店長スペシャル

人生は心に想い描いた通りになる。ゴールデンルールの道。

ダイイング・アイ

2010-07-29 12:14:42 | Weblog
『ダイイング・アイ』 東野圭吾著


人が死ぬ直前に見る最後の映像が、人間の目に記憶されているとしたら殺人や事故など多くの事件の解決につながってゆくだろう。
かつて「死体は語る」の著者である、上野正彦は徹底的に調査したらしいが、瞳には何も残らなくまたそういった機能もないみたいです。
まぁあたり前の話だけど…。

まず冒頭から生々しい。
人が生から死へ離脱する瞬間を時間をかけて描く。

車両が胴体にめりこみ、パンパーは彼女の身体を潰し、背骨と腰の骨がボキリ、ボキリと順番に折れてゆく。自分は今死につつあるのだと。
ここから走馬灯が始まる。彼女の思考回路は殆ど停止し、頭脳は最後の映像を見せるためだけに機能しているように思われる。内臓が完全に潰され、腹の筋肉が背中と密着しそうになる。トマトを潰したように破れた皮膚から肉や壊れた内臓が飛び出し血は噴き出ていた。
いよいよすべてが終わるのだと自覚した彼女は、死に続けなければならない人生を最後に目に映った人間の「目」になる覚悟をする。

岸中美菜絵が瑠璃子に乗り移ってまで生き続けたかった理由は明確にされていない。美菜絵が現在どのような生活を送り、過去にはどのような環境で育ったのか、そしてこの先どのような夢や希望があるのか、が描かれておらず、当初はここで人生を終わらせたくないというやりきれない後悔が伝わらなかった。

だが著者が言いたいのは、どんな人でも理不尽な理由で死ぬことは絶対にありえないということ。そして事故を起こした加害者の罪の意識は相当低く、まるで被害者のようなつもりでることに対しての怒りも当然ある。
まさにこれからという、一度しかない人生において、たかが交通事故とかたづけられるのはまったくをもって理不尽だ。
そしてこの世を生きている全ての人々に、無駄な人生なんてないのだと瑠璃子から教わった気がする。慎介が事故後二度と運転をしていないという罪の意識にももちろん救わる。

被害者の親族に襲撃された記憶を一部喪失した雨村慎介は、自分が交通事故を起こした過去を知らされる。
そんな重要なことを忘れてしまったのか分からず、事故の状況を調べる慎介だが、以前の自分が何を考えて行動していたのか、まったく思い出せない。
すっきりしない気持ちを自己満足させる為に行動するのだがその後関係者が徐々に怪しい動きを見せ始め真実にたどり着く。


誰もが少しずつ嘘をつき、
誰かを陥れようとしている。


文章もうまく非常に読みやすい。
心残りは、江島が慎介に復讐することよりも成美のその後が知りたかった。


ドロップ

2010-07-22 17:22:28 | Weblog
『ドロップ』  品川ヒロシ著


ゲッツ板谷の「ヤルボロ」や「メタボロ」を読んだことのある人には本書がいかにつまらないかわかるだろう。
こういう青春不良小説は、もはや実話でないと説得力がない。

著者は僕の一つ年下なので、時代背景はピタリとハマっているので懐かしく読めたのだが、ストーリーは軽過ぎて嘘くさい。

転校生の主人公が、ナメられないようにケンカをし根性をみせる。
学校をサボり、毎日バカ騒ぎをして他校とのケンカに明けくれる。
先生の呼び出し、警察からの呼び出し。
ワルの王道を走る少年たちの姿は、ひょっとしたら著者のただの“憧れ”にすぎないのだろうと、推測してはページをめくるのが億劫になる。

主人公の少年の姉の彼氏、ヒデ君が職場で事故に遭い、意識不明の重体に陥るシーンは少し泣けてきた。この部分がなければ著者の本は売れなかったかもしれない。

水風船にウンコを入れて交番に投げ込むイタズラ。
カラスを捕まえて体育教師の車の中に入れようと考えるバカ中学生。
たしかにユニークなシーンも多いだが、所詮フィックションという先入観が頭から離れないので残念無念…。

物語はこんな感じ。
主人公・ヒロシは小学校の時は教育ママのおかげもあってか成績優秀で偏差値は全国でもトップレベル。中学は私立の全寮制の学校に通っていた。
しかし、中学に入ると親の監視がないのをいいことに全く勉強しなくなり、成績はガタ落ち。
さらには『ビーバップ・ハイ・スクール』『湘南爆走族』などの漫画の影響で不良になってしまい、本人いわく「不良なら私立ではなく、公立だ」という馬鹿な理由で転校することに。
その転校先の中学で達也、森木、ワン公、ルパンという不良グループに出会い、他校と対立してゆく…。


