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先祖を探して

Vol.414 島伊名重の書から⑤文面の謎が少し解けたような、、、

1913(大正2)年に屋号シマクルの9代目であった島 伊名重が書き残した文書があります。
この文書は紙の破損部分があり全体の正確な内容が分からないのですが、ざっくり読んでみると、当家の7代目であった平安統惟雄について(伊名重の実祖母が惟雄の姉)尊敬の念があったことや、宗家が北山王次男の真松千代王子(世之主)の次男の子孫であること、示現流が強かった4代目の平安統惟貞のエピソードなどが書かれています。伊名重はこの文書では「満翠」と名乗っていますが、恐らくペンネームだと思われます。まずは原文から。

島 満翠文書(大正二年)原文

凡例
一、環境依存文字は新字に改めた。
一、誤字は正しい字に改め、( )に元の字を表記した。
一、解読できない文字は□で表記した。
一、文書の破損個所は「……」を付した。

不肖 伊名重 沐浴盥漱(かんそう)シ 敢(あえ)テ不敏不才ヲ……
最モ我ガ尊敬シ奉(たてまつ)ル平安統翁ガ嘉……
即(すなわ)チ今ヲ去ルコト六十四年ノ疇(ちゅう)昔(しゃく)ニ於テ 我ガ……
幾多ノ文人学者ナキニシモ非(あ)ラザル可(べ)ク 然ルモ……
御抱負ナル和魂漢才ノ驥(き)能(のう)ヲ以テ演述セル……
文ト蛟(こう)龍(りゅう)(蚊龍)ノ雲霧ニ際會(さいかい)シテ九天ニ蜿蜒(えんえん)タルガ……
キ優秀ナル水茎(みずくき)ヲ走ラシテ 沖永良部島先……
世ノ主加那志ノ御由緒ヲ著(あら)ハシ給フ 其御……
擧ナル 且(かつ)其(その)子孫ヲ愛慮スル智情ト芳志ノ深遠ナ……
ルハ誠ニ一顧(賢)三嘆 感服ノ外(ほか)ナク 熟々惟(おもん)ミルニ世遠……
人亡(ほろ)ビ 傳(でん)及ビ口碑(こうひ)ハ歳月ヲ経ルト共ニ薄ラギ 古(いにしえ)ノ同
族ヲ受ケタル子孫末裔ニシテ□季疎遠ニ流ルゝ傾(かたむ)キナ
キニシモアラズ 益々究遠空□他 血族同然タル
ナキニアラザルカ 殊(こと)ニ複雑ナル社會ノ文明ハ進歩
シ文質ハ彬々(ひんぴん)トシテ輩出スルト共ニ哲学ト科学ノ蘊奥(うんのう)
講究セラレ 東西洋ノ歴史ハ益々精密ヲ窮(きわ)メ……
トシテ古今ヲ論究セラル 然(しか)ルニ個人的ナル目的……
歴史ヲ尋(たずね)タル時ハ閉口掻頭(そうとう)(撮頭)他ヲ云フモノ獨……
限ラザル可(べ)ク 滔々(とうとう)タル天下ノ人士 十中(じゅっちゅう)ノ人……
是(これ)ナリ 俚諺(りげん)ノ所謂(いわゆる) 燈臺本暗(とうだいもとくら)シトハ是(こ)レノ謂(いい)……
然ルニ智慮深キ平安統翁ハ早ク茲(ここ)ニ御着眼……
給ヒ 別冊 世ノ主加那志御由緒ノ傳ヲ著……
フニ依(より)テ 我ガ宗家ノ御子孫ハ所謂(いわゆる) 直シ城……
テ北山王ノ子孫ニ相違ナカル可(べ)シ イカントナ……
行ニ 中山ヨリ軍船ハ相違コレナク左候(さ そうら)ヘバ 小……
