八ヶ岳キリスト教会 牧師ファミリーのブログ

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寄り添って

2011年06月06日 16時54分00秒 | 証し

5月半ば、宮城県の震災復興ボランティアに行ってきました。
ボランティアに行きたい自分の思いは何か、行くか、行くまいか、もし主が許されるなら私は行ける、許されないなら行く道が閉ざされる。そう思い、祈りつつ出発日を待ちました。
そして被災地に行き、そこで主は私の疑問に答えと確信をくださいました。
でもその確信を証しするか、すまいか、また迷ってしまいました。
あまりにも多くの悲惨や悲しみがあり、被災していない者がその地にわずかな時間滞在しただけで、与えられたとはいえその確信を証しすることは未だ悲しみや、困難な状況にある方々の心をさらに傷つけてしまうのではないかと恐れたからでした。
しかし、私が与えていただいた思いは確かであり、誤解や批判を恐れず証しすることを神様に求められていると信じて書きました。
だって、神様は私を被災地に行くことを許してくださったのですから。

 神様は私にその地で被災して亡くなられた方々の仮埋葬墓地を見せました。
ほんの一部かもしれないけれど何とおびただしい数か・・・・・ 私には過去の悲惨な出来事を含め、ずっとずっとそれを許された神様のみ心が分かりかねていました。
彼らは神様に出会う機会がなかっただけかも知れないのに、聖書の言う原罪さえ分からなかったかも知れないのに、彼らがいったいどんな悪を主の前にしたというのかと。
神様のなさることに間違いはないと信じていても、神様の思いは計り知れず深いことだと理解しようと思っても自分の心が納得しなかったのです。
まるで駄々っ子のように自分の心を持て余し、心をなだめるように被災地に向かいました。
そしてそこで見て確信できたことは

<ああ、主は命を落とされたひとりひとりと共におられたのだな>

ということでした。
このたびの大災害は人災ではない、神様がご自身の責任において地の震えと津波をお許しになった。
ということなら津波に巻き込まれた人、倒壊する建物に押しつぶされた人おひとりおひとりと一緒にいらしたはずだと私には確信できました。
この大災害で亡くなられた方々は15400人を超えています。
神様はそのおひとりたりとも粗雑には扱われず、寄り添って、苦しさや悲しさ、恐怖、絶望を波の中、がれきの中で御手に包みこまれたのだと信じます。
そして苦しみを一手に引き受けられたのだと。
15400のイエス様が共にいてくださったと確信できたのです。
過去に起きた悲しく悲惨な出来事の内にも、今世界のどこかで起きているかもしれないその中にさえも、イエス様は寄り添ってくださっていると信じられるのです。

「彼らのたましいはわたしが守った、安心してよい。あなたはこの悲惨さの内で残されたいのちに何ができるか、何を助けられるか」

そう問われているように思います。
苦難の中にいる人々のため私たちは神様の愛に習い、祈り続けることが大切です、と共に具体的に支援できる人はその活動もとても大切でしょう。
私たちは神様にとてもとても深く愛されてこの世にいのちをいただきました。
クリスチャンはそれに気付かせていただいた者たちです。
残念ながらそれを知らずにいのちを落とされた人々にも神様からの同じ愛が注がれているからこそ、逆巻く波の中に、がれきの中に共に寄り添っておられたはずなのです。
神様に愛されていることを確信している私たちはいかにして愛いしあいながら共に生きていけるのか、生き残ることを許されたすべての人々はそのたましいのありようを問われているのではないかと思います。


 東日本大震災で多くの方々の命が失われ、多くの悲しみが、困難がうまれ、しかし同時に日本中の多くの人々が助け合おう、一緒に生きていこうとしている姿 に、まだ真の神様出会っていない人々にも神様の愛は注がれており、その人の中に生きているのが見えて希望が湧いてきます。
聖書には私たちは「神の似姿(たましい)」に創られた、と記されています。
キリスト・イエスはご自身に敵対する者をも愛されました。
全ての方々がイエス様に出会えるように祈ります。
私もあなたを愛しています。
 神様に創られた時の名残が私たちの中に生きている、人々は愛しあえる、私たちは共に生きていける、私にはとても嬉しい確信でした。
あなたは?・・・・・

2011/6/6 ティラノ

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