goo blog サービス終了のお知らせ 

香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

続胡志明市(ホーチミン市)のチョロン

2007-03-14 22:08:17 | Weblog
チョロンについては素人の私があれこれ言うより、専門家の書いた本でも読めば一目瞭然なので、岩波新書坪井善明著『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』から著作権を侵害して許可なく引用してみることにする。(確信犯です)

以下は「第1章 中国の影」からの抜粋である。(P7~P8)


 ・・・(前略)17世紀に、明朝遺臣たちによって入植開発された地区で、南シナ海貿易の一大センターとして、とくに19世紀後半から20世紀前半にかけて名声をはせた。
 南ヴェトナム政府時代(1954年―75年)には、サイゴンと区別され、「サイゴン・チョロン」地区と呼ばれた。伝統的に中国人の勢力が優勢で、ヴェトナム国籍を取得しない人もたくさん住んでいて、ヴェトナム人の力が及ばない一種の治外法権の中国人街(チャイナタウン)として、行政も自治組織によって運営されていた。
 ここは1975年のサイゴン陥落以降、南部ヴェトナムの社会主義的改造の格好の目標となった。流通部門をにぎる資本主義的中国人商人の影響を排除しなくては、南部ヴェトナムの社会主義化は達成されない、というわけである。
 1979年の中越戦争の前後を山として、数多くの中国人が海外に脱出し、一時は、チョロンは火の消えたように活気を失った。しかし17世紀以来300年以上の伝統があり、チョロンしか知らずに育ち、ここで死のうと動かなかった人間も多数存在していた。海外の中国人商人との強固なネットワークは、政治的混乱があってもしっかりしていて、しぶとく生き続けている。
 1980年代後半になり、国際環境が変化し、ヴェトナム国内でもドイモイ政策という刷新政策、とくに経済的な対外開放政策が採用され、チョロンは息を吹き返した。
 現在では、このチョロン地区の中国人商人がつかんでいる「華僑ネットワーク」ともよべる人的関係にのらないと、ヴェトナムではうまく商売ができない、とまで言われている。(後略)・・・・

胡志明市(ホーチミン市)のチョロン

2007-03-11 23:23:33 | Weblog
チョロンはベトナム戦争当時の報道では「ショロン」と呼ばれていて、私にはその方が耳慣れているのだが、おそらくそれは「Cho Long」のフランス語風の発音なのだろう。

で、「チョ」とは「市場」で「ロン」とは「大きい」、つまり「大きな市場」という意味なのだそうだ。ちなみにベトナム語では形容詞が名詞の後に来るらしい。だから、例えば「日本人」は「人日本」とさかさまになるとのことだ。

ベトナム語は世界屈指の難しい言葉だそうだが、こういう話を聞くだけで、学習意欲はくじけてしまい、ベトナム語はまぁもういっかぁ、と戦う前から戦意喪失してしまった。

だが、チョロンという言葉はまさに商売の才覚に長けた中国人にふさわしい街の名前だと思う。

チャイナタウンと聞けば、横浜の中華街とか神戸の南京町のように派手な色彩のレストラン街などを想像してしまうが、ホーチミン市のチョロンはそんなイメージとはかけ離れている。

全体的に古びて埃っぽいし、街並はくたびれて汚れているような色合いだ。これはおそらく社会主義政権下での経済的な遅れによる貧困が原因なのだろう。家や店の改装や改築に金が回るほどの経済的余裕がなかったのではないだろうか。

それに、金回りがよさそうだと、とたんに資本主義的だと批判されたに違いない。派手なことはひかえて、金目のものは見つからないように隠しておいたのだろう。

だから、デービー・連の母親たちがボートピープルとして逃げ出す時も、その資金は壁の中に塗りこんでおいた金塊を使ったということだった。

しかし、街の活気というとその逆だ。ビンタイ市場などは人があふれるようだし、チャンフンダオ通りの布屋街にはこれでもかというほど店がずらずらと並び、店員たちが忙しげに働いている。通りはぶいぶいと突っ走るバイクの群れの騒音が満ちている。

チョロンにあるのはあくまでも実業の世界であって、歓楽街や観光客相手の商売はないように見えた。ホーチミン市の中心部にベンタイン市場というのがあり、そこの商人たちはえらく観光客ずれしていているが、チョロンのビンタイ市場の売り手は観光客にはそれほど熱心ではないようである。

店と店の間の狭い通路を通ってうろうろしてみたが、あんまり積極的にはかまってもらえなかった。商品の積み具合を見ても、むしろここでは小売より卸の方に商売の重きを置いているという感想を私は持った。

もっとも、私が行った時も日本人らしき小集団もいたし、白人のバックパッカーや旅行客然とした欧米人老夫婦もいたから、外国人観光客も増えているようで、観光客ずれしてくるのは時間の問題かもしれないが。

これは素人である私の表面的な観察に基づく結論なのだが、チョロンにある商店は卸問屋が圧倒的に多いのではないか。

あちこち見て回ったのだが、布屋街の他にも例えばバイクのパーツを売る店がずらりと並ぶ通りにはどの店にも銀色に光るホイールや黒いタイヤなどが軒並みつるしてあったりするし、いろんな太さの鉄管を商う店ばかりの通りもある。各店の規模はそれほど大きくはないが、同業種がずらりと並ぶ様子はある種壮観ではある。

とにかくそうした通りの並びにはある業種の店が集中していて、他業種の店はない。もちろん小売もするのだろうが、ここまで同業種の店が多いというのはやはり小売より卸に力を入れているのであり、南部ベトナムのあちこちからチョロンのこうした通りに仕入れに来るのではないだろうか。

そして、チョロンに来れば何でもそろう、というのがチョロンの売りなのであり、その背景には商売上手な中国人と彼らの華人ネットワークが支える流通機構があるのに違いない。


チョロンを歩く

2007-03-03 22:29:47 | Weblog
夏にベトナムに行ったのにその冬また行ったのは、チョロンをもう一度よく見てみたくなったからである。

チョロンはホーチミン市のチャイナタウンだが、初めてそこのビンタン市場に行った時、売り手と買い手のおばさんたちとの間での、あのまるで喧嘩のような広東語のやり取りが突然耳に飛び込んできて、不意打ちにあったように私は立ちすくんでしまった。

