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先祖を探して

Vol.149 上国地獄(1)


薩摩藩の支配の中で、当家のご先祖様は与人という島で最高の管理職に7代続けて着いておりました。与人は島中の一切の行政事務を統括していたようです。薩摩の役人と島民の間に入って、島や島民の管理が主な仕事だったのでしょう。
そしてこの与人の最大のイベントは、やはり鹿児島への上国でしょう。


与人上国制度

1609年に薩摩に侵攻されて以降、1691年から与人の上国が義務付けられたようです。
上国とは殿様に呼ばれて拝謁に行くことですが、この時に手ぶらでは行けないので、貢物を持って行きました。始めの頃は、各自が思い思いに色々な品を持って行ったのかもしれませんが、時が経つにつれ統一されていったようです。
それは薩摩から指示があったのか?喜ばれるものが次第に分かっていき、後代の与人が悩まなくていいように申し送りで統一したのか?そこは定かではありませんが、次第に統一されていったのは、どこの島も同じだったようです。

与人達は毎年のように鹿児島に上国をして藩主に謁見し、上国の品として様々なものを献上していました。この与人たちは上国の際に、金の簪、朝衣、広帯、袴を琉球風に着用しなければならなかったそうです。
薩摩藩としては、異国の管理層の者たちが、藩主に謁見に来ているという見せかけを演出していたのかもしれませんね。それだけ薩摩の君主は偉大だと見せたかったのだと思われます。

そしてこの上国には、相当な献上品を準備しなくてはならなかったようです。
島民から集めたり、それでも足りない分は与人自らが準備することも多かったようで、その負担は相当な物だったようです。与人の財力の凄さも物語っていますね。
そもそも物資の少ない島で、どのような物を献上の品としていたのか大変興味があるところです。
一例では、芭蕉布、焼酎、黒糖、塩豚などが多かったようです。
そして、これらの品々は、島津の殿様だけでなく、家老やその他の関係者の分まで準備しなくてはならず、相当な量であり、相当な負担があったようです。それが毎年のこととなると、もう勘弁して欲しいレベルですよね。

そもそもこの上国制度ですが、なぜ行われていたかと言えば、島々から献上させることも目的の1つであったのは間違いありませんが、長年琉球の配下にありその体制に慣れていた島々は、薩摩を疎んでいたようで、鹿児島にたえず目を向けさせるための狙いもあったようです。
そして普段はめったにお目にかかれない殿様に、島々の与人が謁見できるという特典をつけて、与人に優越感を味あわせるといった、上国制度だったわけです。

この与人上国制度は、次の1706年にわずか15年で御祝儀上国制度へと切り替わります。おそらく、島々は毎年大量の献上品を準備することが困難になったのではないでしょうか。
当家のご先祖様についていえば、池久保という人がこの期間に4年程かぶっていたかもしれないのですが、うまい具合に難を逃れていたのかもしれません。

切り替わったご祝儀上国制度の件は、次回に書きたいと思います。



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