香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

林(らむ)さんの場合(2)

2004-09-30 23:06:25 | Weblog
香港は1997年にイギリスから中国へ返還される。このため80年代も終わりに近づくと海外への移民熱が急速に高まってきた。

香港人の大多数はいわばみんな中国からの難民のようなものである。親中国派の人もいるにはいるが、中国の社会主義制度を本心から歓迎する人は少数でしかなかっただろう。

まして林さんは法を犯して中国から逃げ出してきたのだ。香港へ帰ってすぐに結婚し、子供もできた。家族と自分の将来のためにはアメリカへ移民して国籍を取りたい。これは林さんが中国そのものを嫌っているということではない。ただ制度を嫌い、可能性のない社会を嫌っているだけで、それと自分が中国人であるということとは別問題なのである。

だが、そのためには資金が必要だ。会社員の給料では他に副業のアルバイトをしても収入は高が知れている。

日本人の香港ツアーは大体3泊4日が基本となるが、香港側の旅行社には旅行代金からのもうけはほとんどない。香港側が儲けるのは土産物屋などのショッピングからのキックバックである。

日本人のツアー客を連れて行って買い物をさせ、その売り上げの5パーセントがキックバックされるが、3パーセントを会社が取り、残り2パーセントをガイドが取るという仕組みになっているのだそうだ。

もちろんこれは有名ブランドショップなどでは不可能で、いわゆる土産物屋、宝石店、レザー製品の製造販売店などがそうだ。だからそういう店の中にはツアー客が入るとドアを閉めて鍵をかけたりするところもある。これは外に向けての防犯ではなく、客を逃がさないようにするためだ。

そして後は店員がマンツーマンでほとんど押し売り状態の営業活動を行い、買い物が少ないと、

「コレデ ケッコウ(結構)カ?」などと恐い眼でにらんだりする。

日本人は集団心理が強く、他人が買えば自分も買う。旅行に行けば周囲へ配るためにお土産を買うという習慣もある。それに何より「買ってあげないと悪いかも」と変な気を使う国民性もあるしで、店側及びガイドさんにとってはとても好ましいお客サンなのである。

ガイドの仕事は順調だった。90年代初頭まではいわゆる「農協さん」タイプの団体客がどんどん香港へ来ていたから、キックバックの収入が驚くほど多かったようだ。

また、日本人ツアーのシーズンオフである旧正月などは逆に香港人の団体ツアーの添乗員として日本へ行った。この場合、ガイド料以外にツアー客一人につき500ドルをチップとして添乗員に払うというしきたりがあり、これがまた馬鹿にならないのであった。

私は他人事ながら気になり一度計算してみたことがある。もし30人の団体なら1週間のツアーのチップだけで15000ドルになる。すごい儲けである。

「もっと早くガイドをしてたらよかったです」

林さんは心底残念そうに言った。





林(らむ)さんの場合(1)

2004-09-29 22:43:04 | Weblog
サニー・張のように密入国して自ら出頭し香港の身分証明書を取得する場合、大抵名前を変えて申告する。そこはやはり不法入国者である、何かあった時のために用心をしておくに越したことはない。

密入国して何年もたってから、サニー・張が初めて広東省の故郷へ帰省した時は、大丈夫だとはわかっていてもやはり不安で落ち着かなかったそうである。それが偸渡客の心理というものなのだろう。

そんな訳でサニー・張はもともとは張志健というのだが、それを張啓明とした。自分を証明するものは何もないから、すべては本人の申告の通りになってしまうのだ。

そして、私の広東語の先生である林さんも実は二番目の名前を持っている。つまり、林さんもまた偸渡客なのだった。林さんは自分のことはあまり話さない。このことはおしゃべりなサニー・張から聞いたことだ。

林さんは陸路のルートで香港へやってきた。それから香港で暮らし、とある日本人を紹介され、その人に保証人になってもらって日本へ留学してきた。

来日後しばらくその人の家に住まわせてもらったが、留学生用の寮に入れることになってから引越し、後は自力でアルバイトをしながら電気関係の専門学校へ通った。

その日本人には今でも感謝していると言っている。もしその人がいなければ日本への留学もどうなったかわからない。

「ぼくは運がよかったですね」

林さんはそう言った。

しかし、林さん自身努力の人であり、向上心の強い人だった。日本にいる時、誰が訪ねて行っても、林さんはいつも机に向かって勉強していたそうである。希望のない社会主義中国を捨てて、危険を覚悟で香港へ渡ってきたのもそういう気持ちがあればこそだったのだ。

