ウォルト・ケリーは
「私たちは敵に会った。
それは私たちである」
ということばを漫画『Pogo』のなかで、述べている。
このことばは、私たちが、
本当に「知らぬが仏」であるのだろうか、
という問題を提起してくれているように思う。
知らないことによって、間違いなく人は傷つき、傷つけられ、しかも、まったく予期しない、最も壊滅的なかたちで傷つき、傷つけられることが、あまりに、多い。
実際、私たちは、環境破壊や社会崩壊など、解決できそうにない危機に対して、危機の存在を否定するか、解決を先延ばしにしようとしている。
否認や願望的思考のベールを取り払い、「私たちの政策や習慣を堕落させる誤った信念」を表出させることは、良い気分はしないであろう。
精神医学において妄想とは、
「強固に維持された揺るぎない誤った信念であり、決定的な証拠や理性的議論による修正にも抵抗するもの」
と定義されている。
精神医学の定義を応用して、
「否認や願望的思考のベール包まれた私たちの政策や習慣を堕落させる誤った信念」のことを、以下、「社会の妄想」と呼ぶことにしたい。
「社会の妄想」に目を向けないことは、生来、傷つきやすい人類の生存を脅かすことになるだろう。
また、「社会の妄想」は、なかなかなくならない。
イデオロギーや、利己主義、怒り、恐怖は、現実が、非常に不安定で満足のいかないものであっても、現状を強力に守ろうとするものである。
私たちが、自ら深い墓穴を掘っていることを理解することこそ、その墓穴から這い上がるために、まず重要なステップであろう。
さて、精神医学において、「妄想させる」と動詞で使われる場合は、「誤ったことを相手に信じさせる」という意味になる。
これは、多くの政治家がなぜか必死にやっていることかもしれない。
......。
ただ、人々が本当でないことを信じているというだけで、それが妄想であると決めつけるわけではないことに留意したい。
人生において、大きな不安に直面すると、自らを安心させるような不正確な説明を作り上げるのは、人間にもともと備わった性質である。
それは、人類が、まだほとんど知識を持たなかった古代に作られた神話が、多くの知識を獲得した現在までも、延々と語り継がれているところにも、見ることができるだろう。
そして、今在る不安と将来に対する恐怖に向き合えるように、私たちは新たな神話を絶えず作り出している。
いずれにしても、私たちの多くは、誤った信念をいくらか持ち合わせていて、信じるに足ると思われる反証を前にしても誤った信念に固執する。
実際に、アメリカ人の3分の1以上が、いまだに、空飛ぶ円盤や、第6感、占星術などを信じている。
そして、ほぼ同数の人々が、進化論やビッグバン、無限大の宇宙などを信じようとはしないのである。
例えば、かつては、地球誕生が、6000年ほど前だと考えることは妥当であったが、地質学者が、科学的精度をもって、地球誕生が45億4300万年前であることを認識している現在、その説の妥当性は薄れている。
地球が非常に若い天体であるという信念に固執する人は完全に間違ってはいるものの、少なくとも精神医学の観点からは、その人が、妄想状態であるとは、みなされない。
なぜなら、その人の誤った信念は、同様の誤解をしているその他大勢の人と非常に広く共有されていて、その人の日常生活に悪影響をおよぼしていないからである。
誤った信念が、個人的な、その人独特のものであり、日常生活の障害となる場合のみ、その人は、妄想状態であると診断される。
妄想に応じて行動する人は、たいていの場合、大変なトラブルに陥る。
人生における困難にうまく順応するためには、その困難に、現実的に、立ち向かうことが必要である。
個人的な夢の世界に生きることは、現実世界で重大な過ちを犯すことを意味し、世の中の事実を否認し歪めることは、現実があまりにつらくて耐えられず、威圧的で変えることが出来ないと思えるときの、最後の自滅的な防衛手段である。
翻って、私たちの社会が、妄想状態にあることは、おおよそ正しいだろう。
というのも、これほど明らかな環境破壊や社会崩壊などの人類生存の危機から、私たちは目をそらし、その代わりに、世界人口の抑制の議論を避け、地球温暖化対策の先延ばしにするなど、願望に満ちた都合のよい、しかし危険な思考を続けているのである。
個人に起きる妄想で、最も一般的なものは被害妄想であり、次いで誇大妄想、稀なものとして恋愛妄想があるが、どの妄想においても、妄想状態というものは、理性的な人なら誰でも受け入れるような反証があるにもかかわらず、揺るぎない誤った信念を頑固に、ムキになって維持することである。
私たちの社会も、個人に起きる妄想とよく似た妄想に悩まされているようである。
それは、原因、内容、結果という点でよく似ている。
妄想の患者が、明らかに間違った信念が大きな障害に繋がっても、それに固執する原因は、脳の混乱や誤作動、つらい現実を避けるための心理的防衛機制、抵抗できないほどの社会的ストレスであったりする。
このような患者と同様に、私たちの社会も、明らかに誤った信念が大きな障害に繋がっても、頑固なまでにそれに固執するのであろうか。
その原因は、政治指導者やその支持者が持つ心理的要因にもあれば、今私たちが向き合わなくてはならない、社会、政治、経済、環境、および資源に対する厄介な問題にもあるだろう。
妄想は、個人においても、社会においても、降りかかってくる現実を否認する、何でも他のせいにする、尊大な態度を取る、自分は尊敬されているという誤った感覚を持つという点においては同じである。
個人の妄想と同様に、社会の妄想によって、私たちは、リスクが見えなくなり、意図せぬ結果に無頓着になる。
また、さまざまな重大な危機に対して消極的な態度を取り、現時点で厳しい決断をすることなく、先延ばしにしても何とかなる、という誤った信念に依存するのである。
否定妄想によって、私たちは既に世界をめちゃくちゃにし、その世界を元通りにすることに大きな犠牲を払わねばならない、というつらい現実から逃れることは、できるだろう。
しかし、誤った信念は、無力な個人が持つ場合、ほんの限られた害しかもたらさないが、そのような信念によって、政治指導者、さらには世界の大国が誤った信念に基づいて悪い決断を下した場合、壊滅的な害を及ぼすのである。
現実を否認することによって、短期的には安心できても、長期的に見れば、悲惨な結果を招く。
このような妄想的な考えから、早く目覚めようとしなければ、私たちは、修復のきかない世界に生きることになるのだろう。
ここまで、読んで下さりありがとうございます。
見出し画像は、ウォルト・ケリーの『Pogo』のAmazon出品を......ちょっと買えないなあ、と見ていたときのものです^_^;
今回は、特に偉そうな長い日記になってしまいました^_^;
読んで下さりありがとうございます( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。