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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

胡志明市工員弁当事情

2007-04-29 10:40:25 | Weblog
以下は小村さんの話である。

ベトナムの工場は工員に昼食を出さねばならない、という規則があるんですよ。現地の会社なんかはやってないとこもあるらしいけど、外資はね、規則でひっかったら面倒やから規則は守ってますね。

でも、自分の工場に食堂作ると食中毒なんかあった時に大変やし、調理人をやとったり、火の心配とかね、いろいろありすぎるから結局外注した方が簡単だってことで弁当業者から弁当を買うてるわけですわ。

そういうのは他にもあってね。会社の車もタクシー会社の車です。運転手もタクシー会社の社員。これだと例えば事故があってもうちの会社は責任とらんでもすみますやん。ここは社会主義国やから何かあるとその処理が大変なんですよ。

その写真が工員の弁当ね。

一緒に写ってるご飯?それはお代わり自由ですわ。こっちの人はとにかく米の飯をようけ食べますねぇ。

小さなタッパーに入ってる赤いのは唐辛子。それを醤油に浸して潰したりして、それからおかずやご飯につけて食べてますね。南方の人って辛いもん好きやね。インド人かてカレーやもんね。

もうひとつの小さなタッパーの緑色のが入ってるんはスープです。日替わりで、ワカメ、海苔、卵、コーン、魚とかのスープがついてますね。

それからデザートで、この日はスイカが出てたんかな、写ってないけど。

メインの料理はねぇ・・・、普通は肉か魚なんやけど、それらしいの見当たらんでしょ。ここが困るとこなんやね。

大体どの業者も数ヶ月たつと段々質を落としてきますわ。質を落として金を浮かすというせこいことしてくるんやねぇ、これが。

それで、そうなったら別の業者に替えるわけです。こっちは契約通りに金払ってるんやからね。

そうやって替えられたら、長い目で見て結局損やないかな、と日本人の感覚では思うんやけど、こっちの連中は何か近視眼的ゆうかなぁ、とりあえず目先の利益ばっかり追うんやなぁ。これは中国でも一緒やけど。

それにね、弁当の発注をするうちの担当が袖の下もらってそうゆうのを見逃してる事もあるんですわ。で、工員が不満を言うと、会社が金をケチってるから質を落とさなしゃーないんや、みたいなことを言うわけです。

そうなると工員は会社に不満を持ちますわな。これがこっちとしては一番困るんですわ。弁当が悪いから工場替わるみたいなのも実際おるからね。工員にとっては弁当ゆうんは一番の楽しみなんやから。

そんなん知ってるくせに、他人の楽しみを奪ってまで私服を肥やそうとする業者やスタッフにはほんますごい腹が立ちますねん。

工場のラインやから仕事は単調でしょ。そやから、今日の昼の弁当はどんなんかなぁ、と考えるのがある種救いになるわけですよ。自分が作るわけやないから、何が来るかわからんので、それを想像する楽しみがあるわね。

そんなんで、これまで3人担当を首にしましたわ。今はようやく工員の方もわかってくれて、会社を信用してくれるようになったんで、ええ加減なスタッフが賄賂を取れないようになってますけどね。大変ですよ、ほんま。

弁当の単価はね、この辺の日系企業では1食20000から30000ドンゆうとこでしょ。このあたりは別に特に申し合わせたわけやないけど、大体暗黙の了解というか、横並びゆうかね、突出したりはしませんわ。

そうねぇ、日本円に直すと150円から200円あたりになるんかなぁ・・・。
まぁ、こっちの物価水準から見れば、高いっちゃ、高いですわな。日本のコンビニ弁当でも300円台からあるしね。

でも、さっきもゆうたけど、諸般の事情から判断すると結局この方が安くつくゆう考え方でね。

まぁ、確かに人件費が安いからこっちに来るわけやけど、それなりに色んな縛りがあって結構コストはかかりますよ。

休日出勤は賃金は3倍になるし、業績関係なく1年に1回給料の1か月分以上のボーナスを払わなあかんし、その他にもいろいろ法律で決められて厳しくコントロールされてるしねぇ、そこはやっぱり社会主義国ですわ。

それに工員の定着率ゆう問題もあるしね。こっちに進出する場合はそこらあたりを十分理解してからでないと、後でかなりしんどいことになるやろねぇ。

胡志明市の過馬路

2007-04-22 13:51:15 | Weblog
硬い言い方で恐縮だが、胡志明市での過馬路、つまりホーチミン市での道路横断について考察した結果を述べてみることにする。

ベトナムではバイクをホンダと呼ぶそうである。これはホッチキスやセロテープなど商品名がその代名詞となったのと同様に、ホンダのバイクが有名なのでこうなったのだという。

で、街の道路はそのホンダが溢れている。自動車は少ないのだが、バイクは道路を埋め尽くして走っている。こちらが車に乗っていると、まるでバイクの流れの中を泳いでいるような気になってくる。

ベトナム人はバイクに乗るのにヘルメットはかぶらない。小村さんの話ではヘルメット着用の規則ができたようだが、ホーチミン市ではほとんどの人がヘルメット無着用で乗っている。

女性は日焼けを嫌って長い手袋をはめ、つばの大きな帽子をかぶり、顔には大きなマスクをして走る。このマスクがそれこそ目だけ出しているといった代物で、中には小型のエプロンのようなものもあり、これだと首のあたりの日焼けも防げそうだ。

そういったのには花柄模様などカラフルなものもあり、ベンタイン市場でも売っているので外国人にも手軽に買えるだろう。女性のゴルフや農作業にもお勧めしたい。

ベトナム人の女性はもともと肌が浅黒く、日焼けなど気にしないかと思っていたのだが、やはり肌は白い方がお好きなようである。

さて、このバイクだが二人乗りは当たり前、子どもなどいれば、お父さんが運転し、お母さんが赤ちゃんを抱えて後ろに乗り、お父さんの前にも子どもが座っていたりする。これは昔行った時の台湾でも同じ光景を見たことがあるが、やはり発展途上国ならではの現象ではあるまいか。

日本では乗用車だが、ベトナムではバイクがそれに代わる一家の脚であり、ステータスシンボルにもなるのだろう。

だが、ベトナムにおいてはバイクタクシーもあるように、バイクはさらに重要な運搬手段の役割も持っている。

長い鉄パイプを何本も積んで走っていたり、いわゆる原付バイクに家具の箪笥をくくりつけてよろよろして走っていたりと、日本人としては目を覆いたくなるのだが、ことはそれにとどまらない。

