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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

ミッシー(2)

2005-03-29 21:12:09 | Weblog
さて、男の先生は「阿Sir」、つまり「ア・サー」と呼ぶのだが、実はこれは警察官に対する呼びかけ語でもある。警官の場合は「おまわりさん」という感じだろうか。

それではなぜに警官が「阿Sir」なのか、と別の友人に聞いてみると、

「そう呼んであげると、警官の方も飄飄然(うれしくて舞い上がっちゃう)になっちゃうからじゃないの」

とのことであった。

そういえば、私もツアー旅行の時、身分不相応なホテルに泊まって、蝶ネクタイをした風格のあるスタッフから「sir」と呼びかけられ、恐縮して何だかお尻のあたりがこそばゆくなった経験がある。

広東語では警官は「差人(ちゃいやん)」と呼ぶ。映画「無間道Ⅲ」の予告編の中で劉徳華が「我都係差人」(おれも警察官だ)というセリフを叫ぶ場面があるが、あれである。

ちなみに、もうひとつ「差佬(ちゃいろう)」という言い方もあるが、これは「ポリ公」ということになるので、警察官の近くで発するのは避けたいものである。

それにしても、なんで「阿Sir」なのか。阿は「さん」あるいは「ちゃん」のような親しみを込めた接頭字で、中国でも南方方言で使われるのだが、それでは「Sir」とは何ぞや、という疑問が残る。

それはくだんの友人の話ではこうなるらしい。

イギリス植民地時代の皇家警察(ロイヤルポリス)では上官はイギリス人であり、この場合英語が指揮命令系統用語での基本となる。

警察は階級社会だから上官にはすべて「sir」をつけて返答する。ジャッキー・チェンが「A計画」や「ポリスストーリー」で敬礼して、「イエッ、サー!」と大きな声で言う場面があるが、あれがそうだ。

それが、英語のできない庶民から見ると、何やらわけはわからないが、とにかく「sir」という言葉が耳についてしまい、それで「sir、sir」という人ということで「阿Sir」となった、という話である。

それに、「sir」と呼ばれて悪い気はしないはずだから、庶民が権力者である警官にとりあえず機嫌を取る手段のひとつだったというのが起源なのだそうだ。

そして学校の先生だって生徒の側から見るとある種の権力者だから、そこで同様に「阿Sir」と男の先生を呼ぶようになったわけなのだ。

と、まぁこれがその友人による「阿Sir」起源説である。

ま、このあたりは諸説色々あると思うし、その信憑性については私もよくはわからないが何となく納得してしまう話ではある。

しかし、「無間道Ⅱ」でも、97年の中国への返還に際して、警官の徽章を皇家警察のものから中国のものへ付け替える場面があったが、97年以後、「阿Sir」や「Miss」はどうなってしまったのだろうか。

今では小学校から「普通話」つまり、北京語を基礎にした中国の標準語を国語の時間に教えるようになり、阿ジョーの息子である小学校2年の浩仔も中国国歌である「義勇軍行進曲」を普通話で歌って聞かせてくれたことがある。もっとも阿ジョーを含めて大人は誰も歌えなかったのだけれど。

また、学校では子供たちが整列した前で五星紅旗を掲揚する儀式が行われるようになったのをテレビの報道で見たこともある。香港は中国の一部だから、こういったことは当たり前といえば当たり前で、不思議がる方がおかしいと言われそうだが、以前の香港の雰囲気からするとずいぶん変わったものだと感慨を禁じえない。

それでは学校では相変わらず先生を「ミッシー」、「ア・サー」と呼んでいるのだろうか。それともこれも「老師」とか何とか中国風に変わってしまっているのだろうか。ここは次回行った時に調べてみる必要がありそうだ。

だが、いくら中国化が進行しているとはいっても、まさか警官を「阿Sir」ではなく「民警同志」などと呼んだりはしないだろうとは思うのだが。

ミッシー(1)

2005-03-27 20:52:10 | Weblog
ミッシーは私の広東語の師匠である林さんの紹介で知り合ったのだが、小学校の先生をしていた。もう17、8年前のことなので正確な金額は忘れたが、香港の学校の先生の給料は結構いいらしいのだ。

多分しっかり貯金をしていたのだろう、年齢は30前ぐらいだったが、アメリカへ留学するつもりだといっていた。何しろ1997年の中国への返還問題が次第に現実味を増してきつつある頃で、移民熱がじわじわと盛り上がり始めていた。

とはいうものの、問題はそのことではない。

彼女は当然中国名の本名があり、私は林さんからはそれを聞かされていたのだが、ある日とある友人の家に一緒に行った時、その奥さんが彼女のことを盛んに「ミッシー、ミッシー」と呼ぶのである。

で、何となく私と私のつれあいである老姑婆はそれが彼女のイングリッシュネームだと思い、彼女を「ミッシー」と呼び始めた。

香港の英文学校、つまり英語で授業をするハイスクールではみんなイングリッシュネームをつけるということで、わが友スタンレーやベリンダのようにそれを日常的に使う場合もある。

