香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

彌敦道230號孔森楼(3)

2005-07-31 17:50:48 | Weblog
香港のマンションではトイレが2ヶ所あるところが多い。これはひとつはお客さん用で、こういうのは欧米スタイルなのだということらしい。さすがはイギリス植民地だけのことはあり、いろいろなものが欧米スタイルなのだ。

香港ユースホステルではバスルームともうひとつキッチンから外に出る小さなベランダの端にトイレがあり、私はもっぱらそっちを利用していた。

何しろ1970年前半の話である。日本では洋式トイレはまだ全然普及しておらず、私はここでお座り方式の洋式トイレの洗礼を受けることになった。

しかし、初めてのことである。不特定多数の人が座る便座に直接肌をつけるということにはどうにも抵抗があった。そこでトイレットペーパーを便座に敷いてその上に座ることにした。この点では香港女性が便座の上にしゃがむという心情が私にも十分理解できる。

それにしても清潔さからいえば、しゃがみ方式の方が圧倒的に衛生的だと思うのだが、見も知らぬ人間のお尻がべったりと触れていたところに自分の肌をつけて欧米人はよく平気だと感心する。だって、ひょっとしたら前の人のおしっこなりが付着している可能性だってあるのだ。うえっ、きたねえ、とは思わないのだろうか。

さすがに肉食人種は神経が大雑把だ。文化の違いは本当にすごいとつくづく思ったものである。

さて、トイレに行く前に小さなベランダを通るのだが、そこで私はよく下を見下ろし、また上を見上げた。

香港のマンションは日本のように平べったい建物ではない。土地の有効利用と地盤が固く地震がないことから、まるで鉛筆のような形で細長く上へ上へと伸びている。もちろん庭などもあるわけがない。

ベランダから見ると向かいや左右に、手が届かんばかりの距離で別のビルが建っている。下に眼をやれば、四方を細長いビルに囲まれた小さな空間が一直線に下に落ち込んでいて、まるで深い谷底を見下ろしているような感じがした。そしてその途中に無数の窓があり、そのひとつひとつからそれぞれの家庭の生活の匂いが立ち上ってくるのだった。

視線を上に上げれば、はるか上空に四方をマンションのビルに切り取られた狭い空があった。私はよくそこに立ち、深い谷底と狭く切り取られた空に交互に見とれながら、香港という世界の一段面を知らず知らずのうちに理解していったのだった。

彌敦道230號孔森楼(2)

2005-07-28 21:56:40 | Weblog
私がお粗末ながらも中国語を話したことで、パトリックは私に親近感を抱いたようだった。

今から見ると隔世の感があるが、私が中国語を勉強していた1970年代前半は、日中間に国交がないばかりか、中国は国連にすら復帰していなかったから、中国語を勉強しようという物好きな日本人はあまりいなかった。

香港ユースホステルを訪れる日本人旅行者たちは大体英語もろくにできないのが大半だったから、その中でまずいながらも中国語を話す日本人として、私の存在はパトリックの目には特異なものに映ったのだろう。

とはいうものの私の中国語とは北京語であって、香港で一般に話される広東語ではない。いや、私にとっても香港とは日本の映画にギャングの巣窟として出てくるおどろおどろしい所ぐらいのイメージしかなく、香港についての知識はまったくなかった。お恥ずかしい話だが、そこで話されている中国語が広東語であることすら知らなかったのである。

だが、それは単に私だけが馬鹿だったのではなくて、大学の中国学の学者先生や大半の知識人たちも文化大革命中の社会主義中国にどっぷりはまっていて、「資本主義に汚染された香港」なんぞに興味も感心もなかったから、誰も何も知らなかったし、教えてもくれなかったのである。

そんなわけで、これは後になって知ったのだが、当時の香港では北京語を話せないというのが当たり前であり、話せるという方が何か「訳あり」なのだった。

まず、これは少数な人々になるが、あえて子供を国語(北京語)で授業をするハイスクールへ通わせるという家庭の子女だという場合がある。それから親が北方出身で家では北京語を話しているという場合、さらに最近になって大陸から移ってきたので、それ以前に大陸の学校で北京語を習っていたために北京語が話せるという場合などである。

