喜びがここにある。


本当なら埼玉県立近代美術館でのこの開催、前後期共に通いたいところだったが、昨今の状況を踏まえ、どうしても後期にしか行けなかった。
そのために山岸凉子「孔雀明王の王子」原画は間に合わなかった。
惜しいことをした。

数年前の彼女の原画展で見た時わたしはこう記している。
「王子は孔雀の上にいた。改めて王子の美に強く惹かれた。」
この絵は白泉社版「日出処の天子」最終巻表紙絵にも使われている。
ただし表紙は部分のみの使用で、全体像は出ていない。
当時の感想はこちら
山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界― 後期

展覧会のねらいを挙げる。
「「美男におわす」は、絵画をはじめとする日本の視覚文化に表された美少年、美青年のイメージを追い、人々が理想の男性像に何を求めてきたかを探る試みです。
 日本美術史において「美人画」とよばれることの多い女性像は、江戸時代の浮世絵や近代絵画において隆盛をきわめ、現在も高い人気を誇っています。一方、男性像に目を向けると、その時々の社会情勢や流行、男性観などが反映された作品が数多く存在するものの、「美男画」といった呼称でひとくくりにされることはありませんでした。…
ライフスタイルや嗜好が多様化した現在、果たして「美男画」との出逢いはどのようなものになるでしょうか。
 いざ、増殖する美男の園へ。美男をめぐる旅をはじめましょう。」


この見慣れぬ「美男画」という言葉だが、実は以前にわたしはTVで聞いたことがある。
たけしの出演する番組に金子國義が出演した際、かれの作品を「美男画」と紹介したのだ。
実際その通りなのである。
そしてこの展覧会には当然ながら金子の描く美男が登場する。
83年と95年の美男である。
二点を眺めながらわたしは法悦境に彷徨った。

話が先走った。まだわたしは展覧会の最初のときめきも記していない。
順を追って(ああ、まるでジュンと言う少年乃至は青年を追いかけてゆくような気がしてきた)この悦びを深く、諄く記してゆかねばならない。
いざ、そのときめきの園へ踏み込まん。

第1章 伝説の美少年
会場へ入って真っ先に出会うのは現代の作家・入江明日香の大作である。
ここでまず心臓を鷲掴みにされる。

入江明日香 L'Alpha et l'Oméga 2019(平成31/令和元)年 ミクストメディア 六曲一双 屏風 丸沼芸術の森
たいへん綺麗な作品であり、同時に微妙なグロテスクさもあり、淫靡さも漂う。
全体像と細部とを同時にそして別個に味わえる作品でもある。
写真可能作品ということで、わたしは執拗に細部を追った。
こちらは全体像である。

細部への執拗な描き込み・変容は美への偏執的な悦びを示しているようで、そこにわたしなどは強く惹かれる。
全体を見たときの印象と細部を追うことで知る印象の推移、それ自体が面白くもある。
朽ちた、と思ったものがよくよく眺めると花で覆われた表現であったりもする。
本体を構成する内の数割が他者であり、違う行動をしてもいる。









視ることで新たに知るときめきがある。
剥落・消失かと思われたものは、目に見えぬレースで再構築されて繋ぎ止められているのかもしれない。
…それにしても猫はよく働く。働かぬものの代表のように言われる猫が働き者だということも何かを示唆しているのかもしれない。またうさぎも負けじと働くさまは、浮世絵のうさぎ尽くしのようでいて可愛い。

入江明日香 持国天 2016年(平成28)年 ミクストメディア 丸沼芸術の森  少女だともいう。瞳からは別ないきものも現れる。バロック音楽が流れだしているような立ち姿である。






入江明日香 廣目天 2016年(平成28)年 ミクストメディア 丸沼芸術の森  対となる存在なのか1/4である存在なのか。いとけなさを感じる少年。

傍らは犬なのか狼なのか。いや大神でもあるのかもしれない。
ところどころに玉蟲のような輝きを見せる彩色が施されているのも心地いい。


松岡映丘 稚児観音 1919(大正8)年 絹本着色 軸 天台眞盛宗東京別院眞盛寺  映丘は新興大和絵の第一人者であるから、昔の絵の知識も深く、その一門で絵巻の模写なども重ねていた。そうした研究をするひとが一枚絵のような美男を描く。
佇まいは謎の美人を描いた「伊香保の沼」にも通ずるものがある。
というのはここにいるかれはタイトル通り「人間」ではなく、「稚児観音」なのである。
上人に希われて、稚児に姿を変えて笛を吹きながら現れた観世音菩薩。
「稚児観音縁起絵巻」、こちらにわかりやすいテキストがある。
わたしは香雪美術館が所蔵する絵巻を見てはいる。

