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先祖を探して

Vol.44 薩摩軍と粟粥で戦った島民

1609年3月、島津家久は徳川家康に琉球征伐の許しを得ていたので前年秋、軍を整え華山権左衛門尉久高を総大将に、諸勢3000余名、五反帆の兵船100余艘で、3月4日山川港を出航。琉球の属島であった大島・喜界島・徳之島の順に攻める。琉球側は手をこまねいていたのではなく、徳之島に軍勢を集めて防ごうとしました。ここでは刀や弓矢を持った兵士だけではなく、村の人たちもそれぞれの家からある「武器」を持って出てきました。しかし島津軍は大島笠利、名瀬、大和浜、焼内を落とし、更に徳之島の秋徳港(現在の亀徳)へ。、たいした武器を持たない島民は鉄砲など飛び道具を持つ薩摩軍に敗れる。

徳之島の記録によると

湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。
秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た。
徳之島には与那原親雲上なる琉球から王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている。
本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。

沖永良部では

1609年3月24日
徳之島を出た10艘が夕暮れに沖永良部島の住吉の海岸に到着。
琉球属で平和に暮らしていた人々にとっては島津軍侵攻はこれまで経験したことない、大きな「いくさ」だったそうです。島では薩摩藩の上陸にに向けて戦闘態勢を浜で装備。
その戦闘態勢というのが実にユニークであったようです。

武器のない永良部の人たちは防戦協議をし、「粟粥を炊いてぶつかけよう」衆議一致し鍋に粟粥を炊き、煮だったまま海岸へ運び並べた。敵兵が上陸しこの鍋地獄を知らずに押し寄せ、足を大やけどするだろうと。そして島民は蘇鉄の葉陰で待ち構えていた。
夕暮れ時に海岸に押し寄せた薩摩軍は、無数に並べられた鍋を見て「粟粥」、空腹になっていたので「これは親切な島民が我々にご馳走するのか」と食べる。島民は薩摩兵の姿を見て、戦わず平伏降参したと記されている。

このことは『大奄美史』『奄美大島史』『知名町史』に記載されています。


徳之島ではその「武器」である、グツグツと煮た粟(あわ)のおかゆを道や坂に流すという奇妙な行動に出たそうです。島の人にとって、この行為はれっきとした戦闘行為でした。実は、奄美では粟のおかゆは悪霊を払う力を持つと信じられており、たとえば奄美大島の名瀬では神女(ノロ)が村の背後にある拝み山で粟のおかゆを流し、悪霊から村を守る儀式を行っていたそうです。つまり、彼らは侵入してくる島津軍を悪霊と同じように考え、普段の生活で行われてきた方法で、外敵を撃退しようとしたのです。

沖永良部では薩摩郡がちょうど夕暮れに押し寄せてきたので、海岸に粟粥を準備して、暗くなった浜を一気に攻め入ってくるところを狙ってぶちまけようとしていたのでしょうね。

なんともまぁ、平和的な戦い!?
そもそも、1400年代前半に島を統治していた世之主は、中山の和睦戦を攻められたと勘違いして自害してしまうし、薩摩侵攻の時は粟粥で戦闘態勢。しかし、どちらもその結果は戦はせずの和睦。島民は戦で命を落とすことがなかったのです。

この薩摩の侵攻の時に、当家のご先祖様である平安統が重要な役割を果たしたという情報があります。
その話はまた別記事で書きたいと思います。




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