パトリックがいったいどれに該当するのかは聞いたことがないからわからない。第一そんなことはその時は考えもしなかったのだ。

まぁ、何はともあれそんな風に北京語を話す中国人が少数な香港社会で私が北京語を話すパトリックに出会ったのは、これも何かの縁だったのだろう。

パトリックは香港ユースホステルで寝泊りしていた。私のとなりのベッドの下段に寝て、そのベッドの下には着替えや勉強道具の入った段ボール箱をいくつか押し込んでいた。

朝、私を含めて旅行者たちがまだ夢の中にいる頃、パトリックは起き出して学校へ行く支度をする。静かな寝息ばかりが聞こえる中でパトリックがひとりでもそもそと動く気配が伝わってきて、私は眼が覚めるのだった。

グリーンのジャケットに灰色のズボンという制服にネクタイを締めると、パトリックは鞄を持ってひっそりと出て行く。それから窓の外の彌敦道の騒音を微かに聞きながら私はまた眠りに落ちるのだった。

昼間のユースホステルにはオーナーである多分30代半ばらしい背の低い小太りのミスター・ウォンがやってくるか、あるいはどうも正式の夫婦という雰囲気ではないが、かといって普通の関係でもなさそうな30前後の眼鏡をかけた小柄な女性がやってきて留守番をしていた。

ミスター・ウォン(なぜか我々旅行者は彼をそう呼んでいたのである)は口数の少ない男だった。日中こんなところに顔を出せるというのはおそらく何か商売をしていたのだろうが、自分所有のマンションを使って貧乏旅行者から金を稼ぐなどというあたりはなかなか抜け目のない男である。

しかし、ミスター・ウォンは愛想の悪い男でもなかった。私が東南アジアを2ヶ月弱かけて回った後、帰路再び香港ユースホステルにたどり着いた時、私を見ると彼はにっと笑って開口一番言った。

「I remember you」

それを聞いて、私はどうやら自分が無事に旅を終えつつあることを実感して、なぜとはなくうれしくなったものである。

パトリックが午後3時頃帰ってくると、ミスター・ウォンか件の女性が帰っていき、それからはパトリックがユースホステルの責任者ということになる。

ルームボーイとはいっても、パトリックは大半の時間はそう大してやることがあるわけでもなかった。自分で電気釜でご飯を炊いて食事をしたり、旅行者たちとふざけあったり、テレビを見たりと、ほとんどリビングで過ごしていた。

旅行者たちと英語で会話をするのは自分の英語力の向上には役立つだろうが、かといってあくまでも通りすがりの外国人であり、友人と呼べるほどのものでもないし、何よりも家族ではない。14,5歳の少年がああいった環境にずっとひとりでいることはそれなりに厳しいものがあったのではないだろうか。

日曜日などは私のベッドルームの中央に折畳みテーブルを出して、その上に教科書を広げて勉強していたが、日曜日でも家族のところへは帰れず、ずっとユースホステルから出ることはできないのだ。

誰と話をしているのかは知らないが、パトリックはよくリビングの電話で楽しそうに長話をしていた。今私が記憶しているのは、立ったまま壁に額を当て受話器に向かって早口でしゃべり、時には笑い声を上げながら、空いた手で持っている鍵の束を壁に打ちあてている姿である。

おそらくそれがパトリックが唯一息抜きができる時間だったのだろうとは思うが、あんなにしょっちゅう電話をしていたらミスター・ウォンに電話代のことで叱られるのではないかと当時私は心配したものである。

だが、ずいぶん後になってわかったことだが、香港では固定電話はずっと定額制でいくらかけても料金は一緒なのだった。それを知った時、あのパトリックの長電話がやっと合点がいったのである。

パトリックの一日は夜寝る前のゴミ出しで終わる。ゴミの入った大きなビニール袋をずるずると引きずりながらドアを開けて外に持ち出している姿を見て、私も今日一日が終わったな、と思うのだった。

彌敦道230號孔森楼(1)

2005-07-24 21:25:40 | Weblog
歌は世につれというが、カーペンターズの「イエスタディ ワンス モア」を聞く度に、私は1974年当時の香港を思い出す。

前年に発表されたこの曲は全世界にヒットしたが、その頃香港でも盛んに流されていた。初めての外国旅行として香港に足を踏み入れた私は、九龍サイド佐敦道の交差点近くにある香港ユースホステルに泊まっていた。