ある時私の乗った車の傍に一台のバイクが追いついてきた。

見ると、後ろに乗った若い男が目いっぱい両手を広げているではないか。なにしてんのやろ、とよく目を凝らすと、その青年は約1.5メートル四方の透明ガラスを抱えて座っていたのである。

それだとまるでヨットの帆のように風圧をもろに受けるではないか。他人事ながらこれは危ない、と恐くなった。しかも、時々風圧のためか、そのガラスがふわっと浮くように青年の体がのけぞるのだ。それなのに、バイクは減速することもなく前進する。

「大丈夫すかねぇ、あんなんで・・・」

「大丈夫やない時もあるけどねぇ。多分ガラス屋なんやろうけど、こっちの連中ああゆうの平気やからなぁ」

小村さんはさほど気にかける様子もなくそう言った。

以前、父親らしき人が女子中学生を乗せて走っていて、その娘が傘を体の前に横にして置き、後ろから父親に抱きつく格好で座っていた。そこへ背後から来た車がその傘を引っ掛けてしまい、娘は身体をねじられて歩道に叩きつけられたのを目撃したことがある、と小村さんは言った。

このように、そんな危険なバイクの群れが奔流となって道路を突っ走っている、というのがホーチミン市の道路事情である。

しかし、問題なのは道路に信号が極端に少ないことだ。しかも、道路はバイクの洪水。どうやって道路を渡ればいいのか、あるいはみんなどうやって道路を渡っているのか。

中心部の観光客相手のドンコイ通り周辺でしか動かないのならともかく、ホーチミン市を自分の足で歩くのなら、この道路の横断方法を習熟しておかなければならない。

最初、私は数人で横断している歩行者たちを見つけてはその中にまぎれて道路を渡っていた。

その集団はゆっくり歩き、先頭が止まると止まる。すると、バイクが歩行者たちを避けて、走ってくれる。いわばこの歩行者の塊が川の中州でバイクが川の水の流れのようなものである。

先頭は左右を見て頃合を見計らい、また歩き出す。バイクはまた私たち歩行者の塊を避けて走り抜けて行ってくれる。

数回これを経験し、それからまたその他に道路を渡っている人たちを観察しているうちに私にもその要領がわかってきた。

まず肝心なのはゆっくり歩くことだ。これはほとんどすり足状態で進むのがいいようで、それなら能や歌舞伎の伝統文化を誇るわが日本人としてはお得意である。相撲だってすり足が基本なのだ。

そして次にバイクとの距離感を把握して、バイクの運転手の目を見ることである。つまりアイコンタクトだ。そこで、相手にこちらを認識させる。すると、私の観察では、バイクは歩行者を意識して、歩行者の前を通るか後ろを通るかの決定を瞬時にしてくれる。

次にこちらも相手がどちらを選択したかを見極めねばならない。ここがちょっと難しいところだし、これはもう感覚の問題だから言葉では表せない。

しかし、そのあたりは何となくわかるものである。バイクがどうも前を通過したがってるな、と思えば歩行者としては止まって、バイクに道を譲る。

逆にバイクが歩行者の後ろを行く選択をしたようならそのまま歩を進めるのである。

そしてその繰り返しをしながらゆっくりゆっくりと道路を渡っていくわけだ。

このあたりの間合いというのが難しいといえば難しく、後は慣れの問題だが、しかし肝に銘じておかなければならないことが二つがある。

それは絶対走ってはいけないということとバックしてはいけないということだ。この二つはホーチミン市の歩行者とバイク運転手の頭の中にないことなので、これをやるとバイクの方が意表を突かれて、避けきれず、事故のもとになってしまうだろう。

歩行者がはねられるだけならまだしも、あのバイクの洪水の中でバイクが一台転倒したり、ふいにハンドルを切っただけでも多重衝突の大惨事が起こるに違いない。


最終ピロン(Phi Long )ホテル

2007-04-17 21:17:18 | Weblog
三泊して四日目の朝、私はチェックアウトした。

香港行きキャセイ航空CX766便は11時40分発だから、9時半には空港に着かねばならない。外で朝食をとってから、部屋に帰り荷物を点検した。

日差しが窓いっぱいに差し込んで部屋に満ちていた。太陽の光は人間に活力を与えると思う。さてこれからまた次への旅立ちだ、と私は気分が浮き立ってきた。

冷蔵庫の中に露天の市場で買ったミカンの食べ残しがいくつか入っていたが、それはそのままにしておくことにした。掃除のおばさんかクサナギ青年が食べてくれるだろう。

そして私は掃除のおばさんにチップを置くことにした。枕をめくり、1ドル札を一枚取り出して、そこに置いた。

ん、と見ると、それは端っこがちぎれ、セロテープで補修されていたやつだ。

この疵物は両替屋でもレストランでも絶対受け取ってくれなかった。少しでも疵がついているとだめなのだ、と小村さんも言っていた。だが、これは私がバクダンホテルでつかまされたやつなのである。

私はバクダンホテルで小村さんたちに昼食をおごり、米ドルの10ドル札を4枚置いておつりをもらったが、その中に入っていたのである。こちらはそんなことは知らないから、すっと受け取ってしまったが、これは明らかに向こうが仕込んだのに違いない。

商売人が換金上のこうした事情を知らないはずはないから、間抜けな日本人に押しつけたのだ。受け取ればそれでいいし、拒否されれば、気がつきませんでした、と次の機会を待つだけのことである。特に日本人はこういった場合に狙い目だろうと思う。

しかし、これをそのままチップとして置くのは寝覚めが悪い。相手は貧乏なベトナム人である。金持ち日本人がそんなことをしてはちょっとした「人でなし」ではあるまいか。

そこで私はもう一枚、これは関空の南都銀行で替えたぴんぴんの1ドル札を置いた。もしおばさんに何らかのつてがあれば、疵物の1ドル札を処理できるだろう。そして、その1ドル札はまるでトランプのババ抜きのようにまた誰か運の悪い外人のところに回っていくのである。