その時の衝撃をどう言えばいいだろう。大げさに言えば一種の感動に近い感覚だったと表現してもいいと思う。

あのデービー・連が生まれ育ったところだから広東語が聞こえてきても不思議はないが、しかし実際に体験するとなると話は別だ。

「ををっ! なんじゃ、こりゃあ?」である。まるで香港の街市にいるようではないか。

それがもし北京語だったら、私はそれほど驚かなかったのではないだろうか。広東語という地域性のある言葉だったからこそ驚きが生々しいものになったのに違いない。

その後、私と老姑婆はガイドブックに載っていた教会を探していて、チャンフンダオ通りで迷ってしまった。

そこで、とある家の門口に立っている10代後半の男の子を見つけ、私は試しに広東語で聞いてみた。

「この通りは何ていう道?」

その男の子は、私の広東語に意外さを覚える風でもなく、ごく普通の反応で答えた。

「チャン フー ドー」

それは「陳富道」の広東語読みだった。

実は私はチョロンに着く前に、タクシーの中から偶然道端の家の入口の上に貼り付けてある小さな住所表示にその漢字を発見していたのである。

しかし、チャンフンダオ通りの家々にはそんな漢字の住所表示はほとんど見られなかった。おそらくかつて中越戦争(ベトナム側からすると越中戦争だろうか)当時に華人たちが排斥された時にはずされたのではないか、と私は推測した。(もちろん推測であり、間違っていたらごめんなさい、なのであるが)

その時私と老姑婆はガイドブックにあったキリスト教の教会を探していたのだが、それを聞くと、少年は知らないと言い、ちょうどミニバイクに乗ってやってきた女性を呼び止めて何やら言った。

すると、その女性は私たちに今度は北京語で話しかけてきたのである。もっともその女性が教えてくれたのはまったく逆の方向だったのが後になってわかったのだが。

しかし、ここまでくるとチョロンが中国人の街だという雰囲気はいやが上にも盛り上がってしまうではないか。私がまたチョロン行ってみたいと思うようになったのは、まぁそういうわけなのである。

グッドモーニング ベトナム

2007-02-23 21:44:43 | Weblog
2006年12月23日、ベトナムのホーチミン市のタンソンニャット空港に着いたのは午後6時で、もう夜になっていた。

夏に初めて来た時も、空港のターミナルは古びて薄暗く、ひどくうらびれた雰囲気がした。トイレもこじんまりとし、どことなく場末の映画館のトイレといった雰囲気だ。これが国際空港とはとても思えない。

私は用を足しながら、あの「ベトナム戦記」を書いた開高健もここで便器に向かったことがあるのだろうか、と想像したりした。

ホーチミン市と言う時、私は少々ぎこちなくなる。どうもサイゴンと言う方がしっくりくる。ベトナム戦争の報道や映画などで盛んに耳にしたのはサイゴンという名前であり、ホーチミンといえばあの北ベトナムの指導者だった白い鬚の老英雄の顔を思い浮かべてしまうのである。

そんなこともあって私は小村さんの工場がハノイにあると勘違いしてしまった。小村さんの工場はホーチミン市つまり旧サイゴンにあるのだが、ホーチミンと聞いて元北ベトナムのハノイとごっちゃになってしまったのである。サイゴンって言ってくれりゃいいのに、と私は後でぶつぶつ言ったが、勝手に間違えたのはこっちなのだから文句の言えた義理ではない。

とにもかくにもベトナム戦争が終わってからもう30年以上になり、ベトナムも紆余曲折の後、他の社会主義国同様今では資本主義経済の道をまっしぐらに走っている。

秋になってクリスマスの香港行きを計画する時期になり、ベトナムにもう一回行くかなぁ、と私が言うと、貧しいとこはもうええわ、と老姑婆は言った。夏行った時はそれなりに面白かったが、1度でもう十分だから、行くなら一人で行けば、ということで、2回目は私の一人旅となった。

今回はキャセイ航空を使ったのだが、ホーチミン市にたどり着いた時、私はくたびれ果てていた。キャセイの路線は香港経由で、香港での乗り換えのため空港内で4時間も待たねばならなかったのである。

空港ビルを出て、迎えに来てくれていた小村さんを見つけた時はほっとした。

2度目とはいえ、1回目がほとんど小村さんにおんぶにだっこの3日間だったため、まだベトナムは初めてのようなものである。夜になってタクシーを拾いホテルまで行くのは考えただけでも気が滅入る。

ネット上ではベトナムのタクシーやシクロの評判はこの上なく悪い。まぁ、ネットに書き込む人も嫌な経験があるから書くのである。不満のない人は書かないから、書き込みが非難一色になるのも当たり前といえば当たり前で、こちらも過剰に反応してはいけないとは思うが、彼らのぼったくりの勢いは相当なものらしい。

料金を吹っかけたり遠回りするぐらいは序の口で、金を払う段になるとこれじゃ足りない倍払え、とおどす。メーター料金はベトナムドンの表示なのに、これはアメリカドルだ、とぬけぬけと言う。

腹を立てて喧嘩になると、仲間が集結してきて取り囲まれる、等等、聞くだにげんなりする話ばかりである。特にシクロの評判はガイドブックでも極めて悪く、外国人は乗らないほうがいい、と必ず書いてある。

道を歩いているとシクロの運ちゃんがついてきて乗れ乗れとしつこく誘うが、こちらは全面無視を決め込んでまったく相手にしない。シクロも安全に乗れるなら料金は安いしこちらとしても助かるのだが、嫌なことがあるとせっかくの旅行が台無しだ。

シクロの運ちゃんにしても自業自得とはいえこれでは商売あがったりだろう。ベトナムでのんびりシクロに乗るなどは外国人旅行者にとってはなかなか魅力的なのだから、これは双方にとって損失ではあるまいか。ぜひシクロの運ちゃん諸氏にサービス改善をお願いしたいところである。

小村さんの会社のバンに乗り込むと、小村さんが聞いてきた。

「晩飯、どうします?」

「いやぁ、飛行機の中で食ったばかりで、あんまり腹減ってないんですよ」

じゃ、軽いものでも食べようか、ということになり、バンは市内中心部に入ってから、とあるにぎやかな通りの歩道に寄せて停まった。

「あれっ、この店前にも来ませんでした?」

「え?連れて来たかなぁ?」

店の外見には見覚えがあった。そのレストランはピザやパスタを出す、言わばイタ飯屋で、名前を「グッドモーニング ベトナム」といった。ベトナム料理ばかりじゃ面白くないだろう、と小村さんが連れてきてくれたのだった。