佐敦道の交差点に立って見ると、尖沙咀に向かって彌敦道の左側、孔森楼というビルの12階に香港ユースホステルはあった。所番地は彌敦道230號である。

2月のある日の夕方日本からキャセイ航空機で香港に降り立った私は、やっとの思いで彌敦道230號にある孔森楼というビルを探しあてた。

12階へ上がるエレベーターに乗り合わせたイギリス人の青年が聞いてきた。

「ユースホステル?」

「イエス」

と答えると、その青年はにっこり笑って頷いた。

「僕もそこに泊まってるんだ」

それを聞いて、私は安堵のためへなへなと崩れ落ちそうになった。空港からこのビルへたどり着くまでの幾多の困難の中で、私は疲労困憊であった。しかし、とうとう目的地にたどり着いたのだ。

青年は私の先に立ってユースホステルへ入っていった。ユースホステルとはいっても、やや大きめの3LDKのマンションに鉄製の2段ベッドを詰め込んだだけの安宿である。

ドアを開けるとそこはリビングルームで長方形の大きなテーブルが置いてあり、それが部屋の大部分を占めていて、2、3人の旅行者がテレビを見ていた。その青年はキッチンの方へ向かって叫んだ。

「パトリック!」

すると返事もせずに、華奢な体つきの14、5歳ぐらいの少年が現れた。少年はまったく愛想のない、どちらかというと胡散臭そうな眼で私をじろりと見た。

「彼がここのルームボーイで、僕らの世話をしてくれるんだ」

そう言うと、その青年は自分の部屋に入っていった。

パトリックは宿帳のノートを取り出すと、ぱらぱらとめくり、あいかわらず可愛げのない目つきで上目使いに私を見ながら英語でぶっきらぼうに言った。

「How long you stay?」(どれくらい泊まる?)

私はとっさに英語が出てこなかった。多分、今夜のねぐらをとうとう見つけられたという安心感に酔いしれて頭が回転を止めてしまったのだろう。

(えーと、えーと・・・)

そしてふいに私の口をついて出たのは北京語だった。

「還没有決定(はいめいようちゅえてぃん)」(まだ決めてない)

ほうっ、とパトリックの顔つきが変化した。笑いはしなかったが、人を小ばかにしたような表情は消えていた。

「你会中文嗎?」(中国語ができるのか?)

「一点点」(ちょっとだけな)

ふむ、ふむと口を尖らせて一人で頷きながらパトリックはノートに私の名前と滞在予定日数などを書き込んでいた。私たちは英語と北京語のちゃんぽんで会話をした。当時の私の北京語力はほんとうにお寒い限りだったのである。

それからパトリックは私をベッドルームへ案内した。そこの窓は彌敦道に面していて、三方の壁に鉄製の二段ベッドが並んでいた。パトリックは入って右側の下段のベッドを私にあてがってくれた。

3LDKの3部屋がドミトリーのベッドルームだが、隣の一番大きな部屋と私の部屋が男性用で、一番小さな部屋が女性用だった。

私はベッドに引っくり返り、しばらく眼をつぶった。空港から迷いながらここへたどり着くまでの間では相当悲観的になってしまい、旅などやめて帰りたくなったものだが、どうにかこうにか身の置き所も確保できた。

(何とかなるもんやな・・・)

現金なもので、それまでの不安が嘘のように消え去り、逆に自信のようなものが湧き上がってくるのだった。

香港ユースホステルはユースホステルとは名ばかりの貧乏旅行者相手の安宿だったが、料金が安いことは貧乏旅行者にとって何よりもありがたいことだったし、また同じような旅行者の溜まり場として、様々な情報交換ができるという利点があった。

貧乏旅行者にとって情報とはすなわち金と同じ意味を持つ、いや時には金以上の価値があるものなのだ。

例えば、バンコクのどこに安宿があり、その料金はいくらだとか、どこそこに行くには何番のバスに乗ればいいのだとか、あるいはビルマ(現ミャンマー)の通貨であるチャットの闇レートは公定レートの5倍だが、ビルマ国内の闇レートは3倍にしかならないから、あらかじめバンコクの観光客相手のスーベニアショップで換金してから持って入るのがいい。けれど、税関で見つからないように下着の下に隠して持ち込まなければならないとか、有益な情報は数限りなくあった。

もしそういった情報がなければ余分な金を使わなければならないどころか、時には身の安全にも関わることがあった。だから、情報のあるなしは貧乏旅行者にとっては死活問題ともいえるのである。

