チョロンについては素人の私があれこれ言うより、専門家の書いた本でも読めば一目瞭然なので、岩波新書坪井善明著『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』から著作権を侵害して許可なく引用してみることにする。(確信犯です)
以下は「第1章 中国の影」からの抜粋である。(P7~P8)
・・・(前略)17世紀に、明朝遺臣たちによって入植開発された地区で、南シナ海貿易の一大センターとして、とくに19世紀後半から20世紀前半にかけて名声をはせた。
南ヴェトナム政府時代(1954年―75年)には、サイゴンと区別され、「サイゴン・チョロン」地区と呼ばれた。伝統的に中国人の勢力が優勢で、ヴェトナム国籍を取得しない人もたくさん住んでいて、ヴェトナム人の力が及ばない一種の治外法権の中国人街(チャイナタウン)として、行政も自治組織によって運営されていた。
ここは1975年のサイゴン陥落以降、南部ヴェトナムの社会主義的改造の格好の目標となった。流通部門をにぎる資本主義的中国人商人の影響を排除しなくては、南部ヴェトナムの社会主義化は達成されない、というわけである。
1979年の中越戦争の前後を山として、数多くの中国人が海外に脱出し、一時は、チョロンは火の消えたように活気を失った。しかし17世紀以来300年以上の伝統があり、チョロンしか知らずに育ち、ここで死のうと動かなかった人間も多数存在していた。海外の中国人商人との強固なネットワークは、政治的混乱があってもしっかりしていて、しぶとく生き続けている。
1980年代後半になり、国際環境が変化し、ヴェトナム国内でもドイモイ政策という刷新政策、とくに経済的な対外開放政策が採用され、チョロンは息を吹き返した。
現在では、このチョロン地区の中国人商人がつかんでいる「華僑ネットワーク」ともよべる人的関係にのらないと、ヴェトナムではうまく商売ができない、とまで言われている。(後略)・・・・
以下は「第1章 中国の影」からの抜粋である。(P7~P8)
・・・(前略)17世紀に、明朝遺臣たちによって入植開発された地区で、南シナ海貿易の一大センターとして、とくに19世紀後半から20世紀前半にかけて名声をはせた。
南ヴェトナム政府時代(1954年―75年)には、サイゴンと区別され、「サイゴン・チョロン」地区と呼ばれた。伝統的に中国人の勢力が優勢で、ヴェトナム国籍を取得しない人もたくさん住んでいて、ヴェトナム人の力が及ばない一種の治外法権の中国人街(チャイナタウン)として、行政も自治組織によって運営されていた。
ここは1975年のサイゴン陥落以降、南部ヴェトナムの社会主義的改造の格好の目標となった。流通部門をにぎる資本主義的中国人商人の影響を排除しなくては、南部ヴェトナムの社会主義化は達成されない、というわけである。
1979年の中越戦争の前後を山として、数多くの中国人が海外に脱出し、一時は、チョロンは火の消えたように活気を失った。しかし17世紀以来300年以上の伝統があり、チョロンしか知らずに育ち、ここで死のうと動かなかった人間も多数存在していた。海外の中国人商人との強固なネットワークは、政治的混乱があってもしっかりしていて、しぶとく生き続けている。
1980年代後半になり、国際環境が変化し、ヴェトナム国内でもドイモイ政策という刷新政策、とくに経済的な対外開放政策が採用され、チョロンは息を吹き返した。
現在では、このチョロン地区の中国人商人がつかんでいる「華僑ネットワーク」ともよべる人的関係にのらないと、ヴェトナムではうまく商売ができない、とまで言われている。(後略)・・・・