留学を終えて日本へ帰る前に、林さんは日本である会社の香港出張所の現地採用の口を見つけることができた。帰国前にすでに就職先を確保できていたわけで、このあたりもなかな抜け目がないというか、運がいい人なのだ。

だが、香港へ帰ってから2年ちょっとその会社で働いた後に、林さんは日本人相手の旅行ガイドに転職した。日本の会社では結局いつまでも下働きだったし、学ぶべきものもそれほどなかった。

「同じことの繰り返しで、人間がバカになりますね」

林さんは転職の動機をそう語ったが、しかし、実は林さんには新たな目標があり、それに向けて準備しなければならなかったのだ。それはアメリカに移民することだった。

続々・偸渡客(密入国者)

2004-09-26 23:05:41 | Weblog
空がかすかに白み始めた頃、サニー・張はようやく小さな岩礁に泳ぎ着き、懸命にしがみついた。何度も滑り落ちながら何とか這い上がったが、体力はすでに使い果たしていて、それ以上泳ぐのは無理だった。

上半身は裸でズボンからは濡れて脚にまとわりついていた。冷え切った外気にさらされると寒さがいっそう増し、全身に震えが来た。サニー・張は身体を縮め、岩の上にしゃがみこんだ。歯のカチカチ鳴る音がまるで他人のもののように大きく聞こえた。

しばらくすると周囲が急速に明るくなり、遠くに黒い船の影が見えた。サニー・張はとっさに身を伏せた。もしそれが香港の水警なら、逮捕されてこれまでの苦労が無になってしまう。

しかし、近づくにつれてそれが漁船のエンジン音だとわかった。力を振り絞って立ち上がり、両手を振って大声で叫んだ。

「助けてくれー!乗せてくれー!」

使い古された毛布にくるまって震えていると、漁民のおやじが琺瑯のカップに熱いお湯を注いで渡してくれた。カップのふちは火傷しそうに熱かったが、お湯を飲むと身体が内部から生き返るのがわかった。

船のエンジン音と振動が心地よかった。サニー・張は船べりに背中を押し当てその振動を楽しんだ。とうとうやったのだ。安堵と達成感に彼はうっとりと眼を閉じた。

おやじは目を細めて彼の様子を眺めていたが、ひとつわざとらしい咳をすると言った。

「ところで、連絡先とかはあるんだろうな」

「えっ?」

「電話番号とか何かだよ」

「あ、もちろん、もちろんありますよ」

「見せてみな」

サニー・張はズボンのポケットの裏側に縫い付けてある布切れを引っ張り出した。そこには林さんの長兄の電話番号が書いてあった。もっとも彼自身それは完全に暗記していてすでに頭に入っていたのだが。

「OKだ」

おやじは満足そうに笑った。

おやじがサニー・張を助けたのは何も人道的見地からではない。あくまでも金儲けのためである。

広東省からの偸渡客(密入国者)は香港のつてを頼ってくる。そこで香港の漁民たちは彼らを上陸させ、電話をかけさせて金を持ってくるように言わせる。

もしそのつてが金を工面できなければ漁民たちは警察に連絡して彼らを密入国者として警察に引き渡すのだ。

1970年代前半の相場は大体500香港ドル程度だった。当時は日本円が1香港ドルで5、60円といったところだったと思う。これが80年代になると20000香港ドルぐらいに跳ね上がる。

偸渡客は漁民たちにとってなかなかおいしい獲物だといえるだろう。

林さんの長兄は500ドルを持ってサニー・張を引取りに来てくれた。もちろんこのお金はサニー・張の借金となり、後で働いて返さねばならない。このあたりのことは計画段階ですでにお互い了解済みのことであった。

なにはともあれこうしてサニー・張は無事に香港にもぐりこむことが出来たわけである。

香港潜入後、林さんの長兄の世話でサニー・張はまず土瓜湾(とうくわーわん)のアパートの一室に男4人で住み、林さんの長兄がやっているクーラーの取り付けの仕事を手伝うことになった。

それから後はいくつかの紆余曲折を経て何とか独立を果たした。今では小さな会社の社長として営業のため毎日あくせく走り回っている。結婚して子供も二人でき、沙田(さーてぃん)にローンでではあるがマンションも買った。

