店長スペシャル

人生は心に想い描いた通りになる。ゴールデンルールの道。

2009-03-30 18:48:14 | Weblog
『光』 三浦しをん著

重厚なミステリー小説だ。これまでの爽やかな作品とは違い新たな著者を見た気がした。

天災ですべてを失った中学生の信之。共に生き残った幼なじみの美花を救うため、彼はある行動をとる。二十年後過去を封印して暮らす信之の前に、もう一人の生き残り・輔が姿を現す。あの秘密の記憶から、今、新たな黒い影が生まれようとしていた…。

小さな島から端を発した事件が20年の歳月を経て新たな不幸と愛憎を生む、でもそこに存在するのは、ドロドロの悪意ではなく冷たく澄みきった邪悪さ。

もやもやしたものをもやもやしたまま投げかけてくるから、後味が悪いが、気持ちは悪くならない。暴力的で怖さを感じるのに、どこか清涼感があるのがたまらなく好き。
なんか、キツめの炭酸水を呑んだイメージ。独特の文体のせいかもしれない。

登場人物については少しながらの不満が残る。

女優になるほどの美形なはずの美花は少しも想像できない。美花のためなら冷酷になれる信之の秘密に隠された性格も同様。輔はただ気持ち悪いだけ(子供の時も大人になった時も)。でも信之の妻、南海子はこの作品の主人公といっても過言ではないぐらい想像できた。世間で一番この手の主婦が多いからだろう。

怖いのは、南海子の視点から見た夫と家族の描写。
島の記憶をすべて封印し、穏やかな家庭を持ったようにみえる信之が心に抱える闇。わからないながらもそれを感じ取って脅え、でもなにもできずに漠然とした不安を抱えて生きている南海子。彼女の苛立ちや恐怖が手に取るように伝わってきて、心底怖いと思った。幼い娘にあたってしまうところなどは本当にリアルで、誰にでもあり得ることのような気がしてゾッとする。

著者は「夫婦」という単位を基本的に居心地の悪いもの、気味の悪いものと感じているような気がする。擬似家族、「家族的なもの」に向けるまなざしは優しいのに、いわゆる「普通の家族」に対してすごく突き放した感じがある。それと、人間は基本的にわかりあえないものだという所を常に出発点にしている感じもある。

ちょっと前の桐野夏生小説に似ているなぁ。
でもこの作品でまた、いろいろなことが気づかされたのでそれで良し。




祖母のゆんたく (パート6)

2009-03-24 18:52:14 | Weblog
たまの日曜日。父は僕ら兄弟と一緒に錦糸町につれて行ってくれる。
父の唯一の趣味である競馬だ。父が競馬を楽しんでいる時に、僕らはゲームセンターで好きなだけゲームができる。今と違い気軽にゲームなどできない時代だから、単純にうれしかった。
当時錦糸町は都会も都会。ゲームだけではなく、映画館やボーリング等、なんでもある最高の場所。小岩でさえも興奮するのに、錦糸町は華やかな異国の地みたいにさえ感じられた。

とある日曜日の朝、母は、兄と弟を連れて、母の経営する美容室に行くことになった。
なんで僕だけ連れて行ってもらえないのか?とたずねると、母は父と錦糸町に行きなさい、という。兄弟三人でいつも行っていたはずなのに、なんで今日にかぎって。不思議でならなかった。そこで祖母も後押しをする。
「今日はパパと二人で行きなさい」微笑んでいる瞳の奥の眼光から微妙な雰囲気を瞬時に読み取った。“従わないといけない”って。しかたなく了承し、三人を見送った。

兄や弟もいない錦糸町。どこか不安で胸騒ぎがした。でもその不安は、電車に乗るとすぐに解消され“またゲームができる”と思うとやはりうれしかった。

錦糸町駅に着くと、父はこうきり出した。「すぐに帰ってくるから、ゲームセンターに行ってなさい」僕は、千円札を握りしめゲームセンターに走ってゆくと、気分は爽快になった。
だが、1時間もするとお金も底をつき、次第に不安が募ってくる。父はいつ戻ってくるのだろう?早く戻ってきてほしい。そう思うとますます不安になり、お腹が痛くなってきた。目の前にいる僕より三つ四つ位の子たちが嫌な目をしてこっちをみている。前回兄とカツアゲにあったやつかもしれない、そう考えると、恐怖心で一杯になる。助けてくれー!