料理はイタリアンなのに、店構えはよくいえばアーリーアメリカン調で、店名も英語というスタンスのよくわからない店ではあるが、料理の方はまずまずだった。

その時ビールは「333」というのを頼んだ。これは映画でアメリカ兵が瓶からラッパ飲みしている場面が記憶にあったから一度飲んでみたかったのである。私にとってベトナムとはあの戦争のイメージから離れることがない。

ところが、ビールのジョッキに氷が入っているのである。

「うえっ、氷が入ってる」

私は驚いて声を上げた。

「こっちはみんなこうなんやから。ビールが薄まるんやけどなぁ」

小村さんはそう言いながら、空いている小皿に氷を出した。

「そやけど、この氷が危ないんやね。水が悪いから下痢することがあるんですよ」

それはまずい。ベトナムの後まだ香港にも寄らねばならないのだ。しかし、かといってせっかくベトナムへ来てベトナム式の飲み方を経験しないのも如何なものか。

私は迷った挙句、とりあえず一杯目は氷を入れたまま飲むことにした。だが、東南アジアのビールは概してコクもキレもない、と私は思うのだが、そこに氷が解けるから、尚更味は薄まり、しまいにはほとんど水の味しかしなくなる。南国のベトナム人としてはビールの味よりもとりあえず冷たさを追求するらしかった。

ふとメニューにある店名が眼にとまった。そこには「Good Morning Vietnam」とあった。

(ぐっど もーにんぐ べとなむ・・・)

はて、どこかで聞いたような・・・。

しばらくして思い出した。それはロビン・ウィリアムス主演のベトナム戦争を題材にした映画の題名だったはずだ。

軍の放送局のDJが、アメリカ兵の士気を高める番組を放送するためにベトナムへやってくる。そして、毎回番組の冒頭に「グーッ、モーニーン、ベトナーム!」と大声で叫ぶのである。

映画としてはやはり反戦映画の部類に入ると思う。最後に軍の上層部から睨まれてこのDJ兵士は番組を下ろされてしまうことになるのだ。

「この店の名前って、映画のあれですよね?」

と聞くと、小村さんも頷いた。

「ああ、そうやね。ロビン・ウィリアムスやったかなぁ、主人公やったんは」

とすんなり話が進むのがジェネレーションというやつである。これが若い人ならこうはいかない。第一ベトナム戦争って何?と聞き返されるのがおちだ。

しかし、かつて「打倒帝国美」(アメリカ帝国主義打倒)を叫んだベトナムでベトナム戦争を題材にしたアメリカ映画の名前が店名につけられるとは、時代は本当に変わったものである。

前回ホーチミン市に来た時は、小村さんの案内であちこち連れて行ってもらった。だが、市内の統一会堂といい、郊外のベトコンの基地だったクチトンネルといい、かつてのベトナム戦争の名残は今や重要な観光の目玉となっている。

日本とは逆にベトナムでは若年人口がやけに多い。工場地帯の退け時などは、道端を二十歳前ぐらいの若者たちが歩道に溢れるほど歩いていたりするし、小村さんのプラスチック加工の工場でも、男女共にほとんどがそんな年代の工員ばかりだ。

戦争を経験した世代はじわじわと後退しているようで、ベトナム戦争も否応なく遠い歴史になりつつあるのが時の流れというものなのだろう。

私が「サイゴン」に来てみたいと思ったのは、昔東南アジア旅行で知り合い、香港を一緒に歩いたJ・オニールがベトナム帰還兵であったことと、サイゴンが香港での友人デービー・連の生れ故郷だったということがあったからだ。

さらに私自身も若かりし頃、時代の熱に浮かされてベトナム戦争反対のデモに加わったこともあった。

だが、それはまぁ何というか甘酸っぱい青春の感傷のようなものであり、結局のところ、ある種のセンチメンタルジャーニーに過ぎない。

J・オニールのように戦場の中で命がけの日々を送ったり、あるいは徴兵を逃れるために香港へ密入国してきて、自分の家族がボートピープルになったデービー・連たちならともかく、所詮私は気楽な傍観者なのである。この店の名前がアメリカ映画からとったものだからといって私がとやかく言える筋合いのものではないだろう。(とやかく言う気はありませんけど)

よそ者の観光客としての立場に徹することこそ、むしろ私の正しい姿勢なのだと再確認し、妙な思い込みはもういい加減にしないとな、と密かに苦笑しながら私は頼りない味のビールを喉に流しこんだのだった。



デービー・連(5)

2006-05-01 22:00:27 | Weblog
デービーが香港を去ったのは1989年に起こった天安門事件の約1年前だった。ガールフレンドの阿ポンもその2年後くらいにデービーを追ってニューヨークへ行った。

ニューヨークに行ってからデービーはタクシーの運転手になった。向こうでの事業はなかなかうまくいかず、定期的な収入を得るためにそうせざるをえなかったようだ。

アメリカでは移民したての人間がよくタクシーの運転手になるのだという話を聞いたことがある。それが現金収入の手っ取り早い方法らしい。

商売のネタを探しに何度かベトナムに行き、その途中に香港へ寄ることもあったらしいが、それは大抵夏だった。

90年代に入ってから、私たちの香港行きも年末年始の1回だけとなった。みんなが移民したり、家庭を持ったりと状況が変わったように、私たちも家を買い、そのローンの支払いのためにあまり贅沢もできなくなったのである。

