ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

顕現後第6主日

2006年02月12日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書1:40-45)で描かれているのは、
重い皮膚病のゆえにいわれなき差別に苦しんでいたある人とイエス様の物語です。

彼は、イエス様に「御心(みこころ)ならば、
わたしを清くすることがおできになります。」とお願いしました。
そこでは、「癒してください」とは言わずに「清めてください」と言うところに、
彼がこれまでの間、どれほど汚れたものとして差別され、迫害されてきたか、
その苦しみがどれほどのものであったでしょうか。

私は、神学生時代に訪れた沖縄の元ハンセン病患者の療養所で
入所者の方々が語ってくれた過酷な経験を思い出すと、
胸が締め付けられる思いが致します。
彼らは、この病気によって家も財産も市民権も、
そして、故郷も家族すら失いました。何もかも失ったのです。
そして、「汚れた者」というレッテルを貼られ
誰からも忌避されるものとなってしまったのです。

イエス様は、彼を一目見るなり、
「深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、
『よろしい、清くなれ』」と、言われました。

「深く憐れんで」(=スプランクニゾマイ)とは、
直訳すると「内臓が痛んで」という意味です。
ユダヤ人は、人の痛みを感じるのは内臓であると信じていました。

イエス様はこの人を見て、まさに、はらわたがよじれるほどに、
深い同情を感じました。共苦といっても良いでしょう。

当時の律法によれば、このような人に触れることはタブーであり、
そのようにする者自身も汚れたものとされました。
しかし、イエス様はそのタブーを大胆に破って手を差し伸べ、
この人に触れて、「清くなれ」と言われたのです。

ここで言う「清くされる」とは、単に見かけが綺麗になるとか、
道徳的に正しいものとされるだけではなく、
「神のものとして受け入れられる」という意味を持っています。
彼はこの瞬間、主のものとされました。
この喜びは、いかばかりだったでしょうか。

今日の福音書の語る、その喜びに私達自身も思いをはせたいものです。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.2.12 週報より》

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