希う(こいねがう=つよく願う、一心に願う)とは「恋願う」でもあったか、二人は恋愛関係になり幸せな歳月を過ごす。
この絵は上人の前に初めて現れた姿である。月下の野に現れる美少年。
袴の裾からも着物がのぞくのが愛しい。
懸守を身につけて静かに佇む美しき稚児。その目元には不思議な艶がある。

クリックすると拡大化する

狩野養川院惟信 菊慈童図 18世紀後期~19世紀初期(江戸時代中~後期) 絹本着色 軸 板橋区立美術館  この菊慈童に会えるのを長く待っていた。板橋区美にいることは知っていたが、長く掛け違って会うことが出来ずにいたのだ。
ただし、既にモノクロでの画姿はわたしの手元にあった。
それを見て勝手に恋していたのである。
今、二百年ばかり前の彩をまとうた菊慈童を眺めて、一人秘かに微笑んでいる。
その愛らしさに照らされながら。

松元道夫 制多迦童子 1957(昭和32)年 絹本着色 軸 京都国立近代美術館  絵を見るより先にキャプションが目に入った。それを読んでから赤膚の少年を見る。確かに口元目元に不逞なほどの強さがある。
相棒の矜羯羅童子はここにはいない。元からいないのか、呼ばれなかったのかはわからない。
ただ、美少年と言う点では矜羯羅童子の方がそれだという設定の絵は多い。

抒情画からも美少年が来ている。
蕗谷虹児 天草四郎(『名殘の繒姿』口絵原画) 1926(大正15)年 彩色、紙 蕗谷虹児記念館  伴天連襟の美少年・天草四郎が船をバックにそこにいる。この船はどこのものなのだろう。
天草四郎と言えば映画「魔界転生」では沢田研二が妖艶に演じ、真田広之を誘惑する蠱惑的なシーンがあった。マンガでは赤石路代「AMAKUSA1637」で清楚な美少年として表現され、愛のもつれで早々と物語から去っている。
蕗谷虹児描く天草四郎は繊細な少年で、デウスの声を聞きながら民衆を導く者というより、やはり担ぎ上げられた対象に見えてしまう。その儚げな様子がいい。

蕗谷虹児 久松(『名殘の繒姿』口絵原画) 1926(大正15)年 彩色、紙 蕗谷虹児記念館  主家の令嬢お染と秘かに恋愛関係にあり、しかも…というどうしようもない状況にある。
苦悩しても答えは出ない。出る答えは一つしかない。
困難な状況を生き抜いてゆくには脆弱すぎ、繊細過ぎる美少年である。
もしこれで二人が手に手を取って逃げ出せば(それではお染久松ではなく、谷崎「お艶殺し」だ)、お染ではなくこの久松こそ悪人たちに手籠めにされて、陰間茶屋に売り飛ばされそうである。

蕗谷虹児 菊のたより(『令女界』口絵原画) 1947(昭和22)年 彩色、紙 蕗谷虹児記念館  豊臣の世が終わり、元和偃武になって、やることがなくなった若侍たち。
「生き過ぎたりや」と嘯いた世代の若い男である。
そんな彼らは遊女屋でだらだらと遊ぶ以外はない。
まだ苦界になる前の公界の頃の遊女屋の女と禿がいて、その禿から菊を。

安田靫彦 鞍馬寺参籠の牛若 1974(昭和49)年 紙本着色 額 滋賀県立美術館  まだほんの子供であるが、既に己が源氏の御曹司だと知った後でもあろうか。

この牛若は何を考えているのかよくわからない表情を見せている。少しばかり中川一政えがく「人生劇場」の青成瓢吉にも似ている。
ところで安田の絵で美男NO.1は、やっぱり「夢殿」の聖徳太子だと思う。本当に綺麗な男…

菊池契月 敦盛 1927(昭和2)年 絹本着色 軸 京都市美術館  この敦盛さまの人気の高さよ。
随分前、奈良そごうで「平物語への旅」展が開催された時、この敦盛さまがメインヴィジュアルとなった。
たいへん喜ばれ、かれに対してラブレターに等しいファンレターが女子中学生らから届いたと聞いた。
わたしもこの敦盛さまには秘かに心を寄せている。

