おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

概念のオペラ-マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を聴いて①-

2024-09-11 07:21:41 | 日記
現在のチェコ、当時のオーストリア領ボヘミアの村で生まれ、指揮者としてウィーン宮廷歌劇場の芸術監督にまで登りつめたユダヤ人であるマーラーは、
「オーストリアにおいては、ボヘミア人として見做され、ドイツにおいてはオーストリア人と見做され、そしてどこに行ってもユダヤ人と見做される。
私は世界のどこからも歓迎されていないのだ。」
と、自らのことを述懐している。

マーラーという人間を、出自と環境が特徴付けてきたことが、わかることばである。

20世紀初頭のユダヤ人を取り巻く環境は、現代からは想像を絶するほど過酷なものであった。

物価の上昇や、失業率の高さ、領土の侵攻など、ありとあらゆる悪いことはユダヤ人のせいにする風潮が以前にもまして高まっていた。

このような反ユダヤが、表立って現れることはあまりなかったが、表へ出ない感情は、人々の心の奥深くへ根を張り巡らし、ひとつの合図で突然荒れ狂い、噴出するのである。

その合図が、政治的にはドレフュス事件であり、後のナチスの台頭であった。

マーラーの周囲にも「ユダヤ人指揮者の成功」を妬む人間は大勢おり、マーラーの人生は戦いそのものであっただろう。

さらに、マーラーには外部のみならず、内部にも敵がいた。

幼い頃から、彼のまわりをうろうろと徘徊し、何の前触れもなく家族や友人を奪ってゆく、恐るべき敵、「死」である。

「死」は、いつも愛する人々を、何の前触れもなく、マーラーの手から奪っていった。

彼が、最も愛情を注いだ重度の知的障がいを持つ弟は、幼くして病死し、作曲家を志した弟オットー、そして才能溢れる友人のフーゴー・ヴォルフは自殺している。

そのようにして生きてきたマーラーは、常に喪失の不安に怯え、何かを手に入れると、手に入れたそばから、それを失うことを想い、不安に苦しむのである。

死に追い立てられるように、作曲家マーラーは、ひたすら死から逃走するように第1交響曲から第4交響曲までを作り上げる。

マーラーも、救いを、最後の審判の到来や天国での安楽な生活という宗教的幻影にも求めたが、時代がそれを許さなかった。

検死官ニーチェは神の死亡診断書を書き散らし、不安に生きる大衆は、第2、第3のドレフュス事件を血祭りに上げようとあちらこちらを探し回っていた。

マーラーの生きた時代は、もはやシューマンやシューベルトのような脆く儚く夢見がちな魂に居場所はなく、憧れと共に天国を幻視する時代ではなかったのである。

しかし、マーラーの内面は変化していた。

20歳近くも年下のアルマとの結婚をきっかけに、マーラー自身が逃げることをやめ、やがては確実に訪れる死に、決然と対峙することを決めたのである。

自分の生命よりも大切な生命をこの世に見つけたとき、初めてマーラーは、誰の身にも訪れる死を見据えようと決心したのかもしれない。

マーラーを、特徴づけるのは、出自や環境だけではない。

マーラーが、卓越したオペラ指揮者であったことも、マーラーを特徴づけている。

言い換えれば、マーラーは、卓越した演出家であったにもかかわらず、オペラを作曲しなかったのである。

声楽が嫌いなわけではなく、むしろマーラーの本領は歌にあると言っても良いくらいであり、彼は、オーケストラ伴奏付きの歌曲集「子どもの不思議な角笛」「リュッケルトによる5つの歌」「亡き子を偲ぶ歌」などを作曲し、第8交響曲や「大地の歌」など、自作の交響曲にも声楽を取り入れているのである。

歌曲とオペラとの距離は、抽象と具象の距離でもある。

オペラでは特定の状況にある特定の個人、例えば、オペラでは、愛する娘を永久に氷山に閉じ込めざるを得ない神ヴォータンの嘆きが歌われるが、歌曲においては、我が子を亡くした親の普遍的な嘆きが歌われる。

マーラーという精神は常に、具体的なものの背後に抽象性を見出さずにはいられないのであろう。

英雄ジークフリートの後ろに「英雄性」を見出し、愛と歓喜のうちに死ぬトリスタンとイゾルデの後ろに「愛の死」という普遍的な概念を見出す。

そして、マーラーは、特定の個人、例えば、ドン・ジョバンニやフィガロが話し、歌い、跳んだり跳ねたり動き回ったりしてから、死んで消えるような一場の具体的な舞台を作るのではなく、英雄性や愛の歓喜、過酷な運命といった抽象的概念が話し合い、殴り合うような、「概念のオペラ」を作り上げるのである。

歌詞のない歌、歌声のない歌劇、それがマーラーの交響曲ではないだろうか。

第5交響曲で、新しいマーラーが始まったことは先回述べたが、第6交響曲は、この世に生きる喜びと、世界が存在しているという奇跡を讃える敬虔な祈りに満ちているわけではない。

それどころか、この世で生きようと決心した人間に降りかかってくるありとあらゆる災難と苦難が描かれ、その圧倒的な困難を克服した勝利の喜びのうちにフィナーレを迎えるのではなく、打ちのめされて、倒れてしまう、というプロットを持っているのである。

第6交響曲の長大な第4楽章で、私たちが聴くのは、まさに概念のオペラである。

それは、理念の闘争であり、人生という舞台の登場人物、すなわち愛、困難、平安、笑い、卑劣、悲嘆、といった諸概念が動き回り、そして最後に死が登場して幕を引くのである。

第4楽章では、通常のオーケストラには常備されないハンマーが登場するが、これは、マーラーがこの曲のために発明した楽器といっても過言ではないだろう。

第4楽章で
「英雄は3度の打撃を受け、3度目の打撃により、木が倒れるように倒れる」というのがマーラーの最初の説明であり、その打撃を聴覚的にも視覚的にも伝える役割をハンマーは担っている。

後に、マーラーは、3回目の打撃を削除しているが、マーラーによる直接の説明はなく、諸説あるが、真意は不明である。

第4楽章を聴く際には、3回目のハンマーが、ある構成の演奏なのか、ない構成の演奏なのかに留意しながら聴く楽しみもあるのかもしれない。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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