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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

香港の本事情

2007-08-07 14:59:58 | Weblog
これは昨年のクリスマスのことだが、中環にある三聯書店で何気なく「愛上珈琲」(コーヒーに魅せられて)という本をぺらぺらめくっていて、ふと値段を見ると定価が35ドルとあった。

な、なんだとー!

装丁といい、紙質の良さ、それに写真の多さといい、これで35ドルとは安すぎるではないか。しかも、それは割引値段のシールではなくて本に印刷してある値段だった。これなら普通100ドル以上するはずだ。いったいどうなってるんだ。

しかし、頭に上った血が徐々に引いて冷静になってみると、それは簡体字で書かれていた。つまり大陸で出版された本だったのである。どうりで値段が安いはずだ。

私たち日本人の大部分は中国語というと普通話であり、簡体字で習う。私もそうだったし、そのため繁体字に慣れるには少々時間がかかった。しかし、慣れてしまうと繁体字の方が好きになり、繁体字の縦書きでなきゃ中国語じゃない、とまで言うようになってしまった。

香港の友人には簡体字が読めないというやつだっているのだから、私はいわば両刀使いなわけだ。

また、もともと簡体字が読めるものだから、何気なく手にとって読んでいるぶんには意味がするする入るため、その時は間抜けなことに簡体字で書かれていることに気がつかなかったのである。

以前なら、大陸の本は表紙は薄く、紙質も悪かった。装丁にしても愛想のないことおびただしい。だから一目見ればそれが大陸のものか香港や台湾で出版されたものかがわかったものだ。これはやはり大陸の経済発展の賜物ではあるだろう。

しかし、本というものは中身が勝負だし、安ければいいというものではない。大陸では出版できないものなら香港や台湾で出版された繁体字の値段の高い本でも読者の需要さえあれば売れ行きということでは別に問題はないだろうし、住み分けは可能だろうと私は考えていた。

例えば、「ワイルドスワン」を書いた張戎が毛沢東を批判的に書いた「毛澤東―鮮為人知的故事」(毛沢東―知られざる物語)などはやはり大陸では印刷も出版も難しいだろうから、私が買ったのは香港で印刷され出版されたものだ。

みんなが跑馬地の入り口に新しくできた新華書城は本が安いから、行け行けと口々に言うため、本ばかりは安けりゃいいものじゃない、と考えつつも行ってみた。4階建ての香港としてはかなり規模の大きなそこでは大陸の出版物にかなり重きを置いた販売をしていた。

ところが、である。これは別の店での話だが日本の妹尾河童の翻訳本が売られていたのでつい買ってみた。「工作大不同」という本だが、これは多分「河童が覗いた50人の仕事場」で、そして新華書城では「河童旅行素描本」、つまり「河童のスケッチブック」を発見した。

ここが、ところが、なのだが、台湾版の「工作大不同」は385ページで116ドルだったが、大陸版の「河童のスケッチブック」は250ページで定価18ドルなのだ。もちろん大陸版は簡体字で書かれている。

現在中国元と香港ドルは逆転し、元の方が高くなっているが、それでも大雑把に言って1対1だろう。確かに「工作不同」は135ページ多いから、分量だけで計算すると、「河童のスケッチブック」は約65パーセントの分量となり、台湾版の116ドルを元に計算すれば75.4ドルになるはずである。

まぁものがものだけに分量だけで計算するのは問題なのだが、しかし、値段の格差の違いは明らかだ。しかも本自体の質には差がなく、ただ繁体字か簡体字かの違いだけしかない。

そして「河童のスケッチブック」をめくっていて突然「欧巴桑」という文字が目に飛び込んできた。

こ、これは「おばさん」ではないか。日本が台湾を占領していた時代に残った言葉の一つである。えっ、もう大陸にもこの「おばさん」が中国語として浸透してしまっていたのか。し、知らなかった。この驚愕の事実に私は打ちのめされた。多少なりとも中国通を自負していたが、もうその看板は下ろさねばならない。

ところが、またところがなのだが、表紙の裏に小さな文字で「本書の訳文は台湾の遠流出版事業株式会社より権利を譲渡され使用しているものである」と書いてあった。

つまり、もともとは台湾の遠流出版が版権を買って翻訳し、その中国語を大陸の出版社がただ単にそのまま簡体字に組みなおして大陸で印刷し出版しただけだったのである。それが、めぐりめぐって香港に入ってきたわけなのだ。

それにしても、大陸の読者は「欧巴桑」なんてなんのこっちゃわからなかったのではあるまいか。実にいい加減といえばいい加減。おおらかといえばおおらかなことではある。

だが、確かに今の香港の大人は簡体字にはなじんでいないが、子供たちはもう学校で普通話の授業がある。大陸との往来は日を追うごとに増している。7月26日のテレビのニュースでは、深圳の住民200万人に香港への自由往来のパスを与えてはどうかという案が検討されようとしていると報道されていた。

さらに、毎日200人が移民として移動してきているし、大学も大陸の優秀な学生を入学させようとあれこれ努力している。

今後簡体字を読める、あるいは簡体字にさほど違和感を覚えないという人もどんどん増えるだろう。台湾でさえ簡体字の本が売られるようになったとも聞く。香港で出版される本でも繁体字であっても横書きのものがどんどん増えてきている。

もし、大陸の出版社が日本の版権を直接買えるなら、印刷製本のコストはかなり低く抑えることができだろう。それに今後は香港でも簡体字に違和感を覚えない人の数もどんどん増え続ける一方に違いない。大陸ばかりでなく香港や台湾に安い値段で卸されれば、台湾の日本語翻訳本の出版社は太刀打ちできないだろうし、印刷製本業者の商売もあがったりということになる。

さらに、もし大陸の自由化がもっと進み、発禁処分を受ける本がもっと減れば、安くて面白い本がもっともっと入ってくるようになるだろう。私の好きな「縦書き繁体字の本」の命運ももう風前の灯なのかもしれない。

本というものは単なる商品ではないにしろ、こんな側面からも大陸と香港台湾との関係がじわじわと変わっていることが身に沁みてわかってくる今日この頃である。

翻訳文の修正について

2007-08-03 22:25:18 | Weblog
アップしてないに、閲覧者のカウントが上がっていて不思議だったのだが、これは
私が翻訳の修正をしたからだろうか。何か動きがあると閲覧者にお知らせが行くシステムがあるんですかねぇ。私はこういうシステム的なことがまったくわからない人のだ。つまり何にも出来ない人なんですね。