笛ではなく経巻を持つ敦盛さま。
中学の教科書に平家物語の「敦盛最期」が出ていた。
今でも熊谷とのやりとりがすぐに浮かぶ。
「味方の軍兵雲霞の如く候 よも逃れさせたまわじ」
「ただとくとく首を取れ」
…泣く泣く首をぞかいてんげる。
とはいえこの敦盛さまは平服であり、青葉の笛を持たぬところを見ると、ふとした日常を写し取られたものかもしれない。

高畠華宵 夜討曽我 1937(昭和12)年 絹本着色 軸 弥生美術館  わたしは長年弥生美術館友の会会員なので必ずどの展覧会にも通っているが、そのおかげでこの曽我兄弟にも以前からまみえている。
華宵の抒情画ではない日本画のうち特によいのはこの兄弟と八百屋お七だと思う。
いざ仇討という兄弟で、蓑をつけ手には松明を掲げる。
ああ、十郎五郎の兄弟よ。あなたたちは仇討を果たすことだけで青春を終えようとしている…
あなたたちの愛した虎御前も化粧坂の少将もあなたたちを止めることは出来ず、ましてや数百年後のわたしなどではあなたたちの最期から遡ってゆくしか出来ない。

豊原国周 不破伴作 市村家橘 1865(慶応元)年 木版、紙 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館  遠目からでも後の五世菊五郎だとわかる細面の美男。不破伴作は殺生関白と呼ばれた秀次の小姓で、当時名古屋山三郎、浅香庄次郎と共に天下の三大美少年と謳われた。
この伴作は手に持った草履を振り上げている。どういった状況での草履なのかはわからない。
草履打ち、これはたいへんな恥辱であり、芝居ではそれが契機となって死が生まれる。

家橘時代の五世菊五郎を充てて描いた弁天小僧の絵の魅力に狂った少女を横溝正史が描いているが、確かにその時代の家橘にはそんな魅力があると思う。

長くなりすぎるので一旦ここまで

森川杜園展 木彫彩色作品の部

2021-10-26 00:26:31 | 展覧会
関西に住まうと、美術品などできちんと知る前になんとなく知っているというものが少なくない。
奈良の一刀彫なども詳しくは知らずとも、なんとはなしに子供の頃から見たこともあり、身近になくとも親しい感じがある。
森川杜園の名も奈良の一刀彫を認識すると同時にきちんと覚えたが、その前からそれこそ「なんとはなしに」見知っていた。
ただし、とえんという読み方を知ったのは後の話で、見おぼえた頃は森川杜園もりかわもりぞの、さて?だった。
声に出す前にとえんだと知って、それからはきちんと森川杜園の名を発音している。

奈良県立美術館で奈良の一刀彫の名手にして狂言師・春日の絵師でもある森川杜園の展覧会をみた。
生誕200年記念だという。1820年に生まれ、1894年に奈良で亡くなった。
明治になってからが本領発揮で晩年まで素晴らしい作品を生み出した。
オリジナル作品だけでなく、正倉院宝物の模造品の制作にも心血を注ぎ、これがまた素晴らしい出来なのである。

幕末から明治の工芸家・職人の仕事の素晴らしさ、百花繚乱状態は一体何に依るものなのだろう。
時代の変革期にこうした名人芸が続々と現れるのは、普通のことではない。
東アジアにおける工芸の美の始まりは中国であり、朝鮮を経て本朝に精華の時期が来た。
工芸品の美の極致は文化の爛熟期にこそ生まれる。
唐、北宋、明、清の四つの時代に生まれた工芸品も絵画も、時代を超越してその美を永遠にとどめる。
文化の爛熟期が来るのはその時代の盛りであり、あとは終焉に向かう道すがらに光を残す。
中国の場合は異民族により支配、政権交代により爛熟期が終わりを告げる。
遼のように唐を目指しても、やはりそれは違うのだ。
日本の工芸品について改めて考える。
大陸や半島から齎された新たな美意識。
「来てくれた」文化の新たな展開を求めて、遣隋使、遣唐使を出し、かち得た新しい文化を咀嚼し、国内での製造がおこなわれる。
しかし日本の場合、平安時代と言う鎖国の時代がある。江戸時代がある。
ここに日本の特異性を感じる。

