ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

お蕎麦屋さん

2006年06月27日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
礼拝後に、みなさんと日光市(旧:今市市)JR文挾駅の近くにある
お蕎麦屋さんへ行ってきました。



例幣使街道からちょっと奥に入った静かな林の中に、そのお店はありました。
さすが、蕎麦処今市だけあって、おいしいお蕎麦をいただけました。



お店の周りの木々や草花が気持良かったです。

聖霊降臨後 第3主日

2006年06月26日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書4:35-41)の物語を
あらためて考えてみると、あることに気がつきます。

この出来事の発端は、イエス様が作ったのではないかということです。
イエス様が「向こう岸に渡ろう」などと言いださなければ、
このような事態にならなかったのではないかということです。
弟子にしてみれば、イエス様が「行こう」といったからついてきたのに、
その自分たちが大変な目に遭っているときに眠っているとは、
どういうことなのでしょうか。
弟子たちがイエスに詰め寄るのも当然であると言えます。

私たちも人生の困難にぶつかったときに同じような言葉を発しはしないでしょうか。
なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
いっそのこと生まれない方がよかった。
親に対して「生んでくれと言った覚えはない。」
そんな言葉を投げつけたことがある方もあるでしょう。

ここに、今日の福音書で私たちが見落としてはならない点があるのです。
イエス様の「向こう岸に渡ろう」という言葉によって、全てが始まりました。
私たちの人生の始まりもまた、創造者である神様によってもたらされています。
神様は、私たちをこの世という海原へ押し出され、
気付いたときには、すでに水面を漂う小舟の中です。
そこには、時には突風が吹き、時には波荒れるところです。
しかし、本当に大切なことは、すべて神様が主導権をもって
なされた結果の中にある、ということに気付くことです。
すなわち、すべてのイニシアティブは神様にあるということです。

恐れや不安は確かに避け難く、私たちに訪れます。
しかし、神様はそれらを私たちと共に負ってくださる方なのです。
そして、そこには神にこそ全てのイニシアティブを求めることが出来る
という事実が見えてきます。
イエス様もまた、「向こう岸に渡ろう」と言って、
私たちと一緒に小舟の中に乗り込んでくださるのです。
私たちは、ただ、その言葉に大いなる安らぎを感じ、
嵐をも鎮めるイエス様に「いったい、この方はどなたなのだろう」と、
驚きをもって、ただ、イエス・キリストの声に従う者でありたいと願います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.6.25週報より》

聖霊降臨後 第2主日

2006年06月19日 | ショートメッセージ
今日のテキスト(マルコによる福音書4:26-34)は短いたとえ話ですが、
「神の国」のたとえの一つです。
ここでは、「神の国」をからし種の様なものとして、たとえを語っています。

皆さんは、からし種というものを見たことがあるでしょうか。
大きさとしては、あんぱんなどにトッピングされている芥子粒などよりも
更にちいさいというから、とても小さなものだということができるでしょう。

今日の聖書箇所では、これを小さいもの、
地上のどんな種より小さいものの例としてあげています。
これは、物質的に小さいという意味でしょう。
しかし、本当に目には見えないものが
私たちの生活に大きな影響を及ぼすものもあるのではないでしょうか。
たとえば、ほんの些細な悪口や態度でも
私たちに大きな影響を与えるものもあるのです。

聖書は、これと逆のことを言っています。
からし種のような小さなものがこんなに大きなよい働きをする。
そんな小さなこと――それは、一瞬の微笑かもしれないし、
何気ないひと言かもしれません。
そうした小さなことが良い影響をも
私たちに、もたらしてくれるのではないでしょうか。

私たちは、小さなもの、些細なことのような何かが、
実は大切なことであるという経験をすることがあります。
そうした小さなこととの関わりの中で癒されたりすることは、
とても素敵な体験だと思います。
小さなからし種が大きくなってその枝に鳥が休むように、
日々の暮らしの中で出来る小さな何かによって
人が安らぎを得られるとすれば、
それは、聖書に出てくるからし種のような存在として、
われわれが生きることを意味しているのではないでしょうか。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.6.18 週報より》