しかし、ミッシーという名前は聞いたことがないなぁ、どう書くんだろう、と私たちは顔を見合わせた。

「ははっ、ネッシーみたい」

私たちは英語には詳しくないから、そんな名前もあるのだろうと思い、物を知らないやつらだと思われたくないので強いて彼女にも訊ねなかった。また私たちから「ミッシー」と呼ばれても、彼女も当然のように返事をするので、私たちもそれを名前だと思い込んでしまった。

しかし、それは大間違いだったのである。

後になってわかったのだが、香港の学校では男の先生を「阿Sir」と呼び、女の先生を「Miss」と呼ぶのだそうだ。つまりあの奥さんは「先生、先生」と呼んでいたのだ。

香港はイギリスの植民地だったから、イギリス式に女の先生を「Miss何とか」とよぶ習慣があり、それが一般的に女の先生に対する呼称として「Miss」を使うようになったのだろう。

しかし、それならば「ミス」となるべきだろうと我々日本人は考えるのだが、そこが広東語なまりというやつだ。広東語なまりの英語では「S」は「エス」ではなく「エッシー」なのである。そして「X」は「エクシー」となる。

だから例えば、「FAX」は「ファクシー」なのであって「ファックス」ではない。それから日本車のバンで「ハイエース」というのがあるが、これなんかも「ハイエーシー」となってしまうのだ。

ミッシーも普段「ミッシー」と呼ばれ慣れていたので、私たちが「ミッシー」と呼んでも違和感なしに受け入れてくれていたのだろうが、まったくとんでもない勘違いではあった。

しかし、その間違いに気づいたのが彼女がアメリカに去ってからのことなので、まぁ決まりの悪い思いをしなくてすんだのは不幸中の幸いだった。

無間道で蔡琴を聴く(2)

2005-03-21 13:29:55 | Weblog
もちろんこれは個人の好みの問題でもあるが、テレサ・テンと蔡琴を較べてどちらが好きかと聞かれれば、私は躊躇なく蔡琴と答える。

蔡琴の声はテレサ・テンとは正反対で、低く膨らみがある。テレサ・テンの場合は歌声にこめた情感で聴く者を魅了するが、蔡琴は声そのものでこちらの心をとりこむ。

低い声で語りかけるように歌う時、その膨らみのある声で歌詞の一言一言を聴くものの胸に沁みこませ、歌の世界に引き込んでゆく。

 是誰在敲打我窗(私の窓を叩いているのは誰?)
 是誰在撩動琴弦(私の心をふるわせるのは誰?)

「無間道」で梁朝偉と劉徳華が並んで座り、「被遺忘的時光」に聴きいる場面があるが、それこそこの蔡琴の歌声の特徴を表した情景だと思う。重く複雑な運命に絡み取られた二人の男が耳を傾ける曲にはテレサ・テンの高く甘い声はとてもそぐわない。

蔡琴は八十年代の前半に「你的眼神(あなたの眼差し)」のヒットで一躍香港でも有名になった。だからその後台湾とは疎遠になった私は香港で蔡琴のカセットテープを買うようになったのだが、蔡琴の歌う曲は次第に歌謡曲的な色彩が濃くなっていった。

八十年代後半から九十年代に近づくと、蔡琴は曲に恵まれなくなったような気がする。新しく発売されたアルバムを買っても、どうも私をひきつけるものがなく、結局以前の曲を繰り返し聞くということになってしまった。

時代は日本同様、香港や台湾でもアイドル歌手が求められるようになってきて、歌唱力よりもいかに若い層に受けるかが重要となり、蔡琴のような歌手は時代とは縁遠い存在になってしまったのだろう。

その後個人的な生活でも有名な映画監督だった夫と離婚し、また乳がんの手術を受けるなど、蔡琴は不調な時期が続いたようだ。

蔡琴は香港でもコンサートを行うことがあり、そのポスターを眼にすることが何度かあったが、そこには「蔡琴老歌を歌う」といった風なコピーが書いてあったりした。場所は当然紅磡の香港体育館などではなく、もっと小規模な施設だったように思う。

「老歌」とは「懐かしのメロディー」とでも訳すべきだろうが、蔡琴はやや年配のファン相手のコンサートを細々と続けている過去の人というイメージが私の中にできあがってしまっていた。

だが、それはそれでいいのである。私はあいかわらず蔡琴の歌が好きだから、例え古い歌であろうと、いつまでも蔡琴を聴きたいと思い、そうしてきた。

いい歌はやはりいいのだ。とはいうものの私にとってのいい歌が別の人にとってもそうであるわけではない。しかし、まぁこれは仕方がないことだ。今の若い人は蔡琴の歌には興味を示さないだろう。

そのかわりといっては何だが、私だって今の歌手の歌などちっともいいとは思えない。王菲なんか中島みゆきのカバー曲である「容易受傷的女人」以外おじさんとしては全然受けつけられないので、彼女がなぜあんなに人気があるのかまったく理解できないのである。