ともあれ、幕末から明治に輝いた工芸家の素晴らしい作品群の中で、彩色木彫の美の粋を極めた森川杜園の美の世界を堪能したい。

Ⅰ 奈良人形
Ⅰ-序 奈良人形の歴史
思えば奈良は非常に古い都であり、古都と言う言葉でなく「廃都」と称されることもあるが、不思議にそれは奈良を貶めず、更に雅なものを感じさせてくれるのだ。

春日若宮御祭礼絵巻 上巻 紙本著色 1巻(3巻のうち)江戸時代(17世紀)縦38.0 横1908.4 春日大社  翁と媼のいる風景が出ていた。それぞれが手にアイテムを持つ。

節句人形 岡野松壽(九代・保伯) 木彫彩色 1体 享和3年(1803) 高47.5 宇賀志屋文庫  先人の作品。鎧姿の五月人形。胸飾りに二頭の獅子。十二神将像など武神の甲冑にいる獅子と同じタイプである。

Ⅰ-1 奈良人形
ここから杜園の作品。

下図集「奈良人形置物図写」 森川杜園 紙本墨画淡彩1冊 縦28.1 横20.0 宇賀志屋文庫
下図(武内宿禰) 森川杜園 紙本墨画 1枚 縦33.0 横38.5 宇賀志屋文庫
絵師のキャリアがあるから絵はうまい。そしてその絵が平面ではなく三次元体になるのが工芸作家としてのかれの力なのだなあ。

下図集「彫刻物参考」 水谷鉄也(佳園) 紙本墨画著色1冊 縦14.2 横21.8 宇賀志屋文庫  杜園の弟子。猿、牛、鮭などが描かれている。

欄干に囲まれた高台を模した台があり、そこにずらりと「高砂」の老夫婦が居並ぶ。欄干というより「おばしま」という方がふさわしいか。
こぢんまりとした木彫り彩色人形達。
高砂 森川杜園 木彫彩色 1体 嘉永2年(1849) 高33.8 個人蔵
後高砂置物 森川杜園 木彫彩色 1体 嘉永2年(1849) 高33.0 個人蔵
高砂 森川杜園 木彫彩色 1体 嘉永2年(1849) 高35.6 宇賀志屋文庫
後高砂 森川杜園 木彫彩色 1体 嘉永3年(1850)11月高34.5 個人蔵
後高砂 森川杜園 木彫彩色 1体 高22.0 個人蔵

この翁媼の老カップル群に加わるのがこちら。
鶴亀 森川杜園 木彫彩色 1対 明治2年(1869) 鶴:高12.7亀:高13.7公益財団法人 北村美術館  能からの人形なので冠にそれぞれ鶴と亀がついている。そして亀の方がちょっと大きい。

能人形 牛若・熊坂 森川杜園 木彫彩色 1体 明治時代(19世紀)牛若:高16.7熊坂:高28.2 東京国立博物館

これは物語上この取り合わせなのだが、どうも視線が全く交わらない。元々は単独で造ったのをセットにしたのだろうか。
熊坂長範は「長範頭巾」をかぶり、「法被半切」なるものを着ている。この画像を見て色々納得。
盗賊でもやたらめったら派手。こんなに派手な盗賊は他に日本駄衛門ら白浪五人男くらいか。(駄衛門のモデルの日本左衛門は物凄く派手だったそうだ)
絵では芳年「月百姿」の長範が近いファッションだと思う。同時代だしなあ。
かたや義経は手に笛を持つ。浄瑠璃姫をたぶらかしたり、五条でも吹いていたなあ。そして被衣を頭上から。
熊坂と対決する義経は戦支度しているから、これとはまた違う。こっちは弁慶との時のようだ。

熊坂長範 森川杜園 木彫彩色 1体 明治26年(1893) 高21.3 宮内庁三の丸尚蔵  こちらの熊坂はお能のベシミな顔。厚板が綺麗。爪もある。

福の神 森川杜園 木彫彩色 1体 明治22年(1889) 高30.9 個人蔵  「しーっ」に見えるが、これ実は「ワシやワシやがな」だそう。
福の神さんが「ワシやで」言うてくるような人になりたいもんですわw

融 森川杜園 木彫彩色 1体 明治20年(1887) 高38.4 公益財団法人名勝依水園・寧楽美術館  これは後期に登場。チラシには大きく登場。まあこのキャラらしい派手さあるよね。
参考までに。