しかし、実のところ私にとってはもうひとつ有益なことがあった。それは、たった一人で初めて外国に出てきて、とりあえず自分と同じような旅行者の群れの中にいられることで、ほとんど心細さを感じずにすんだことだ。

いずれひとりぼっちで旅をせざるを得なくなるわけだったが、香港ユースホステルはそのためのウォーミングアップとなる期間を私に与えてくれたのである。

続香港いんぐりっしゅ

2005-07-18 16:26:25 | Weblog
広東語で「すみません」は「對唔住(といむちゅー)」というが、香港では「Sorry」ときざに決めてみたいものである。

実際「對唔住」という言葉をそう多くは耳にしない。日本人も相当英語好きだが、香港人にとっても英語を混ぜて使うほうが「おしゃれ」に響くようだ。スターだってみんなイングリッシュネームを持っているし、英語を使うことがスタイリッシュなことだという環境は整っている。

英語の「Sorry」というのは、本当はあんまり頻繁に使ってはいけないらしい。というのもこれは完全に自分の非を認める場合に使うからだという。しかし、香港で「ソーリー」は結構軽く使われている。日本語でいうなら「すみません」だが、この日本語の「すみません」的な感覚である。

だから、例えばエレベーターなどに乗り込んでちょっとひじが当たった場合など、英語では、「Excuse me」と言わなければならないということだが、香港なら「ソーリー」である。

あるいは英語の方が少しハイソに響くとでもいえばいいか。これはあくまでも私個人の感覚なのだが、例えば、ホテルやレストランでも英語でやる方がスタッフの対応がちょっとましなように思えるのだが、どうだろうか。

香港人だけでなく、大陸でも台湾でも英語に対する需要は極めて高い。今でも基本的に変化はないと思うが、以前台湾では、聯考(台湾の共通一次試験)で優秀な成績を取り台湾大学へ入り、それからアメリカに留学するというのがエリートコースのパターンだったと言われる。大陸中国だってアメリカ帝国主義反対とかいっても、中国の上層部の子弟がどんどんアメリカに留学したり、さらにはアメリカの市民権を取っているのもいるし、あの小平の娘だってアメリカに住んでいるのである。

香港でも移民潮(移民ブーム)が湧き上がっていたのはついこの間のことである。その移民先といえば、アメリカ、カナダ、オーストラリアであり、つまり英語圏なのである。

だから、こう言うと、言い過ぎになるかもしれないが、香港でもビジネス上での必要性以上に、英語に対するある種の憧れみたいなものもあるように私には見える。

そこで、私も都合によってはそのあたりを利用させてもらうこともある。

これは10数年前のことになるが、ある日の昼下がり、私が一人で銅鑼湾の軒尼詩道を歩いていて崇光の近くまで来た時のことである。

街角に若い警官が一人立っていたが、私を眼にとめると、通せんぼするかのように私の前に歩いてきた。

あっ、これはやばいことになった、と私は思った。なぜなら私はその時パスポートを携帯していなかったのである。香港では身分証の携帯を義務付けられていて、不携帯の場合確か2000ドルの罰金をとられるはずだ。

しかし、ひとつにはパスポートを落としたり取られたりしたら後がややこしいし、何しろ香港も泥棒の多いところだから、ホテルのセーフティボックスに預けることにしていたのだ。そしてもうひとつにはこっちは観光客だから万が一には見逃してくれるだろうと高をくくっていて、普段は携帯しないことにしていた。

だが、その時の私の恰好は黒い革ジャンにジーンズというスタイルだった。もちろんかっこいい若い男性ならこれが板に付いたファッションなのだが、悲しいかな中年のさえないおっさんがこれをやると、どう見ても金のない底辺の労務者風になってしまうのである。

それに加えて悪いことに、当時は大陸からの強盗団が盛んに香港で手荒い仕事をやっていて、かなり警戒が厳しくなっていた。それは香港と大陸の黒社会(やくざ)が結託し、香港側が手引きをして大陸から実行犯を呼び寄せ、仕事をすませると実行犯はさっさと大陸に帰ってしまう。いわゆるヒットアンドアウェイというやつである。