だから、その後私たちにはデービーと会う機会はなかった。

いつだったか、徐さんが必死に笑いをこらえた顔で私に言った。

「この夏に来た時に、みんなで集まって飯を食ったんだけどね。久しぶりに会って、ほんとにびっくりしたよ」

「どうして?」

「毛が生えてた、頭に」

そして、ひーっと、悲鳴のような声をあげてとうとう噴出してしまった。

何とあの「光頭連」(禿の連)がカツラをかぶってみんなの前に出現したのである。

カツラをかぶったデービーの顔がどんなものか、いくら想像しても思い浮かべられない。それはぜひとも見たかった。

しかし、それでなくても蒸し暑い香港の、そのまた酷暑の夏の日にカツラとは、いったい何を考えてるんだか・・・。

それから確か中国への香港返還の前の年あたりだったと思うが、スタンレーの家からニューヨークへ電話したことがあった。

その時は電話が通じ、デービーのいつものへらへらした口調が受話器から伝わってきて、私はひどく懐かしい気持ちになった。

あれこれしゃべった後、急にデービーが感心したような声を出した。

「広東語うまくなったなぁ」

「えっ、そうかなぁ」

突然誉められて面食らってしまった。当時いつまでたってもうまくならないと自己嫌悪に陥っていたのだ。

「だって、こっちがしゃべったら、すぐに返してくるじゃないか」

そうなのか、と私は少し嬉しくなった。以前私とデービーはもっぱら北京語で会話していたのだった。

「今度またベトナムに行くことがあったら、また香港へ寄るんだろ?できたらクリスマス頃に来いよ」

「うーん、まぁ、おれは無定性(もうでんせん)だからなぁ・・・。無定性って意味わかるか?」

うーっむ、と私は考え込んだ。

「四囲行(せいわいはん)ってことか?」

四囲行とはあちこち歩き回るということで、ひとところに落ち着いていないという意味で言ってみたのである。

「いや、ちょっと違うけど、でも、ま、そんなとこかな」

だが、これは後で聞いてみると、無伝性とは言うこととかやることがあてにならないというか、ころころ変わるといった風な意味なのだそうだ。

それ以来、デービーについては相も変わらずタクシー運転手をしているという話以外、何かの商売を始めたという噂を聞いたことはない。

数年前ベリンダが商用でニューヨークへ行った際に、スタンレーから教えてもらった電話番号にかけてみたが、その電話は通じなかったそうだ。だから今ではもうデービーは私たちにとって消息不明の人間になってしまった。

そして、最近では記憶の底に深く潜行してしまい、めったに浮上することもなくなった。

デービーも私にとっては恩人のようなものだ。いい加減でちゃらんぽらんなところもあったが、根っから気のいい面倒見のいい人間だった。デービーがいなければ、あそこまで私たちの香港通いが加速したかどうか怪しいものである。

恩人といえば、あの小村さんが私を恩人だと言っていると聞いてびっくりした。

小村さんは以前から台湾に工場を持っていたが、今は中国とベトナムにも工場を持って商売に精を出しているそうだ。

そしてそのきっかけが私だというのである。

というのも、デービーが仲を取り持ったマカオのフランクやそのボスとの関係から大陸との商売やベトナムへの進出の足がかりができたのだそうだ。

ほんまかいな、と私としては狐につままれたような気持ちだ。私は何もしていないし、その後のことは小村さん自身の努力によるものだから、感謝されるとむしろ困惑してしまうのである。

しかし、まぁ人生における縁というものは不思議なもので、そうした縁がなければなしえないことがあるのも事実だ。それは私と香港とのつながりがそうであるように。

そう思うと、私の果たした役割がある種重大であったかもしれないとは思う。

そこで、この夏ベトナムへ行く話が持ち上がっている。

小村さんの工場はハノイにあって、そこを見学するツアーを小村さんが企画しているのである。

私は最初乗り気ではなかった。ベトナムにはそれほど興味はないし、ハノイにはなおさら行く気が起こらない。

そこでふと、ホーチミンなら行ってもいいけどなぁ、と断る口実のつもりで言ったら、よしきたホーチミンも付け加えましょう、ということになってしまったのである。

あちゃっ、しまった、と思ったが、もう遅い。

だが、ここまで来れば乗りかかった泥舟である。沈没覚悟で行くことにした。

ベトナムでは銃の射撃場があり、金を出せばトカレフなんぞも打てるし、ベトナム戦争当時のベトコンのトンネル基地なども観光地としてあるらしい。

私は閉所恐怖症だからベトコンのトンネルはどうでもいいが、あのデービーが生まれ育ったホーチミン、いやサイゴンをこの目で見てみるのも悪くはないと思っている。

そしてそこはまた1974年に初めての香港を一緒につるんで歩き回ったベトナム帰還兵のJ・オニールが砲兵隊の将校として休暇の日にフォーを食べた街でもある。

サイゴンのショロン地区を歩き、J・オニールのように露天の屋台で本場のフォーを食べてみるのも、これまた何かの縁ということになるだろう。


デービー・連(4)

2006-04-27 23:12:38 | Weblog
「俺は今アメリカにいることになってるんだ」

尖東にあるホテルリージェントのビクトリア湾が見えるレストランでデービーは突然そう言った。

そこにはよくスターが来るからと連れて行かれたのだが、平日の午後三時のその時間帯にはスターたちは昼寝でもしているのか、それらしき影も見えない。

「何のこっちゃ、そりゃ・・・」

現にデービー・連は私の前にいるのである。

いぶかしげな顔をする私に対して、デービーはやや得意げな顔をして説明を始めた。

デービーはベトナム華僑で、以前はサイゴンと呼ばれていた現在のホーチミン市生まれだ。ベトナム戦争で兵隊に取られることを避けるため、12、3歳の頃親が香港へ密入国させた。

その後ベトナム戦争は北ベトナム側の勝利に終わり、南ベトナムは共産主義体制になってしまい、そこからボートピープルとして多くの難民が逃げ出したことは有名な話だ。

デービーの母親もその中の一人だった。父親は亡くなっていたが、社会主義ベトナムでは資本家とみなされたデービー一家の生活は苦しいものだったらしい。

「船に乗る費用は金で払うんだ」

純金の小判のような延べ板があって、一人につき4枚が相場だったそうだ。デービー一家はその金を家の壁の中に埋め込んでいたという。

デービーの母親は手配師に金を渡し、家族とおんぼろ船に乗ったのだった。

ボートピープルと一口に言うが、あんなボロ船に乗り込んで、真っ暗な夜の海に出ていくことの恐怖は部外者である私ですら考えるだけでもぞっとする。

もともとどこかにたどり着くというより、外洋で外国の船に救助されることを主眼としているわけだから、船は浮かんでいればいいという程度の代物で廃船寸前の漁船だったりするらしい。

デービーの母親たちが乗った船は運良く日本行きの貨物船に発見され、横浜に連れていかれた。しかし、発見される前に何日も漂流しているうちにデービーの一番下の弟が衰弱して死に、その死体は海に流したそうだ。

だがデービーの母親たちは運がいい方だろう。誰にも発見されず、そのまま海の藻屑となってしまった船も数え切れないほどあるに違いないのだ。

その後母親から連絡があり、デービーはスタンレーと一緒に横浜の収容施設にいる家族に会いに行ったそうだ。デービーが日本語を勉強し始めたのはこの日本行きがきっかけとなったらしい。