荷物を抱えて私はエレベーターで階下に降り、カウンターのところでクサナギ青年に鍵を返した。

「チェックアウト?」

「イエス」

クサナギ青年はカウンターの中のパソコンを操作して私のレシートをプリントアウトした。コンピューター管理しているとは意外にも結構進んでいるのであった。

料金は12ドルが3晩に、後は何本か買ったミネラルウォーター代で、38ドルちょっとだった。私は40ドル渡し、おつりはいいよ、と言った。

清算している内に、大事なことを思い出した。

「パスポート」

と私は言った。これを忘れては大変なことになる。

「イエス」

クサナギ青年は、引き出しを開けると、輪ゴムでとめたパスポートの束を取り出した。いったい何人分あるんだろう、厚さは15センチくらいあった。

しかし、である。

おいおい、ちょっと待てよお。私は絶句した。

キ、キミ、引き出しに鍵かけてなかったやん、大丈夫なんかあ、そんなんでえ。

カウンターとはいっても小さなもので、別にドアで区切られているわけでもない。横からは簡単に入れるのだから、ゲームをやっているガキどもに心がけの悪いのがいたら、さっと取れるのではないか。

もっともクサナギ青年も普段は鍵をかけているのかも知れない。多分そうだろう。そうあって欲しい。

まあ、とにもかくにも私のパスポートは無事なのだからそれ以上の詮索をするのはやめにした。

「タクシー呼んでくれる?正直なタクシー」

「イエス」

クサナギ青年は小走りに表に出ていった。そして首を伸ばしてチャンフンダオ通りから入ってくるタクシーをさがしていたが、こんなときに限ってタクシーはこない。

また小走りに帰ってきて、携帯電話を取り出した。

「電話で呼びます」

「いいの呼んでね」

ベトナムのタクシーは評判が悪く、安心できる会社は数社しかないとのことだ。

私もブイビエン通りにふらっと出てみた。すると、うまい具合に一台の白っぽいタクシーがやってきた。車体にはVinasun Taxi と書いてあった。これはガイドブックでは、とりあえず安心、と書いてある会社である。

「タクシー来た。あれに乗る」

私は電話中のクサナギ青年に大声で言った。

クサナギ青年はあたふたと走り出てきて、タクシーの前に立ちはだかった。

それから、私の荷物をトランクに入れ、おそらく空港へ行ってくれと言ったのだろう、運転手に何やらベトナム語でしゃべり、運転手はうんうんと頷いた。

クサナギ青年がドアを開けてくれ、私は後部座席に乗り込んだ。

やれやれこれでどうやら無事に空港まで行けそうだ。私はほっとため息をつき、窓の外で満面の笑顔で手を振ってくれるクサナギ青年に笑顔を返し、手を振って別れを告げた。

タクシーが発進し、振り返ると、クサナギ青年はブイビエン通りの真中に立ち、まだ手を振っていた。最後までいい奴であった。

また泊まってもいいな、と私は思った。いや、ほんとにそう思ったのである。パスポートのことはちょっと気がかりなのだけれど。




Hotel Phi Long
38 Bui Vien St. 1 – HCM City Tel:(84.8) 8364897 - 8373191
Fax(84.8) 9202343
E-mail: philonghotel@gmail.com

気が向いたら泊まってあげてください。何かあっても責任はとりませんけど。(著者より)


続続ピロン(Phi Long )ホテル

2007-04-15 13:22:42 | Weblog
ピロンホテルにはクサナギ青年以外にスタッフはいなかった。私の部屋に闖入してきたおばさんはパートの掃除婦さんのようで、午前中見かけるだけで、他の時間帯には姿がなかった。

クサナギ青年はカウンターの中でうとうとしていたり、時には壁に並んだパソコンの前に座り子供たちとゲームをやったりしてはいたが、とにかく朝から晩まで一日中詰めているのである。

クサナギ青年がオーナーなのかそれとも雇われなのか、聞く機会がなかったのでわからないが、小さなホテルとはいえ、ずっとホテルに縛られているようで、大きなお世話ながら、デートとかはどうしているのだろうかと、私は少し気の毒になった。

私が外から帰ってくると、クサナギ青年はキーボックスから部屋の鍵を取って、両手でうやうやしく渡してくれる。だが、仕事はもちろんそれだけではない。

ある時エレベーターでばったり出くわしたのだが、手を見ると大きなスパナとハンマーを持っていた。

目が合うと、照れたように笑った。

「メンテナンス。ベリービジー」

そりゃそうだろう。こんなおんぼろビルなのである。毎日どこかが壊れているに決まっている。

おんぼろといえば、私の部屋のシャワーも相当なものだった。お湯の出が悪いのはともかくとして、その温度が熱いか冷たいかの2種類しかなく、真中のちょうどいい加減というのがないのである。

夜シャワーを浴びる時には難儀した。気温は低くはないのだが、それでも日中とは違い冷水では寒い。で、暖かくしようとコックを回すと、今度は我慢できないくらい熱いのが出る。

広東語で言うなら、「一係熱得滞、一係凍得滞(やっはいいったっちゃい、やっはいどんたっちゃい)」ということになるだろうか。熱すぎるかと思えば、冷たすぎる、というわけだ。

しかもお湯の量はちょろちょろとしたもので、とてもじゃないがバスタブに溜まるのを待てないぐらいの流れだ。だから、頭を洗う時には本当に困った。

しかし、値段が値段である。1泊1500円にもならないのだから、ここは不平を言っている場合ではない。

こんな状態だから、おそらくクサナギ青年は毎日客の苦情に追い回されているのに違いない。我々日本人なら、値段が値段だからしょうがないか、と諦めるところだが、欧米人はとことん権利を主張するから黙ってはいないだろう。

安ホテルとはいっても、一般のベトナム人には泊まれる値段ではない。宿泊客は外国人ばかりで、私が泊まっている時は、日本人らしき人間は見かけなくて、白人ばかりだった。

しかも彼らは家族連れでこんなホテルに泊まるのである。ある時エレベーターで降りていたら、5階あたりで停まり、ドアが開くと目の前には一家5人、30代らしい両親に、子供が3人、しかも小さいのはどう見ても幼稚園児である。

私が乗っているのを見て、その両親は、待つから先に下りて、と言った。この小さなエレベーターにはそりゃ無理なはずである。

彼らの外見は決して金のない様子ではなく、身なりはごく普通だった。なるほど、欧米人は合理的で、無駄な金は使わないのだ、というのはこういうことか、と私は合点したものである。