すると、後ろから声が聞こえてきた。「おーい!よしろう~」僕を呼ぶ父の声だ。
悪を助けにやってきた主人公の声は、僕をどん底から救い上げる。
だが、父は一人ではなかった。そばに見たこともない女性がいる。黒いワンピースを着て、スラッとしたやや細身の長身の女性。腰まである長い黒髪がより彼女の身長を高くみせる。服装とは反比例した顔は、化粧が濃く、笑うと眉、目、口が横に一本線を引いたような、全盛期の浅野温子似。
父より早く僕の前に現れた女性は、「いま、いくつ?ゲーム好きなん?」

テレビで見る漫才師のような話し方をするその女性は、子供心にきれいな人だと思った。左手で顔全体をかくすように髪をかき上げるたび、いい匂いがしてきた。でも、いったいだれなのだろう? 父は簡単に僕を紹介すると、彼女は100円玉を差しだし、また会おうね、といって去っていった。父も僕もその女性が遠くに映るまでしばらく見ていた。

100円玉をくれるその女性の手は冷たく、ひんやりとした感触が今でも残っている。
帰り道、あの女性のことは父に問いただしてはいけない、何もみていない、それだけが暗黙のルールのように感じていたのを覚えている。

あれだけ欲しかった100円が何か別の貨幣のような気がして、見知らぬ人からお金をもらったことや、ほんの少し母に対しての罪悪感やらで、この100円だけは誰にも見せられない、すなわち使うこともできないお金のように感じられ、自分の机の引出しの一番奥、もう遊ばなくなった、筋ケシの箱の奥にしまっておいた。

夕方母と、兄、弟が帰宅した。夕飯になり、父はいつものように母や祖母に接しているが僕は穏やかではなかった。とにかくビクビクしていた。あの100円が見つかってしまうのではないのかという恐怖に怯え、そして、その100円から繋がってゆく、父しか知らない女性へと…。

父は僕をゲームセンターに置いてどこに行っていたのだろう?あの女性はいったい誰なのだろう?小学生低学年の頃、恐怖心と大疑問でストレスたまったなぁ。胃に穴も開いたかもしれない。置き去りにされた約2時間。水商売の女性との昼下がりの情事なのか?今考えると祖母は知っていたんだな。すべて全部…。親公認の浮気ってどうしようもないよな。でもなぜ僕だけ連れて行ったのだったのだろう?

そしてあの100円玉はどこにあるのだろう?      つづく…

2009-03-23 18:30:27 | Weblog
『恋』小池真理子著
本当に素晴らしかった。小池真理子の作品の中でもダントツの気がする。

連合赤軍が浅間山荘事件を起こし、日本国中を震撼させた1972年冬。当時学生だった矢野布美子は、大学助教授の片瀬信太郎と妻の雛子の優雅で奔放な魅力に心奪われ、彼ら二人との倒錯した恋にのめりこんでいた。だが幸福な三角関係も崩壊する時が訪れ、嫉妬と激情の果てに恐るべき事件が起こる。背景にある、香りたつ官能、美しき異端、乾いた虚無感の全てを見事に描いている。

この作品の中には著者にしか描けない独特な女の恋がある。
そしてその恋がとてもリアルに感じたのは、恋愛絡みで女性が事件を起こす時には、布美子のような心理状態を想像できるからだ。客観的にみると片瀬夫妻の関係はとても歪で、当初は布美子にとってもかなり不誠実なものとして映っている。しかしながらその関係に一歩足を踏み込んだとたんに、その関係にしかありえない高潔さが感じられ、本文に記載してある以下の事柄が理解できるのだろう。