ゲッツ板谷のパクリだと思われてもしかたないだろうな。

悪人

2010-07-20 11:34:40 | Weblog
『悪人』 吉田修一著


本書にタイトルのような人間は一人も存在しない。
むしろ登場人物全ての人々が被害者に思えてしまう。

「悪人」と聞くと、本当に悪いことばかりしている人よりも、たまたま魔の差した人をイメージしてしまう。
ついうっかり悪いことに手を染めてしまった人。
そのような人は、意外に真面目であり不器用な人の気がしてならない。
周囲の人に「あいつ悪い奴だな」「彼こそ悪人だ」と言われること自体、良くも悪くも自分より上にいる人たち。
悪人にあこがれている凡人セリフ。


まず、舞台がいい。
東京や大阪みたいな大都市ではなく、長崎と佐賀で暮らす若者だからこそ、生々しい。
出会い系サイトで見知らぬ誰かと知り合いたい、という切実な孤独感が伝わってくる。
九州の方言は少々読みづらいがしかたない。
地方独特の空気感があり、都会に憧れている、大人びいた若者の反発心、コンプレックスが読み手を熱くさせる。

殺される佳乃も、光代も、僕たちの周りにいそうな人物ばかり。
そんな普通の人たちが、殺されて殺人者との逃避行を行うことになる。
一見、突飛な設定であるが、違和感なく現実味に近く描かれているのは圧巻。

一方で殺人犯の祐一については、あえてその心情描写は行わず、「何を考えているのか分からない」人物として客観視点で描かれている。
これがラストで非常な効果を挙げている。
ラストの一言は、見事に作品全体を貫いている。

なぜ、もっと早くに出会わなかったのだろう。
携帯サイトで知り合った女性を殺害した一人の男。
再び彼は別の女性と共に逃避行に及ぶ。
二人は互いの姿に何を見たのか?
残された家族や友人たちの思い、そして、揺れ動く二人の純愛劇。
一つの事件の背景にある、様々な関係者たちの感情を静謐な筆致で描いた渾身の傑作長編。








慟哭

2010-07-17 18:43:24 | Weblog
『慟哭』  貫井徳郎著


見事なトリックに思わず引っ掛かりました。
こういうのを本格ミステリーというのだろうな。

本書が著者のデビュー作ならば、ミステリー作家を目指している人は落胆するに違いない。
この時空を超えたトリックが見え始めた僕は、今までの思考が少しづつ崩れ始め、ラストに巨大な山に大きな隕石が激しくぶつかったような衝撃に陥ってしまった。


連続する幼女誘拐事件の捜査は行きづまり、捜査一課長は世論と警察内部の批判をうけて懊悩する。
異例の昇進をした若手キャリアの課長をめぐり、警察内に不協和音が漂う一方、マスコミは彼の私生活に関心をよせる。
こうした緊張下で事態は新しい方向へ。
幼女殺人や怪しげな宗教の生態、現代の家族を題材に、人間の内奥の痛切な叫びを、鮮やかな構成と筆力で描破した本格長編。

この作品は、二つのストーリーが、並行して交互に語られつつ進行する。
この二つのストーリーは、最終的にはひとつに収束していくと予想されるのだが…。
これ以上は言えません。
衝撃トリックがばれてしますから。


最近は、ベストセラー小説を以前より以上に映画化する傾向がある。
本書も著者の才覚もあり、話題にも大きく報じられたわりには映像化されていない。
それは、読んでみるとその理由がわかるのだ。

「ハッハッハッハ!」
この小説のトリックを映像で表現するのは不可能なのであります。


再読は決してできないと思います。
でも宗教や黒魔術に興味ある人は何回読んでもいいかも。

介護入門

2010-07-16 18:07:08 | Weblog

『介護入門』  モブ・ノリオ著


子が親の介護をするのは人も国もない、と本書にある。
はたしてそうだろうか?
欧米では子供に面倒をみてもらうくらいなら、死を選ぶ老人がたくさんいるらしい。
国民性の違いもあるし、そもそも介護なんて先進国しかできないだろうに。
フィリピンやアフリカなどの貧しい国の人々が、他人の介護(親だけど)なんする余裕ないはず。
日本にも昔は“婆捨て山”があったぐらいなのだから。