お福 森川杜園 木彫彩色 1体 高20.0 個人蔵  被衣の端からぬっとあらわれる。このお福の造形を見て、狂言が元ネタだからというのもあるけれど、ほぼ同時代の道八のお福を思い出した。あれはやきものではあるが。あとクレマンソー・コレクションのお福もそう。あれは清水六兵衛。2004年に西宮大谷記念美術館で見たわ。巡回先のチラシがネットに挙がってる。こちら

里万歳 森川杜園 木彫彩色 1対 明治25年(1892)頃 高15.0 小平市平櫛田中彫刻美術館  万歳と才蔵は二人一組なんだが、何故か三人いる。

吉野静 森川杜園 木彫彩色 1体 高10.0 個人蔵  烏帽子をかぶっている。歌舞伎の静とはまた違う。

雛人形 森川杜園 木彫彩色 1組 男雛:高13.0 女雛:高13.0 仕丁(赤):高6.5 仕丁(青):高6.5 仕丁(緑):高5.0 随身(赤):高11.1 随身(青):高11.5個人蔵  綺麗な一組。刀もある。顔はみんなお揃い。

立雛 森川杜園 木彫彩色 1対 男雛:高26.7女雛:高18.8 宇賀志屋文庫  こちらはカモメ顔のシンプルな可愛さ。

コラム1 杜園と芸能
杜園の肩書の一つが狂言師である。調べたところ天保13(1842)年に大蔵流狂言師山田弥兵衛を襲名したそう。
わたしは能狂言はあまり知らないので、大蔵流に今も「山田」姓があるかどうかはわからない。そしてこの件について興味深い論考をみつけた。1981年のものなので40年前だが、現代でもこうして掲載されている以上、間違いは少ないのではないか。
「狂言師としての森川杜園」

薪御能図 森川杜園 紙本著色 1幅 安政5年(1858) 縦41.5 横72.4 個人蔵  絵師としての杜園の巧さがよく出ている。二十歳頃から狂言師として活躍していることから、細部に至るまで濃密にリアルで、鹿がたむろっているのも奈良らしくてよろしい。薪能なので外での舞台であるため、見所は仮設置の段々である。そこに座る人々の後ろ姿が可愛い。

松図鏡板(杜園旧宅能舞台) 森川杜園 板・彩色 1面 文久2年(1862) 縦193.7  横727.3 春日大社  凄い松である。なんだか松羽目から飛び出してきそうな松。
「花のほかには松ばかり」どころの騒ぎではない。

能面 曲見 森川杜園 木彫彩色 1面 縦21.3 幅14.1 公益財団法人 金剛能楽堂財団  先人・河内の作を写したもの。元の面も金剛流に伝わっているそう。

さて絵馬が出ていたが、これが「松尾神社」とあるので、右京区の松尾大社かと早合点したら、木津川の方の神社だそう。
この木津川が杜園のいわば人生最後の場ともなった。
架橋祝いにと、医者が止めるのもきかずに舞ったそうで、それが為に数日後に没したそうだ。
役者としての血が熱くなったのだろうか。
こうした話は役者話にたまにある。

狂言福の神図絵馬 森川杜園 板・彩色 1面 慶応3年(1867) 縦77.8 横104.7 松尾神社(京都府立山城郷土資料館寄託)
能猩々図絵馬 森川杜園 板・彩色 1面 慶応3年(1867) 縦77.8 横104.7 松尾神社(京都府立山城郷土資料館寄託)

七十賀扇面 森川杜園 紙本著色 1幅 明治22年(1889) 幅43.0 個人蔵  「枕物狂」を描いたもの。笹を担ぐものは皆概して狂人乃至は「物狂いを装う」者たちである。
この老人の絵は若い娘とハッピーエンドを迎えるので「賀の祝い」にふさわしいのだ。
「恋重荷」とは違う。

Ⅰ-2 根付・香合・細工
小ぢんまりと小さいものが煌びやかに彩色されていて、とても愛らしい。
能狂言、また物語の人形が多い。
春日竜神、葵上、富士山、加茂、班女、船弁慶、道明寺、紅葉狩、江口、融、靭猿、黒塚、実盛、井筒、伯母が酒、花筐、道成寺、熊野、猩々、邯鄲、白蔵主…