ピロンホテルは各階表と裏の2部屋だが、おそらく裏側の部屋には窓がないだろう。多分後ろには別のビルがぴったりとくっついて建っているはずである。他の中級ホテルでも窓のない部屋というのがあるということだが、それはビルとビルとの間に空間がない建てられ方をしているからのようだ。

隣にはアンアンというホテルがあり、ネットの書き込みではとても評判のいいホテルだったので泊まってみたかったのだが、小村さんに頼んだのでピロンになった。ある時表に出てふと見ると、驚いたことにピロンの左側にぴったりとくっついてアンアンが建っていた。何とまぁ、世間は狭いものである。

総合的に言うならば、私にとってピロンホテルは及第点をあげられるものだった。

約1名しかいないがスタッフの対応も良かったし、設備はおんぼろだが、それなりに清潔だった。それに普通のホテルに泊まるのとは違った雰囲気があり、若い時分に冒険旅行をした時の体験が思い起こせて、それも私をいい気分にさせてくれた。

もちろんここらあたりは人によって望むものが違うから一般的な評価にはならないのはわかっている。これはあくまでも私個人の基準から考えたことだ。


続ピロン(Phi Long )ホテル

2007-04-13 22:43:04 | Weblog
小村さんは「安いところはそれなりに色んな人が来るんで、注意は必要でしょう」と言っていた。

2、3年前私が香港に滞在していた時にも、新聞に夜ホテルの部屋に泥棒が押し入ったという記事が載っていた。それは私の泊まるような中級レベルのホテルの話だった。だから、臆病な私は香港でも夜寝る時、ドアの内側にソファーや椅子を置いておいたりする。

大した障害物ではないが、ないよりましというか、どろぼうにしても多少は入りにくくなるだろう。少なくとも自分の気休めにはなる。そこで、ピロンホテルでも私はソファーをひとつドアの内側に配置した。

ネットの情報ではこういったミニホテルは家族経営などが多いが、中には治安面で安心できないところがあるという書き込みがあった。

ある女性の書き込みなのだが、朝まだ寝ていたらホテルの男性従業員が勝手に鍵を開けて入って来てびっくりさせられたというのである。幸いボーイフレンドと一緒だったから大丈夫だったが、あれが女一人だったらどうなったことか、とその女性は憤慨していた。

さらにミニホテルで宿泊客の若い女性がホテルの従業員に深夜忍び込まれてレイプされたという話を聞いたことがあるという書き込みもあった。

ただし、この手の書き込みは「聞いたことがある」といった種類のもので、実際の被害があったかどうかはもうひとつ確認が取れていない。まぁこの種の犯罪では実際の被害者が自分の経験を書き込みすることはないだろうから、これはほんとうにあった話かもしれないし、また噂にすぎないかもしれない。

私にしても、あれは朝の9時前だったと思うが、Tシャツにトランクス一丁で部屋の中をうろうろしていたら、突然おばさんが鍵を開けて入ってきてびっくりさせられた経験がある。

おばさんは掃除をしに来たのだが、私よりももっとびっくりして慌ててドアを閉めて逃げていった。上述の女性の話も、掃除に来た従業員のことなのだが、これは相手にも悪気はなく、遅くまで寝ているこっちのせいという部分もあるのだ。

第一、 ミニホテルには例のホテルにつきものの「Don’t disturb」の札なんかないのである。

昔は香港でも、やれ友達の親戚のお姉さんが失踪して帰ってこなかったとか、義兄の従兄が新婚旅行で行ったら、花嫁が試着室で消えてしまって行方不明のままだとか、そんな噂話がよくあったものである。

いくらミニホテルでも、ベトナムは社会主義国でそれなりに当局からコントロールされているところもあるだろうから、そう無茶苦茶なことはないのではないだろうか。これは何らかの経験談に尾ひれがついた話ではないだろうか、と私は考えているのだが。

とはいうものの何かあったらいやだから、私はとりあえずの処置をして眠りについたわけである。

しかし、寝る時は暑かったので扇風機を回したままにしていたのだが、夜明けが近くなるにつれて気温が下がり、寒くなって目が覚めた。ベトナムの冬は乾季で空気が乾燥しているため、日中の日向は真夏の暑さだが、深夜になると気温はどんどん下がってくるようだ。

扇風機を停めてもまだ寒さは去らず、仕方なく私は香港用の寝巻きとして持ってきていたスウェットの上下を出して着込んだ。何しろ毛布もなく掛けるものはシーツまがいの布だけだからとても寒さはしのげないのである。いったいベトナム人は自分の家ではどうしているのだろうか。

だが、時差のせいもあって、いったん起きてしまうと、うとうとはするのだが、どうにも寝つけなかった。

外はまだ真っ暗だが、バイクやトラックの走る音が伝わってくる。街はぼつぼつ眠りから覚めようとしているようだった。

私はとうとう眠ることを諦めた。それでも、起き上がってもやることはない。外の様子でも眺めてみるか、と思い、ベランダのドアを開けて外へ出てみた。

小さなベランダでも、外に出られるのはなかなか気分がいい。手すりにつかまって見渡すと、空は端の方から白み始めていた。ところどころ家の窓に明かりが灯っているが、通りには人通りはほどんどなかった。

チャンフンダオ通りをトラックが1台轟音を響かせながら走りぬけて行きその振動がここまで伝わってきた。さすがにバイクもたまに走ってくるだけだ。商売ものの野菜らしい荷物を積んだ自転車が交差点を横切っていくのが見えた。

ホーチミン市ではこんな風に朝が始まっていくんだな、と感慨にふけっていると、一台のバスがブイビエン通りに入ってきた。大型バスは真上から見ると、車体が道いっぱいになり、両側の建物に接触しそうに見える。

バスは私の足元を通過して進んで行き、それからデタム通りに出て右折して見えなくなった。

なんでこんな道に大型バスが、と私は首をひねった。チャンフンダオ通りならバスの路線はあるが、こんな狭い一方通行のブイビエン通りにそんなものがあるはずもない。

しばらくして、ふと思いついた。あれはバックパッカー向けの長距離バスなのではないだろうか。

ホーチミンからカンボジアさらにタイへ向けての長距離バスのルートが確立しているという話を聞いたことがあった。それはすでにシステム化されていて、ホーチミンからタイまでの切符を通しで買うと、自動的に乗り換えてタイまで行けるようになっているそうだ。

