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先祖を探して

Vol.412 島伊名重の書から③屋者のこと

1600年代に琉球からやってきたノロの眞加戸。沖永良部島にいつやってきたのかは分かりませんが、眞加戸は1665(寛文5)年7月18日に52歳で他界したと伝わっているそうです。生まれは1613年ということになり、20歳ころに島に赴任してきたとしても1633年の頃で、時代は1609年薩摩侵攻後の世です。この頃には島にはまだ薩摩の代官所は無く、徳之島の代官所の方で管理されていたので、まだ完全な統治ではなく旧琉球の体制や文化が色濃く残っていた時期だったのでしょう。

ノロには琉球王府からの辞令書が発行され、その任に着きます。この眞加戸も恐らく辞令書の発行があったのでしょうが、現在にはもう残されていないようです。
もし辞令書が残っていれば、奄美地方では徳之島の深見家のご先祖にあたるマナベダル宛の1600年正月24日付の辞令書が一番新しい日付であると言われていますので、それよりも新しい日付だったのだと思われます。

眞加戸が赴任した屋者集落の古老の説では、島袋ノロは永良部のノロを支配していたということです。眞加戸の実家であった島袋家は琉球ではノロ家であって、そこから派遣されてきたわけですから、島のノロたちを束ねる役割であったのだと思われます。
そこで気になるのが、永良部のノロを束ねるトップのノロが、なぜ当時の屋者村にいたのかということです。

沖永良部の世之主伝説の中では、屋者村との関係については詳しく触れていません。唯一、世之主の四天王の一人であったといわれる「屋者真三郎」という人物が屋者に住んでいたという話があります。漢字では真三郎と書きますが、地元では「ヤジャ マサバル」と呼ばれているそうです。
屋者真三郎については、1850年に当家のご先祖さまである記録上の7代目平安統惟雄が書いた世之主由緒書にも名前が出ていますので、この屋者真三郎はそれ以前に生きていた人物であるのは確かです。
そして屋者には、この真三郎のお墓と伝わる場所があります。
パッと見は、お墓というより石で作った家のような感じもします。


琉球式のお墓ですが、現在の納骨堂の中には遺骨などはありません。
かつては存在していて、どこかに移されたのか?

この真三郎のお墓は、他の琉球式のお墓である世之主の墓やチュラドゥールよりは新しい作りだと言われています。屋根は日本式切妻型ということで、石畳式に葺かれているそうです。現在沖縄に残る亀甲墓よりは古い形式であるようで、亀甲墓は1600年代後半あたりから沖縄で作られるようになったそうなので、それ以前に作られた墓だということです。

この屋者真三郎のお墓を見ていく中で、以前からずっと疑問に思っていたことが判明しました。この写真は1981年に出版されていた「図説郷土のくらしと文化 下巻」に掲載されていた写真です。実物はモノクロ写真ですが分かりやすいようにカラー化しています。
世之主の墓として記録されているのです。


石垣の囲いの向こうにある帽子をかぶったような墓石が、世之主の墓であるというのです。しかし内城にある世之主の墓(ウファ)にはこのような墓石はありませんので、この墓の所在をずっと探していました。
そしてとうとうこのお墓の場所を見つけたのです。
このお墓は、屋者真三郎の墓のすぐ左隣にありました。誰のお墓であるのかは不明ですが、このお墓が世之主の墓であったとすれば、それは時代の異なる世之主の墓であったのだと思います。
このような大和式の墓石が置かれるようになったのは薩摩侵攻以降のことですので、1600年代以降です。
世之主などと呼ばれている人物がいたとすれば、薩摩の統治が始まる前の1500年代後半あたりから1600年代にかけて生きた人物であった可能性もありますね。

世之主と呼ばれていた人(権力者)が屋者にいた可能性があるし、ノロのトップが屋者にいた。なぜ屋者に?
これは本当に謎なのですが、1つヒントを聞くことができましたので次回に続きます。


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