大國ニ敵(てき)シ難(がた)シト 直(ただち)ニ奥方ヲ始メ御嫡子(ちゃくし)……
残リナク御刺(御差)違ヘ御自害ノ由(よし) 云々ト。
右騒動ノ砌(みぎり) 男子三歳 若主一人 女子五歳ノ者一人
乳母(めのと) 真牛兼ト申スモノ 右両子列(つれ)上ゲ 西原阿我
礼百(ヒヤ)所ヘ逃(のがれ)越(こ)シ候折柄(おりから) 西原村ノ下ヘ徳ノ島船着
船致シ居リ候ヲ頼ミ入リ 徳ノ島ヘ罷(まかり)渡リ 已後中山ノ
領島ト相(あい)成(な)リ 島中無異相治(ことなくあいおさめ)候ニ付 島役共ヨリ王子
迎ヒトシテ渡海致シ候ニ付 御帰(おかえり)成サレ候(そうら)ヘドモ 幼少両
子ニテ本城ノ住居(すまい)成サレ難ク 古城ヨリ小高キ處(ところ)エ御館
ヲ構エ 御直(なお)リ成サレ候ニ付 今ニ直シ城ト申(もうし)唱(とな)ヘ候
右 直シ城ノ子孫成長ノ上 中山王御取立ニテ 代々大屋
役 仰(おお)セ付ラレ相(あい)勤(つと)メ来(きた)リ候(そうろう)由(よし) 之(こ)レニ依リテ
當分(○○)ノ(〇)私(〇)(平安統翁自(みずか)ラ御自身ヲ指(さ)シ給ヒシ御言
葉ナリ)迄(〇)テ島中ノ者 大屋子孫ト申シ唱ヘ候 云々
嗚呼 平安翁ノ別冊 世ノ主加那志御由緒……
著アルヲ以テ我ガ宗家ノ御子孫ハ所謂(いわゆる)……
ニシテ 北山王(〇〇〇)ノ(〇)御二男(○○〇) 眞(〇)松(〇)千代(○○)ノ(〇)末裔(○○)ナル(○○)……
トシテ(○○〇)明(〇)ラカナリ(○○〇〇) 豈(あ)ニ肩身廣(ひろ)ク大(おおい)ニ安心セサル可(べ)ケ……
即(すなわ)チ島家ノ跡ヲ継紹(けいしょう)スルニ當(あた)リ 島家累代ノ略歴……
系圖ヲ著ハス序(つい)デヲ以テ 宗家御秘寶書……
タルヲ恐ルゝト同時ニ 又一方 和風ニシテ往々読……
アルヲ以テ僭越(せんえつ)ノ罪免(まぬか)レ難シト雖(いえども) 茲(ここ)ニ済……
謹シンデ再寫改書シ 志アル宗家子孫ノ便……
メ 一冊ハ宗家ニ奉納シ置キ 一冊ハ我ガ島家……
久的ニ保存ス
因(ちな)ミニ記ス 平安統翁ハ鹿児島藩島津家ノ御師
範役ナル東郷藤十郎ト申ス武術ノ達人ノ第一
ノ高門弟ニテ 殊(こと)ニ柔道ニ有名ナリト父兄ヨリ時折
拝聴セリ 翁ノ逸話ニ 翁或ル時 琉球國ヘ官用ヲ帯
ヒテ渡海シ 港内ノ船上ニテ御宴會ノ末ニ口論ヲ始メ
(二本線で消し「島印」を押してある)
琉球人数十名ト此方(こなた)ハ上平川村ノ川相 済順ト云フ二人
敵対セザルヲ得ザル場合ニテ 右数十名ノ内廿(にじゅう)名程ヲ倒セ
シ時 頓智(頓ス)アル済順ハ大喝一聲 気張ヨ済順 平安統
ガ残ッテ居ルゾト云ヒシニ 琉球人此(この)一言ニ急所ヲ
衝(つ)カレ打チ□キ 嗚呼諸君 此方数十名ハ到……
テ及ブ所ニアラズ 済順ニシテ然(しか)リ 況(いわ)ンヤ……
リ居ルヲトテ一目散ニ何處(いずこ)ヘカ逃ゲ去リ……
平安統翁ノ琉球國ニマデ響キ渡リタル……
ノ英達ハ推測シ奉ルニ苦(くるし)マズ