こんな悲惨な話を私に聞かせる時のデービーの顔には特に屈託といったものはなかった。それでもへらへらとした笑い顔で紙ナプキンを取るとボールペンで漢字を書いて見せた。

「共産党ってな、別名恐惨党って言ったりするんだ」

この二つの漢字の発音は似通っているのである。

命をかけた代償にデービーの母親たちは難民としてアメリカに渡ることができた。そしてデービーはその家族ということでアメリカの居住権をもらえたのだ。

そこで、デービーには四種類の身分証ができた。ひとつはイギリス政府発行の香港のパスポートである。それに台湾の中華民国発行のパスポートも持っている。そして、大陸中国つまり中華人民共和国が香港人民に発行した回郷証がある。さらにアメリカのパスポートがある。

正式にアメリカの市民権を獲得するには連続して5年間居住していなければならないのだという。しかし、デービーは香港で商売をしているからアメリカに長期滞在するわけにはいかない。

そのため香港のパスポートを使い、まず台湾に行く、それから今度は中華民国のパスポートでカナダに渡り、アメリカのパスポートを使って陸路でアメリカに入国する。カナダとアメリカを陸路で行き来する際、カナダとアメリカのパスポートであれば、それは本人確認するだけで、出入国の記録などは取らないのだそうだ。

そうすると、デービーのアメリカのパスポートには出入国の記録はなく、書類上ではデービーはずっとアメリカにいることになるのだ。

ただ、この使い分けの私の説明がデービーの言葉を正確に伝えているかどうか自信がない。

何しろ20年近く前の話で記憶が定かでないし、パスポートを複数持っていてそれを使い分けるなどということが、日本人である私の常識を超えていたので、その時ですら頭がこんがらがってしまっていたのだから。

チャイナタウンは世界中どこにでもあるといわれる。中国人は故郷を捨てて異国へ流れることをいとわない民族だ。

私も若い頃東南アジアを旅して驚いたことは、タイでもマレーシアでもどんな山の中に行っても商店の経営者は中国人だったし、あちこちに中国語の看板があったことだ。

彼らにとって国というものはそれほど大きな意味を持たないように見える。自分が生きるのに都合のいいところがあれば、そこへ行く。その土地というか場所がたまたま国という枠で囲ってあるだけの話なのである。

日本でも最近中国からの密入国者や不法滞在者が増える一方だ。私たちにとって明らかにそれは犯罪なのだが、彼らは犯罪だとは思っていない。

彼らにとってそれは犯罪でもなんでもなく、ただちょっと手続が抜けているだけの話なのである。

それは私の広東語の師匠である林さんが、大陸から香港へ密入国し、日本へ留学してまた香港に帰り、そしてアメリカに移民して行ったように、より良い場所を求めて進んだだけであり、それをすることはやましいことでもなんでもなく、幸福を追求する権利を行使したに過ぎないわけだ。

自分の幸福を追求することは最高の権利であって、その前には法的な手続など何の意味もない。

だから、国家というものは単なる道具なのだ。必要とあればパスポートは多ければ多いほどいい。私たちなら、どっちの国が自分の本当の国だろうかと頭を悩ませるが、道具だと割り切ればそんなことを気に病む必要はなくなる。

本当に国家に対する感覚が我々とは一味も二味も違う人たちなのである彼らは、まったく。

デービー・連(3)

2006-04-16 20:55:12 | Weblog
ある時デービー・連が仕事で日本に来たことがあった。そして誰か貿易をしている人間を知らないかと聞いてきた。

私たちは商売の世界には疎いのだが、たまたま老姑婆の高校の先輩である小村さんという人が中小企業だが日用雑貨の工場と、雑貨の輸出入をしていた。

そこで自分の面子を保つため、まぁ話だけでも聞いてやってもらえまいか、と頼み込んだのである。

商売のことは何も知らないから、その後話が進むかどうかはこっちの知ったことではないが、香港では世話になっている以上、むげに断るのは気が引けたし、第一、役に立たない奴だと思われるのもしゃくだ。小村さんが、「おっ、ええよ」
と言ってくれた時はほっとした。

大阪は鶴橋にある小村さんの会社に連れて行くと、二人は小村さんが取り出したカタログなどを見ながら、あれやこれやと英語で話し合っていた。そうして二人の間でぼつぼつ取引が始まった。

デービーとスタンレーはハイスクールの同級生だったが、もうひとりフランクというのがいた。フランクはその時マカオでスーパーマーケットの支配人をしていたが、まずそこに日本の品物を卸すことから始まった。

マカオには私も一度連れて行ってもらったことがあり、その時フランクにはあちこち案内してもらったが、さして印象に残るものもなく、思ったよりしけたところだなぁ、というのが感想だった。

フランクのボスはマカオでは顔役でカジノも持っている大金持ちだということで、その会社のスーパー部門に就職したフランクは一時台湾の支店にも勤めていたことがあり、奥さんは台湾人だった。

しかし、マカオは香港とは較べものにならないほどの田舎町という感じで、スーパーマーケットとはいっても、日本のコンビニを大きくした程度の規模でしかなかったから、それほど多額の商品を買い付けるということでもなかったようだ。

まぁ、デービーも小村さんも、とりあえずそのあたりからやってみてお互い手の内をさぐろうということではあったのだろう。

そうなると私たちにも何かと協力要請が回ってくるようになった。

「今度フランクのところで日本雑貨のセールをやるんだけどな、日本の雰囲気を出すために小道具が必要なんで、香港へ来るついでに買ってきてくれよ」

そんな連絡が入ってきたこともあった。

当時私たちは夏と冬の年二回香港詣でをしていたので、今よりも「ついで」が多かったのである。こうなると中国人は「立っているものは親でも使え」というところがあるから、私たちもそれから逃れるわけにはいかない。

「で、具体的にどんなものよ」

「ほら、いつか見たことがあるんだけど、旗みたいなやつで、赤で出血とか描いてあったりするやつとかさ」

なるほど、大安売りとかののぼりのようなものをイメージしているらしかった。

そこで私たちは難波の道具屋筋などに出かけて、あれやこれや物色することにしたが、ああいうものを買うのは「言うは易く」ということで、なかなか難しいものだ。

本人が選ぶのならともかく、代理となると、「適当に選んで」とは言われても、いざ渡す段になって、相手からこれはちょっと違うと言われるのも困ると考えてしまうから、結構プレッシャーがかかるものである。