本書は介護というものの本質をきちんと付いているように思う。
僕も祖母の介護を少しだけだが看てきたので、著者と共感できる部分は大変多かった。
そして、介護というものに対する新しい捉え方、感じ方を著者から学んだ気がする。

文章は少々ややこしく読みづらい。
ラップ文調とでもいうべきこの文体は、基本的に好きになれないな。
重いテーマを軽い口調で進める著者の意図は理解できるが、大麻を吸いながら祖母を看るという設定はかなりの非現実。


内容はこんな感じです。
「この家にいて祖母に向き合う時だけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ」
下半身不随となった祖母の自宅介護を日々続ける、三十前の無職で金髪の“俺”。
親切面した親族、役に立たないヘルパーに苛立ちながら、大麻を吸い込む。
それでも俺にしかできない精一杯の愛情を、祖母には注いでいる。
道義や美徳だけでは語れないリアルな介護風景と、独特の饒舌な文体が高い評価を集め、文學界新人賞に続き、正真正銘の処女作で芥川賞を射止めた異色の大型新人の話題作。


まぁでもオモシロイ小説です。

ひとり日和

2010-07-15 18:31:08 | Weblog
『ひとり日和』 青山七恵著


文藝春愁に芥川賞作品の掲載された時に読んだから本書は購入していません。
七恵さんごめんなさい、本書のもう一つの物語は読んでいないのです。

まず、第一に感じたことは、いかにも芥川賞の選考委員たちが絶賛しそうな作品だということ。

平凡な日常を鋭い感性で切り取り、卓越した表現力で生き生きと描き出しているから確かに絶賛もの。才能の煌きに溢れた、優れて文学的な作家である。

しかし、その作品を通して伝わってくるものといえば、だるく生きている人間のだるい日常だけなのだ。
このとても緩くてだるい時間を退屈だと感じてしまう読手には、くだらない時間を過ごすことになるだろうが、僕はこの瞬間が好きでたまらない。

忙しい毎日の中で“ゆったりと過ごすこと”とは人それぞれ違うだろう。
書物を読むという過程で、内容もゆったり、であることがこんなにも精神を楽にさせるのであれば、この上ない極上の悦び、他ならない。

主人公の心を満たす、殺伐としたつまらなさを周囲の世界は、彼女にとって実体を持ったものとして迫ってはこない。
まるで影絵のようにうっすらとした形で存在している。

ただ、心底リラックスしておもしろく読めるのだけれど、あとには何も残らない。
大きな綿アメのような雲の中に大切なあるものが隠されている。
そのあるものを追究している人の話には説得力がある。
それが自分には理解できない世界のことであっても、いつの間にか聞き入っている。
それは語り手の熱意とか姿勢が伝わってくるから胸が熱くなり後にも残る。

だが、この作品には雲の中のあるものがない。
あるものがないからイイ。
ふわっとしてモヤモヤした形にならない、そして手にとることができないものが“あるもの”なのだろう。

以下内容です。
母親の転勤で知寿は、遠い親戚にあたるモダンな老婆、吟子が一人で暮らす東京・笹塚の一軒家に居候することになる。表面的には、年の差が五十歳近くある彼女らの波風のたたない、穏やかでのほほんとした暮らしながらも、所詮二人は女と女。恋愛と生きることそのものが上手くいかない知寿の内面では、常に変わらず安定しているように見える吟子とその恋愛に対する、苛立ちと羨望がない交ぜになった感情が次第に膨張していく物語。


PS. 風景描写は絶妙にウマイいね。
鈍行列車から眺める淡々とした風景を、時には同じように見えるであろう風景をとても美しい言葉で表現してくれている。
頭にもすんなりイメージが湧くので、読み心地がいい、とはまさにこのこと。

SOSの猿

2010-07-15 17:43:36 | Weblog
『SOSの猿』 伊坂幸太郎著


体毛をちぎって手のひらにのせる。“フッ”と息を吐くと分身が現れる。
憧れた西遊記の孫悟空。子供の頃、よくマネしていたっけ。


本作は、漫画家・五十嵐大介氏と共同で構想した世界を、それぞれ独自に小説とコミックの二つの表現方法で響作した初の試みである。


いや~ぁ、なんとも不可解な物語です。
後半までダラダラどうでもいい話が続き「なんなんだ、これは?」みたいな内容不明だらけ。
でも著者のことだから、きっと衝撃的な展開があると期待して読み進めていたが、しっかりと裏切られてがっかりです…。