ベトナムとカンボジアの国境で降り、通関手続きをしてカンボジアに入ると、そこにはカンボジア側のバスが待機している。それに乗り換えれば後はプノンペンまでまっしぐらとのことである。

そしてそこでアンコールワットなどを観光した後、今度はプノンペンからバスでタイ国境まで行く、そしてまた税関を通りタイのバスに乗り換えるのだという。

それはシステマティックなのものになってしまい、もう冒険旅行でもなんでもないない、あれはパック旅行だ、と「旅の通」たちは見下したように書き込みしている。

しかし、今の私にはそれでも大した冒険だ。そんな旅行をする気力がなくなってからもうずいぶんたつ。

デタム通りは外国人バックパッカーの溜り場のようなところで、外国人向けの旅行社もこの一帯にたくさんある。だから、そこに長距離バスの乗り場があっても不思議ではなかった。

あのバスは夜行バスでカンボジア国境からやってきたのだろうか。それともこの日の朝一番にカンボジア国境かあるいは北上してハノイへ行くために、こんな時間にもかかわらずやってきたのだろうか。真上から見るとバスの屋根しか見えなかったので、中に乗客がいるかどうかわからなかった。

日中は喧騒が渦巻くホーチミン市も、朝まだ開けやらぬこの時間帯は、通りにも時おりしんとした静寂が束の間訪れる。私は消える前の青みがかった闇に包まれてしばらくじっと立っていた。


ピロン(Phi Long )ホテル

2007-04-08 21:34:29 | Weblog
ブイビエン通りはチャンフンダオ通りから斜めに枝分かれし、デタム通りと交差してさらにその向こうへ伸びている一方通行路だ。ピロンホテルはチャンフンダオ通りから入って少し行ったところの右側にあった。

ピロンホテルは8階建てのビルで、ひょろりと細長く建っている。というのも2階からが客室になっているのだが、階段とエレベーターが真中にあり、各階には前と後ろの2部屋しかないのである。だから部屋数は合計14室ということになる。

1階の入口の左側に小さなカウンターがあり、それがレセプションということになるが、これがどう見ても香港の茶餐廳のレジにそっくりだ。その奥に左右4台ずつパソコンが並び、インターネットカフェになっている。

とはいうものの、半ズボンにサンダル履きの近所の子供たちがゲームをやっていたり、宿泊客がメールを書いていたりするその空間は、要するにコンピューターを壁際に並べてあるだけのものなのだが。

カウンターのところで受付をしてくれた青年は、スマップの草剛みたいに痩せ型で頬骨が尖った顔をしていた。私が英語で、予約している日本人だが、と伝えると、そのクサナギ青年は帳面を取り出して調べ、にこにこと愛想良く応対してくれた。

クサナギ青年なかなかいい奴である。私のような根性なしは外国に来てソフトに対応してもらえるとホッとするのだ。

「あなたのパスポートを」

とクサナギ青年は言った。なぜだか知らないが、ベトナムではホテルではパスポートを預けねばならないらしい。

しかし、前回のルネッサンス・リバーサイドではそういうことはなかったから、これはこんな安宿に泊まるような連中は素性が怪しいに決まっている、とベトナム政府が考えているからかもしれない。

クサナギ青年は私の先に立って、両側に並んだコンピューターの間を通って案内してくれた。奥に行くと階段とエレベーターがあり、突き当りの部屋は倉庫らしかった。

エレベーターは古く、しかも狭い。奥行きがせいぜい1メートルしかなく、閉所恐怖症の人間としては息が詰まる。古びてペンキのはげかかったエレベーターはゴトゴトと上がり、最上階で停まった。

エレベーターを降りると右へ行った表側の部屋が私の部屋だった。クサナギ青年はドアを開け、据え置き型の大きな扇風機のスィッチを入れ、リモコンでクーラーを始動させ、テレビもつけてくれて、それぞれの操作を手まねで示してくれた。クサナギ青年はあまり英語には自信がないようだった。それはまぁ私もご同様だが。

そして相変わらずにこにことしてテレビのリモコンを私に渡すと、ちょっと手を上げてから出て行った。

部屋は思いのほかゆったりとしていた。ドアを入ると右側にバスルームがあり、それからクローゼットがあって、その向こうが畳にして8畳ぐらいの部屋だ。右側に壁にくっつけてベッドが二つ並んでいたが、毛布ではなくパッチワークのような赤い柄のシーツというか布がかけてある。

左に冷蔵庫とその上にテレビ、傍に扇風機が立てられて、正面には大きな窓があり、その下に小さな机を挟んで一人掛けのソファーが二つ置いてある。正面の左端に小さなベランダがあり、そこに出れば外が眺められる。

確かに設備はおんぼろだ。テレビのリモコンは電池入れの蓋がはずれるのか、輪ゴムで巻いてあるし、クーラーも何だか苦しそうに動いている。テレビも画面が荒れているし、色も悪い。

しかし、とにかくとりあえずすべてが動いている。しかもテレビはNHKの衛星放送が映るのである。

この値段でこれなら総体的に言って悪くない。むしろ部屋は香港のホテルよりも広い。これなら上々ではないか、私は気に入った。

荷物を置いて、冷蔵庫を開けてみるとからっぽだった。水大好き人間の私は困った。夜中に必ず眼が覚めて一口水を飲むという習性があるのである。ビールとは言わないまでもミネラルウオーターぐらい入れとかんかい、と私はぶつぶつ独り言を言って、疲れてはいたが外に出て買ってくることにした。

エレベーターで下に降り、私はボトルで水を飲むまねをしながらカウンターの中にいるクサナギ青年に聞いた。

「水を買いたいんだけど、店はどこ」

どうもホーチミン市にはまだコンビニのような店や、あるいは香港の「士多」(ストアー)のようなものも見かけなかった。

クサナギ青年は例のにこにこ顔で私の背後を指差した。そこには大きな冷蔵ガラスケースがあり、ミネラルウオーターのペットボトルがぎっしりと詰まっていた。

客はここで自分で買うことになっているようだが、おそらく、冷蔵庫に入れてそれをホテル側がチェックするという手間を省いているのだろう。

私は2リットルボトルを取って訪ねた。

「いくら?」

クサナギ青年は顔の前で手を振ってカウンターの中のパソコンを指さした。どうもツケでいける模様だ。

また部屋に帰り、ペットボトルの水を飲みながらベランダに出てみた。ほんとうに小さなベランダで、半円形で1メートルの奥行きしかない。だが、8回の高さからは見晴らしが良かった。