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日

2006年06月13日 | ショートメッセージ
今日は、三位一体主日ですが、この三位一体という概念については
昔から多くの人が頭を悩ませてきました。
父なる神、み子なる神、聖霊なる神がおられ、
なおかつ、神は三人おられる訳ではでく、唯一の神である。
一見なぞなぞのように聞えますけれども、私たちキリスト者はこの唯一にして、
三位の神を三位一体において崇め礼拝いたします。

三つで一つ、一つで三つ。
論理的にこれは、私たちの理解を超えています。
これを私たちはどのように理解してゆけばよいのでしょうか。

あるカトリック新婦は公教要理(受洗準備会)の中で、
必ず「三位一体について説明しなさい。」という試験をするそうです。
そして、洗礼志願者が「分かりません。」
と、答えると「正解」とするとのことでした。
人間には分からない神の神秘を私たちの頭で分かり切ろうとすること自体、
誤った態度であるということなのでしょうか。

最近、『本の広場』という無料の雑誌で、マクグラスの翻訳もされている、
本田峰子さんという方(二松学舎大学教授)が
C.S.ルイスの『奇跡』という本との出会いを語っておられました。

本多さんは、
「ここには、キリスト教の超自然的奇跡の教義を信じることの合理性が、
人間の理性の超自然性からの理論的推論と想像力を用いた譬(たと)えとで
簡明かつ印象的に示してありました。」と、書いておられます。

ルイスは、三位一体を立法的に例えて説明しているそうです。
立方体は、二次元では六つの正方形でありながら、
三次元のレベルではひとつの立方体である。
それと同様、三次元では、神は三つの位格《父と子と聖霊》だが、
より高次の神の実在のレベルでは、
三位でありながらなお一体であっても不思議はない。

本多さんは続けます。
「この推論は、三つならば一つではありえないという論理が、
実は平面図形的思考に過ぎないことを示し、人間の思考の限界を実感させ、
神の秘義に対する私の知的抵抗を取り除いたのです。」

これを読みまして、私は、C.S.ルイスを通して、
私たちの限界を見極めた上で、神を「お慕い」する「知解を求める信仰」
(カンタベリーのアンセルムス)を見たような気がいたします。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.6.11週報より》

聖霊降臨日

2006年06月05日 | ショートメッセージ
今日は、キリスト教会にとっての三大祝祭日のひとつである
聖霊降臨日〔ペンテコステ〕です。
クリスマスやイースターと比べるとあまり馴染みのない主日ですが、
見方によればクリスマスもイースターも
この聖霊降臨日の出来事があってはじめてその恵みの現実化があった
ということもできるのではないでしょうか。

神の御子であるイエス・キリストの御降誕を記念するクリスマスは、
御子が私たちのために十字架の詩を引き受けてください、
その3日後にご復活をされたことで「罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じます」と
使徒信教において告白される救いの御業をなされたことを私たちはお祝いします。

そして、イースターにおいては、キリストの十字架の死と復活を記念し、
降臨された聖霊なる神様のお働きによって、
キリストとその福音の真理が悟られることができたという、
恵みの出来事に結びついて行きます。

また、聖霊とは、キリストを証して
私たちにキリストとその福音の真理を悟らせてくださいました。
そして、そのことをわたしたち自信によって
他者に証しする力を与えてくれたのが聖霊降臨の出来事です。

こうして、キリストの救いという福音の御恵みが
全世界に広まってゆくことになりました。
そこから、私たちキリスト者の教会(エクレシア=召しだされた者たち)の
働きが始まったのです。
それが、聖霊降臨日が教会の誕生日とも言われる所以です。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.6.4週報より》



結婚式

2006年06月05日 | 日光真光教会

今日の結婚式で使われたリングピローは、
新婦のご友人が心を込めて作った超大作です。
お手伝いの私たちもあまりの可愛さにビックリでした。

「あなたがいてくれるだけでよい。」と、いう今日のおふたり。

金山執事は、
「見返りを求めない愛を持ち続けられるように、
みなさんでふたりの愛を見守ってください。」と語られました。

末永くお幸せに♪