『雛子が大久保に一途に求めていたのは、彼の肉体ではなく、精神!目に見えないもの。形にないもの。そのくせ変幻自在で、まとまりつかないもの。肉体に比べて、常に高尚な役回りを担っているもの……そんなものだけを求めるなど、不潔な行為としか思えなかった。汚らわしかった。貪欲に肉体を求め、快感を求め、性に溺れていく人間のほうが、遥かに清潔だ、と私は思った。
信太郎以外に、千人の男を相手にし、嬉々としている雛子は聖女だった。だが、たった一人の男に魂をまるごと預けようとする雛子は淫売も同然だった』

でも僕にはこの恋愛は、理解はできるけど、最後まで賛同はできなかったな。

布美子は、闘争家だった唐木との恋愛と潜在的に比較することもあったが、やがて布美子にとっての理想の恋愛の形になっていき、「恋に恋する」気持ちがさらに美しさを膨張させていく。その美しさを破壊しようと現れたものに対して牙をむいたことが射殺事件へとつながっていったのだろう。そんな布美子の心理状態が細部まで描かれていてリアルに訴えてくる。22才の彼女が必死で守りたかったもの。守らなければならなかったもの。それはいったい何だろう…。

まだ少女の心が残る女性が結果的に得たものは非常に悲しいが、とてつもなく美しい。布美子の記憶で語られるが、片瀬夫妻が主人公といってもよい。特に雛子って名前がいいな。この小説の読後の印象は、例えば、退廃的な小説を読んだ後に陥る、どこか気分が滅入るようなものとは違い、奇妙に爽やかな感じ。

この小説において、他者の声が響くのは、彼らの前に唐突に現れた青年、悪
魔のような青年の出現以降だ。主要登場人物のなかで、彼だけが、3人の生活が形作る世界とは全く異質の世界を持っている。この小池真理子『恋』がとても見事な小説だと思えるのは、描かれている物語より以上に、このような異質の他者を出現させ得たことにもあると思う。

時間を置いて再読したい。自分自身のためにも…。


エリカ

2009-03-17 11:26:20 | Weblog
『エリカ』 小池真理子著
小池真理子の作品は極端すぎると思う。差がありすぎる。

この作品はあまり良く感じられなかった。いまいち主人公に入りこめなかったのはやはり不倫相手である男があまりにもバカな男にしか思えなかったからかもしれない。急逝した親友の告別式の夜に他の女性を飲みに誘う時点でネタバレが匂ったらその通りだったし、この男の会話から頭の低度が丸見えで大人の少女漫画に思えてならない。

まったく興味がない主人公、エリカが次第に彼の罠にはまってゆく姿も軽薄でイメージしづらかった。
ただ、彼と自分を重ね合わせた姿を客観的に見つめる事で、なんとかこの小説を正当化しようと試みた自分自身は少しだけ楽しめたかな。

「高ぶるほど空虚、充たされるほど孤独。現代の愛の不毛に迫る長篇」とあるが、高ぶるほどの空虚は彼女からは感じられず、充たされるほど孤独になるのはむしろ男の方ではないのか?途中からは嫉妬地獄のストーリーになっていて少しながら疲れた。読み手を疲れさせる本は本当に嫌なもの。

唯一、意外性があったのはエリカに想いを寄せるストーカーまがいのハンバーガーショップの青年。この青年がエリカの部屋に盗聴器を仕掛け、問い詰めた場面のエリカは純粋に素敵な女性に映った。もし、この青年が現れなければこの作品がひどいものになっていただろう。