前の建物の向こう側がチャンフンダオ通りで、夜も遅くなったのに、まだバイクが洪水のように群れになって走っている。ライトの光がエンジン音と一緒になって夜の街を驀進して行く。爆音が地鳴りのように響き渡って、いつまでも止みそうになかった。

何はともあれホテルにも無事着いたし、水の補給もできた。2度目のベトナムも滑り出しはまずまず順調なようである。

続胡志明市酒店事情

2007-04-01 15:43:49 | Weblog
今度はマジェスティックはどうだろう、と私は考えた。

マジェスティックホテルは老舗で、ベトナム戦争当時は多くのジャーナリストがここに泊まっていたことで有名だ。もちろん「ベトナム戦記」を書いた開高健もここに泊まっていた。

で、俺もいっちょう泊まってみるか、という気になったのである。ったく、俺もミーハーやな、とは思うが、有名人のしたことをなぞりたいのは大衆の悲しい性なのだ。

値段は日本円で10000円と、ルネッサンス・リバーサイド・サイゴンの三分の二だ。

しかし、それでも香港のホテル代よりまだ高い。今回は航空運賃も馬鹿にならないのだ。クリスマス時で値段も上がっているし、その上関空、ホーチミン、香港、関空と飛ぶため、キャセイしかなく、エコノミーでもあれやこれやで110000円を越えてしまう。

で、私は老姑婆にお伺いをたててみた。すると返答は、

「ええやん、別に」

という心強いものだった。

けれど、そうあっさり言われると、却って二の足を踏むのが人情というものである。ひとりで遊びに行くのにあんまり贅沢をするのは如何なものか。

私はいたって小心な人間だから、快諾されるとびびってしまうのだ。ここでお言葉に甘えては後々しっぺ返しが来るのではないか、と頭の中で危険信号の赤ランプが点滅するのである。

一応他のホテルもあたってみるか、私はネットでホーチミン市のホテルについて調べてみた。

中級レベルのホテルとなると、大体5、6000円程度でいけそうである。

中級ホテルといえば、フンセン、ボンセン、サイゴンなど、その他にも結構たくさんあり、中にはバクダンホテルなんていう、日本人からすればえらく危険そうな名前のものもあったが、とにかくホーチミン市ではホテルに事欠くことはなさそうだ。

このバクダンホテルには後で小村さんたちと昼飯を食べに行ったのだが、1階のレストランにはカレーライスやトンカツのような日本式の定食がたくさんあった。

私はそばを頼んでみたが、味もまったく日本風だったし、値段も500円から600円と、まぁ日本風の値段だった。おそらく日本人ビジネスマンがよく泊まっているのだろう。本棚にも日本の漫画がぎっしりと並んでいた。

そうやってネットで調べているうちに、ミニホテルという規模の小さなホテルがあり、値段もかなり安いという情報を見つけた。そのサイトでは宿泊経験者の評価や、あるいはホテル探しの相談の書き込みを中心にしているのだが、バックパッカーレベルの人が主にこうしたホテルに泊まっているようだった。

ミニホテルのホテル代は10ドルから20ドル程度で、一般的に部屋数は10室から20室程度の規模らしい。中にはドミトリーのあるところもあり、それなら一晩4、5ドルで泊まることも可能なようだ。

そして最近ではこうしたミニホテルがどんどんできてきて、時間があれば部屋を見て交渉して選ぶのがいいということである。

まぁ、香港でいえば雑居ビルにある何とか賓館とか招待所とかいうゲストハウスと同じレベルだろう。ただ、ベトナムの場合は、それぞれがひとつのビルで独立している。

これはなかなか面白そうではないか、と私は興味をそそられ、小村さんにミニホテルというのはどんなもんでしょうか、とメールをしてみた。

すると、ミニホテルも結構なのではないか、ただ安いところは安いなりの人が泊まるので、多少気をつける必要があるだろう、自分もよく知っているところがあるので、何なら紹介しましょうか、という返信が来た。

現地に世話人がいるというのは心強いものである。では、よろしくお願いしたいということで頼むと、小村さんは自分のところでもよく使うので、と「Phi Long Hotel」というところを紹介してくれた。お得意様価格で一晩12ドルとのことである。

他人にものを頼むにあたって条件をつけるというのも図々しい話だが、部屋を取るに当たってどうしてもという希望があった。それは窓のある部屋という条件だ。

ホテルの部屋に窓がない、というのは私は経験がなかった。もちろん窓の外の見晴らしが悪いとか、窓の向こうはとなりのビルというのは香港でもよくあることだが、窓がないのは困る。私は閉所恐怖症なのである。

香港でも雑居ビルの賓館レベルなら窓がなくても当たり前なのだろうが、ベトナムでは中級ホテルレベルでもそういうことがあるらしく、ホテル情報サイトでも苦情の書き込みがよくあった。

だから、多少高くてもいいから窓のある部屋を予約していただきたい、とくれぐれもお願いした次第である。10ドルレベルのホテルなのだから高い部屋といっても値段は知れているだろう。

とはいうもの一抹の不安がなかったといえば嘘になる。それどころか、いい年してそんなとこにとまって大丈夫かあ、という声が心の中でこだまし続けていた。

私も若い時はひとりで東南アジアを渡り歩いたことはある。ラオスのビエンチャンでは連れのラオス人青年と一緒に土産物屋のでかいおっさんとけんかになり、交番へ引っ張られたこともある。ビルマ(ミャンマー)のラングーンではポン引きにしつこく付きまとわれ、連中をまこうと市場で走り回ったこともある。マレーシアのペナンから出てバンコク行きの列車に乗ったら列車が転覆して危うく命拾いをしたこともある。

それなりに危ない目にもあったのだが屁とも思わなかった。しかし、その後堅気の生活が長く続き、年をとるとからっきし意気地がなくなった。旅行は嫌なことがあると台無しだよね、旅行は楽しくなけりゃね、という方向へ路線転換してからもうずいぶんになる。

