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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

秋天的童話(4)

2005-05-31 23:20:17 | Weblog
日本人の香港人観はとかく偏りがちである。

で、とにかくお金第一で、抜け目がない。元気でパワフル、悩みなんかなさそうで、のーてんき。ま、日本人から見たステレオタイプの香港人像とはこんなところだろうか。

だが、香港にだって自殺者はいるし、精神病患者もいるのである。香港人だって、いつも明るい顔をしているわけではないのだ。失恋もあれば、会社の首切りもあり、離婚もあれば、嫁姑問題もある。

数年前友人であるスタンレーのいとこが鬱病になり、面倒見のいいスタンレーはしょっちゅう電話したりして相談に乗っていた。その人はある大手の会社の結構な地位にあるらしかったが、仕事のプレッシャーにつぶれてしまったのだ。

「あいつはまじめすぎてなぁ・・・」

珍しく眉間にしわを寄せてスタンレー自身も鬱病のような顔をした。

そういえばこの間桜見物に来たクリスティーヌも自分の女ボスとの人間関係に頭を痛めていた。

「同性同士って却って難しいのよねぇ・・・」

実は香港人も私たちと何ら変わりはないのである。「打工仔」であろうと「老板」であろうと、生きている間悩みは尽きない。

まして香港は生存競争が厳しい。スタンレーはいつもうらやましそうに言う。

「日本は福祉制度があるからいいよ。香港じゃ自分の面倒は自分で見なくちゃいけないんだから」

公務員以外は安定とは程遠い人生で、健康保険だって民間の保険会社で「買う」のであり、日本のような国民皆保険制度はない。

しかも、1980年代、香港社会は1997年の中国への返還を前に次第に浮き足立ってきて、移民熱に拍車がかかりつつあった。当時の香港人とは、香港社会全体に漂う不安定感を考えれば、日本人よりはるかに悩み多き人々なのだった。

あの97年の返還時に盛んに言われた言葉に「明天会更好」(明日はもっとよくなる)というのがあったのは皮肉だが、「秋天的童話」のラストシーンがいっているのも正しくそれだ。

がんばればきっとうまくいくよ。だからどんなにつらくてもとにかくがんばって夢を追おう。そこにはきっと明るい明日が待っている。

まぁ、何と短絡的で甘ったるい考え方だろうか、と歯が浮いてくる人もいるだろうが、それはがんばる必要のない人の考え方だ。

観客たちは20ドル(その当時は多分それくらいだった)を払って周潤發の笑顔を見、明日になれば自分にもいいことがありそうだ、と思う。そして、それならもう一日がんばって仕事に行ってみるか、という気になれるのである。

香港を離れアメリカやカナダ、オーストラリアに移民しても、その先に待っているのはこれまでとまるで違う世界でのさらなる闘いであり、どこにもパラダイスはないのだ。

それでも、がんばればきっとその先には明るい明日が待っていると思えなければ、人々には生きていくすべがない。

香港人たちは奮闘努力の人々だ。厳しい現実の中で、ひたすら前を向いて進んで行く。

そんな香港人たちをメイベル・チャンは愛すべき同胞とみて、同時代を生きるものとしてこの映画を作らなければならない、と考えたに違いない。だから、その時代の香港人の姿の記録と彼らに対する応援歌というふたつの意味が「秋天的童話」にはこめられている、と私は考えている。


秋天的童話(3)

2005-05-29 16:18:23 | Weblog
私は感動の余韻に浸りながら映画館を出た。いい映画じゃないか、周潤發もいい役者だなぁ、といい気分であった。

ところが、老姑婆はけちをつけてきて、しらけたような声を出した。

「ちょっと話が単純すぎるやん、ねえ」

む、む、む、と私は言葉に詰まり、いい気持に水をさされたことでいささか憮然として答えた。

「あれはあれでええんや、童話なんやから。わからんやっちゃなぁ」

ったく、ロマンのわからん奴である。あやうく香港の空の下で夫婦喧嘩が勃発するところであった。

が、考えてみれば、確かに成功ストーリーは唐突だった。

船頭尺は十三妹への愛をバネに一転心を入れ替え、小さいながらも自分の夢見たレストランのオーナーとなった。「どりーむかむつるー」である。

ではあるが、ギャンブル好きで素寒貧の船頭尺が小さいながらも一国一城の主となるには相当な刻苦勉励奮闘努力が必要なはずだ。しかし、監督はその努力の過程をすっとばして一気にハッピーエンドの場面に転換してしまうのだ。