東郷翁ノ逸話(平安統翁ノ先生 東郷藤十郎……
或ル武者修行ノ者 島津家御所持ノ……
ノ指(さし)任(まか)セル道場ニ於テ東郷翁ノ門弟……
ノ試合ヲナセシニ 散々ニ敗(や)ブラレ 武士ノ……
テ怨ミヲ抱キ 其(その)夜(よ) 東郷翁ノ邸宅……
忍ビ入リ障子ノ蔭ヨリ翁ノ影ヲ見カケテ殺害
セント氷ノ如キ秋刃(しゅうじん)ヲ□ザシテ一突(ひとつき)ト突キ懸(かかり)
シニ 流石(さすが)九洲第一流ノ武術ノ達人ナル翁ハ
逸(いち)早(はや)ク心得タリト満身ノ力瘤ヲ堅(かた)メ 敵ノ刀ハ
難ナク右脇ニテ挟ミトリ 敵ヲ捕ヘテ當時ノ武士道
ヲ以テ處分セリト 武宮玄清叔父上様ヨリ拝聴
セリ 又以テ東郷藤十郎翁ノ武術ノ一端ヲ推
察シ奉ルニ難(かた)カラズ

大正二年四月廿七日
於 和泊松林堂書焉
島 満翠

序(つい)テニ記ス 平安統翁ノ姉君ハ 不肖
実祖母ニ相当スルコト相違(そうい)無御座候(なくござそうろう) [印]


以下は現代文にしたものです。

不肖 伊名重、沐浴して顔や口をすすいで身を清め、学識の無い中を……
私が最も尊敬し奉る 平安統翁の嘉……
すなわち今を去ること六十四年の昔、我が……
多くの文人・学者がいないわけではないけれど、このような……
抱負とする和魂漢才のすぐれた見識をもって演述された……
文と、蛟龍(みづち=地を這う水龍)が雲や霧にめぐり合って九天(遥かに高き天空世界)を自在にうねるがごとく……
き優秀なる水茎(みずくき=見事な筆跡)を走らせて、沖永良部島先……
世ノ主加那志の御由緒を著された。その御……
挙であり、且つその子孫を愛慮する智慧と愛情と芳志の深遠なる……
誠にもって一つの事績を知れば三度賛嘆するように、感服するよりほかはなく、熟々(くわしく)惟(おもんみる=思いを巡らす)に、世遠……
人が亡(ほろ)び、家系の傳および口碑(こうひ=昔からの言い伝え)は歳月を経ると共に薄らぎ、古(いにしえ)の同……
族を受けたる子孫、末裔にしてさえ、歳月を経るにつれて疎遠になるは世の習いと言えなくもない。よって益々遠く時代を経てしまえば、血族同然の者は
いるのか、いないのか分からなくなる。とりわけ複雑な現代社会の文明は格段に進歩し、学問、文章の質も向上して(すぐれた知識人を)輩出するとともに、哲学と科学の蘊奥(うんおう=その学問の最も深い理解)……
講究され、東洋と西洋の歴史は益々その精密さをきわめ……
として古今の歴史を研究されるのだが、しかし個人的な目的で……
歴史を訪ねる時に限っては、そのような学者も知識人も口を閉じ、頭を振る(相手にしない)等々と言うものが獨……
限らぬではないか。滔々(とうとう)たる天下の人士でも十中の人……
である。俚諺(りげん=世間のことわざ、言い習わし)でいうところの「灯台もと暗し」とはこのことを言うのである……
そうした中、智慮深き平安統翁は早くからこのことに着眼なされ……
し給い、別冊世ノ主加那志御由緒ノ傳を著し……
によって、わが宗家の御子孫は、いわゆる「直シ城」……
北山王の子孫に相違ないのである。そうであれば……
行に中山より軍船は間違いなく差し向けられ、小……
大国に敵(かな)うわけがないと、ただちに奥方をはじめ御嫡子……
残りなく刺し違えて自害を遂げられたという。
右の騒動のみぎり、男子三歳の若主が一人、女子五歳の者が一人、
乳母である「真牛兼」と申す者がこの二人の子を連れて西原阿我
礼百(ヒャ)所へ逃れていった。その折、西原村の下へ徳之島の船が着いた
のを(船員に)頼み込んで徳之島へ渡った。その後、中山の領する島となり、島中をもれなく治めたことで、島役の者達からは、王子……
追いとして(?)渡海なされたのだから、お帰りになられるだろうが、幼少の二人の姉弟では本(もと)の城での住居は難しいと。そこで古城より小高い所へ御館(みたて、やかた)を構えてお住まいになられた。それを「直シ城」と申すようになり、今に伝わる。
右の直シ城の子孫は成長ののち、中山王が御取立てになられ、代々「大屋」の
役を仰せ付けられ、相勤めてきたという。この伝承により、「當分の私」(平安統翁みずからが、御自身を指しておっしゃる御言葉)まで島中の者は大屋子の子孫と申し唱えていると云々。
嗚呼、平安(統)翁の別冊世ノ主加那志御由緒……
著作があることで、わが宗家の御子孫はいわゆる……
にして、北山王の二男である真松千代の末裔である……
として明らかである。ようやく肩身を広く、大いに安心できると……
すなわち島家の足跡を維紹(たどりつなぎ合わせること)するにあたり、島家累代の略歴系図を著わすついでに、宗家の御秘宝の書……

たるを恐れると同時に、また一方では和風にして(漢文ではなく)往々読み……
あることで、僭越(せんえつ=出過ぎたこと)の罪は免れ難いといえども、ここに済……
謹んで再写改書し、志ある宗家の子孫の便(役に立つ)……
め、一冊は宗家に奉納し、もう一冊はわが島家……
(永)久的に保存するものとする。