さらに、その後デービーがある商品を小村さんから仕入れてアメリカに輸出することになり、その商品用のビニールパックを運ばされたこともあった。

みかん箱程度の段ボール箱にぎっしりと入ったビニールパックは、あれはあれでかなり重いものである。家から空港、そして香港のホテルへと運ぶのは本当に骨が折れた。

しかし、そうした苦労はまだましなのだが、取引上の問題となるとこれは困る。

商売人同志はお互い自分の利益が絡んでいるから、押したり引いたりの駆け引きもあれば、考え方の違い、それに日本と香港の商習慣の違いというものもある。

デービーが、ぷんぷんして私に手紙を送りつけて、かくかくしかじかでまったく納得がいかない、ついては小村さんにこうこう言ってくれ、などと言ってくる。

だが、そういう場合、それぞれの立場の違いで言い分は双方にあるわけだから、私たちもどちらかに味方するということもできず、間に立って難儀することになる。つまり板ばさみである。

そんなの自分で言ってくれえ、と心で叫びながら、角が立たない程度に連絡することになるのだが、これにはほとほと参った。

やはり利害が絡むと人間関係は難しくなる。利害関係となれば、友情にも往々にしてひびが入りやすい。その後、私はこうした商売上のことにはかかわらないようにしようと決めている。

商習慣というか、中国人と日本人の考え方にも大きな違いがある。

ある時、デービーが私にシャープの電卓を仕入れたいから、小村さんに連絡して欲しいと頼んできたことがあった。

当時、80年代の中国は開放政策が進行し、広大な市場として注目されつつあった。そこでこうした考え方が流行ることになった。中国の人口は11億ある。となると単純計算で一人につき1円もうけても11億となる。薄利多売でも大もうけになるという話である。

ちょっと待ってよ、といいたくなるほど単純すぎる計算だが、考え方としては極めてわかりやすく、いやが上にも商売人の欲望をかき立てずにはおかない。商売人としては肉を前に「待て」をさせられている犬状態である。

その大陸で今シャープの何とかいう品番の電卓が大人気で飛ぶように売れている。ついてはそれを至急手に入れて売りさばきたい。ブームはすぐに去るだろうから、チャンスは短い。品番はこれこれでないとダメだ。向こうの連中はブランドに弱いから、それでないと欲しがらない。量は多ければ多いほどいい。金ならある。

と、まぁこんな具合だ。デービーの夢は膨らむばかりで、もう1億ぐらい儲けたつもりになっている。

そして私は小村さんに連絡を取ってみた。すると、小村さんは電話口であきれたような声を出した。

「そんなん・・・、シャープが俺なんか相手にするわけないやん」

ああいった大手メーカーはすでに流通経路は決まっていて、いくら金を積んでもそこには入り込めないのだそうだ。新規に入り込むには様々なルートから信用を積み上げて、ようやく取引ができるのであり、それには長い時間がかかる。

ましてや小村さんは大阪の中小企業に過ぎない。とてもじゃないが、鼻も引っかけてもらえないだろうという。

しかし、中国人にはそのあたりが通じない場合がある。デービーも金は払う、値段なら交渉に応じるし、決して安く叩こうとは思ってない、と力説し、なぜ売らないんだ、と首をひねるのである。

こうした日本の商習慣は日本人としては素人の私にもすぐに理解できるのだが、デービーにはどうしても合点がいかない。

小村さんは台湾にも工場を持っているので、台湾人とも付き合いがある。

「台湾人もそういうとこあるからなぁ。中国人はあまり長期的な見方ってせんみたいやな」

とある台湾の工場と契約してある製品を作り、それを小村さんのところで独占して販売することにしていたのに、さっさと東京の会社にも卸したのだという。

確かにその時は儲かるが、複数のルートを使って多量に販売してしまうと、すぐに値崩れを起こしてしまう。ひとつのルートで確実にやった方が長い目で見ればお互いに安定して儲かるのに、と小村さんはため息をつくのである。

だが、と小村さんは続けた。

「時々見習わなあかんなぁ、と思う時もあるよ」

日本人は先のことを考えすぎたり、また可能性を探りすぎたりする傾向がある。石橋を叩いて渡る、というのが日本人的なやり方だ。だから、なかなか冒険ができない。

その点、中国人はあまり冒険を恐れない。直球勝負というか、プラス思考でしゃにむに進むところがある。日本人は往々にして自ら可能性に蓋をしてしまうところがあるような気がする。

だが、時には中国人のようにリスクを恐れずに挑戦することも必要なのではないか、と小村さんは言うのである。

そういえば、私の広東語の師匠だった林さんやその兄弟たちもそうだ。今でこそ、サンフランシスコでコンピュータープログラマーとして安定した生活を送る林さんだが、その人生の軌跡は私から見れば目がくらくらするほど冒険に満ちたものだ。

ああいった人生はとにかく前だけを見つめて前進しなければ成り立たない。退路を断つというか、逃げ道をこしらえていては進む勇気は出てこないだろう。

「明天会更好」ではないが、今日より明日、明日より明後日、である。

もちろん中国人の10人が10人そうだというのではない。

デービーがある時言った。

「俺の親父は、石橋を叩いても渡らない、って人間で、今の事業をただ守ってればいいって考え方だったよ」

デービーの父親はベトナムのサイゴンで缶詰工場を経営する華僑だった。そんな考えの中国人もいるのだが、デービーは父親の生き方には反対だった。

「俺はギャンブラーだからな。一発あててやるぜ、絶対」

俺は親父とは違う、とデービーは何度も繰り返し、いつかつかむはずの金儲けの夢をほとんどうっとりとした表情で語るのだった。


香港旅遊札記-徐さん一家(3)

2006-04-02 21:31:02 | Weblog
筲箕湾にはもう長い間行っていないが、ずいぶん変わっただろう。

私たちが行っていた頃はまだ地下鉄も通っていなかったから、バスやトラムで行ったのだった。そこから峠をひとつ越えると柴湾で、香港サイドでは東の端になる。筲箕湾も中心地からはずいぶん離れた地域だった。

地下鉄が通り、終点の柴湾でさえマンションがどんどん建ち、大きな商場もできたから、筲箕湾も海を埋め立てたりして、同じように地下鉄駅には大きなビルと商場ができ、新しいマンションが立ち並んでいるに違いない。

ただ、徐さんの実家は今でも明華大廈という屋邨にあるというから、まだ変わらない風景も残っているとは思う。

徐さんが結婚してその屋邨を離れてからもう大分たつ。今ではそこにはお母さんと脚の悪いお姉さんが二人で住んでいるだけだ。

兄貴はその後職を変えて的士佬(タクシー運転手)になった。それから大陸の深圳でガールフレンドを見つけ、長い間付き合っていたが、とうとう結婚して深圳に所帯を持った。今でも相変わらず的士佬をしてはいるが、毎日深圳から香港へ通勤しているのだという。