今までの著者の作品とはまったく異なるこの作品を、よく読売新聞夕刊で連載できたと思う。
連載には絶対むかない。

唯一の心のよりどころは“ミスター因果関係”。
物事の原因をつきとめることは興味深くオモシロイ。

主人公に相当する二名の人物が登場する。
一人は、他人の苦しみや悲しみを知ると、あたかもSOSを受信したかのように助けに向かわずにはいられない、といった切実な心性の持ち主。
もう一人は、ひたすらクールかつ論理的にものごとを捉える人物。
この二名に加え、西遊記に登場した猿が重要な役目を果たす。
いや、その猿は物語を統べる神に近い存在かもしれない。
これら三名を進行役に、読者は因果関係と救済にまつわる物語を味わうことになる。
それは前代未聞の不可思議な冒険であり、しかしどこか心の温まる体験でもある。

著者の作品としては珍しく、途中で何度も読むのを断念しようかと思った。
「私の話」と「猿の話」がそれぞれに交互に展開されるのだが、どちらも中途半端な内容が目立つ。
そして、なんとか最後に話を合わせ繋いだような印象。

五十嵐真が因果関係を探求する話では、結局株の損失の根本原因は、よく解明されないままだったし、遠藤二郎の悪魔祓いの話では、特に何かを解決したわけでもないのに気がついたら原因が解決していたり、エクソシストをもってくるほどの説得力事実もない。

いつものセンスある会話・理屈は健在だが、文体も少し平素になってきたことも残念。


しかしながら、共感できる部分もたくさんあった。
僕の大好きな、寝ている時に見る夢。

夢は無意識が創り出したもの。
その無意識の物語を目の覚めた状態で完璧に説明することは、基本的にできない。
なぜなら、無意識を捕まえようとする時点で、意識は「無」ではなくなっているから。

素晴らしいことではないですか?
無意識をもっと考えたくなる今日この頃。
考える時点で無意識ではなくなるのだけどね。


PS. ロスト・シンボルの著者、ダン・ブラウンも小説を書く時間は午前五時かららしい。
朝起きてすぐに物書きを始める。
潜在意識が十分発揮できる時間帯。




七人の証人

2010-07-12 12:51:47 | Weblog
『七人の証人』  西村京太郎著


中学二年の時に初めてこの本を読んだ。
著者の作品にハマり込んでいったのもちょうどこの時期。
最近の作品こそ読む機会も少なくなったが、今でもこの作品がダントツに素晴らしいと思う。
たしか1977年頃に初版されたが今読んでも何の違和感もなく、むしろ現代の裁判員制度を予言していたかのような味わい深い作品。

昔の映画「十二人の怒れる男」の日本ミステリー系だね。
もちろんこの映画も読後知ったのだけど。


警視庁捜査一課の十津川警部は、帰宅途中何者かに襲われ、不覚にも誘拐されてしまう。
気がついた時には奇妙な無人島にいた。
そこにはある町の一部分がそっくり再現されていて、無人島内の建物からは次々と人間が現れる。
彼らの共通点は、みな一年前に起こったある殺人事件の目撃者であり、法廷で証言していたことだった。
そして、十津川らを誘拐した一人の老人が現れる。
その老人の息子は、「一年前のある事件」の容疑者として実刑判決を受け、服役中に病死していた。
老人の目的は、目撃者の証言の信憑性を自らの手で確かめることであった。
ある町の一部分は、事件の犯行現場周辺であり、それを無人島に作り上げ、証人達の証言をその町で検証し直すことが父親の狙いだった。
そして事実が浮き彫りになるにつれ、証人が次々と殺害されてゆく。
犯人は息子の復讐を狙う父親なのか? それとも他の証人の中にいるのか?
その場合動機はどこにあるのか?
十津川は七人の証人達の人物像と証言を検討し、解決の大きなヒントを掴む。


先日ブック・オフに行った時に、本書がなにげなく見にとまった。
懐かしい思いから手を伸ばし購入した。
中学生時代に友達に貸して帰ってこなかった一冊。
“今もう一度読め”とメッセージが発信している気がした一冊。


PS.著者は未だに原稿手書きなんだって。スゴイよねぇ!