どうぶつや植物を象った香合も現れる。
牛、猿、河豚、鹿、福良雀、山羊、鶴、ネズミ、伊勢エビ、ナス、蝸牛、鮭…


コラム2 雛型
ミニチュア。
ここでは60こもの作品のひな型が並んでいた。可愛い。
中には蘭陵王や姑獲鳥風のものもある。
十二支の雛型もあるがこれらは彩色なし。

Ⅰ-3 杜園と鹿
ここで代表作の大々的な集合。
鹿ですよ鹿。
実に色んな種類の鹿が集合。少しずつ表現が変わって行ったのがわかる。
この鹿は慶応2年に春日大社に奉納したもの。


長くなりすぎるので一旦ここまで。

「商都慕情」Ⅱ

2021-10-14 23:31:14 | 展覧会
大阪くらしの今昔館では「商都慕情」Ⅱが開催されている。
新聞に広告記事があって、それでそそられて急遽その日そちらへ出かけた。

丁度彼岸の中日で本来ならば大阪市立美術館で「聖徳太子」展を見て、山岸凉子さんの厩戸王子の原画も見た後に夕方から四天王寺さんの西門から夕陽を拝んで、いわゆる「日想観」をこらそうと思っていたが、なにもかもワヤ。
いや、展覧会を堪能したからワヤではないわな。
因みに「ワヤ」とは台無し、アウトくらいの意味なんだが、これも関西弁だとばかり思っていたら、西日本の大方では通じるようだ。
「わやく」という単語からの展開らしい。
まあそれは置いておいて、とりあえず楽しみにしていた展示を見よう。

企画展と常設展示とは支払いが別なのだが、今回は改装工事中ということで、8階の常設展示も併せて見学できました。
そちらは撮影可能。
まあ道順に合わせて久しぶりに中へ。
床一面に大きく大大阪時代の大阪市内地図。鳥観図なので楽しい。
市内各地の時代による変化を見せる住宅模型たちもある。
明治の内国勧業博覧会の場所となった天王寺公園、当時ルナパークとして通天閣をトップにウォータースライダーまで拵えた楽しい様子が、時間の推移を伴ってネオンピカピカになったり、朝になったり。いやいやこれはやはり楽しい。
ほかに戦前戦中戦後の大阪市内のあちこちを引っ越して暮らした女性の住宅事情物語のジオラマも見る。
語りは八千草薫さん。もう亡くなられたか、この展示がある限り八千草薫さんはお元気だ。

さて近代大阪から今度は明治以前の浪花をモチーフにした絵画を見に行こう。
それが「商都慕情Ⅱ」3年空いての第二弾。


以前の感想はこちら
商都慕情 ―今昔館の至宝@くらしの今昔館 その1
商都慕情 ―今昔館の至宝@くらしの今昔館 その2
ええ展覧会でした。

展覧会の狙いについてはこれに。
江戸時代、淀川は京都と大坂をつなぐ動脈として、人や物資が往来し、絵画にもよく描かれました。とくに、円山応挙が京都伏見から大坂天満橋までの両岸の光景を描いた絵巻がよく知られています※。この絵巻から昭和初期に大阪の絵師が6つの場面を模写していました。それが庭山耕園とその門人らによる「淀川両岸帖」です。当館はこの作品を2020年に新収蔵しました。収蔵後、本展が初公開となります。
大坂の市中には堀川が網目のように張り巡らされ、八百八橋と称されました。橋上や舟の上は町民にとって夕涼みや花火見物を楽しむ憩いの場でした。天神祭の船渡御の舞台も大川です。その熱気は江戸の浮世絵師歌川貞秀の錦絵にも描かれています。また、道頓堀の芝居をかける際に、役者が船に乗って市中を巡る「船乗込」も川筋で華やかに行われました。商いの流通や暮らし、そして文化が水とともにあった大坂。本展では大阪くらしの今昔館所蔵の絵画や錦絵を用いて、水都とよばれた大坂の情景を想起します。※「淀川両岸図巻」公益財団法人アルカンシエール美術財団蔵(本展の出品はございません)