また、その夢の達成には時間的には最低でも5、6年はかかりそうなものだが、十三妹の家庭教師先の少女の様子から見ても、これは1年たってないぞ、と突っ込みを入れたくなるほどの強引さである。

ま、老姑婆がけちをつけたくなるのもわからないではない。

しかし、しかしである。いろいろご意見もありましょうが、それでいいのです。なぜならこれは童話なのだから。

映画にも色々ある。ホラー映画もあれば、不正を告発する社会派映画もある。恋愛映画もあれば、アイドル映画もあり、アクション映画等々、上げれば限がないほどの種類がある。

映画はこうでなくてはならないというものではない。それぞれに良さというか存在理由があるのであって、ひとくくりにすべきではないのである。そして、人々は自分の見たい映画を身銭を切って見に行くのであって、その映画の良し悪しはあくまでも観客の側に決定権がある。

この「秋天的童話」は、その時代の香港の人々が必要とした映画だったのであり、時代がメイベル・チャンにこの映画を作らせたのだ、と私は思う。

秋天的童話(2)

2005-05-27 22:32:22 | Weblog
さて、映画が始まり、十三妹役の鐘楚紅がアメリカに到着して、何だか薄汚い風体の船頭尺と呼ばれる親戚の男が出てくるのだが、一向に陳百強が出てこない。

私は陳百強が主役だとばかり思っていたから変だなぁと思っていたが、どうもこの小汚い無精ひげの男が主役のようだということが段々わかってきた。陳百強は十三妹のボーイフレンド役で助演にすぎず、十三妹を捨てるという役の、ある意味嫌な役柄なのであった。

私は周潤發が大スターだとは知らないものだから、何でこんなのが主役を、と思いながら見ていたが、ストーリーが進むにつれて次第に感情移入していくようになり、なかなかいい役者ではないか、と心境が変化していった。

船頭尺は将来の目的も希望も持たず行き当たりばったりの生活をしている。かつてはあったはずの夢も挫折してやけになっているのだった。また十三妹も最初は夢を持ってアメリカに渡ったが、厳しい現実にうちひしがれ、ボーイフレンドとも別れることになってしまう。

そうした異国での失意の中で、いや失意の中であったからこそお互いに惹かれていくようになるが、そんな中で、何とかしなければと考えるようになる。

ついに十三妹は自分の目指すものを実現するために船頭尺のところを出て行くことになる。そして二人の気持ちはすれ違ったまま別れが訪れるが、その時になって初めてお互いがどれだけ相手を必要としていたかに気づく。

十三妹が去った後、船頭尺は彼女からのプレゼントを握り締め、摩天楼の街に立ちつくす。

さて、最後が名場面である。

十三妹は家庭教師先の少女を連れて、いつか船頭尺と散歩した浜辺を歩いている。そして少女に、以前ある人が桟橋の突端にレストランを開くんだ、と言っていたことがある、と語りかける。

すると、その少女は、十三妹の手をひっぱって言う。

「お姉さん、あれを見て・・・」

十三妹は呆然と立ちすくむ。少女の指さす桟橋の突端に、正しく船頭尺の言っていたとおりのレストランが建っていたのである。

二人は桟橋を歩いてそのレストランに向かうが、十三妹はまだ半信半疑のような顔をしている。

レストランの玄関から黒服を着て蝶ネクタイ姿の支配人然とした船頭尺が客を送り出して来る。それから、客たちの後姿に向かって手を振るのだが、その時ふと十三妹の姿が眼にとまる。

この後の船頭尺に扮した周潤發の表情が見ものとなる。

夢でも見ているのではないか、といぶかしげな表情が一瞬凍ったように止まり、次に表情が緩み、一種泣き笑いのような顔になる。それから、再会の喜びを抑えた笑顔に変わり、手をレストランの入り口の方に差し伸べて言うのである。

「お二人様、ご案内」

周潤發の笑顔にはちょっとばかり成功の晴れがましさが秘められている、と私には見えた。そしてその笑顔で「秋天的童話」は終わる。


秋天的童話(1)

2005-05-26 21:02:16 | Weblog
レンタルビデオを借りに行き棚を眺めていると、ふと「秋の童話」というタイトルが目につき、あれっ、と足が止まった。

