なぜ琉球からやってきたノロのトップが屋者にいたのか?
最大の謎ですが、先日お話を聞いた島家のご当主の話ですと、屋者のすぐ隣にある芦清良(あしきょら)にウジジ浜と呼ばれるところがあり、その浜は昔は琉球と島を結ぶ港であったようだということでした。

屋者真三郎は琉球からやってきた人だという説もありますので、少なくともこの屋者の地が琉球と関りの深い場所であったのは間違いないようです。
屋者真三郎は伝説では世之主と同じ時代に生きた人であり、四天王の一人でした。
世之主亡き後は、もしかしたら島の統治の中心は、この屋者であった時代もあったかもしれませんね。
それで島のノロを束ねるトップのノロが、屋者に派遣されていたのかもしれません。
眞加戸以前に屋者に赴任していたノロがいたのかについては、残念ながら伝承や情報は聞くことができませんでした。しかし眞加戸の住んでいた屋敷跡の図がありました。

図で見ると分かりませんが、実際にはかなり広い土地です。
昭和の初め頃にはもう人手に渡ってしまっていたようで、現在の所有者は別の方々です。
この屋敷のあった場所の近くにはお墓もあったそうです。
大正の初期頃に、9代目の伊名重が和泊の方に移住し、その時にお墓も和泊の方に移したようです。現在も和泊の墓地には島家のお墓は残されています。
和泊に移住した島伊名重の子孫の方々が島にいらっしゃるのかは現在のところ不明です。
屋者という場所の歴史、屋者真三郎や琉球の泊にいた島袋家からやってきたノロの眞加戸のこと、これまで知らなかったことが見えてきました。
島袋家に嫁に行った、宗の本家の娘2名は名前までは分かりませんでしたが、その存在を知ることができました。
当家の記録では見いだせなかった娘2人の存在を知ることができて良かったです。
今回の屋者の島袋家(後に島家)については、島家6代目の兄弟の子孫の方が、昭和の時代に調査され、まとめられた甲斐不二夫著の「先祖を語る」という本の情報を参考にさせてもらいました。
大変貴重な内容が書かれている本だと思います。今となっては、島袋家についてここまでの情報をお持ちの方はいないのではないかと思います。
この本を書かれた甲斐さんは、後蘭孫八の子孫でもあられます。
世之主の子孫の我が宗家、後蘭孫八の子孫である甲斐家、そして琉球からやってきた島袋家、全て琉球時代の家として婚姻関係で繋がっておりました。
屋者の島袋家が琉球の泊の島袋家(泊宗重の長男の家系)であることは、沖縄の島袋家まで出向いて調査されたようです。先人の調査記録があるので、私たちはそれを参考にまた再調査や追加調査が出来る。本当にありがたいことです。私のこの調査も、後世の人たちに貢献できると良いなと思います。
屋者のことについては、また何か分かれば追記します。
次回は伊名重が書き残した書について少し考えてみようと思います。