著者の恋愛小説は、軽い恋愛や濃い恋愛、そして重い恋愛と差がありすぎる。

でもそれが魅力なのかな?いや、僕はそう思わない。一つの作品での恋の重さは一定であるべき。その恋を他の人間が絡みつくから異なる気持ちが表現できるのでは。


作中でエリカが「ひとりで白ワインをあけよう」と思いついて作ろうとした料理は美味しそうだったな。カットしたナスとトマトをフライパンで炒め、上にモッツァレラチーズを乗せて蒸し焼きにする「簡単グラタン」。今度僕も作ってみよう。

yom yom 9月号 短編2つ

2009-03-08 18:14:48 | Weblog
『嫉妬の距離』 阿川佐和子著
嫉妬の意味を辞書で調べると、『人の愛情が他に向けられるのを憎むこと。また、その気持ち。特に男女間の感情についていう』とある。やきもちと同じ意味らしい。でもなんだか“嫉妬”という言葉には憎しみが強く感じられる。やきもちよりもより強く。もしも、この世に嫉妬というものが存在しなかったら人生はどんなに楽だろう。しかし、嫉妬がなかったら、どれほど人生は味気ないことにあろうかとも思う。嫉妬されるからかすかな自信を抱き、嫉妬してようやく我が身の愚かさを思い知ることとなる。彼女に嫉妬されるたび、男はまた一枚、お尻の下に薄い座布団が敷かれたような心地よさを覚えるのだろう。男ってわがままな生き物である。年中嫉妬されるのはわずらわしいが、たまに嫉妬されるのは心地よい。彼女との関係が安定しかけるとなぜか他の女性に近づきたい衝動にかられるのは、実際のところ、彼女の嫉妬する顔を見たいという気持ちから始まるのではないか。

『大日本凡人會』 森見登美彦著
登場人物が、数学氏(数学マニアだが難問は自分なりの解釈が過剰で不解答)モザイク氏(AVビデオのモザイクを無修正にし、モザイクを集結させる能力)凹氏(よくわからない能力)ココロ氏(人の心を読み取る能力)そして、無名氏。ふと、星新一の短編を思い出した。奇妙な名前は人物像を生みだすのに困難を極めるがドラマティックで面白い。「大日本凡人會」とは、凡人を目指す非凡人の集いであるという、から始まり、彼らの能力を決して世のために使うまい、と決めている。無名氏が“善行に手を染めた”という事に怒り、彼を善行する道から戻そうと他の4名が説得にあたる。無名氏が世の中の為になることをするということには彼なりの理屈が存在する。無名氏とは“誰からも気づかれない存在”非凡人の集いの場でも参加しているかわからない。超凄いキャラクターなのである。著者の作品は少女漫画みたいなところがあるのであまり好きではないが、この作品を一度TVドラマで見てみたくなった。松本人志のネタっぽいかなぁ。

柔らかな頬

2009-03-03 14:02:48 | Weblog
柔らかな頬 桐野夏生著


こんなに読後感が最悪な小説に出会ったことがない。

初めて読んだ六年前も感じたが、再読してなおそう思った。同時に、こんなに感情をかきむしられるような気持ちになったこともない。“最悪”と言ったが作品は極上である。

愛人のためなら子供を捨てても構わないと思った翌日、五歳の娘が失踪する。そして四年後。本来失踪事件解決が本流であるべきなのに、流れは娘を捜し続けて“漂流”する母カスミの姿と、目前に死期のせまった元刑事内海の生き様。そして事件をきっかけに変化を余儀なくされた関係者へと移ってゆく。
犯人候補は沢山いるのに真実は妄想や夢の中へと流れてゆく。

娘が突然いなくなった戸惑いと悲しみは分かるし、何年たってもピリオドを打つ気になれない気持ちも分かるのだが、いまひとつ感情移入ができない。全体的に霞の中にいるようにボンヤリしてしまう感があるのは、カスミという女性の生き様のせいなのだろう。

自分の力ではどうしようもできない困難にぶつかった時、人はどうするのだろうか。そういう状態の人々を、著者は冷静に見つめている。読者にも感情移入を許さないような、淡々とした客観的な描写が続いてゆく。


カスミ以外の者達は不幸な事件を過去のものとして現実を生きていくが、彼女はそれを拒否し一人で愛娘を探し続ける。そこに再捜査を申し出た、がんで余命幾ばくも無い刑事の内海。自分が死に近いという事実を受け入れることができずにいた。自分の求める答えを探し続けながらも、現実と必死に折り合っていこうとする二人の姿が、とても痛々しい。
奇妙な関係の二人の間に流れる感情はいったい何なのだろうか?