今回21日から27日にかけて香港に行った。日頃の行いがいいものだから天気は晴ればかり、最高気温32、3度という日本と大して変らない。それどころか帰った翌日は大阪は34度である。これなら香港の方がましではないか。

で、実は私が訳した「なぜ僕を愛するの?」の中にわからない部分が多々あって、そこは在日の香港人に聞いてもわからなかったから、自分の勘で適当に訳したのだが気になって仕方がない。

だから、香港で何人かに聞いたが同様に要領を得ないのだ。あきらめかけたのだが、杏花邨でスタンレーと飲茶する前に、私はまたその「等待香港」を銅鑼湾で買って持って行った。

スタンレーは昼食時に会社からわざわざ駅の中にある酒楼まできてくれたのである。持つべきは「老友」だ。25年近くたちお互い白髪の方が多くなってきていて正真正銘の「老いた友」になってしまったけれど。

そこで飲茶をしながら私はスタンレーに本を開いて、その箇所を示して訊ねてみたが、スタンレーも頭をひねりながら結局わからなかった。だが、その本を持って帰って同僚たちに聞いてみてくれるという。

それは「捉狭」と「大哉問」というやつである。これは辞典にも載っていなかった。

だから、私はもう諦めていた。作者が何か独自に造語したのだろうと推測したのだ。こういうのは日本語でだってよくあることだ。

しかし、その日の夕方、阿豪とスタンレーと三人で西餐を食べた時、スタンレーは同僚がインターネットで調べてくれたとにこにこ顔で数枚の紙を出してきた。

「捉狭」は東北方言で、「いじわる」とか「いたずらをする」とかいう意味で、「大哉問」は孔子の「論語」の中に出ている言葉で「非常に重要な問題」という意味で使われているということだった。

いや実にありがたかった。どうにも消化不良のようで気になって仕方なかったのである。しかし、スタンレーもそんな本を読める日本仔(やっぷんちゃい)の友人がいるのかと驚かれて、なんだか鼻が高かったそうである。くすぐったい気がするが、ま、スタンレーが嬉しかったのなら、わざわざもう一冊買った甲斐があったというものだ。もちろんそれはスタンレーに進呈した。だって家にはもう一冊あるのである。それでなくても今回も30冊ばかり本を買ってしまったから、もう持って帰る余裕なんかない。。

ま、そんなこんなで再度編集をしなおしてアップしたから、RSSとか何とかで通知が行って、新しいものがアップされたと勘違いされた方がいたら申し訳ないのだが、再度「なぜ僕を愛するの?」を読んでいただきたい。あちこちちょっとばかし変っている。



レスリー・チャン「なぜ僕を愛するの?」

2007-07-15 22:29:21 | Weblog
前回同様、林奕華著「等待香港―娯楽篇」より。著作権は得ていないので、抗議があれば削除されます。



なぜ僕を愛するの?
――ある水仙からの問いかけ


 9月12日に、亡くなったレスリーの48歳生誕記念事業に出席した後、私は場内の一群の女性陣たちに取り囲まれてしまった。というのも私がステージ上で語ったレスリーとの「縁」について、彼女たちはまだまだ興味がつきないようだったし、もっと多くのささやかな物語が聞ければと願うこと以外に、さらに私が彼女たちに替わって世間のレスリーに対する「誤解」を解き晴らしてほしかったからだった。「情熱コンサートについてはどう思います?このコンサートのことでレスリーに対してマイナスの評価をする人がたくさんいますけど・・・・」最後にはさらにこんな質問もあった。「彼のために本を書こうと思ったことがありますか?」

 ある。もちろんあるさ。ただ、もしこの本を実際に書いたとして、それがいったいレスリー・チャンのためのものなのか、それとも香港文化のためのものなのか、またあるいはただ単に自分自身のためのものなのか、それが今のところ私にははっきりしないのだ。あなたもこう言える、――または私は自分にこんな風に言ったものだ――この本が書かれて初めて、その中のこんがらがりから絡まりあったものがはっきりと解き明かされるかもしれない、と。レスリーの名で引き起こされた複雑な感情が未だにおさまっていないため、私たちがその「痛み」を感じようが感じまいが、「レスリー・チャン」は依然として多くの人の心に長く癒えることのない傷口として残るだろうと、私は考えている。

 例えばだが、仕事の関係から、私はよくマンダリンホテルの前を通らねばならない。車の窓からその最上階を見上げると、それがどんな時であれ、私は時間が突然止まってしまい、まるで誰かがそこに立って何か懸命にもがいているのを見たかのような気がしてしまうのだ。この感覚はあたかも誰かが苦しんでいるのを見て、自分も同じように苦しくなり、しかもその苦痛は倍加してしまっているかのようだ。自分のいるところから一足飛びに彼の傍に飛び移り、彼を引きずりおろすことができない以上、私はただおめおめと歴史の目撃者の役を演じることしかできない。だから、ほとんど毎回車がマンダリンを通過する都度に、私の目はどうしても何らかの苦痛を覚えてしまう。つまり、見たくないのに見てしまったかのようなのだ。多くのレスリーファンがこのことについては私と同じように感じるだろうと思う。

 また、そうだから、ファンたちが4月1日と9月12日の一年に最低2回ホテルの下に来て、首を長く伸ばして、あんなにも早く落ちるべきではなかったあの星を仰ぎ見ることに心から敬服する。

 次のことは知っておく必要がある。地上に立っていて、今にも生と死のわずかな境に落ち込みそうな状態にあるわけではないという人であっても、誰しもが潜在意識の中ではレスリーの「勇気」に心を揺さぶられるかも知れず、そうして宙に跳んで落下する彼の姿をくっきりと際立たせたあの空が、実は私たちの勇気に対していたずらっぽく瞬きしているのだ。あなたは彼が直面した挑戦を受け入れられるだろうか。レスリーがなぜ挑戦を受け入れたのかという理由は大多数の人にとって永遠の謎だろうが、しかし、時には解くのがさほど難しくない「謎」もある。私たちはあるいはレスリー・チャンにはならないかもしれないが、だが彼が直面した難題は、必ずしも私たちが絶対分かち合えないとは言いきれない。(ただ共有できないだけなのだ)

