高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

北松本の「合いの子」モハ43 (蔵出し画像)

2015-09-24 21:25:18 | 旧型国電
 さて先日飯田線の元合いの子モハ43であるクモハ53007,8 の写真をUPしましたが、今度は松本運転所北松本支所(長キマ)にいた、クモハ43810の写真です。元は43039でしたが、1965年に飯田線伊那松島区(静ママ)から身延線に転用される際低屋根改造され、43810に改番されたようです。その後、1975年に73系一統に113系風車体を載せ替えたモハ62+クハ66に押し出されるように、沼津区(静ヌマ)から、他のクモハ43800代、サハ45、クハ68、クモハ51800代と共に長キマに異動してきました。私が知っているのは、長キマ異動後の姿だけです。

 長キマ移動後は、大糸線ではなく、中央西線、篠ノ井線の上松-塩尻-松本-明科-麻績 (後、聖高原に改称)間の客車列車による区間運転置換え用として運用され、普段は本所である松本運転所をねぐらとしていました。多分、70や80だと最低TcMMTcの4連になってしまい、輸送力が過剰になってしまうので、2連で運用できる旧国が転用されたのだと思います。とはいえ、早朝の松本発上松行きなどは2連×3の最大6連という運用もありました。
 そのせいか、本車は移動後の全検でもスカ色が維持されていました。もっとも相棒だったクハ55は通常の大糸線運用から押し出されてきた車両でスカイブルーとちぐはぐな編成でしたが、それも乙でした。下の2枚の写真はその頃の写真です (相棒はクハ55049)。





 その当時、松本をうろうろしていた他のローカル運用車両たちは三鷹区(西ミツ)のスカ色115系8連、(確かMcMTc+TT+McMTcという変な編成だったように記憶しています。あるいはこの編成は夜行専用だったかも知れませんが)、神領電車区(名シン)の80系、松本運転所(長モト)の70系+クハ68、横軽用80系という連中でした。165系もローカル運用はありましたが、まだ急行の間合い運用だったと思います。

 長モトの70系+クハ68は主として信越線軽井沢-柏崎用で、篠ノ井-松本間は入出区を兼ねた運用で確か夜中と早朝しか走っていないという変な運用だったと思います。今日、長野地区の電化されたJR線はほとんど第三セクター化され、松本地区の運用が主なのに、なぜか所属が末端の長野総合車両所(長ナノ)になっているのと正反対です。余談ですが篠ノ井-長野間をしなの鉄道に移管するという話もありましたが、結局JRに残されたのは、JRが入出区のため莫大な線路使用料を払うのを嫌がってのことでしょう。また当時まだ一部客車列車が健在でした。

 その後、78年に松本運転所に新製の湘南色115系1000番台が投入され、モハ70+クハ68を追い出した際に、松本周辺ローカルも115系に置換えることになって、43810は大糸線に転用されることになり、その後の全検でもスカイブルーの海坊主化されました。その頃の写真が次の写真です。



 その後は1981年夏の大糸線新性能化まで活躍しました。

 なお、大船工場で全検を受けていた身延線出身としては珍しく(というか唯一?)パンタグラフはオリジナルのPS-11が最後まで維持され、また運転台窓のHゴム化もされませんでした。これも特筆に値します。

 最後に75年5月、北松本転入直後に松本発麻績行2連の運用に就く43810の画像をご覧下さい。このページ唯一、美しいPS-11を上げた写真です。まだ所属区名表記が静ヌマのままだった頃で、正面の行先表示板受けも撤去されていません。
クモハ43810麻績行