八ヶ岳キリスト教会 牧師ファミリーのブログ

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姑の信仰

2010年10月10日 16時47分21秒 | 証し


 実の母より長く、私は姑と28年の歳月を共に暮らしてきました。
その内の、10数年を介護させてもらい、姑は3年を八ヶ岳南麓の養護施設にお世話になりました。
 舅が亡くなる数年前から姑は少しずつ認知が始まっていました。多発性脳梗塞によるものでした。
家族が判別できなくなるまでの何年間、姑は本当に辛そうでしたが若き日の自分に帰っていってからはそれまでがうそのように穏やかな顔に変わりました。
姑はクリスチャンになった私に将来我が家の墓を守ってもらえるのか、口にこそ出しませんでしたがどれほど不安に思ったことか、終戦直後に亡くした長女(夫の姉)の位牌に毎朝晩手を合わせ、弱ってからはよく涙を流していました。
私は「おばあちゃん、不安にさせてごめんね。でもこのイエス様が皆を守ってくださっている、本当の神様なのよ」と何度心の中でつぶやいたことでしょう。
認知症が進んでしまう前に何とか姑にキリストの愛を伝えたいと思いながら、坂道を転がり落ちるように認知症はどんどん進んでいきました。
ある秋の日、姑を教会の礼拝に連れて行っていいか、夫に聞いてみました。
如何に認知症が進もうとキリスト・イエスが分からないとは限らない、姑にイエス様を知ってもらうことをどうしてもあきらめられませんでした。
イエス様ならきっと姑の心の中に入ってきてくださる、姑にはきっとイエス様が分かると思いました。
夫はもはや姑には何も理解できないと思ったのか、快く「いいよ」と送り出してくれました。
 そして礼拝賛美の時、足腰が弱りつつあった姑に私が「Kさん、座ったままでいいんですよ」と声をかけるとうなずきながらも立ち上がり、賛美の間中、じっと両手を合わせていたのです。
知らない曲です。
初めて聞く賛美歌でした。
説教の間中もじっと聞いていました。
1時間半、自宅では落ち着いていられない状態の日々も多かったのです。
認知症になったからこそ姑の心の垣根が取り払われて素直に良きことがわかり、イエス様が姑の心の中に来てくださったのだとその時、確信しました。
帰り道、ふたりで手をつなぎ、秋の紅葉を眺めながら我が家への道をゆっくりと歩いて帰りました。
そして当時聖書の講義を受けていた私は、師に事の次第を伝え、姑に洗礼を授けたいと相談しました。
「私は、教師でも牧師でもありません。
でも聖書のどこにも1クリスチャンが洗礼を授けてはならないとは書いてありません。
私が姑に洗礼を授けることは大それたことで主に対し罪を犯すことになるのでしょうか」と。
師は「問題ありません。もしY姉が主に罪を犯したことになるのならその罪は私が負いましょう」
と答えてくださいました。
師のその言葉で私は私自身が姑に洗礼を授ける決心をしました。
川崎の我が家で二人きりの洗礼式を執り行ったのはそれから間もなくのことでした。
私のこの行為が主への罪に値するならその罪を生涯かけて負っていこう、罰せられるのなら甘んじて受けよう、姑が救いに至るなら、と思ったのです。
お互いに色々なことがあった30年でしたが、八ヶ岳南麓のこの地に移り住んで3年、姑は天国に帰って行きました。

2010,10,10
八ヶ岳のティラノちゃん


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