 ひょっとしたらこれがダイアナ妃の死とレスリーの死が意味合いとしては近くもあり、遠くもあることの原因かもしれないが――ふたつともに悲劇であり、ある種「性格が運命を決定する」ということを見せつけられはしたのだが、しかし、私たちはレスリーに対するほどにはダイアナ妃に自分を重ね合わすことはしないだろう。それというのも私たちはチャールズの後添えになりたいなど、はなから思いはしないだろうが、しかし舞台とスクリーンの上から受け取った幾多の寵愛と、スクリーン外の恋人(唐氏)がついに家族となったことについては、これらはみんなが取って代われるシンデレラが苦労の末獲得した成果なのである。けれども、残酷なことに私たちは一発横っ面を張られて神話の世界から目を覚まさせられてしまうのが、またその主役なのだ。なぜなら「彼はこれ以後楽しく暮らしてはならない」のであり、逆に運命が彼を押したその一掴みにより、長い年月を経て再びよみがえった一羽の火の鳥に変わらねばならないからだ。

 昨日ある台湾の新聞で頼声川が愛のためにビルから飛び降り自殺した徐子婷の出棺について、「私はレスリー・チャンを許さない。もし彼のことがなかったなら、徐子婷はまだ生きていたに違いない。彼はアイドルだったのだから、悪い見本になってはならなかったのである!」という感想を述べた。頼の批判はもちろん彼の一方的な考え方がほとんどだ。というのは、しっかりとした事実や根拠がさほどないからだ。ところが、それによって私はより核心に迫った問題を考えさせられてしまったのだった。ある人々が生命を終わらせる理由は、決して「愛」が欠けていたからではなく、――身の回りには彼を愛する人に満ち満ちていた――けれど、それらの思いやりやいたわりを合わせても、彼が望みかつ得られなかったあの種の愛を満たすことはできなかったのだ。表面的にはそれはある人の彼に対する拒絶でありうるが、だが実はある人が受け入れてくれなかったことで、彼はようやくそれまでずっと自分を愛していなかったあの自分を発見したのかもしれなかった。

 全世界であれほど多くの人がレスリーを追ったここ数年の間、これらの感情の本質が何であれ、理論的には彼に孤独と寂寞を感じさせずにおくには十分だったはずだ。しかし、彼が憔悴し、枯れきってしまっていたことは、事実が私たちに告げている。レスリーは去年の4月1日に決然とした姿で自分の生命に別れを告げたが、角度を変えてみると、それは彼を愛する人に対する「拒絶」だったといえるのではないだろうか。悲劇が起こった後、頼声川のように「彼を許さない」人はそれほど多くはなく、大抵は自分を愛することに苦しんだ人をそれ以上責めたてるには忍びなかった――試しに聞いてみるが、一人の人間が心底自分を愛したくないことよりも人を苛み、痛めつけるほどの苦しみとは何があるだろうか。

 ファンクラブはレスリーの美しい拡大写真をたくさんたくさん生誕祝賀会場内に置いていた。その他にまだピンク色の風船や、ピンクの色紙で折ったカードもあり、それぞれの上にありとあらゆる愛の言葉が書かれていた。見渡すと、会場いたるところが愛のため息ばかりで覆われており、それらはすべてある種の「得られなかった愛」からきているのだった。この雰囲気に囲まれ、私は写真の中でひっそりと微笑むレスリーが私を生命の大いなる疑問の前に導いたのに気づいた。君は僕を愛してるのかい?君が僕を愛するのは、僕を愛することを通して自分を愛するからかい?それとも君が自分を愛していないから、僕を愛するのかい?
 



レスリー・チャン「見ることと見られることと」

2007-07-08 11:31:31 | Weblog
これは著作権を得ていない翻訳であり、もし作者より抗議があれば即削除します。ただ、抗議があれば当方にとってはもっけの幸いで、それを機に作者と著作料について交渉する意思があります。

OXFORD出版社 林奕華著「等待香港-娯楽篇」より、



 レスリー・チャン「見ることと見られること」

 初めて張国栄を見たのは、ある仏教系ハイスクールの制服を着ている彼だった。初めて張国栄を見た私も、着ていたのは同じ制服だった。初めて張国栄を見たのは、レスリー時代の到来にはまだ間があったが、しかし彼はすでにあの見られることに慣れた「張国栄」だった。つまり、あのたった15歳くらいで、登校する時には女子学生の肩に手を回し、バスケットボールを始めるとすぐにみんなが吸い寄せられるように廊下に集まり、手すりに寄りかかって、一心不乱に見つめて夢見心地になってしまう「張国栄」のことだ。

 昨夜のテレビ報道で、私たちは張国栄とは芸名に過ぎなかったことを知らされた。もっとも張は本当の姓だったが。理論的には、彼を「知った」早々に私は彼が何という名前か聞いたことがあるはずだが、彼がどう答えたかは本当に忘れてしまっている。あるいは、私は彼にまったく何も聞いたことがなく、これまでひとこともまじめな話をしたことがなくて、あるのは幻想につぐ幻想に過ぎなかったのかもしれない。だから、私は彼と人生のある段階で肩が触れるほど近くですれ違ったことが本当にあったなどとはあまり認めたくなかったのだ、ある年彼が黄韻詩のインタビューを受けるまでは。(商業テレビ番組「笑口早」)彼は黄に言った。「林奕華のことは憶えてるよ。あいつは僕のとこへやってきてこんなことを言ったやつさ。『もしこの世にほんとにロミオがいるなら、それは絶対君みたいなやつだと思うよ』だって」

 第三者の口からこんな話を聞いた時、私の顔がどんなに真っ赤になったことか、あなたは想像できるに違いない。「おれ、そんなこと言ったかあ?」私は繰り返し巻き返し黄韻詩に訊ねたが、目的はもちろんある種のきまり悪さを払拭したかったからだ。しかし、ハイスクール2年生の面の皮の厚さを見くびってはならない。私にはひとりの先輩をロミオにたとえたかどうか確認するすべはまったくないのだが、ただ、彼に「私」という存在があることを知らしめるために、彼と彼に肩を抱かれた女子学生のあとをつけて「適麗」というレストランに入り、学生特価定食を食べ、さらに食べ終わった後、大胆にも彼の前に行って面と向かい、こう言ったのははっきりと憶えている。「おれ、もう君らの勘定払っといたから」

 彼の反応?それはここを読んでいるあなたと大体同様で、つまり失笑だっただろう。ただ、残念なことに当時の彼の表情はすでに私の取捨選択的記憶からはきれいさっぱり洗い流され、今まだ印象に残っているのはあのレストランの別名が「泥を食う」だったということだけだ。あんなにも垢抜けない行為はもちろん何も誇るべき事柄ではないし、道理から言って、当事者自らが掘り起こして他人にからかわれ、笑ってもらおうとする理由はないだろう。しかしながら、あの夜、とあるレコード店で彼の訃報の放送を聴いた時、不意に、私はあのずっとずっと昔に私の「幻想」を引き起こした「張国栄」を思い出したのだ。