何しろ実行犯がいないのだから捜査が極めて困難で、検挙率の悪さが問題となっていた。

また彼らの武装もなかなかもので、ある時新聞で犯人が車で逃走中に追いかけてくるパトカーに手榴弾を投げたという記事も読んだことがある。

私たち自身も油麻地に夜遅く帰ってきて、地下鉄の駅から上に上がったら交差点が警官によって封鎖されていて難儀したこともあった。何でも上海街近くの酒楼(レストラン)に入った強盗が近くのビルに立てこもっているのだという話だった。

そしてもうひとつ、これは今でもそうだと思うが、大陸からの密入国者や不法滞在者の違法労働の問題があってこの取り締まりも行われていた。

まぁ、そんなこんなで胡散臭い男の一人歩きは目をつけられても当然なのである。

私は日ごろはいつも老姑婆とカップルで歩いているから警官に目をつけられることがないため、ついつい気が緩んでいたのである。その日は運悪く老姑婆が風邪を引きホテルで休んでいたため一人で歩いていたのだった。

あちゃー、これはどうしたらいいものか。警官に呼び止められる数秒間の間に私の頭脳は高速で回転し対策を練っていた。そこで私は英語を使い、中国語はわからないふりをすることにした。

そうすれば、まず第一に自分が観光客であることがアピールできるし、次にいくらまずい英語でも英語を話せる大陸からの不法滞在者はいないから、自分がそういった人間でないことがすぐにわかってもらえるだろう。

「身份証(さんふぁんじぇん)」

その若い警官は厳しい目つきで詰問するように言った。

「I’m Japanese tourist. I don’t speak Chinese」

警官はむっとしたような目で私をにらみつけて英語で言い換えた。

「Identification」

「I don’t have my passport now, it’s in my hotel room」

しどろもどろでもとにかく英語である。すると、若い警官は、香港では身分証携帯が義務付けられていること、今回は大目に見てやるが、以後はゆるさんぞ、とかなりの剣幕であった。

銅鑼湾といえば人通りの多いところである。行き交う人がおもしろそうにこっちを見ている。警官としても周囲の目を意識して高圧的な態度に一層拍車がかかる。私はといえば冬だというのにもう冷や汗でべとべとであった。

「I give you a chance this time」

とどうにかこうにかお許しをもらい私はほうほうの呈でその場を逃げ出した。私はこれに懲りてその後は必ずパスポートを携帯するようになった。

しかし、何はともあれ警察署に連行されたり、罰金をとられなかったのはやはり英語のせいである。そのおかげでかなり簡単に放免されたのだろうが、もし中国語をしゃべったりしていたら、逆にもっと胡散臭く見られてややこしいことになったのではないかと思う。

そういえば、英語がらみの思い出がもうひとつあった。

時は夏。とある工事現場、もっとも香港はいつもあちこち工事をしているが、その傍を歩いていた時のことだ。

香港の夏は暑い。私は汗まみれになり、早くクーラーの効いた所に入りたくて一心不乱に歩いていた。と、前方からどうも堅気ではなさそうな若者が数人歩いてきた。

香港では夏は地下鉄にだって半ズボンだけで上半身裸という風体の人が乗っていたりするが、その一団もまぁそんな具合であった。

そこは歩道で現場側に板囲いがしてあり、上も屋根のように板がわたしてある狭い通路になっていた。その一団とすれ違う時、私は車道側に寄って歩いた。通路の幅はどうにか人が二人通れる程度のものである。

その一団の最後の人間とすれ違った時、私は足元のデコボコに足を取られてよろけ、相手の肩にどんっとぶつかってしまった。その瞬間、私は色あせた紺色のランニングシャツからむき出しになった赤銅色の肩に青い刺青が彫ってあるのを確認した。

あちゃーっ。私の心の中に悲鳴が響いた。

(金、なんぼ持ってたやろ。金ですませてくれるやろか)

その若い男は、振り返り、ぎろっと私を睨みつけた。最高気温38度の真夏の炎天下、身も心も一瞬にして凍りつき、全身に鳥肌が立った。

若い男の視線は射るようにするどく、こちらは、あわわ、とあわを食って言葉が出ない。

するとその男は、

「ソーリー」

ぼそっと一言残して、さっさと歩き去っていった。

私はといえば、言葉もなく、固まったまま、ランニングシャツに半ズボンの陽に焼けた姿を見送ったのであった。

さすがに香港、不良だって英語なのである。

香港いんぐりっしゅ

2005-07-13 23:06:08 | Weblog
いつだったか粉嶺にあるサニー張の家におよばれに行った時、エレベーターに乗り合わせた隣人にサニー張が私たちを紹介して言った。

