HPをご覧の皆さん、こんにちは。
少し重い話でごめんなさい。
もう30余年前になりますが、結婚4年目位の頃、今思えばうつ状態だったのでしょう、私はある日自ら命を絶とうとして、神様に救われたことがあります。その時の私は命を救ってくださった方が神様だったとは全く分かりませんでした。
それから5年ほどして、キリスト・イエス様にであって、「ああ、あの時、私を助けてくださったのは、このお方だった」と知りました。
うつ状態になってしまった原因は言えませんが、辛いものでした。
まだ幼い息子もいるし、何とか生きる道を探してみても、何を考えても、思いは いつも -死ぬー にたどり着いてしまいました。
ついにある日、町内で配られた殺鼠剤を片手に、もう片手にコップの水を持って死のうとしました。
これでやっと楽になれると、苦しいのはほんの一瞬だと、殺鼠剤を口に入れようとしたその瞬間、誰かに背中を強く押されました。
ドンって。
両手の中のものはこぼれ落ちて、「え!誰?」 振り向いたそこには誰もいませんでした。
しばし呆然とした後、自分は死ぬこともできない、本当は生きたいのだ、その思いが誰かに押されたように感じただけなのだと自分自身にそう理解させました。
そして死ぬことができないならば、完璧に生きてみよう、いや、生きてみせると思いました。
それからは完全無欠の良妻賢母、良き嫁をめざし、次第に鉄の女に変身していきました。
やがて小学生になった息子が近くに開かれたキリスト教伝道所の教会学校に通うようになり、家庭訪問で牧師が訪ねて来られ、聖書の学びを薦められました。
息子が学んでいることがどんなことか知ろうと、私も聖書の学びを始めることにしました。
ところが、かたくなになっていた私の心には牧師がどう教えてくださっても、アホくさ!という思いがありました。
一年も学び続けたのは不思議なことです。
そんなある朝、家事の忙しさの中、ふと目がいった洗面の鏡にほんの一瞬、十字架につけられたキリストが見えたのです。
同時に醜い自分の姿も。
頭の中が混乱しました。
私はいつも正しいはずだし、自信もあったのです。
でもやがてそれこそが私の醜さであることに、十字架のお方を見て知らされました。
苦しげに、悲しげに、愛おしげに私を見つめる眼差しがありました。
そして数年前私の背中を押したのはこの方だったと、やっと悟ることができたのです。
私の背を押したその手には大きな傷が・・・神様に出会った瞬間でした。
嬉しくて、切なくて、泣きました。やがて受洗し、その後も幾度か、経済的、精神的、肉体的なピンチがありましたが、その度に解決され、試練の道を一歩々々歩いてきました。
この道のはるか先には希望の光が輝いています。
こんな私でさえ主に愛され、イエス様の大きな手に包まれて生かされているのです。
今は、全ての不安から解放されて生きることができています。
神の愛はあなたに確かに注がれています。
どうか、あなたもイエス様に出会って心からの喜びを感じてくださいね。
祈っています。
2010年7月4日 八ヶ岳のティラノちゃん