「始めて香港へ来た時、俺の財産は濡れたズボンが1本だけだった」

サニー・張はそう言って笑う。

香港はパラダイスではない。ここへ来れば誰もが成功できるというわけでもない。ドヤの大部屋の安全のため鉄格子で囲んだ「鳥籠」と呼ばれるベッドに一生住み、ひとりで朽ち果てる人間もいるのである。

そうして見ると、サニー・張の人生は大成功とは言わないまでも、まずまずのものではないかと私も思う。

さて、いつだったか、あの時サニー・張と一緒だった残りの4人はどうなったのか聞いてみたことがある。

するとサニー・張はさらっと言った。

「後で出て来て、みんなこっちに住んでるよ」

逮捕された後、2ヶ月間収容所に入れられて再教育を受けさせられる。しかし、釈放されるやいなや彼らはくじけることなくまたあくなき挑戦を繰り返すのであった。

偸渡客。それは香港ではごくありふれた隣人たちなのである。

続・偸渡客(密入国者)

2004-09-24 22:09:37 | Weblog
いよいよ決行となり、5人は故郷から5日間かけて山を歩いて、とある海辺の人民公社の村にたどり着き、隠れて暗くなるのを待った。

夜になり、人影がなくなったのを見計らって彼らは浜辺へ出た。沖へ泳ぎ出て潮の流れに乗れば香港に着けるはずだ。

その時、突然人の怒鳴り声が響き、ライトが光った。警戒中の民兵に発見されてしまったのだ。

考える暇もなく、5人はわっと散り散りに逃げ、サニー・張だけが海に走りこんだ。後はどうなったのか彼自身よく覚えていない。ただ夢中で前へ前へ進んで、気がつけばたったひとり海の中に浮かんでいた。

村の方を振り返っても、いくつか明かりが見えるだけで、何も聞こえなくなっていた。周囲はまったくの暗闇だった。それまで励ましあってきた仲間は誰一人そばにいない。小さな声で仲間の名前を呼んでみたが、もちろん応答はなかった。

闇の中、しかも海の真っ只中にひとりいることの孤独と心細さが胸を締め付け、恐怖で身体が震えるのを抑えられなかった。

引き返そうか。サニー・張は迷った。このままひとりで泳ぎ続ける勇気が出て来そうになかった。ひとりぼっちで海の中にいるより、たとえ捕まったとしても仲間たちと一緒の方がましに思えた。

引き返したいという誘惑と格闘しているうちに、知らず知らず涙がこぼれてきて、彼は声を上げて泣いた。

しかし、サニー・張は引き返さなかった。手製のちゃちな浮き輪に身を預け、泣きながら真っ暗な夜の海をたったひとりで香港へ向けて泳いでいった。


偸渡客(密入国者)

2004-09-23 21:59:52 | Weblog
もともと広東省から香港へ密入国するのは単独か仲間と徒党を組んでやったもので、成功したものがその情報を親兄弟、親戚や友人へ知らせ、そしてまた新たなチャレンジャーが生まれるという構図だった。

これは商売になると眼をつけた人間が出てくるのは、そうした先駆者たちのノウハウが蓄積されてからのことだ。

中国には「自力更生」という言葉があるが、密入国を自力で決行するには相当な気力体力を必要とする。

海から行くには5時間も6時間も泳がねばならない。これはたとえ浮き袋があっても簡単なことではない。海にはサメだっているし、海水に浸かっているだけで体温が奪われ体力も消耗する。何らかのアクシデントで海の藻屑と消えた人間も少なくはないという話である。

しかし、陸上から越境するには国境のバリケードに近づくだけでも大変だし、中国香港双方の警備兵の厳しい監視などクリアしなければならない問題が多すぎる。

どちらを選択するか、偸渡客(密入国者)にとっては実に難しい問題だ。大げさでなく、これには自身の命がかかっているのである。

林(らむ)さんの従兄のサニー・張は海のルートを選択した偸渡客だった。

1970年代初頭、中国は文化大革命の最中で、政治運動ばかりの閉塞した社会であり、若者には未来に何の希望も持てない時代だった。まぁ、いわば今の北朝鮮のようなものだ。

しかし、お隣の資本主義社会香港は経済発展が始まり、そこには中国とは比べものにならないほど豊かな生活がある、という話が親戚などからも伝わってくる。中国から見れば、香港は自由と可能性に満ちた輝ける世界に見える。

ここはいっちょうやってやろうではないか、と考えるのは若者にとっては自然なことだろう。サニー・張は仲間4人と語らって、海を泳いで香港へ渡ることを計画した。