いい年をして、バックパッカーの泊まるようなところに泊まって大丈夫かなぁ、と懸念が先に立つのである。ま、根は思い切り小心者なのだ。

だが、この際だ、いっちょう変わったことを経験するのもいいだろう。いい年をしていれば、それこそ「冥土の土産」ということもあるではないか。

それに、一回目に行ったベトナムの様子が、私に妙に懐かしさを覚えさせた。同じ東南アジアの雰囲気が自分の若かりしころの旅行の時の情景を私に思い起こさせたのである。

乗りかかった船だ。ここはひとつ若かったころの自分に戻ったつもりでセンチメンタルジャーニーをしてみようではないか。

ミニホテルに泊まるぐらいで何もそこまで肩肘張る必要もないといえば、それはそうなのではあるけれど。

胡志明市酒店事情

2007-03-25 11:17:32 | Weblog
さて、ホテルはどうしようか、と私は考え込んだ。

初めてのベトナムでは五つ星のホテルのルネッサンス・リバーサイド・サイゴンに小村さんの紹介で泊まった。一晩日本円で15000円という、我々にとっては掟破りの値段である。

普段香港でも大体この半額が私たちのホテル代予算で、砲台山のシティーガーデン、湾仔のノボテル・センチュリーといったレベルに泊まっている。香港でも五つ星なんてレベルに泊まったことはない。いや、泊まることを想像することすら恐れ多くてできないのである。

しかも、これがベトナムという香港よりはるかに物価の安いところでのホテル代だ。ベトナムで15000円といえば、小村さんの工場でもベテランの工員がしゃかりきになって1ヶ月間時間外勤務に精を出し、それで何とかかせげるほどの金額らしい。日本の感覚で言えば、一晩30万円のスウィートルームに泊まるようなものだろう。

だが、ベトナムのことは何もわからなかったし、2泊するだけだから、まぁこの際一世一代の贅沢をしてみるか、と清水の舞台から飛び降りることにしたのだった。

そうして泊まった結果は、オーライだった。

ルネッサンス・リバーサイド・サイゴンはサイゴン川の傍に立っていて、私たちの部屋はリバービュー、つまり川に面していた。それに角部屋だったので、もう一面市街が見える方角にも窓があった。

要するにリバービューとシティービューの二本立てという豪華版で、これは小村さんの心遣いのおかげだった。ありがたいことである。

川を見下ろすと遊歩道とフェリー乗り場が見え、通勤時間帯には接岸したフェリーから、バイクの群れがぞくぞくと吐き出されてくるのが見えた。川の向こう側の眺望はよく、緑の濃い森がどこまでも広がっていたが、右手の方ではその緑が一直線に切り開かれていて、東南アジア特有の赤土がむき出しになっていた。おそらく道路が建設されているのだろう。ベトナムは今開発が急進行しているのだ。

シティービューの方は大していい風景ではなかった。ホーチミン市では高いビルはまだ少ない。街並みは古く、少々くたびれたビルや家の屋根が見えるだけで、中には取り壊されて更地になっているところもあった。おそらくそこには新しいビルが建つのだろう。

バスルームにの中にはさらにもうひとつシャワールームがついていて、部屋はスィートルームではないけれど我々には見分不相応に豪華だった。香港の金鐘にあるアイランドシャングリラやマリオットにも人を訪ねて入ったことはあるが、それに較べても部屋は広く、ソファーにしろ何にしろ新しくきれいだし、居心地が良かった。

「やっぱり金やなぁ」

私と老姑婆は顔を見合わせて納得したのである。

最上階に会員用のラウンジがある。私たちは小村さんの紹介で会員資格の宿泊者となっていたから、そこへ行けたが、その階に行くにはエレベーターで部屋のキーカードを差し込まなければならない。非会員のカードでは動かないようになっているのである。

ラウンジはそう広くはなかったが、朝食からアフタヌーンティー、夜のスナックまですべて食べ放題飲み放題である。夜小村さんたちと一緒にラウンジに行くと、一緒についてきた社員のHさんは酒好きなもんだから、ワインからビールなどここぞとばかり飲みまくるのだった。

そこは私たちの部屋の階よりかなり上だったから、窓の外の眺望はさらによく、眼下にメコンデルタの平野が遥か彼方に広がり、果てが見えなかった。私は午後その風景を前にしてコーヒーを飲みながら座り、いつまでも飽きることがなかった。

確かに一晩15000円は高いが、夏休みなどにここで10日ばかり泊まってのんびりするのは別荘を持つよりよっぽど経済的なのではないか、と思う。

また、チェックアウトなどの手続も下のロビーではなく、そこのデスクでやってくれるのである。

私たちもチェックアウトはそうしたが、スーツに身を固めた一部の隙もない対応をしてくれるスタッフに、

「サー」

などと言われると、貧乏人根性が出てしまい、すみませんねぇ私らごときにこんなサービスしてもらって、とつい申し訳なく思ってしまうのであった。人間たまにはハイソな生活も経験しておく必要がある。

この時以前ある台湾のコメディアンの一人舞台のテープを聞いたことがあり、
その中のあるセリフを思い出した。

「現在才知道特権是什麼滋味」(今初めて特権というのがどんな気持ちいいものかわかったよ)

それはそのコメディアンが舞台上でタバコを吸う場面で劇場内禁煙のためタバコを我慢している愛煙家に向って言ったものだった。

お客様に差別化をして差し上げるというのも商売上なかなか有効な手段なのである。

チョロン行きのバスで

2007-03-21 11:08:57 | Weblog
二度目のチョロンは路線バスで行くことにした。

初回はタクシーで行き、途中どうも遠回りをされたようで、78000ドンも取られてしまった。それでも日本円で600円に満たない額だから、怒ることもないのだが、でも気は悪い。それに路線バスに乗るのもいい経験になるだろう、と思った。

ベトナムの12月は乾季で旅行にとってはいい季節だ。だが、やはり日差しは強く最高気温は30度くらいになるから、日本でいえば真夏の気候である。

私のホテルがあるブイヴィエン通りからチャンフンダオ通りに出たすぐのところにチョロン行きのバス停があった。このバス停でサイゴンスターバスの1番に乗れば、チャンフンダオ通りはほぼまっすぐにチョロンへ通じている。