 遥か遠くに離れ離れになった私と彼が2、3年後にまた再び顔を合わせることになり、その上地位的には微妙な逆転が生じていようとは全く予想もしなかった。あのころの私は副業でテレビ局に入りシナリオを書いていて、彼はといえばテレビの歌番組でのし上がろうとしていた。私たちはついに麗的テレビの第七号スタジオでお互いを見かけたが、環境も違い、身分も違うと感じ、二人ともよりいっそう近づき難くなってしまい、ただちょっと会釈しただけだった。だが、この一幕の方が私にとっては却って印象に新しい。

 私もかつて彼との縁もこれで一段落したと思ったことがある。彼の歌や映画、テレビドラマは私の路線とは違ったし、それどころか、例えば彼の「覇王別姫」での女形役を演技が下手だと批判したこと等々、彼のことをあら捜しばかりする「観客」になってしまっていた。思い返せば、私の彼に対する反発はある種の心理的行動の照り返しと言えなくもなく、だから《東邪西毒》と《東成西就》を観終わって、彼に対する見方を心の底から変えた時、私もまた同時に一種の開放感とその心地よさとを感じたのだった。

 その後、ある晩、私がある友人と「あなたに首ったけ」でお茶を飲んでいると、彼は遠くから私を見つけ、惜しむことなく微笑みと挨拶をくれた。勘定を払う時、ウェイターは私たちに言った。

「お勘定はもう張さんからいただいております!」

 何とまあどこかで聞いたようなセリフではないか。

 あれは《ブエノスアイレス》が「金馬奨映画祭」に出品された後のことのはずだが、彼は多分あれこれ中傷的な噂を耳にしたのだろう。審査員の一人である私が「梁朝偉はゲイじゃないから、ゲイのようには演じられなかった」という理由で彼を「主演男優賞」にノミネートすることを否定したという噂が流れており、一ヶ月余りの後私と張国栄がベルリンで会った時、彼はすこぶる緊張した様子で私に確かめようとして、私の手を軽く叩きながら言った。
「君がほんとにそう考えてるなら、それは間違ってるよ」

 私はすぐに彼に私の意見がどう歪曲されて広まっているかを説明した。もともとは「もし異性愛者の俳優が同性愛者の役を演じたことで受けて当然の評価を受けるのが当たり前だというなら、同性愛者の俳優がスクリーン上でずっと異性愛者を演じているのはそれ以上に称賛されるべきではないのか」(平路もこの意見を支持した審査員の一人だった)というものだったのに、それが「同性愛者が独占してしまい、異性愛者の俳優を追い出してしまった」というものに変わってしまったのだ。ことの顛末を聞き終え、彼が笑って言ったことを私は憶えている。「授賞式が進行して審査員が入場する時になって、君が僕の方を見なかったんで、僕は心の中ではもう大体わかってたけどね」

 それは張国栄が私へ言った最後の言葉だというわけではないのだが、ただこの話は私と彼との付き合いにとって総仕上げの意味合いを持つことになった。自覚するにしろしないにしろ、私たちは、いつ人に見られまた人を見るか、どのように見られまた見るか、そのことによって自己の価値を決めることに一生汲々としている。視線はこのように価値の指標となり、まるで一対の翼のように高く飛ぶことができるし、また重みに耐えかねて折れてしまうこともある。過去26年の間、どれだけの人が視線を張の上に注いだことだろうか。だが、彼が何を見たかったのか、誰に見てもらいたかったのか、そして、彼が最も見たくなかったものは何だったかを、その中の誰が知っていただろうか。

続なんやろこの気楽さは

2007-07-02 20:46:47 | Weblog
私はふと、デタム通りのレストラン「グッドモーニングベトナム」の向かいあたりのカフェのことを思い出した。

ある日の昼下がり、多分3時ころだったと思うが、昼寝から醒めて、遅い昼食をとりにデタム通りに行き、そのカフェに入ったのである。

客はひとりだけで、おかっぱのような金髪の60歳半ばくらいのやせぎすの老人だけだった。私は老人の斜め後ろのテーブルに、表に向って座った。背後から見るとタンクトップに半ズボン姿の老人の肩のところに青い刺青が見えたが、年のせいでそれもまた少しばかりしなびていた。

老人は分厚いペーパーバックの本を読んでいて、テーブルにはコーラのビンと空のガラスコップがあった。

ウェイトレスがメニューを持ってきて、私は焼き飯を頼んだ。

「他には?」

ウェイトレスは仏頂面で言った。

「じゃあ、コーラ」

途端に、にこっと愛想いい笑顔に変った。

店にはクーラーはかけてなかったが、乾季のせいか室内は少しも暑くはなく、少し薄暗い店の中から表通りを眺めて座っているとちょうどいい心地だった。

ウェイトレスの持ってきた焼き飯は量といい味といい、私の予想を裏切ってなかなかのものだった。

食べ終わり、さて持ってきていた司馬遼太郎の文庫本のエッセーでも読もうかとした時、突然老人が振り返って大声で叫んだ。

「スプライト!」

老人は甘党らしいが、刺青をしている以上ここはやっぱりビールだろうに。

老人は常連客らしく、ウェイトレスと親しげに二言三言言葉を交わしたが、すぐに本に目を移した。

その振り返った顔を見て、私はどこかでみたことがある、と思った。そしてすぐに思い出した。老人はあの俳優のリチャード・ハリスに似ていたのである。ただ、体格はそれより一回り小さかったが。

確か数年前になくなったはずだが、クリント・イーストウッドの「許されざる者」で、保安官役のジーン・ハックマンにぼこぼこにされるきざなイギリス人ガンマンを演じていた。


老人は一心不乱に本に没頭していた。こんな老人が何でまたベトナムのホーチミン市のバックパッカー通りに沈没しているのだろう。私は文庫本を読むのをやめ、老人の後姿を見つめた。

戸外は陽光に溢れて明るく、老人の姿は少し影絵に近く私の目には映った。

どう見ても老人は堅気には見えない。

ひょっとして、老人はかつてベトナム戦争時代、従軍記者か何かでここへやってきたことがあったのかもしれない。引退し、そして母国ではすることもなく、この陽光に満ちた呑気な国へ、過去の記憶と共にやってきたのかもしれない。

