琉球の歴史を調べていくなかで、古地図に遭遇しました。琉球本島や与論、永良部なども描かれているのですが、その地図は『海東諸国紀』といって1471年に朝鮮で作成されたものです。
『海東諸国紀』琉球国之図

古地図というものは、現代のように正確ではないし、全ての陸や島々を描ききれてはいないと思います。その地図が描かれた時代に、認知度や影響力が高かった土地が地図には反映されていたと私は勝手に考えています。
そのような目線でこの地図を見たときに、琉球の上に与論島と沖永良部島がしっかりと描かれていたことに、違和感を感じました。琉球は海域世界のなかで王朝にまで成長したという特徴があり、それが朝鮮で作成された地図に反映されていたということは分かりますが、与論島や沖永良部島、他の小島まであります。
日本で地図が初めて描かれたのは1779年で、長久保赤水という人が「改正日本輿地路程全図」(通称・赤水図)を作り上げましたが、この時には琉球はまだ地図の中に入っていませんでした。
改正日本輿地路程全図

一方で、1471年に朝鮮で印刷された上記の『海東諸国紀』には、しっかりと琉球が描かれた地図が納められています。『海東諸国総図』には、「日本本国之図」、「日本国西海道九州之図」、「日本国-岐島之図」、「日本国対馬島之図」、「琉球国之図」という五種の地図を合成したものだそうで、「日本本国之図」以外の4図は、博多の貿易僧道安が1453年に琉球使として朝鮮にもたらしたものと推定されているそうです。
『海東諸国紀』日本本国之図

そして「琉球国之図」には、おもな島々だけでなく小さな小島まで描き、かつ海路も引いてあり、通常の陸の権力がほとんど関心を示さないような海域世界の細部が書き込まれています。また「琉球国都」、「宝庫」、「国庫」など王朝に直接関わることがらだけでなく、 「賀通連城」など様々なグスクが表記され、さらには「港口」に「江南・南蛮・日本の商舶の泊まる所」など琉球にとって重要としていることが詳細に記載されているのです。
漢字の表記の特徴から、この地図はやはり日本人によって作成された可能性が高いそうですが、地図のなかの情報は琉球人からもたらされたものであって、琉球人の世界観がこの朝鮮製の地図に投影されているのでしょう。
そしてこの地図の中にある、琉球の近くにあるが影響力があまり無さそうな与論島や沖永良部島が描かれており、さらにはこれらの島々には注釈まで付け足されている。
与論島「輿論島 度九を去ること五十五里、琉球を去ること十五里なり」
描かれている島の大きさについても、上部にある奄美大島と比較してもさほど変わらないほどの大きさで描かれており、いくら実測された状態ではなかったにしろ、与論と永良部を比べただけでも実際の大きさには明らかに差があるのだから、これは何かを物語っているのではないかと勝手に推測しています。
琉球の使者として日本人が朝鮮にもたらした地図であったとしても、朝鮮側が南の小島をわざわざ注釈までつけて大きく描いているのですから、朝鮮にとっては認知度や影響の高かったことを示しているのではないでしょうか。
ここで思い浮かんでくるのは、やはり朝鮮から琉球まで道の島を南下して交易をしていた倭寇の存在です。この地図が作成される少し前には、沖永良部島には世之主の四天王の一人と言われている後蘭孫八がいました。彼は平家の落ち人の子孫であるとか、倭寇であったなどと言われています。
朝鮮や倭寇から見ても、沖永良部の認知度は高かったのでしょう。
色んな資料から様々なことが見えますね。しかし私は学者ではありませんので、あくまでも推測の範疇ですが、ご先祖様の調査には様々な情報と推測は必要不可欠です。いつも楽しみながら資料を閲覧し、色んなことに思いをはせながら遠い昔のことを想像で思い浮かべ、自分の推測がどうなのか?について考察する日々です。
先祖探しから歴史のお勉強は大変楽しい時間です。
番外編
いつの時代に描かれたのかははっきりとは分かりませんが、沖縄県古文書館のホームページで発見した地図です。
何だか南国風のカラフルな色使いで、地図は琉球国が勾玉のような丸っこい形をしていますね。現代の地図と違って上下逆さまに描かれていますが、下に与論島と読める島があります。あれ?沖永良部はどれかしら?
朝鮮国図并中国日本琉球図

下段のこちらは中国本土まで描かれていますね。琉球は長方形で三山に区切られているので、1300~1400年初頭に作成されたものでしょう。琉球から九州の鹿児島に向かう航路ので立ち寄る島も書かれていますね。
琉球国全図