「我Friend唖」(俺の友達だよ)(この唖しか日本漢字にないので使用)

おやっと私は思った。サニー張はかなり頭のいい男なのだが、残念ながら文革時代に大陸で青春をおくったため学校教育を満足に受けていない。

しかし、サニー張の名誉のために言っておかなければならないが、学校の先生たちは農村へ労働学習に送られたり、「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる牢屋みたいなところに押し込められて自己批判の日々を送っていたりで、学校自体が開店休業だったからであり、サニー張が怠惰だったわけではない。

そんなわけでサニー張はどうも英語という奴が苦手なのである。大陸から泳いで密入国してきて以来、英語ぐらい勉強しなくてはと思ってはいたが、生活に追われてそれどころではなかった。そのサニー張が片言の英語でも英語を使ったのがちょっとばかり不似合いで少し笑ってしまった。

だが、これは驚く私が変なのだった。

日本人も外来語の英語を好んで使う、だから野球の「ナイター」とか、災害の時に使われる「ライフライン」など和製英語が日本語には氾濫している。まして、香港はイギリスの植民地だったのだから、英語が日常会話に入らない方がおかしいだろう。

Friendは「好Friend」とか言って、「仲がいい」という意味で使うこともある。そういえば、日本人だって「フレンドリー」とか言うこともある。

ある時、日本に遊びに来た香港の女の子が、トイレに行こうとして、一緒に来ていた相棒に飲みかけの缶コーラを渡して言った。

「keep住唖」

「住」は現在進行形の意味があり「持ってて」ということになる。

おお、なるほどそう言うのか、と感心したが、なに、日本人だって「キープ」は酒場のボトルキープ以外でもしょっちゅう使っている。考えてみれば日本はアメリカの植民地みたいなところがあるから香港と似通っていても何ら不思議はないのである。

返還前はイギリスの植民地であり、香港総督に統治されていた香港の公用語は英語だったからお役所で出世するには当然英語は不可欠な要素となっていた。また、金融、貿易、観光と国際都市として生きてきた香港の民間のホワイトカラーにとっても英語は必須条件だった。

それにハイスクールも英文学校(いんまんほっはう)と呼ばれる英語で授業をする学校の方が多いから、英語は普通の香港人にとっても慣れ親しんだものだといえるだろう。

もっとも、だからといって香港人すべてが英語がぺらぺらというわけでは決してない。英文学校でもレベルの低い学校の卒業生の英語は私たち日本人とあんまり大差なさそうで、この点では我々も安心していいのである。

だが、香港大学、中文大学、理工学院などの学生の英語はかなりハイレベルということになり、これはもう日本の大学生はとてもじゃないがたちうちできないだろう。

こんな風に、さすがにイギリス植民地としての長い歴史と国際都市としてのコスモポリタン的な雰囲気に裏打ちされてか、香港には英語がけっこうしっくりくる。

例えば、大晦日の夜外出し、午前0時に街頭でひとしきり車のクラクションの響きや人々の新年の歓声を堪能してホテルに引き上げてきて、エレベーターで見ず知らずの「鬼佬(ぐわいろう)」(西洋人の外人)の老夫婦と乗り合わせる。すると彼らはにっこりと微笑んで声をかけてくる。

「Happy New Year」

そこで私たちも笑顔と共に言葉を返す。

「Happy New Year」

香港ではそれがほんとうにごくごく自然にできるのである。

それから一夜明けて、元旦のホテルのフロントではスタッフがまず、

「Happy New Year」

と声をかけてくる。そしてその時の笑顔はいつもの職業的な笑顔とは少し違う種類のように私には見えるのである。

その言葉は広東語での新年の挨拶である「新年快楽(さんりんふぁいろっ)」よりももっと元旦の雰囲気にぴったりくる。

西暦の1月1日はやはり鬼佬の新年であり、見ず知らずの相手ともお祝いの挨拶を交わすのはこれまた鬼佬たちの文化なのだろう。それだからこそ「Happy New Year」の方がしっくりくるのにちがいない。

香港は基本的に「ホスタイル(hostile)」な社会だと言ったのは香港学の権威山口文憲氏だったと思うが、それはそうだなと私も同意するものがある。だから、前述した光景などに出くわすと、私はほっとしたりもするのである。