ここであれば母国ではかつかつの生活しかできない金額の金でも十分過ぎるほどの暮らしができるだろう。いや、何よりもかつての自分の最も生き生きとしていた時代を反芻することもできる。

私は勝手な想像を思う存分膨らませてみた。もし、「ベトナム戦記」を書いた開高健がまだ存命だったらどうだろう。開高もまたそうしただろうか。この平和な、テロもなくなり銃弾も飛び交わなくなったベトナムで本でも読みながらバックパッカー通りに引きこもったりしただろうか。

今、海外で引きこもり、という言葉があるという。例えば、日本で数ヶ月ほど働いて、残りを物価の安いタイのバンコクや、ネパールのカトマンズあたりの安宿で過ごすのだという。

ただ、何をするでもなく、食事以外は外にも出ずに、あるいは出ても現地の安いカフェでコーヒーいっぱいで数時間も粘るという生活をするのだそうだ。そしてそんな連中がベトナムにもいるという話である。

なるほど、と私は合点がいった。こんな雰囲気ならそれも可能だろう。陽光に溢れた世界では人間が自堕落にしていることを大目に見てくれそうだ。これなら呑気にしていて、働かないことに対してさほど疚しさを感じないですむに違いない。

それもありだなぁ、と私は思った。

「何やろなあ・・・この気楽さは」

円安円高の為替変動に目を血走らせている小村さんですら感じるこの気楽さ、それこそこのベトナムのベトナムらしさなのではないだろうか。その気楽さを私たち外国人はおすそ分けしてもらいにここへ来る。

願わくばこの気楽さがいついつまでも続いてくれればいいのだが。






[極少数の読者様へのご案内]
ベトナムネタはこれで終了です。今後はまた香港ネタに戻りますので、香港に興味のない方はご了承ください。

なんやろこの気楽さは

2007-07-01 17:02:46 | Weblog
「何なんやろ・・・この気楽さは」

小村さんが感に堪えたように言った。

「ほんまですねぇ・・・」

と私も気の抜けた声を返した。

私たちはサイゴン川に沿った遊歩道のベンチに座り、ぼんやりと川面や対岸を見つめていた。青い空が頭上に広がり、対岸はまだ未開発地域だから緑が遥か向こうまで続いていた。

上げ潮らしく、川の水は下流から上流へと流れていて、大きな水草がゆらゆらと水の流れに乗っていた。遠くの右手の下流に大型貨物船がたくさん停泊し、大きな倉庫らしい建物も見える。どうもそこがサイゴン港らしかった。

フェリー乗り場には夜のクルーズ用らしい船が泊まっていたが、船員たちはおしゃべりに夢中で仕事はあまりはかどってないようだった。

夕陽は沈みかけ、暑さは感じなかった。川の微風が心地よく肌を撫で、身体のすみずみまでが弛緩して自分がベンチとひとつになってしまったように感じた。

「日本はもちろんやけど、台湾でも中国でも、ここまで無防備にのんびりとなれることはなかったねぇ」

小村さんがベトナムへ工場を建ててもう数年になる。

「ベトナムへ来て良かったですか」

私はぶしつけに聞いた。

「う~ん、やっぱり良かったような気がしますねぇ。この先何が起こるかわからへんけど、なんかほっとするとこがありますわ、ここには」

そして慌てて付け加えた。

「もちろん、これは僕個人の感想やからね。他の人のことは分かりませんよ」

私もここに懐かしさに似たものを感じていた。それは子供時代、つまり50年も昔の日本の貧しいけれど、時間の流れがどこかゆったりとしていた、そんな時代のことである。

ベトナムの経済発展はマスコミでも盛んに取り上げられる。しかし、ご多分に漏れず貧富の格差は増すばかりという光と影の関係は確かにある。ここが呑気なパラダイスだと言ったら、すさまじい反論が無数の具体例と共に湧き上がるだろう。

それは確かにそうなのだろう。けれど、なんというかここの人々にはもともとどこか呑気な気質があるような気がしてならない。ほんのわずかな滞在日数でこんな結論めいたものを出すのは気が引けるが。

例えば道路の歩道にあるバイクの駐輪場である。

駐輪場とは名ばかりでバイクをびっしりと歩道に並べているだけなのだが、その管理人は並んだバイクのシートをベッド代わりにしてだらしなく寝そべっている。

バイクタクシーの運ちゃんは、木陰にバイクを停め、これまたシートに尻を載せハンドルを枕代わりにしていて、客らしき人影を見つけると、身体を起こさず、まるで友達に挨拶するみたいに、ただ手だけを高く上げて「バイク乗らへんか」と熱意不足の勧誘をする。

いろんな店の店先にも店員が椅子を持ち出して座ったり、カウンターに頬杖をついたりして、商売よりも往来の観察のためにそこにいるかのようなやる気のなさでだらんとして眺めている。

日本でなら、客が来たらどうすんだ、と叱られるところである。

「バイクタクの運ちゃんって儲かるんすかねぇ、結構たくさん走ってるけど」

「う~ん、そうもうからんやろうけど、聞いた話じゃ、2、3日稼いだら博打に行って遊んで、金がなくなったらまた走るっちゅうパターンらしいけどねぇ」

小村さんの声には非難めいた響きはなかった。

「でも、ええんちゃうかなぁ。僕らはなんや焦りすぎですわ。何かわからんけど、とにかく前に進まなあかんちゅう強迫観念みたいなもんが、もうしみついてるもんねぇ」

ベトナムの人は勤勉に働くという。しかし、気質の中にはどうも、まぁそんなにあせらんでもええやないの、というのがあるらしい。

私たちは何をそう焦っているんだろう。ここまで豊かになりながらなおかつ、板子一枚下は地獄、のような感覚と隣りあわせで生きている。

ここの人々の暮らしにも不幸は嫌というほどあるだろうし、日々の暮らしに追われているのも確かだろう。しかし、それでも私たちほど悲観的にはならないのではないかという気がする。まぁ、何とかなるやろ、そんな肩の力を抜いた気持ちで日々をやり過ごしているのではないだろうか。