「地球の歩き方」によると、そのバスの終点がチョロンにあるビンタイ市場で、料金は2000ドンということだった。日本円にすると14円というところだ。

小村さんの工場では工員の初任給が5000円程度というから、公共交通機関の料金としては香港や日本と比較しても現地の物価レベルではやや高いのではないかと思う。

バスに乗ると、通路も乗客でぎっしりだった。料金はどうやって払うのかと心配になったが、とりあえず押し合いへし合いしながら乗り込んだ。幸い中はクーラーがきいていた。そこへ車掌が人の群れの中を泳ぐようにかき分けながら、料金徴収にやってきた。

ベトナムはインフレだから、すべてが額面の高額な紙幣で、コインというものをとんと見かけない。そのため車掌は片手に各種のくたびれたドンの札束を握りしめ、料金を受け取るとささっとその束からおつりを抜き取って渡す。その素早さは熟練の技である。

私の番になり、用意していたよれよれの2000ドン札を差し出した。

すると小柄な若い車掌はえらい剣幕で突っかかるように言った。

「ニャンニャンニャン」

と、ベトナム語のわからない人間にはまぁそんな風に聞こえるのである。

えっ、と見返すと、汗の吹き出た顔で怒ったように、また「ニャンニャン」ときた。今度は周囲の乗客も私に向かって口々に「ニャンニャン」の大合唱となった。

これはどうも料金の間違いらしい、と察したが、ではいくらなのか。ベトナム語はできないし、英語も通じそうにないから途方にくれた。

仕方ない、えいやっとジーンズのポケットからありったけのドン紙幣をつかみ出し、車掌の前に突き出した。

車掌はその中から一枚抜き出し、また「ニャンニャン」と何か言いながら笑い顔で数枚のおつりを返してくれた。

どうも怒っていたわけではないようである。周りの乗客も笑いながら同じように「ニャンニャン」である。この人外国人らしいで、そんでわからんかってんな、と多分そんな風なことを言っているみたいだった。

いったいいくらのお札を取って、いくらおつりをくれたのか、それすら見当がつかなかった。しかし、とにもかくにも支払は済んだ。これで晴れて正式な乗客としてビンタイ市場まで行けそうだとほっとして、私は掌の札を丸めてポケットに押し込んだ。

その時、となりに10代半ばくらいのポニーテールの女の子が立っているのに気がついた。着ているTシャツと穿いているジャージ、それにスニーカーも新しく、全体的におしゃれである。高校生のようだったので、試しに聞いてみた。

「Do you speak English?」

「Yes」

と女の子が答えたので、このバスの料金は幾らなの、と聞くと、

「Three thousand」

ときた。3000ドンだったのだ。

いくら外国の情報は伝わるのが遅いといっても、その年出版されたガイドブックなのだから、5年も前の情報ではないだろう。短期間で1.5倍の値上がりとはベトナムのインフレも過熱気味のようである。

「まいったなぁ」

とふいに日本語が口をついて出たら、その子はきょとんとした顔で私を見上げたのだった。

続続胡志明市(ホーチミン市)のチョロン

2007-03-17 00:04:12 | Weblog
17世紀末に清朝の支配から逃れて移住してきた明朝の遺臣たちが現在のチョロンに住むつくことを許されたのがチョロンの歴史の始まりだが、これは一般に世界各国にあるチャイナタウンとは成立ちが根本的に違うということだろう。

他の国のチャイナタウンはどちらかといえば出稼ぎや移民などの中国人が寄り集まってできた自然発生的にできた街という見方ができるだろうが、チョロンはベトナムの王朝から正式に土地を与えられることによってできた。はなから集団移住の落着き先という側面がある。そしてその土地を自分たちで開墾し開発したわけだから、都市に個別に後発的にやってきて住みついたわけではない。

また、自治を許されていたというのも、明朝の遺臣というある程度組織立ったグループとしてやってきたことで、当初から基礎となる組織的な自治能力を持っていたということではないか。そこへ経済的な発展によりますます力をつけるようになることで存在をより強固なものにできたということだろう。

だが、社会主義化により逆にそのことが命取りとなる。デービー・連の母親たちのように多くの人たちがボートピープルとなってベトナムを脱出した。

しかし、因果は巡るというか、社会主義国は結局のところ破綻していき資本主義の道を歩むようになった。そしてチョロンはまた復活の道をたどり始めたわけである。

考えてみればとんだ周り道なわけで、社会主義革命とは実に罪作りなものである。

デービー・連も過去幾度か商売のネタを求めてベトナムへ帰ったことがある。外国へ逃れたベトナム人が故郷に投資するために帰国するという例は枚挙に暇がないようだが、そこで力を発揮するのが国際的な華人ネットワークである。

商売に経済力が必要なのはもちろんだが、何よりも必要なのは情報である。何しろチャイナタウンチョロンには海外華人の親戚筋がいたりするのだ。血は水より濃いというではないか、この点では日本人なんかは歯が立たないだろう。

そういえば、デービー・連も中華民国のパスポートを持っていたが、台湾からの投資も増え続けているようだ。今後とも華人パワーによる投資はますます増加するだろうし、それにつれてチョロンの繁栄も加速するだろう。

経済発展が順調に進めば、今は薄汚れた感じのチョロンの街も発展につれてどんどんきれいになっていくような気がする。古い物が取り壊され、更地になり、新しいビルが建つ。香港で見たような変化がこの街に訪れても不思議ではない。

もっとも、誰もが成功できるわけではないのが世の常というものだ。年末香港でスタンレーと話している時、ふとデービーの話になり、1年くらい前にデービーから電話があった、とスタンレーが言った。

「で、今どうしてる?ベトナムで一儲けする話はどうなった?」

スタンレーは笑って首を振った。

「いやぁ、ベトナムへ帰る気はなくなったらしいぜ。もう年だから無理だって」

あのデービーがそういうことを言うようになったのか。まぁ、もう50半ばになるのだから、リタイアのことが頭を掠めるようになっても当たり前だ。

勝ち組の背後には膨大な負け組がいるのである。勝って得る物も大きい分負けるリスクも高い。現在経済発展の真っ只中にあるベトナムでも貧富の差の拡大が問題になっている。

いくら華人ネットワークがあるとはいえ、それに乗っかり勝ち抜いていくには、相当なエネルギーもパワーも要るだろう。デービーももう一発勝負にかけるような年ではなくなったのである。

それはそうかもしれないが、デービーもこのままニューヨークのタクシー運転手で終わってしまうのか。あの若禿に大きな眼鏡をかけたあっけらかんとした笑顔を思い出して、私は少し寂しくなったのだった。