新しい作品があるので今回はⅡになるわけです。
水都大阪、粋(すい)と大坂。イキではなくてスイ。スイだけに水の都。
前回みたものはあまり詳しくは挙げない。

淀川両岸帖 庭山耕園ほか 1940  ギリギリのこの時代にまだこうしたいい画帖を拵えることも出来たのだな。いや、この時代だからこそか。
この半世紀前はもう明治なんだ。
淀川を往来する帆舟たち。淀川も三川合流地があり、全てが淀川と言うわけでもないけれど、大阪湾へ向かうのはやはり淀川。出るのは琵琶湖からだけ。開くのはいろいろ。
この淀川は経済のための、「流通」の川であり、ここを往来するのは大昔から当たり前だった。この川のほとりに町が開いてゆくのだ。
この作品は庭山耕園一門が応挙の描いた作品のうちからよい場面をカヴァーしたもの。
そしてその役割分担など細かいことはこちらのサイトに詳しい。
写真を見ると婦人も参加している。


菅楯彦 浪花心斎橋街小倉屋旧観 1928  これも三年ぶり。今回知ったのは、この絵が描かれた年に新ビルが建てられたそうで、菅楯彦はあえてこの古い店構えを描いたのだった。

菅楯彦 淀川のすずみ舟  物売りの舟に乗るスイカがおいしそう。
 

滑稽浪花名所 歌川芳梅・芳豊 安政後期  これはギャグ絵なのだが、ちょぃと今ではアウトなのもあるが、なかなか楽しい。この連作はこの展覧会の少し前に大阪城でも紹介されていた。ちょっと調べるとこれは、今は無き「なにわの海の時空館」旧蔵資料だそう。
悲しい…
だが立命館や天牛書店も所蔵しているので、売れ行きは良かったのかもしれない。
作品は全30景。
蛸の松、樋の口、解船町、御城追手、坐摩社、高津、生玉、清水、住吉、ざこば魚市、堂島米市、天満市場、長町毘沙門、阿弥陀池…
全画像についてはこちらから。
大阪市立図書館デジタルアーカイヴより。


珍しくお江戸の役者たちを描いた錦絵があった。
春曙斎北頂 助六由縁江戸桜 1830 
・髭の意休 松本幸四郎 ・けいせい揚巻 中村松江 ・花川戸助六 市川白猿

これは文政13年(1830)3月に角の芝居で上演があったもの。
上方でお江戸役者を見たわけだ。他に重春も描いている。
この幸四郎は五世で「鼻高幸四郎」と呼ばれた名優。
白猿は七世團十郎、この人は上方でもよく舞台を務めた。

役者絵 関取二代鑑 ・秋津島 市川海老蔵 ・鬼ケだけ 中村芝翫  柳斎重春 1834  これも調べると角の芝居で演じられたものを描いている。
そして江戸の国貞も同じものを描き、そちらはデータベースで検索可能。
面白いことに物語性があるのは後者。見に来てたのかどうかは知らない。

ところで江戸では芝居の絵看板は鳥居派だと決まっている。
「瓢簞足蚯蚓描(ひょうたんあし・みみずがき」という新しい様式を完成させ、菱川派などを押しのけて「芝居の絵看板は鳥居派」となった。
このあたりの事情を大胆に描いた南原幹雄「修羅の絵師」がとても面白い。

一方上方では長谷川貞信が初代から現代まで五代を数えていて、絵看板を担当している。
初代は上田公長に学んだそう。「浪花百景」で有名。
明治初期に亡くなった。
二代目は幕末に生まれ1940年まで生きた。
亡くなる前年1939年に「浪花風景十二月」「浪花風景十二月」があり、それが展示されていた。この人も父と同じく風景画・名所絵の良いのを多く描いた。
道頓堀初芝居、顔見世芝居…この頃は多くの人が道頓堀へ芝居を見に行ったのだ。
良かったのはそこまで。あとは戦争でワヤ。
…この後、戦時中に武智鐵二が断弦会を主催するのだ。



武部白鳳 淀川図 澱川山崎、澱川八幡  縦長。山崎と八幡はほぼ対岸か。
この人の作品はそれこそここと武庫川女子大と大商大くらいでしか見れないのではないかなあ…

淀川の図 18世紀後半  坐摩神社に始まって伏見までを描いている。
こういうのもいいなあ。
とはいえわたしは阪急京都線に乗るので、淀川はあんまり見れない。
京阪電車の方がよく見えてるかな。