眼からウロコが落ちる本

2010-07-10 18:23:28 | Weblog
『眼からウロコが落ちる本』  笠巻勝利著


本書も人生に多大な影響を与えてくれた一冊。
ボロボロになるほど読み返した本だけど、十五年前に親父が入院した時に病院へ持っていってから、看護婦や介護士が読み回して結局何処かにいってしまった。

でも本書を読んだ人は“人生が変った”などと親父に言っていたらしい。
それほどの一冊。
現在では購入できないみたいだけど、ブック・オフなどでたまに見かけます。


仕事や人間関係に行き詰まったとき、「どうしてうまく行かないんだろう」「どうせ自分はダメなんだ」などと悩むのはよくあることだ。
でも少し視点を変えてみよう。
地球上には六十億もの人間が生活している。
みんなに自分の悩みを話してみたら、きっと誰ひとり関心をもたないだろう。そんな小さなことでクヨクヨしても人生もったいないですよ??
本書は、こうしたちょっとした言葉を手がかりに、迷える心に発想転換をうながす名言とエピソードの宝庫である。

「一日はトランクのようなもの。何気なくつめていると、いちばん大切なものが入らない」
「人間が感じる『恐れ』のうち、40%がぜったい起きないこと」
「苦しいから逃げるのでなく、逃げるから苦しくなる」
など、とらわれた考えを脱ぎ捨て、新たな気持ちで日々を生きるためのヒントが随所に散りばめられている。

朝礼や営業トークのネタにも使える、眼からウロコが落ちる耳よりな話が満載された本。


先入観は絶対ダメ。
固定概念をいかに捨てられるか、それが人生の勝負だ。

感情を出したほうが好かれる

2010-07-09 16:16:54 | Weblog
『感情を出したほうが好かれる』 加藤諦三著


何回本書を読み返したことだろう。
壁にぶつかるたびに読んではリラックスできる一冊。

心理学者の著者は多作品出版しているが僕は本書から読み始めた。
人間の内面を打ち破る内容なので感想もへったくれもない。
気持ちを落ち着かせ新たな自分を見つけ出すにはもってこいだ。


自分を出すということは「リラックスする」ということである。
自分を出すというと何か衝動的になることと思い違いをしている人がいる。
たしかにこういう人は多い。
自分を出すということは「無理をしない」ということである。
相手に好かれようと思って何か特別なことをしないということである。
相手の好意を期待して行動するとき人は自分を隠す。
そこにストレスも生じる。

人の成功をねたましく思う人間は血の出るような努力をしても幸せにはなれない。
カーネギーをして鉄鋼王にたらしめたのは、自分より優秀な人が自分の周囲にいることを喜んだ、彼のその懐の深さなのである。

うつ病患者は治療中は礼儀正しい望ましい患者であるが、治療が終わると外であっても知らん顔の他人になる。
思想とか宗教とか何でもいいから傷つくことから自分を守るものを見つけて、それによって生きていこうとする人もいる。
これもまた修羅場から逃げたのである。
寛大にふるまうことによって、その同胞から無理にも賞賛を勝ち得ようとする人が少なくない。
けれどもそれはめったに成功しない。

暗い顔をして「私さえ我慢すれば」と言っている母親は日本に多い。
しかしその我慢こそ家族を不幸にしているかもしれないということを、母親たちは考えたことはないようである。

彼は身を粉にして働いて家に帰ってきた。「使い古しの荷物みたいに空っぽになって、家族に金を持ち帰ろう」としたのである。
そのような態度を、利己主義の骨頂だとシーベリーは言う。
彼の態度は、一見博愛主義に見える。 
しかし、実は自分の意思を相手に押し付けるだけの、利己主義の骨頂だとシーベリーは言うのである。

実際の自分より自分がすぐれていると思われようと努力すればどうなるか。
いつも無理していなければならない。
いつも気を張っていなければならない。
そして何よりも自分が本当に欲しいものは何かということがわからなくなってくる。

ひと口に言ってうまくいかないケースは、子供との心のふれあいがないのである。
「子供のためにこれだけのことをした」と言う親のいうことは、皆「かたち」である。
「こころ」がない。

私たちは勤勉、善良、真面目、頑張る等のことに価値を置きすぎる。
「逃げない勇気」がなければ、そんなものはときに百害あって一利なしということさえある。


まぁこんな感じです。
きっとあなたにもピッタリな一冊と言えるでしょう。


PS. 著者の名前“諦三”たいぞう、と読むのだけど本名なのかな?
  三回諦めるから何かが…、みたいな深いものを感じるのだけど。