「やっぱり南と北のちがいやろか。極端な話、こっちじゃ田んぼに種まいたら米が育つわけやからね、日本みたいにせっせと世話せんでも」

「バイクタクの運ちゃんなんか明日のことぐらいしか考えてないんかもしれませんねぇ」

小村さんは笑った。

「明日どころか、せいぜい今日のことぐらいしか考えてないんやないの」

南方には陽光が満ちている。雑誌で読んだことがあるが、太陽の光は何とかいう物質を人間の脳から分泌させ、活力を生み出すんだそうだ。

だから、ひょっとすると南方の人にはノイローゼとかに鬱病にかかる人の割合が相当低いのではないだろうか。私だってそうだ。ベトナムに来てから、根が神経質な私が気を回すことが少なくなっているようなのである。あんまり深く考えず、成り行きでばかり動いている。

続続続デタム通りあたりで朝食を

2007-06-29 21:03:16 | Weblog
頭の後ろで手を組み、いい気分でそんな光景を眺めている私の前に、突然ひとつの黒い影がぬっと立って視界をふさいだ。

ぎょっとして見上げると、帽子をかぶり上下黒の、多分それはベトナムの農民服なのだと思うが、昔ベトナム戦争時代ベトコンが来ていたようなくたびれた黒いシャツとズボンの少年が靴磨きの道具を持って突っ立って私を見下ろしていた。

少年は無言で片手に下げた道具を少し持ち上げ、靴磨きをさせてくれないかという意思表示をした。

だが、私の靴は残念ながら布製のウオーキングシューズである。私はテーブルの下から足を持ち上げて見せてやった。

しかし、少年は無表情にこくんと頷いた。

いやいやちょっと待ってくれ、こんな靴磨いたってしょうがないだろ。

「ノー、ノー」

と私はあわてて断った。

すると少年は何の反応も示さず、ただ無言ですっと私の前を離れて歩き去ってしまった。

その時私の心の中に何か得体の知れない黒いものがべたりと張り付いた。そして、しばらくしてようやくそれがその少年の目なのだということがわかった。

少年の目は初めから終わりまでまったく表情というか、感情がなかったのである。磨かせてくださいよという阿諛もなければ、私に断わられた時にもそこには失望の色はなく、あるいは私のけち臭さに対する怒りもなかった。

「ちっ」

と舌打ちでもされれば、私の気持ちはむしろ救われていただろう。それは絶望とかいうものまで通り越した無機質な虚無的な目で、それが一直線に私の心の中にずどんっと落ち込んできたのだった。

ベトナムにもたくさんのストリートチルドレンがいるという話は新聞でも読んだことがあるし、実際チョロンを歩いている時、5、6歳の半ズボンにビーチサンダルの薄汚れた風体の子どもが私に手をつないできた。しばらくそのままにしていたが、とうとう私は声を荒げて手を振りほどいた。

お金をやれば、またどんどん集まってくるという話を聞いたことがあるし、また逆にそんな少年をなめてかかってこづいたりすると、あっという間に何十人もの子どもに取り囲まれてえらい目にあうという話もネットで見たことがあった。

私は逃げるように小走りで現場を去ったのだった。

ベトナムは確かに発展しつつある。高いコーヒーショップにノート型コンピューターを持ち込んで何やら盛んにキーボードを打っているようなベトナム人もざらにいる。夜の街を高そうなホンダを乗り回す若者もいる。

しかし、また路上の使い古されたビニール袋を集め回る裸足の少年も見かけたことがある。それが何がしかの廃品として売れるのだろう。発展中のベトナムの影の部分は特に目を凝らす必要もなく見えてくる。

だが、この少年の目がいちばんこたえた。たとえスニーカーであっても汚れ取りに拭かせてやっても良かったのではなかったのか、それはたとえぼられたとしても1ドルくらいのものだろう。

金は上から下への施しではなく横へ動くべきだ。より価値の高まる人間のところへ動くべきなのだということを、私は数十年前にタイの片田舎での経験から学んだと自負していたこともあったはずだ。

私にとっての1ドルは屁のようなものだが、あの少年にとっては数倍かそれ以上の価値を持つはずだ。そんな考えがいつの間にやら私の中から滑り落ちてしまっていて、それに少しも気づいていなかったわけである。

私は椅子にへたり込んだままあれこれくどくどと考え続けていた。

しばらくして勘定を払い、店を出た。それから思った。明日もここへ来てみよう、そしてあの少年が来たら、私のウオーキングシューズを磨かせてやろう。ぼられたってたかが知れているではないか。

そんなことでベトナムの繁栄の影にある貧困が解決できるわけでもないが、ひとりの貧しい少年がわずかばかりでも稼ぎが増えれば、ほんの少しでも少年は喜びを得るだろう。

そんなことに何の意味があるだろうか、と思ったし、また一方でほんとうに何の意味もないのだろうか、とも思った。

ブイビエン通りをホテルの方へ向かって歩いていると、右手にイエローハットという両替屋を見つけた。ドンも減ってきたし、ここらでもう少し換金しておくか。私は大きく背伸びをしてから店の中へ入っていった。

そのレストランには翌日も翌々日も通ったが、靴磨きの少年は現れなかった。おかげであの少年の目は今も私の記憶から消えないままでいる。

続デタム通りあたりで朝食を

2007-06-28 17:19:47 | Weblog
市場から家並みの路地に入るとそこでも道端に少量の野菜を並べたり、たらいに入った魚などの小商いをしているおばさんたちがたくさんいた。路地はくねくねと曲がり、人が二人やっと並んで通れるかといったところなのに、それでも物売りがいたりするのである。

そこはベトナム人の庶民が住む家々の裏手であり、開いた窓から家の中が覗け、本当の庶民たちの息遣いを感じとれた。

私は方向感覚には少しばかり自信がある。適当に角を曲がりながら歩いていると少し大きな通りに出た。そしてそこを右に折れて進むとブイビエン通りにぶつかった。私は自分の方向感覚に自信の上塗りをすることができ、ひそかにガッツポーズをしたのであった。

そしてその通りがブイビエン通りとぶつかったところの角にそのカフェはあった。

カフェの外に安っぽいビニールのテーブルクロスを掛けたテーブルが幾つか並び、ちょうど中年の西洋人旅行者が席を立つところだった。

そこはT字路を正面にしたいい場所だったので、私は後片付けを待たずにそこに座った。

ウェイトレスとはいっても、制服など着ていない普段着の女の子だが、テーブルをざっと片付けると、写真入のメニューを持ってきた。英語も一緒に書いてあるが、写真は何よりである。

