
これは、自分のめんどくささをひとのせいにしがちで、人間嫌いになりやすい、こころが疲れやすいひとのための、考え方改善の作法についての覚え書きです。
***
中学生の頃、クラス担任に提出する日記に、私は当時流行っていた「ノストラダムスの大予言」の本の中身を書き写していた。要するに、日常、報告するようなことがなかったからである。ところが、それを級友のAが盗み読みしていたのだった。私はそれをクラス担任に訴えたのだが、そのとき、返ってきた言葉が──「罪を憎んで人を憎まず」。
これまでの人生で、私はどれほどの人を非難しつづけただろうか。
自分だって否定されつづけてもきた。学を身に着けるほどストア学派ではないが、どうしたって舌鋒鋭くなりがちで、法律の資格なんぞ取ったものだからなおさらだった。
先般、勤め先で、とてもややこしい問題が持ち上がった。
ある従業員からの個人的な申し出で、それはこの繁忙期に労働時間を削らねばならないような措置が必要だった。確実に他の従業員にもしわ寄せがくる。しかも、本人は昇給がわかったとたんに、労働時間を減らしたいと言い出したわけだ。あらかじめ不要範囲内で働くなら、どれくらいの時間でいいかは、本人だって予測ぐらいついただろうに。
この問題について、私はここ最近悶々と考え、その作業についてなるたけ会社に有利になるように進言もした。そもそも安請け合いしすぎた経営者にも問題があったろう。担当が細分化された大企業ならいざしらず、中小企業で経理でも、総務でも、営業サポートも、なんでもござれの事務の負担も考えてほしい。
音を上げてしまい、その措置をとるのに時間をほしいとだけ了承を得た。
しかし、試算したところでは、どうもタイムリミットが近い。いっそ、本人の無計画さと身勝手さなのだから放置してやろうかとさえ思ってしまうが、私の職分からしてそれはままならない。
こうした至らぬ考えを思い起こしてしまう時点では、私は仕事ができる方だとは言い難い。
あんがい手を付ければすぐ終わりそうな雑務でも、時間がかなりかかってしまうように思ってしまう。見積が甘いのである。約束の時間にはいつも30分以上も早く着いてしまう私には、締切までの時間がなくなっていくことが、とかく恐ろしい。業務ノートには今月のToDoリストが山のように貼ってある。
社内でも、仕事が過集中してしまうのは、責任者的な立場で、専門性がある人ばかりだ。気楽な時給制のひとが定時でさっさろ帰ってしまういっぽうで、固定残業代制の管理職ポジションの人が朝早くから夜遅くまで働き詰めである。そうしたリーダー職がやや強引に現場を仕切れば不満の声が経営者に届き、すったもんだの騒動になっていく。
パワーハラスメントというほどの事態ではないが、一色触発の空気感がただ寄っているわけで。
そこへきて、法改正の何がしかの問題や、得意先仕入れ先からの無理難題、価格交渉などのトラブルも加わり、人手不足やら、生活費の高騰もあったり、コロナ禍のストレスもありで、不満ごとが絶えない。
こうなると、その問題を言い出した、元凶をつくった本人たちの顔を浮かべては恨み節にもなるわけで。
結局、あの誰それが、あの会社が、悪い、いけないと批判合戦が、私の中ではじまってしまう。焦って対応してしまい、決定的なミスもやらしてしまったりもする。あいつさえ、この問題をもってこなければ、という逆恨みが募るわけだ。それは勝敗のつかない戦いである。自分の負担を軽くするために、その仕事はできないとつっぱねても、後味の悪さが残ってしまうだろう。
組織の中でも、地域でも、家族間でも。
イザコザが起きる時に他人に攻撃をしたくなるのは、互いが互いの負担を理解できていない場合が多い。最近、私はもう、出来ないことは遠慮なくできない、と拒んだ方が楽だと気づいた。優しいひとほど他人の煩わしさまで背負いこまされるからだ。そして、このひとはややこしいことを起こさない、御しやすいひとだと買いかぶっている人からの手痛い仕打ちを期待が裏切られたなどと思わなくなる。人間はみな、互いに迷惑をかけあい、もたれあっていきなければいけない生き物だからだ。
さらには、考え方もあらためるようにした。
問題が起こった場合、主語を抜きにして抽象化してしまうえば、それは加害者Aで、被害者わたし、だけではない、一般的な何処にでも生じうる事態であることに気付く。今でなくともいずれは生じたのだ。ただ、なぜか、そのややこしいトラブルが特定の不安定な時期にミルフィーユのごとく何層も積みあがってくるのである。だから、いつも仕事に追われ、片付かないという気分のまま、働き続け、魂がすり減っていく感覚を味わうことになる。
問題に人格を与えるのをやめてみよう。
誰それから降ってわいた問題としてとらえるのではなく、自然災害のように、原因の明確にさだかではない天命としてとらえてしまう。それをうまく処理して何を得られるか、そういった結果に気分を集中させる。そうした心もちを変えるためのパラダイムシフトが必要なのだろう。へたに怒りに囚われて、自分を見失わないためにも。
(2022/10/10)