横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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「ペリー艦隊の小笠原来航と海亀」

2021-04-01 15:54:30 | コロナ巣ごもりレポート

「ペリー艦隊の小笠原来航と海亀」

 

 著者 横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

 

ペリーの小笠原訪問

 

 

 ペリー提督は1852年12月、日本遠征途中のマデイラ島からケネディ海軍長官に送った書簡で「予備的な処置として我国捕鯨船その他の船舶のために、一つ以上の避難港ならびに補給港が獲得されなければならない。日本政府に反対され港を獲得できない場合は、日本南部の一、二の島に集合地を設けることが必要である」と報告した。

 

 この手紙で、日本の開港が不可能であった場合の措置として、周辺の島に寄港地を獲得する必要があると提言し、ペリーはその候補地として琉球や小笠原に目をつけた。

 

 汽船による太平洋横断航路を画策していたペリーは、燃料供給に程よい距離に石炭貯蔵所と捕鯨船の補給地の確保は、日本遠征の最低条件と考えていた。

 

 日本遠征の前に琉球から小笠原を訪問したペリーは、1853年6月15日2班の調査隊を父島に上陸させ内陸部を詳細に探査させた。その間ペリーは補給基地として石炭置き場を確保しようと、この日ロイド港(二見港)に面した場所(現在の清瀬)に土地を取得した。土地所有者は1830年に最初に入植したアメリカ人のナサニエル・セボレーであった。偶然にも二人は同じ1794年の生まれであり郷里もごく近くであり、話は順調に進んだとみえて、セボレーから貯炭場の土地を買収した。

 

 ペリーが貯炭場の土地に総額50ドル支払ったとの売買契約書の写しが、小笠原父島のセボレー家に保存されている。

 

 セボレー家の5代目子孫のセボレー孝氏は、原本の保存されているハーバード大学に赴き、売買契約書のコピーを入手された。筆者は2011年7月小笠原調査旅行の際、セボレー孝氏より以下のペリーとセボレーの売買契約書コピーと翻訳文を提供された。

 

 

ペリー発行の契約書 1853年6月15日

 

ペリーが発行した売買契約書

 

 

 本証書は私儀ナサニエル・セボレーがアメリカ合衆国マサチューセッツ州ブラッドフォードの町で出生し、西暦1853年の現在まで23年間ピール島(父島)と呼称されているこの島の住民であるが、1836年にピール島と呼称され、また現在もそう通称されている当島のポートロイド港(二見港)に面する一面の地所に、この島の慣例に基づいて住居を定め、杭で仕切り私の所有としたことを証明するものである。その地所はテンファゾムスホールと呼ばれているところに面する土地を含み、またテンファゾムスホールと称される港に注ぐ小川を含む。そして私はアメリカ合衆国海軍ペリー提督から50ドルの金額を受領した上で、同地所の所有権を確かに譲渡し、その他の権益とし、管理人としての給与や支給品などを今後授与されるものとする。セボレーは同金額と他の権益が受けられることの証明を有効と認め、それに対する正式の領収書を手渡す。この売却は永久にペリー提督、彼の相続人ならびに譲り受け人に正当な手続きを経て行われるものとする。

 

ナサニエル・セボレー

M・C・ペリー

上記を証明する立会人として

エドウィン・フィシア

ジョン・グリーン

C・マシュー・ペリー

 

 

母島領有宣言

 

 

 2回目の小笠原遠征はプリマス号ケリー艦長に命じた。

 1853年9月那覇を出航し10月1日父島に到着したケリー中佐は、ペリーの命令により小笠原島父島において自治政府が順調に機能していることを確認し、母島を訪れてアメリカ合衆国が母島を領有するとの宣言文の刻まれた銅版を木に掲げた。

 

 

母島領有宣言銅版拓本

 

 

 表記されている領有宣言文は次のとおりである。

 

「THIS SOUTHERN GROUP ISLANDS HAS BEEN EXPLORED & TAKEN POSSESSION OF BY COMMANDER JOHN KERRY & OFFICERS OF THE U. S. SHIP PRYMOUTH UNDER ORDERS FROM COMMODORE M. C. PERRY ON BEHARF OF THE U. S. OF N. A. THIS 30 DAY OF OCTORBER 1853」

 

 翻訳すると以下のようになる。

 

「この南部の島々(母島列島)は1853年10月30日アメリカ合衆国のためにペリー提督の命令を受けてプリマス号ジョン・ケリー艦長が探検し領有する」

 

 

マセドニアン号小笠原派遣

 

 

 3回目は1854年4月マセドニアン号アボット艦長を派遣し、航路上での潮流の探査や、その後の小笠原の状況を視察させた。土産に新鮮な食材を下田に持って帰った。

 

 以下はマセドニアン号の小笠原遠征に参加したプレブル大尉の日記である。

 

4月21日     
「網を引いて捕らえた魚のフライと美味しい亀のスープや亀のステーキを食べた。」

 

4月28日     
「100から200ポンド近い亀と、100バレルのジャガイモとタマネギを積み込んで下田に向け出港した。亀は大砲の間に裏返しに大の字にして、苦痛がないよう濡れ雑巾を頭の下に枕のように敷いたが、これはめったに見られない見世物のようだった。」(1ポンド=453g)

 