しかし、よくよく見るとそれは韓国映画だった。今は韓流ブームで棚いっぱいに韓国映画のビデオやDVDが埋めつくされている。

私の目を引いたのは、そのタイトルで香港映画の「秋天的童話」を思い出したからだった。邦題は「誰かがあなたを愛してる」で、大きなレンタルビデオ屋ならさがせばどこかに置いてあるだろう。

この映画を見たのは香港の映画館のロードショーだったから、製作年の1987年のはずだ。ということはもう18年くらい前のことになるわけだ。主演は發仔(ふぁっちゃい)こと周潤發で、監督はあの「宋家の三姉妹」の張婉婷(メイベル・チャン)である。

私はこの映画で初めて周潤發という俳優を知った。

というのはこの映画は歌手の陳百強が出ているから見に行ったのであって、周潤發が香港では大スターなのだということは恥ずかしながらその時はまだ知らなかったのである。それに周潤發が有名になった「男たちの挽歌」が日本で公開されるのは1989年のことでこれより少し後の話になる。

記憶を頼りに物語を思い返してみたい。

「十三妹」という女の子がボーイフレンドのいるアメリカに留学に行き、親戚の「船頭尺」という男の部屋に転がり込むことになる。そして異国の地での希望や失意を経て、十三妹と船頭尺は反発しあいながらも次第にお互いを好きになっていき、その感情が二人を再生へと導く。

と、まぁ簡単に言えばこんなストーリーだ。


桜見物(8)

2005-05-23 22:33:24 | Weblog
それが香港人たちの民族感情に火をつけた。お前に言われたかねえよ、てなもんである。

コラムを掲載していた新聞(蘋果日報)には人糞入りの脅迫状を送りつけられ、新井さんはひどいダメージを受ける。それらがあってマカオに避難することになったわけだ。

以前の繰り返しになるが、『東京的女兒』の中の「大衛和蜆味噌湯」の一部分を引用してみる。


その後、1996年秋に香港に反日旋風が巻き起こり、多くの現地の友人たちの私に対する態度はとても私を悲しませた。同年12月、失業し、失意の中にあった私が「六四バー」に行くと、幾人かは私に対してあからさまに見て見ぬふりをした。ただ大衛だけが私の方へやってきて、黒人なまりの英語で、一言「I’m very sorry」と言った。


それまで香港で文筆家としてまずまず順調に暮らしてきて、上記の「六四バー」のある蘭桂坊にも常連として出没し、友人知人も増えていたことだろうが、この筆禍事件はそうした友人たちからさえ拒絶される事態を招いてしまった。

私たちも国家や民族というものから無縁で生きているわけではない。ただ、現状の日本では、それを意識するのは野暮というものであり、考えずにいても別に支障がないから気にしないでいるというのが現実のところだ。

しかし、一歩外へ出れば、そうは問屋が卸さない、という状況があちこちに地雷のように敷設されていて、時にはそれが私たちに見て見ぬふりをさせてくれないことになるのである。西安大学の留学生や新井さんのように、私たちが予期せぬことで何らかの状況に追い込まれることがないとはいえないのだ。

そんな時、私たちとベリンダやスタンレーたちの間の長年にわたる友情にひびが入ることがないと断言はできない。

あるいは、今回のような反日運動以外に、たとえ私たち個人と個人の間には何も感情の行き違いはなくても、とても香港に行く気になれないような、あるいは行けなくなるような問題が日中間に発生したら・・・・。

考えてみれば、私が香港詣でをやめなくてはならなくなりそうな問題はいくらでもありそうである。

まぁ、それは考え過ぎだと言われれば、そうだな、とも思う。そんな状況は私個人の手におえるものではなく、そこまで考えると限がなくなる。考えすぎてこれ以上白髪が増えるのも困りものではある。

私としては日中間に何事も起きず、私たちの香港詣でがつつがなく続けられるようただ願うばかりだ。

そして、いつの日か香港詣でが終わるにしても、桜の花が時期の終わりと共にさらさらと散るように、ごく自然に満ち足りた気持ちで淡々と終わりたいものだと思う。

ベリンダ姉妹の桜見物のおかげで私も色んなことを考えることになってしまった。

彼女たちは今回桜の満開だけを経験して帰ったが、彼女たちにもまたいつか桜が雪のように散る様を見せてやりたいものである。