おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

子どものみならず大人にもADHDを安易に流行らせる社会-私たちに線など引けるのか?⑤-

2024-01-08 06:01:44 | 日記
世界保健機関(以下WHO)の「健康」
の定義を見てみると、
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にもそして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」
とある。
......。......えっ!?

この「健康」の定義は、1946年6月19日から22日にかけて、ニューヨークで開かれた国際健康会議で採択された世界保健機関憲章前文に在るのであるが、
定義の中身とともに、実に恐るべきなのは、
1946年7月22日に61カ国の代表が署名し(Official Records of the World Health Organization,no.2,p.100)、1948年4月7日に発効して以来、つまり1948年から、この定義は修正されていない、ということである。

私は、WHOの「健康」の定義を見たり、思い出したりするたびにいつも、
これほど途方もなく厳しい基準を満たさなければ健康でないのならば、自分は健康だと言い張れる者がいるのであろうか、と疑問に思う。

さらに誰もが多少は病気ということになってしまうほど健康が手に入れ難いのであれば、健康の概念に価値などなくなる、とも思う。

この定義からは、文化や背景に左右される価値判断が滲み出ているのだが、

だれが、どうやって、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、「すべて」が満たされた状態を定義するのだろうか。

懸命に働いたせいで身体が痛んだり、何か期待はずれのことに悲しんだり、家庭が不和だったりしたら病気だということになるのであろうか?
金銭的に貧しい人は、「健康」に必要な、すべてが満たされた状態を手に入れるための財力に乏しいから、と、金銭的に豊かな人よりもともと病気だということになるのであろうか??

しかし、よく考えてみると、
1800年代末まで医学を支配していたのは、
「健康と病気は4つの体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)の割合で決定される」(体液説)
という説であった。
今でこそ滑稽に見えるが、この健康の定義は人類が最も(天動説など比較にならないほど)根強く信じ続けた思想だった。
体液説は、世界最高の頭脳が約100世代にもわたって抱き続けてきた信念であり、4000年者あいだ医療行為を左右したことを考えると、
19世紀末になって、生理学や病理学や神経科学が劇的に発展してようやく、体液説を追いやって、現代医学がその地位についたのだが、その歴史の浅い現代医学がまだ「健康」と「病気」のまともな定義が出来ていないのは当然かもしれない。
WHOの「健康」の定義が如実にそれを表している。

しかし、現実に即した健康の定義をするというよりは、定理を積み重ねて、とりあえずの定義を作るような手段が合理的のように、私は、思う。

定理を先にしてそれらを積み重ねた上に在るような定義を、証明することではなくて、検証していけば良いように思う。
(演繹より帰納のイメージで)

いずれにせよ、健康や病気の明確な定義はなく、時代や土地や文化を超えて通用するものでないことはたしかであるだろう。

ところで、かつて、メジャーリーグが、薬物検査を導入してステロイドの使用を(やっとのことで)禁止した途端、ADHDになる選手が激増したことをご存知だろうか。

ADHDを治療するための何かしらの正当な理由があった訳ではなく、彼らは、薬物検査に対応できる薬物の処方を可能にする病名を手に入れて、打率を上げたかったからであろうことは明白であるが、哀しい事実である。

すでに子どもたちのあいだで広がっているADHDの偽≒作り出された「流行」に懲りず、DSM-5は大人でADHDの新たな流行を作り出すためのお膳立てを整えてしまった。

このシリーズに毎回よく登場するDSM-5作成者たちのうちのひとりであるアメリカの精神科医も、
「精神疾患においては、症例が見落とされることよりも、過剰な診断が生むずっと大きなリスクがあるし、それを考慮すべき」なのだが、最終的にはあまり考慮されたとはいえない建て付けになってしまったようである。(作成者ご本人も乱用には嘆いていらっしゃるので......。)

注意に関する問題や落ち着きのなさは、特異な症状ではない。
どんな大人にもきわめてよく見られる。
DSM-5の提案のように、大人へのADHDへの安易な道を作ることは、ただ自分の集中力や仕事の遂行力に、不満や不安を抱いているだけの多数の正常な人々に、間違ったレッテルを貼ってしまうことにつながるだろう。

私が繰り返しながらも、言いたいことは、社会の期待になかなか応えられないと悩み苦しむ人に、またその人が抱える問題のすべてに精神疾患のレッテルを貼るべきではない、と、いうこと、である。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

かつて、病の当事者だった者として、私たちに線など引けるのか?シリーズを描いてみています。

少々、暗いかもしれないのですが、読んでくださりありがとうございます^_^;

こうして、ブログに描き、読んでいただける過程で、私自身が納得し直しながら、前に進めている気がいたします( ^_^)

皆さまにはいつも感謝しております。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (gabaosan)
2024-01-08 08:15:50
おはようございます。

一連の記事を拝読して、正常と異常、健康と病気の定義に付いて考えさせられました。

最近は精神疾患とか何とか症候群とか、盛んに耳にするようになったのは、現代社会の歪みが顕在化した一面だと勝手に思い込んでいましたが、どうやら別の見方も必要な様ですね。。。

興味深いお話、ありがとうございました。
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Unknown (yoko-2-1)
2024-01-08 08:43:48
@gabaosan さん
おはようございます。
読んでくださりありがとうございます( ^_^)
gabaosanの仰るとおり、精神疾患が世の中の歪みの表れである面も在りますし、また、違う面もたくさん在りますよね。

gabaosanのご投稿、いつも楽しく拝見させていただいています(*^^*)

私も、拙い文書ですが、少しずつ描いていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたします( ^_^)
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YOKOさん、こんにちわ。 (テレビとうさん)
2024-01-08 09:52:43
「正常と異常」「健康と病気」の間に「普通」が有り、大多数である「普通」の取り合い合戦が問題のないところに問題を作り、社会を複雑にしていると思います。
返信する
Unknown (yoko-2-1)
2024-01-08 11:38:06
テレビとうさん さん
コメントありがとうございます。
テレビとうさん さんの仰る「大多数の『普通』の取り合い」が、問題でないものを問題にし、さらに問題を複雑にしていると、私も思うときがあります。
読んでくださりありがとうございます( ^_^)
テレビとうさん さんのご投稿、いつも楽しみに拝読しております。
今年もよろしくお願いします(*^^*)
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