5月2日   
「パーサーと二人でサプライ号、サザンプトン号、ミシシッピ号、レキシントン号に亀を届けに行き、下田のニュースを聞く。新鮮なものに飢えていたから亀もタマネギも、ジャガイモも喜ばれた。」

 

5月4日
「他の船からジョーンズ、ウィリアム博士、ベント、ハーウッドなどがやって来て亀とチャウダー(魚貝のスープ)のディナーパーティー。」

 

 

 

 神奈川県中郡二宮町の徳富蘇峰記念館所蔵の「黒船絵巻」に、下田滞在中のペリー艦隊乗組員の行動が描かれている。

 

 その中に海亀を料理する異国人の絵が掲載されている。

 

 

 

 

 絵の解説には「4月6日(1854年5月2日)マセドニアン号が無人島(小笠原島)から大きさ約150センチメートルのショウカクボウ(青海亀)70匹を持ち帰り、料理してお役人に提供した、卵へ砂糖をかけ黒川嘉兵衛(下田奉行所組頭)に提供し一つ食べ、ペリーも食す、切り取って動いているところへ砂糖を付けて食べる」とあり、アオウミガメの卵や刺身を食べたようである。

 

 

小笠原へ調査旅行

 

 

 友人の母島の漁師平賀秀明氏の誘いで、2011年小笠原母島を訪れた。

 

 奥様が経営するペンション「ラ・メーフ」に滞在し、かねてより試食したかったアオウミガメの刺身を夕食に出してもらった。マグロの赤身のような味で、馬刺しのような歯ごたえがした。小笠原では伝統的にアオウミガメの肉を食料としている。飲食店では刺身や煮込み、ポン酢和え、ステーキなどの料理で提供されている。

 

 

 

 

 

 父島に戻り平賀氏に紹介をお願いした、初代入植者のセボレー家5代目セボレー孝氏を訪ねた。小笠原村議会事務局長であったセボレー孝氏の推薦で、小笠原村教育委員会所蔵の資料を撮影し、コピーや書籍などを贈呈された。

 

 父島ではセボレー家奥様の経営するペンション「リゾート・イン・ガゼボ」に滞在した。

 

 ペリー艦隊のマセドニアン号が小笠原を訪れた時、乗船していたプレブル大尉は「おいしい海亀のスープ」と日記に書いている。ヴァンダリア号乗員アレンの日記には「スープ!スープ!」と催促の掛け声がかかったとある。乗組員たちが絶賛している海亀のスープがどれ程おいしいのか、ぜひ味わいたかったので提供できる料理店を尋ねた。

 

 すると幸運にも、セボレー家では当日食材が手元にあり、海亀の煮込みスープを調理してくださることになり、自宅からペンションまで届けていただきご馳走になった。

 

 調理方法を尋ねると、ブツ切りにした亀肉や内臓を洗って水を切り、鍋に入れて塩で味をつけるだけの簡単な料理だという。塩が肉から自然に水分や肉汁を出し、グツグツと煮立ってくるので水を入れる必要はないとのこと。

 

 スープはややとろみがあり、表面にはしつこくない程度にうっすら脂が浮いているが、肉から出たダシが効いて旨味とコクがある。初めて味わうスープを一口すすると、興奮はすぐさま歓喜となり、二口三口目には陶然となる。特筆すべきは肺の部位で、スポンジ状の柔らかな食感に加え、高野豆腐のようにスープが滲み込み大変美味であった。

 

 

海亀漁と保護

 

 

 小笠原での海亀漁の歴史は古い。1830年に欧米人やハワイのカナカ人が小笠原に移住し、ハワイで海亀を食糧として利用していたことから、小笠原諸島でも捕獲が始まった。

 

 日本の領土となって以降本格的に漁が行われ、1878年には3000匹以上が捕獲されたといい、以来しだいに生息数が減少した。

 

 1994年に東京都により海亀捕獲枠が決定された当初、小笠原で捕獲が許可された数は150匹であった。

 

 調査旅行から戻り東京都総務局小笠原支庁の総務課水産係に問い合せると、2010年10月1日より3年間、東京都が許可するアオウミガメの年間捕獲数は約130匹で、伊豆諸島の八丈島でもいくらか捕獲されるが大部分は小笠原諸島での捕獲であり、前年の実績により各地区への割り当てが決められるという。

 

 海亀漁に携わる漁師の話では、3月から4月の繁殖期が海亀漁のピークであるという。交尾中にメスの上に乗った状態で動きの鈍いオスをモリで突いて捕獲するが、メスは捕獲しないそうだ。アオウミガメの甲羅は、他の種類の海亀に比べ柔らかいのでモリが刺さりやすい。アオウミガメの産卵期は主に5月から8月頃であるが、産卵のために上陸した亀や地付きの亀も捕獲しない申し合わせになっているとのこと。

 

 民間施設である小笠原海洋センターが、海亀の調査および人工飼育と放流を行っている。

 

 孵化してからある程度まで成長した海亀を毎年放流して資源保護に努め、その甲斐があって近年の調査では個体数は増加傾向にあると職員は語っていた。

 

 小笠原滞在中に偶然、海亀放流の現場を取材できた。

 

 

 

 

 どの子亀も一目散に海を目指して歩き始めたが、どうして海の方向が判るのか聞いてみたかった。

 


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