旅行会社に勤めていた弟はボスが上海に投資して精進料理のレストランを開いたため、そこの支配人として上海暮らしをしているとのことだ。まだ結婚はしていないが、現地の女の子と付き合っているらしい。

「香港に帰って来たいって言ってない?」

私がそう聞くと、徐さんは首を振った。

「いやぁ、あそこが気に入ってるし、もう帰りたくないって言ってるよ。それに香港は民主派がどうのこうのとかでうっとうしいしね」

徐さんは顔をしかめた。「うっとうしい」というのは「好麻煩」と言ったのだが、徐さんは民主派の政治活動には批判的なようである。

徐さん一家のこの20年間を見ると、香港のこの間の変わりようがよくわかる。

徐さんは屋邨の狭い一室で大勢の家族と押し合いへし合いしながら育ったが、当時屋邨の一室で家族が独立して生活できるということはそれなりに進歩だった。

例えばベリンダの小さい頃がそうだったように、アパートの一室を数家族が間借りするという状態も決して珍しくはなかったのだ。

そんな屋邨で大きくなり、それから歯科技工士となって、自分の小遣で日本語の学校へ行けるようになったのも香港の経済発展にともなう社会的な余裕があればこそだったろう。

確かに個人の努力に帰するところも多いが、その後結婚して自分の家を買えたということも、徐さんの階層の人々にとっては30年以上前なら考えられなかったことではないだろうか。

徐さんの子供たちの生活は徐さんの子供時代とはまるで違う。家庭教師をつけてもらい、塾に通い、休みとなれば家族で外国旅行にも連れて行ってもらえる。子供の写真を見せてもらったが、着ている物も持ち物も日本の子供と同じかそれ以上である。

それから97年の返還を迎え、香港と大陸中国との関係が大きく変化してきた。香港と大陸はどんどん一体化が進んでいる。最初は香港資本が大陸の経済を引っ張ったが、今では逆にCEPAの政策に見られるように、香港が大陸にサポートしてもらうようになってしまった。

こうした変化の中で、大陸の人々を「老土」(田舎者)とみなしていた香港人が大陸に仕事を求めに行くようになり、徐さんの弟のように大陸の生活になじみ、もう香港に帰らないという人までも出てきた。

また兄貴のように深圳に居を構え、香港へ出稼ぎに来る香港人も出現している。

この30年間の香港の変遷はまるでジェットコースターに乗っているかのように激しいが、徐さん一家の家族の状況は庶民レベルで典型的にそれを表しているようだ。

そうしてこれから香港はどんな風に変わっていくのだろうか。あるいは香港はどこに行くのか。先のことは誰にも予測はつかないが、私が初めて見た1974年の香港と今の2006年の香港が違うように、未来の香港も否応なく変わっていくことだろう。

筲箕湾の明華大廈にある徐さんの実家は今はもうお母さんとお姉さんの二人だけの生活になってしまった。私の想像の中では、それは静かだが少しだけ寂しい光景として映ってしまう。

あの屋邨もかなり老朽化していることだろう。それが取り壊され新しい何かが建つこともそう遠い将来のことではないような気がする。

いつかその日が来た時、徐さんは自分が育った屋邨を懐かしく思い出し、何がしかの感慨を覚えるだろうか。


香港旅遊札記-徐さん一家(2)

2006-03-31 21:16:04 | Weblog
徐さんが幼馴染の阿ジョーと日本語クラスに入ったのはどちらからともなくだったようだが、とりたてて向学心があったようには思えない。多少日本に興味があったとしても、本当のところは暇つぶしをかねていたように思える。

香港人は出歩くのが好きで、夜の夜中でも街は人だらけである。

これは南方の中国人に特有な文化だという話も聞く。しかし、ちょっとうがった見方かもしれないが、香港の場合は多分に住環境のなせるわざというところがあるのではないかと私は考えている。

例えば徐さんの家だが、あの狭い家に7人暮らしだ。ひとつのベッドに二人が並んで寝るのだが、一番下の弟は寝る時は折たたみテーブルを片付け、部屋の真中に折りたたみ式のボンボンベッドを広げてそこに寝るということだった。

こういう状態では、成長していい年になると夜家に帰っても身の置き場がないではないか。そこで仕事を終えた後もどこかで時間を潰そうということになる。

友人と食事に行ったり、映画を見たり、そして習い事に行ったりと、とにかく外で時間を使い、家は寝に帰るだけである。徐さんたちの日本語クラスの学生たちも本当の理由というのは案外そんなところにあるような気がする。

もっとも、あんまりこういうことばかり書くと香港人からお叱りを受けそうだから、あくまでもこれは私の個人的見解だと断っておかなければならない。

徐さんの兄貴は茶餐廳で働いているということだったので、具体的にどんな仕事をしているのかと聞いたら、

「ちっちっち・・」(切、切、切)

と包丁でパンを切るまねをした。つまり厨房で料理をしているわけだ。朝は早く5時に起きて仕事に行く。

時計を見るともう10時過ぎである。

「申し訳ないねぇ・・・」

私は恐縮して言った。

「唔係経常、所以無問題」(いつもというわけじゃないから、大丈夫だよ)

と兄貴はそれでも目をしょぼつかせてやせ我慢を言った。

この兄貴の肩のところには若気の至りで彫ったのか青色の刺青があった。顔つきもシャープで、どうももっと若い頃はやんちゃをしていたような雰囲気がある。しかし、その兄貴が食事が終わるとさっとエプロンをつけて皿を片付け洗い物にとりかかるのだ。

父親は早くに亡くなっていたから小さい時から母親を手伝い、弟たちや脚の悪い姉の面倒を見てきたのだろう。一家の柱となるため、学校へ通うよりも働くことの方が先決だったのだろうと私は思った。

珍しいことにこの兄貴が北京語を話すのである。

実は徐さんの父親は北京の郊外の出身で、そのため父親が生きていた頃は家で北京語を使っていたとのことだ。ただ、徐さんたちが小さい頃に死んだから、徐さんや弟たちは北京語をマスターするまでにはならなかったが、兄貴や姉はすでに学習が終わっていたため成人してからでも北京語が話せた。