人は色々な束縛やしがらみの中で生きている。

ある所に居ることが本来の自分を損なうからと逃避したとしても、別な所は再び時間とともに自分を拘束し始める。この束縛と解放連続の日々。

「解放」に向う人は、自分が自分であることに強すぎるため、自己中心的であり他者への思いやりは極めて希薄。死ぬまで自分が何者なのか確認し続けることの虚しさと哀しさ。その確認する作業そのものが生きる証でもあるかのように、他者を傷つけ、ひたすらに走り続ける主人公。

僕は、女性は男性と違い、人間関係の中に自分の評価を求める属性を持っていると考えている。
そうであるべきだという事では無く、日常的にそういう女性が多いと感じる。女性たちは往々にして、夫のため、子供のため、といった犠牲的精神に基づいて行動を起こす。男性からすればそれは主体性を失った堕落と見えるかもしれないが、女性の主体性はそれでこそ保たれる。カスミにとっても「娘」は家族や友人などとの人間関係を結びつける要だった。そのことが誘拐によって始めて解ったのだ。つまりこれは誘拐事件を書いたというだけの物語ではなく、女性の生き方とその孤独について問題を突きつけているのだ。


犯人不詳のままの結末。しかしながら、詳しい動機を持つ犯人かもしれないと思わせるストーリーが、いくつかの選択肢のように織り込まれており、読み進めるたびに一つ一つが、これが真実かもしれないと思わせるリアルさは素晴らしかった。

でも結局犯人は誰なのだ。
そこまで求めちゃいけないのだろうな。

むかしのはなし

2009-03-03 13:15:20 | Weblog
『むかしのはなし』 三浦しをん著


日本の昔話は全て事実だったような気がする。

物語が作られた時代から現代までの間に文明が進み、発明された様々な物を当時の人々の目で確認しても理解不能な物体が突如として現れ、それを当時の人々が後世に語り伝えようと考えたものが昔話だと思う。

つまり近い将来にタイムマシンが出現し、(もうすでに存在している気もするが…)それに搭乗した未来人が大昔に飛び立ち、その時代の人々に現代のいろいろなものを見せた、に違いないと僕は思う。

無茶苦茶な説明に聞こえるが僕なりの根拠があるのだ。

なぜなら、昔話というのは現代人が不可能だと思われる事柄の微細な研究の解答が少なからず既存しているからだ。
例えば、「浦島太郎」は、アインシュタインが唱えた“相対性理論”そのものだ。
海中の竜宮城は宇宙の惑星に置き換え、物体の動き(運動)で、宇宙空間と地球上の時間が異なることを証明している。
「かぐや姫」は、月に行くは可能だということをタイムマシンに乗せて証明した。
ついでにテレポーテーションも実践したのだろう。
「花咲か爺」は特殊な薬品を使用し花を咲かせた。
「桃太郎」では、昔妖怪が出現した長岡京で妖怪退治をしたのじゃないか。桃太郎に付き従う犬・雉・猿は、背の大変低い未来人に見えたのでは…。

まぁ、あくまでも推測ですがね。

話を本書に戻すと、この作品の解説で榎本正樹は、「ラブレス」は、ホストの“俺”が“おまえ”に、「ロケットの思い出」は空巣の“俺”が“あんた”刑事に、「ディスタンス」は“先生”に向けて話す少女「あたし」、「たどりつくまで」は、タクシードライバーが自宅の観葉植物に、と語っている等と書いてあるが、僕は一概にはそう思えなかった。
特定の人に向けられているメッセージならば、こんなに奇麗に仕上げられないはずだから。基本的に著者は「今、むかしばなしが生まれるとしたら、と考えた結果である」とあるが、内容だけを考えれば、“これが今の語り継がなければいけないことなのか…?”と思うのはなんだか寂しいものがあった。