私は目玉焼きとソーセージにトマトのスライスがのっかっている、フランスパンつきのモーニングセットを頼んだ。もちろんベトナムコーヒーつきのやつである。

「ブラック?」

と女の子は聞いた。ということは甘ったるいベトナムコーヒーに辟易している外人旅行者がたくさんいるということだろう。わたしだってそうだ。

しかし、である。ここはベトナムではないか、郷に入れば郷に従え、という言葉は世界のどんな言語の辞書にも載っている普遍的な真理である。中国語なら「入郷随俗」というし、英語でなら・・、よく知らないが確かあるはずだ。

私は迷わず純粋ベトナムコーヒーを頼んだ。

さて、写真どおりの料理が出てきたが、ベトナムコーヒーにはブリキのフィルターにコーヒー粉が入っており、それに小型の魔法瓶がついてくる。客は魔法瓶からお湯を注ぎ、フィルターに溢れそうになるとブリキの蓋をして、コーヒーが落ちるのを待つ。お湯が落ちるとまたお好みでフィルターにお湯を注ぐのである。

こうして飲むと何だか時間がゆったりと流れるような気にさせられて、なかなか優雅だ。甘ったるいはずのコーヒーが目玉焼きやソーセージの塩気とよくあった。

パンはフランスパンだが、あれは正式にはバゲットとかいうらしく、丸っこい形をした結構大きなパンだ。市場などでも竹篭に山盛りにして売っているからベトナム庶民の間でも普通に食べられているのだろう。

さて、このパンがなかなかのものなのである。日本のフランスパンと違い、皮が薄く、中はふんわりとやわらかい。しかもできたてらしくほかほかと暖かい。だから大きい割には食べやすいのだ。

これはフランス植民地主義のいい意味での遺産なのだろう。ベトナム在住の日本人にベトナムのフランスパンの人気が高いという理由がよくわかった。

テーブルの立て付けが悪いのか、地面がでこぼこなのか、テーブルはぐらぐら揺れるし、ハエが飛び回るのが難点だったが、とろりと甘いベトナムコーヒーを飲みながら、T字路を行き交う人やタクシーを眺めての朝食はなかなか風情があっていいものだった。

大きなデイバッグを背負った欧米人のバックパッカーたちが通り過ぎてゆく。欧米人のバックパッカーの女性はスカート姿が多く、その白いふくらはぎの若々しさが目にまぶしかった。そして彼らの姿がもう30年以上前の青春時代に同じような恰好で東南アジアを旅した自分の姿を思い出させた。

ブイビエン通りをタクシーがゆっくりと走ってくる。自転車に大きな荷物を積んだシクロがのんびりとカタツムリ的速度で進んでゆく。市場で買った朝食らしいビニール袋を提げたパジャマみたいな服を着た中年のおばさんが足早に通り過ぎてゆく。

自転車の前かごに新聞を積んだ新聞売りの女性が私の前で自転車を止めてチラッと見たが、東洋人だと知って、あきらめたように去っていった。

見たところ前かごの中の新聞はすべてアルファベットの英語かフランス語、あるいはベトナム語の新聞ばかりで、中国語のものは見えなかったから、私を中国人だと思い、買う気はないと踏んだのだろう。

デタム通りあたりで朝食を

2007-06-27 20:13:05 | Weblog
デタム通りあたりは、どちらかといえばバックパッカー御用達といった一帯になるだろう。一般のツアー客はドンコイ通りあたりを中心に動いている。

だから、ここらには貧乏旅行客の外国人が多く,彼ら相手のカフェや旅行社、ミニホテルが集中している。

とはいっても、ここらのカフェで食べるモーニングセットは安くても200円から300円はするので、普通のベトナム庶民の食べる値段ではない。

私が通った店はホテルを出て、ブイビエン通りを歩きデタム通りを越えてずっといったところにあるT字路の角の店である。通ったといっても3回だけから大きな顔はできないが。

二日目の朝、私は朝食をとろうとホテルを出た。最初はデタム通りのどこかのカフェに行こうと考えていたのだが、デタム通りへ行く前に右に折れる路地のような通りがあった。

その通りもデタム通りと平行していて、ファングーラオ通りへ出られるのだが、入ってみると結構たくさんカフェやミニホテルが並んでいた。あれこれ店を見ていると目移りがして決断力のない私はとうとうファングーラオ通りへ出てしまった。その反対側は公園である。

その時、シクロの運転手が声をかけてきた。

「ゲンキ?」

朝っぱらからシクロの運ちゃんに営業をかけられて、私はちょっとむっとし、無視してファングーラオ通りを横断して公園に入って行った。

シクロの運ちゃんをまいてやったまではいいが行く当てはない。公園の向こうにはどうもレストランらしきものが見えないので、私は公園の中をぶらぶらと歩いて行った。

とあるところまで来ると、ファングーラオ通りに露天の市場がたっていた。香港でもそうだが、市場には人間の匂いが充満していてこちらまで元気にしてくれる。だから私にはとても好きな場所なのである。

私はファングーラオ通りを横切って市場の中に入って行った。市場は野菜や肉、魚といったおなじみのものを商っていたが、ふとパラソルの下に山盛りにしたみかんを売っているおじいさんと目が合った。

おじいさんは歯のほとんど無い口をくしゃくしゃにして笑い、「みかん買わんかね」と、多分そういった意味のベトナム語を私に投げかけてきた。

そういや果物食べてないなぁ、ビタミンCは身体に不可欠だからと、私はおじいさんからピンク色のビニール袋をもらい、適当に10個ばかり選んで入れて手渡した。

みかんの上には水がかけられ、日の光にきらきらと輝いていた。

親父さんはビニール袋のみかんを秤にかけて値段を言ったが、私に聞き取れるはずがない。そこで例のごとくありったけのドン紙幣をポケットから取り出して見せた。おじいさんは笑いながら、その中から2000ドン抜き出した。

ぼられたようには思えなかった。私も笑顔を返して、みかんのビニール袋を提げ、市場の中を歩いていった。

歩きながらひとつ皮を剥いて頬張ると、実はぷりぷりとみずみずしく甘い果汁が口いっぱいに広がった。

続胡志明市の過馬路

2007-05-06 20:17:13 | Weblog
ホーチミン市で道路を渡る時、バイクと歩行者の間に、何といえばいいか、束の間ある種の無言のコミュニケーションが生まれているかのように、私には見えた。それが信号のないホーチミン市の道路に自然発生的な秩序を作り出しているのである。