時代が変われば人も変わる。誰だって時代の先端を永遠に走り続けられるものではない。今はもう蔡琴の時代ではなくなった。それはそうではあるけれど、それは時代遅れということとは違うのではないか。

時代というものは連続しているもので、過去がなければ現在もなく、この世はひとつひとつの時代の積み重ねなのだから、過去が現在より劣るということにはならないのだ。ただ、現象として新しいものが新鮮に見え、その反動として古いものが色あせてみえるだけであって、過去そのものの価値が減じるわけではない。

その意味で、蔡琴の歌は確かに過去のものではあるが、決して価値とか意味が消え去ったしまったわけではないと私は考えている。

例え一曲であっても、一世を風靡した曲を持つ歌手は幸福な歌手だと思う。その曲と歌手の歌声は多くの人の記憶の中に生き続けられるのだから。そうしてみると、蔡琴は極めて幸福な歌手だと言わざるを得ない。

そんな風に思っている時に、私は突然「無間道」の中で「被遺忘的時光」を聴いた。

正直その時はびっくりして引っくり返りそうになったものである。そして次ににんまりと笑った。蔡琴の歌がまた息を吹き返したことは一ファンとしてはやはりうれしいものなのである。

蔡琴は「無間道」で再度脚光を浴び、台湾や香港だけでなく大陸でも精力的にコンサートを開きそれは大盛況のようだ。彼女の歌声がまた多くの人に聞かれるようになったことはありがたいことだ。おかげで今後も蔡琴の新しい曲を聴くことができるようになるだろう。

しかし、この映画で「被遺忘的時光」を使うことにしたのは誰なのだろうか。監督のアイデアなのかそれとも脚本家の案なのだろうか。

この曲は本来ギターの伴奏をバックに歌われているが、映画ではいわゆるアカペラというか、伴奏なしで蔡琴の歌声だけを流している。それでこそ蔡琴の歌唱力がよりいっそう際立つわけだが、ここにも選曲者の思い入れを感じてしまう。

いずれにせよ、歌は世につれ世は歌につれというから、選曲した誰かの思い入れがこの曲を選ばせたのだろう。おそらくそれは1980年代の前半から半ばにかけてあたりの何かその人間の忘れられない体験と結びついているからに違いないと私は推測する。

それが失恋なのか、あるいは仕事に関係するものなのかはわからないが、ちょうど経済発展の真っ只中にあった香港社会に生きていて、この「被遺忘的時光」を耳にするたびにその当時の自分の姿が脳裏に浮かび上がってくるのではないだろうか。

それが苦い思いなのか、あるいは甘酸っぱいものなのか、それはその人間以外誰にもわからないことなのだけれど。

無間道で蔡琴を聴く(1)

2005-03-13 21:33:52 | Weblog
「無間道Ⅱ」をDVDで借りて見た。

今回このパートⅡでも蔡琴の「被遺忘的時光」が使われていて、「無間道」で梁朝偉と劉徳華が並んで聴いている場面を観客に思い浮かべさせる仕掛けになっている。

「無間道」はいい映画だと思うが、何よりもあの場面で突然蔡琴の歌声が流れてきたのにはびっくりした。

蔡琴は台湾の歌手で、もともとは「校園民歌」という、日本で言うならカレッジ・フォークというジャンルから出発した歌手だ。何でもまだ高校生の時にフォークソングコンテストに出たことからプロの道に入り1979年にデビューしたという話である。

私が蔡琴を知ったのは1983年ごろに初めて台湾に行った時のことだ。

せっかく来たのだからその当時流行っている歌謡曲のカセットテープでも買って帰ろうかと思ったのだが、いったいどんな曲が流行っているのかまったくわからない。台湾といえばテレサ・テンか欧陽菲菲ぐらいしか知識はなかったが、それなら日本でも手に入る。

そこで私は台北駅前のとある喫茶店でウェートレスの女の子をつかまえて、誰か最近有名な歌手を教えてくれまいか、と頼んだ。私は旅先でものを尋ねる場合は若くできるだけ可愛い女性に聞くことを信条としているのでその時もそうしたのである。

すると彼女は備え付けの紙ナプキンに二人の女性歌手の名前を書いてくれた。その中の一人が蔡琴だったので、私は「出塞曲」というアルバム名のカセットテープを一本買って帰った。

聴いてみて意外だったのはそのアルバムの中の曲はいわゆる歌謡曲ではなく、日本風にいうならフォークソングっぽい、ギターやピアノ伴奏のいうならば極めてナチュラルな感じの曲ばかりだったことだ。

それまでは台湾の歌謡曲といえば日本の曲に中国語の歌詞をつけて歌っているぐらいのイメージしかなかったので、蔡琴の歌声は予想外の新鮮な驚きで私の耳に響いてきた。そして私はいっぺんに蔡琴のファンになってしまったのである。