ちなみに記しておこう――。平安統翁は鹿児島藩(薩摩藩)島津家の(武道)
御師範役である東郷藤十郎と申す武術の達人の第一の高門弟であり、殊に柔道の技にすぐれて有名であったと、父兄から折に触れて拝聴してきた。そうした平安統翁の逸話に、あるとき琉球国へ官用を帯びて渡海し、港内の船上にて宴会の末に口論が始まった。
相手の琉球人は数十名、こちらは翁ともう一人「済順」という者の二人のみ。
状況からみて敵対せざるを得ず、数十名のうち二十名ほどを倒した頃合いに、頓□(頓智?)ある済順は大喝一声「気張りよ済順、まだ平安統が残っているぞ!」と言うと、琉球人はこの一言に急所を衝かれ打ち□き、「嗚呼、諸君。こちらの数十名は到(底)……
て(腕力の)及ぶところではない。済順にしてもそうだが、いわんや(平安統は)……
り居る」と言って一目散にどこかへ逃げ去り……
平安統翁の武術の名声は琉球国にまで響き渡っていた……
の英達は、たやすく推測できるだろう。

【東郷翁の逸話】 (平安統翁の先生・東郷藤十郎……
ある武者修行の者が島津家が所持される……
の指し任せる道場にて東郷翁の門弟(と)……
の試合をしたが、散々に敗けてしまい、武士の……
て怨みを抱き、その夜、東郷翁の邸宅(へ)忍び入り、障子の蔭から翁の影を見かけて(めがけて)殺害せんと、氷のごとき刃を振りかざして一突き、と突き懸かったがさすがは九州第一流の武術の達人である翁はいち早く心得たりと満身の力こぶを固めて受け、敵の刃は難なく右脇で挟み取り、敵を捕らえて当時の武士道の作法をもって処分したと(首を刎ねたか)。そのような武勇伝を武宮玄清叔父上様より拝聴し、東郷藤十郎翁の武術の一端をありありと推察
できたものであった。

大正二年四月二十七日
於 和泊松林堂□焉
島 満翠

ついでに記す。平安統翁の姉君は不肖
実祖母に相当すること、相違なく御座候。 [印]

現代文にすると、少し内容が見えてきますね。
私がかねてから気になっていたのが、赤字の部分の個所です。
平安統惟雄が書いた世之主由緒書について述べているようですが、文字が破損で分からないので、どのように解釈したらよいのか?

ようやく肩身を広く、大いに安心できると……
この意味は、平安統惟雄が世之主由緒書を書いたことで、宗家が北山王次男の子孫であるということが明言され、堂々とそれを伝えていけるということか?
しかし世之主由緒書は1850年に書かれており、伊名重は1913年にこの書を書いていますので、63年後になります。ようやく肩身を広くとか、大いに安心できるとかを言うには今更感があります。

島家累代の略歴系図を著わすついでに、宗家の御秘宝の書……
宗家の御秘宝の書とはいったい何だったのか?世之主由緒書のことか?

謹んで再写改書し、志ある宗家の子孫の便(役に立つ)……
め、一冊は宗家に奉納し、もう一冊はわが島家……
(永)久的に保存するものとする。
再写改書し1冊は島家、もう1冊は宗家とあるが、それはこの伊名重が書いた書のことなのか?それとも別の書があったのか?
謎なのです。


そういえば、島伊名重が大正の初め頃に世之主由緒書を解読して小学校に配布したというような話があります。その資料などは現存していないそうですが、ちょうど大正8年と10年に出版された研究者の書籍(Vol.188)の中に、世之主由緒書が活字化されていました。
私が考えるのは、島伊名重が世之主由緒書を活字化し、それを研究者に渡したのではないかということです。
そして研究者がそれを取り上げてくれて、書籍の中に取りこんでくれることになったので、それで広く世の中に伝わるだろうと思い、ようやく肩身を広く、大いに安心できると……ということを書いたのではないでしょうか。
逆に言えば、薩摩の時代はずっと世之主の子孫であることを隠していたのかもしれません。島にいた薩摩の役人は、島民の家に高価なものがあると取り上げようとするので、家に役人がくる場合は家宝一式を持ち出して親戚の家などに預けていたといいますから、おおっぴらに公表ができなかったのかもしれません。ご先祖さまの歴代の品々は門外不出であるともずっと言われてきたわけですから、品々だけでなくご先祖さまの詳細についても一切門外不出だったのかもしれません。
あくまで推測の域ですが、様々な状況を鑑みるとそういうことなのかもしれないという考えに行きつきました。

この文書が破損で正しく読めないことが、本当に残念です。何か重要なことが書かれていたのかもしれないと思うと、島家に保管されていたであろう文書が現存しているのか?
そしてその文書が読める状態であるのか?
非常に気になります。


島伊名重の原文の活字化と現代語訳は、江戸時代の武家古文書を研究する戸川氏にお願いして作業をしてもらいました。非常に頼りになるお方です。


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