早くコロナが収束・終息して、この図のような感じで天神祭が開催されたらなあと思う。


今回は他に竹中大工道具博物館から簑庵(さあん)の実物大模型が来ていた。これは元は鴻池さんの茶室の一つ。
それと船場の商家の座敷の設えを再現もしている。

面白かった。

コスメチックス広告 -広告にみる大正ロマンと昭和モダン-

2021-10-03 18:02:59 | 展覧会
現在のクラブコスメチックスがその昔、中山太陽堂だった頃、すごい広告を次々と世に送り出していた。
創業者・中山太一という宣伝広告の天才がいたからこそ出来たことで、デザイナーもみんな達者な人ばかりだった。
百年後の今から見るとレトロビューティーであり、当時は最先端のモダーンビューティーであった数多の広告たち。
それを今回の企画展で楽しめるのだ。

地下鉄阿波座からすぐの本社ビル入り口に看板がある。

このポスターを見るだけでドキドキしたよ。




なお場内の撮影は特別に許可を得たものです。



写真師が撮る肖像写真。当時の肖像写真の在り方がこの一枚からもわかる。

背後の湖水や山、傍らの犬はむろんつくりものだが、これで湖畔にいるというイメージが湧く。
当時の写真館はこうした書割を色々もっていて、様々なシチュエーションの写真を拵えた。

中山太一の考えも紹介。


新聞広告をみる

マンガで思うところをお知らせ。


こちらはヒトコママンガ
これがなかなか楽しいの。






おねこさんもいる。


中山太陽堂はプラトン社の母体でもある。
関東大震災後の「苦楽」「女性」といった雑誌の魅力は百年後の今も燦然と輝く。
雑誌裏にも広告。




歴史に残るといえばこのポスターも。
北野恒富の美人画ポスター。すばらしい。


空からも広告。






最先端。凄い。


当時の娯楽で特に大きなものは観劇。
こちらは寄付した緞帳。今日でも歌舞伎座、南座などで緞帳を見るのは愉しい。

調製は松坂屋か。

山名文夫、山六郎、東郷青児と言った画家たちの仕事も。




展覧会は会期延長して11/29まで。
事前予約制。詳しくはこちらまで。


無料でこんなに楽しませていただいて、いつもありがとうございます。



教科書で見る美術品 自由書房の「要説 日本の歴史」から。

2021-09-21 16:57:59 | 展覧会
よく「教科書で見る美術品」というが、実際自分の高校の歴史教科書を開いてみると、なるほど今のわたしの見知った作品がたくさん載っていた。
これは昭和末期の高校の歴史教科書である。
うちの高校では「自由書房」の「要説 日本の歴史」を採用。
私学なので市立や他のところはわからない。

表紙

縦表紙には文楽人形または淡路の人形。
今見たらこの表紙、好きな作品ばかりだな。

最初に現れたのはこちら。
四天王寺さんの扇面古写経。

これがどういう形態なのかを知ったのは実物を見てからだった。
左の絵の方が印象深いのは、京都文化博物館にかつてあった映像「都の光と影」にも使われているからだ。


玉虫厨子は高島屋史料館の複製品を見るのが早かった。

正倉院展も学生の頃から今までずーっと出ていたが、遂に去年は途切れてしまった。なかったのでなくチケットを取るのがちょっと難しかったのだ。



伴大納言絵巻、一遍上人絵伝などのこの紹介ページは群像図まとめかもしれない。


更に時代が下り近世風俗画、そして浮世絵の時代へ。

江戸時代でも化政期はわたし好みの時代で、芝居も本も浮世絵も大好きなものが多い。
ここから一気に幕末へ向かう江戸が面白い。

ところで今となってはこの紹介も片手落ちだと思うのだ。
18世紀の上方の絵師の豊かな状況を全く紹介していない。
少なくとも円山応挙は絶対に出すべきだろう。
今の教科書はどうなってるのか知らないが、若冲を一押しにしているかも?
あと浮世絵もこの時代はいわゆる六大浮世絵師ばかりで、国芳の研究も停滞し、わたしの持ってる1970年代に出た集英社版の画集なんて国芳を「不運の絵師だった」とか紹介していて、をぃをぃである。
状況が変わったのはやはり1990年代からだ。

明治から戦前へ。

松本竣介が紹介されていた。とても嬉しい。
本文の始まりには東大寺の灯籠の飛天か。

最後にこの教科書を紹介した理由の一つを挙げる。
自由書房というこの会社、今はどうやら存在していないようなのだ。
それを知ったので、挙げることにした。

内容もいま改めて読み返すとなかなかに興味深い。