これが中国ならどうだろうか、と考えた。

「うーん、中国なら無理ちゃうかなぁ」

と小村さんは腕組みをして首をひねった。

中国にはこれほどバイクは多くないようだが、中国人運転者なら歩行者に譲ることはまずないだろう。

「おらあっ!死にてえかあ」

と逆にフルスロットルで突っ込んでくるのではないだろうか。これはご意見無用のチキンレースであり、よけた方が負けである。しかし、大概は歩行者が逃げるだろう。歩行者に優しい中国人運転者というのはなかなか想像できない。

私がホーチミン市の路上で感じたことは、気質的に言ってベトナム人の方が中国人よりソフトなのではないかということだ。どうも中国人の方が、おれがおれが、の傾向が強いように私には思える。

こういうことを言うと中国人からブーイングが起きそうだが、路上でのバイクと歩行者との間の微妙なコミュニケーションなど中国の路上では生まれそうにない、と、まぁこれは私の独断と偏見なのだが、つくづく思ってしまう。

よく中国人は絶対自分の非を認めないと言われる。これは大陸に投資して会社や工場で中国人を雇っている人の経験談として頻繁に耳にする話である。

仕事上でミスをしても、あれやこれや言い訳をして、絶対謝らない、すみませんを言わない。ここで日本人は頭を抱えてしまう。しかし、これはもう彼らの文化なので、最後にはこちらが慣れるしかない。が、悪くなくてもとりあえず先に謝ってしまうのが日本人の文化なので、この壁を乗り越えるのが一仕事なのだそうだ。

「ベトナム人の仕事振りってどうなんですか?」

私は小村さんに聞いてみた。

「そうやねぇ・・・。まじめやし、一生懸命働きますよ。そやけど・・・、そこまでなんやねぇ」

「そこまで?」

「う~ん、なんちゅうかなぁ、言われたことはきちんとやってくれるけど、その先がないんやね」

だが、中国人は違うと小村さんは言う。中国人はその先を考え、自分でどんどん進めることができる。

「ただねぇ・・・」

小村さんは苦笑しながら続けた。

「それが危ないんですよ。例えば、自分で改良したり開発したり努力してくれるんやけど、仕事や商売を覚えると、今度はこっそり外で自分の会社を作ったりしよるんやね。それから段々自分の会社の方へシフトして行ってね。段取りが十分整った段階でこっちの会社を辞めて独立するわけですわ。そんで、その時こっちの客もごそっと持って行ってね。気がついたら、こっちの会社はすっからかんになってしもうてるゆうわけやね。そんなんで失敗した日本の中小企業、ようけありますよ」

私はかつての香港の友人サニー張のことを思い出した。

サニー張は1970年代初頭に、大陸から海を4時間以上泳いで香港へ密入国してきたのだが、頭もいいし、仕事もできる男だった。

いろいろあった後、ある時知人と三人で会社を立ち上げた。出資分はサニー張がわずか15%で、残りは他の二人が負担したのだが、実際の仕事はすべてサニー張まかせだった。

アルミ製品加工の工場だったが、生産と営業両方とも二人は未経験で、サニー張に頼らざるを得なかった。本当のところは、金は出すから、後はよろしく頼むといったことだったのだろうと思う。

サニー張は努力家だし、目端も効く、会社の運営は徐々に軌道に乗っていった。

だが、会う度に、サニー張は他の相方二人のことを軽蔑したような口調で言っていた。

「あいつらは全然仕事ができないからな。オフィスで座ってるだけなんだ。もう一人なんか毎日昼間からマージャンだよ」

そしてにやっと笑って言った。

「俺は今自分の会社を作る準備をしてるんだ。この会社は踏み台だよ」

サニー張はハナからそのつもりだったようだ。それからしばらくして広東省の江門で大陸にいる弟に工場を作らせ、そこで生産を開始した。

香港の密かに作った自分の会社はしばらくは奥さんがひとりで事務所を守り、サニー張は二つの会社を掛け持ちでやっていたが、営業はじわじわと自分の会社に軸足を移していき、見通しがついたところで独立した。もちろんその際顧客リストをごっそり持って行ったのは言うまでもない。

日本人ならこれは「裏切り」であり、もう「ひとでなし」と言いたくなるところだが、こうした話は中国人社会では常識のようだし、サニー張にしても何ら悪びれたところはなかった。

しかし、これはいい悪いの問題ではなく、社会通念というか文化の違いとでもいうしかないだろう。中国人が家族や親戚で会社を作ったり、あるいはとにかく自分が老板(社長)になりたがるのはこうした他人を信用できないといった社会的背景に原因があるのかもしれない。

香港学の大家山口文憲先生はその著書「香港世界」の中で香港のことを次のように書いておられる。

・・・若い女の子に声をかけて、こちらがよその国の人間であることが分かってもすぐに相好をくずしたりしません。眉をひそめて、「なんか用?」という感じ。これは基本的にhostileな社会だからですね。・・・

hostileとは「敵意のある」とかいった意味の言葉である。だが、これは香港だからだけではなく、中国人社会が本来持っているもなのではないだろうか。そういった人間たちの世界ではまず自己主張が必要であり、自分の非は認めず、自分を強固に守ることが勝ちに繋がる。そこは勝つか負けるかの世界である。

となると、路上でも相手に譲ろうという気は起こるはずがない。わしが先やどかんかい、とばかりに気迫をみなぎらせて前進あるのみである。

それに較べるとベトナム人はまだ大分おとなしい、と小村さんは言う。

仕事上のミスを中国人なら謝らず、注意するとむきになって反駁して自己正当化を図ろうとするが、しかしベトナム人はそんなことはない。

だが、それで大団円というわけではない。

ベトナム人を叱ると、反駁とか言い訳はしないが、すぐにすねるんだそうである。

「ほんま、子供みたいやもんなぁ・・・」

ここでもまた小村さんは苦笑する。

どっちにしたってやりにくいったらありゃしないのである。こればかりはそれを理解してこちらがうまく操縦するしかないようだ。ベトナムだろうと中国だろうとそこは相手の国であり、こちらは向こうの土俵で相撲をとっているのだから、成功しようと思えば相手に合わせるしかない。

日本人にとってベトナム人はまだ中国人より相性がいいのではないか、と小村さんは考えているようだし、極めて限られた見聞の中でだが私もそう感じる。おれがおれが、よりももう少し他人との和を大切にするというか、あいまいさを残し、まあまあその辺でという雰囲気がありそうだ。

だから、路上のバイクの流れの中に立ちつくし、走ってくるバイクに眼を向け、その運転者がわずかに減速して私との距離感を図る瞬間、私はベトナムがhostileな社会ではないことを実感するのである。