これが今といえば今だし、人が語りたい、語り伝えたいと願うものは、しょせんはこんな個人的な内面のものなのか?とも。
でも、僕が同じような状況で何かを語りたい、そう思った時に伝えるとしたら、やはり同じようなものかも知れない。世の中何もかも満たされているから、衝撃的な事などあまり起こらないし、一番重要なことは全て個人的なことだったりして。

「ラブレス」 元ネタは「かぐや姫」。五人の貴族の求愛や帝さえも振り切って月に戻って行った姫と、五人の女に貢がせていた超売れっ子イケイケホスト。伝えている側は五人の客の内の一人だと推測されるが、誰なのか絶対わからない。推理小説的な部分も一部あるが、収録されている七つの短編の中で、最も元ネタの「昔話」を忠実にトレースしている作品だと思う。二十七才で人生が終了するというくだりは興奮させれた。

「ロケットの思い出」 元ネタは「花咲か爺」。良いお爺さんはポチにたくさんの宝物を与えられ、悪いお爺さんは終始、ひどい目に合わされます。そういう意味ではこの短編の主人公は「良いお爺さん」と「悪いお爺さん」の二役をやっているようなもの。逆に考えれば、ポチが二匹いると考えたほうが良いのかな。「良いポチ」は、ロケット。「悪いポチ」は犬山。それも何だか違うよな。エサと間違え主人の手を噛みついた犬。怒った主人はエサを与えず次の日老衰して死んでしまった犬。毎年命日には夕飯を抜く主人。なんだか泣けてくる…。

「ディスタンス」 元ネタは「天女の羽衣」ですが、この短編との共通点はまったくないと思う。主人公が親戚の十四も年下の女の子と関係を持つ設定自体嫌な気分にさせられた。少女の友人が「本当にその人はあんたが好きなの? 女子高生であるあんたが好きなだけなのじゃないの?」と。これはある意味、痛烈な皮肉。主人公の強い想いだけが強く強くけれど虚しく。『どれだけ切り刻んでも、どんなに深く掘っても、あたしのなかにあふれるのはただ、会いたい。会いたい。会いたい。それだけなの』いつの時代もそんなものだね。こういう気持ちは忘れたくない。

「入江は緑」 元ネタは「浦島太郎」。この後に収録されている短編すべてに共通する「三ヶ月後に隕石が地球に衝突する」というシチュエーションがここで初めて明かされる。でもよく分からなかった。

「たどりつくまで」 元ネタは「鉢かづき」。異形の姫が美しき姿を取り戻すというコンセプトにおいて、この短編と「鉢かづき」は同種の作品と言える。三ヵ月後に世界が終わるのに、美しい姿を手に入れてどうするのか?そんな疑問が誰の心にも浮かぶはず。でも現実なんてそんなものだと思う。明日死ぬからと言っても普段の生活が変わるとは思えない。より充実に普段通りじゃないかな。最後までタクシードライバーが性転換人だと気がつかなく悔しかった。

「花」 元ネタは「猿婿入り」。ちっとも面白くなく無感想。

「懐かしき川べりの町の物語せよ」 元ネタは「桃太郎」。共通点は、登場人物の名前だけ。あとはまったく関係のない物語。ラブレスの主人公の子供が主人公。その部分は面白みがある。青春小説まで行かない映画みたいに思えた。

僕らが知っている昔話の多くは、作者不明であり、登場人物たちもまた名を持たぬ「おじいさん」や「おばあさん」であることが多い。

この短編集に収録されている作品もまた語り手がすべて匿名になっている。
どこで誰が語っているのかもわからない物語。いつから、どんな風にして語り継がれてきたのかもわからない物語。それが「むかしばなし」というものなのだろう。

この「現代の昔話」が語られるきっかけになった、非日常的な「なにか」。携帯メールや、電話や、日記といった現代の「形」で、どこにでもいそうな普通の人間たちが語るこの物語。

彼らが伝えたかったことはなんだろう。

愚かな、でも愛すべき人の営み。いとしいけれどちょっと哀しい、そんなことを感じさせる一冊。

この作品に出逢えたことを語り継ぎたい。