しかし、これが最近のように語学学校とかで正式に習った北京語ではないから、時々広東語式になってしまうのである。

例えば「お客さん」は北京語では「客人(くーれん)」だが、広東語では「人客(やんはっ)」とさかさまになる。

そこで、私と北京語で会話していている時に、突然、

「人客(れんくー)」

と発音は北京語だが広東語式の言葉で言ったりする。すると私は一瞬なんのこっちゃわからなくなり、きょとんとしてしまうのだった。

だが、兄貴の方は私の戸惑いがわからない。普段北京語を使うことがないから、そのあたりの間違いに気がつかないらしいのだ。

北京語ができるのだから北京の親戚とかに会いに行ったらいいのに、と私が言うと、文化大革命の頃から音信普通になり、今ではどこにいるのかもわからない、と言った。

香港人たちの大半は広東人なのだが、徐さんの父親がなぜ北方の北京くんだりから香港へやってきたのか、そんなことに興味が沸いてきたのは、徐さんが結婚してしまい、私たちがもう筲箕湾には行かなくなってからのことだった。

香港旅遊札記-徐さん一家(1)

2006-03-27 22:50:56 | Weblog
徐さんは歯科技工士だ。以前は人を雇っていたこともあるらしいが、今は湾仔の仕事場で一人でやっている。

「人を雇って働かすのは気を使って大変なんだよ。一人の方が気楽だから」

家は沙田のマンションで、子供は12歳の姉と10歳の弟の二人で一家4人住まいだ。奥さんの阿芳も以前は仕事を手伝っていたが、今は専業主婦をしている。

「仕事中にうだうだ話しかけてくるからうるさくてしょうがないくてさ。しょっちゅう喧嘩になっちゃってね。それで、もう一人でやることにした。その分長くやらなくちゃいけないけど、でもその方が集中できるからいいよ」

ちらちらと阿芳に目をやりながら少し声を潜めて言った。確かに歯科技工士の仕事は細かくて神経を使うだろうから、仕事に集中できる環境は何より必要なものだろう。

阿芳はくりくりっとした目と大きめな前歯をしたリスのような童顔をしているが、声は顔に似合わず低いハスキーボイスだ。しゃべり方はゆっくりだが、結構話好きで、私にも途切れることなくあれやこれやしゃべりかけてくる。

その分こちらが話題を考える必要がなく、大いに助かる。広東語という外国語で、しかも話題を考えながら話すというのではこちらとしてもずいぶん疲れるのである。

子供に普通話(北京語)の家庭教師をつけているのだ、と阿芳は言った。

「えっ、学校の授業でやってるんじゃないの?」

「それだけじゃ足りないのよ。これからの子供には普通話がとても大切なのよね」

大切というところを「好緊要(ほうがんゆう)」と阿芳は言った。

「毎週土曜日に1時間やってもらって、1回で300ドル払ってるの」

北京出身の人を家庭教師として雇い、子供二人を同時に教えてもらっているそうだが、1ヶ月4回として、それだけでもう1200ドルである。大した投資だ。

子供の語学は進歩が早く、今では北京語はほぼ問題なく話せるレベルに達しているのだそうだ。

「一緒に習ったらいいじゃない」

と私は阿芳に水を向けてみた。

「初めは一緒にやってたんだけどねぇ。大人はダメね、癖がどうしても抜けないのよ。もうあきらめちゃった」

だから阿芳は今はレッスンには顔を出していない。

それにしても徐さん一家がこんなに教育熱心だとは思わなかった。ちょっと前までは公文式の塾(日本のあの公文式である。阿芳も「クモン」と言った)にも通って英語や数学を勉強させていたというし、最近スイミングスクールにも通い始めたのだとも言った。

「だから私も子供の世話で忙しいのよ」

なるほど、だから徐さんもしゃかりきになって働かなくてはならないけれど、だが一方阿芳が家にいなければならないことで、徐さんも仕事場で孤独を享受できるというわけだ。一石二鳥というか、八方丸く収まっているというか。

しかし、阿芳が専業主婦となり、いわゆる一馬力で徐さんが一家を支え、それでも沙田にマンションを買え、子供にも十分な暮らしをさせてやることができるというのは、なかなかなものだと私は思った。もちろんそのために徐さんも粉骨砕身して働いているわけだが。

徐さんの実家は筲箕湾にある団地、いわゆる屋邨である。このブログでも何度か書いたが、十畳か十二畳程度の一部屋に小さな台所とトイレとシャワーがついているだけで、部屋の壁三方に二段ベッドを並べていた。

そこで兄と姉それに弟二人、そして母親と計7人で暮らしていた。中には10人以上で暮らしている家族もいたから、少しはましな部類に属するといえるだろうか。

徐さんのお母さんは私たちが知り合った頃は日系企業の駐在員の家で家政婦をやっていた。長男は茶餐廳で働いており、弟の一人は旅行会社勤めで、もう一人は宝石加工の仕事をしていた。お姉さんは脚が不自由だったが、どこか近くの裁縫工場で働いているという話だった。

筲箕湾のその家は団地の1階にあり、何度かみんなで押しかけて晩御飯を御馳走になったことがある。

小さな台所でお母さんがせっせと料理をしてくれているのを見ながら、しゃべったりテレビを見たりしながら出来上がりを待つのだが、その間椅子のないものはベッドに腰掛けなければならなかった。

そうしている間にぶらっと隣近所の人や徐さんの幼馴染とかが入ってくることもあったが、そういった人たちもまるで我家のように勝手に座り込み、テーブルの上にある果物を食べたりするし、そのまま私たちの食事に参加することもあった。中国料理は大皿料理だからこういった点は融通が利いていい。

こうした近所づきあいは私の子供時代の日本の近所づきあいと同じであり、都会で言えばいわゆる下町の長屋の人情と同様なものが感じられた。つまり映画「男はつらいよ」の浅草あたりの世界であり、人間の世界はどこも一緒なのだなと感心したものである。

ただ、これは屋邨に特有なものではないだろうか。

以前とある香港人にインタビューして「廉租屋」と「屋邨」は同じだろうかと聞いたところ、その人は「廉租屋」とは家賃の安い家という意味だからそうではない、と答えたが、先のクリスマスに香港でベリンダや阿ジョーに同じ質問をしたところ、答は「そうだ」ということだった。

つまり「屋邨」に入る家庭はあるレベル以下の収入であり、屋邨の住人たちはほぼ同程度の階層の人々だということになる。そのため分け隔てのないつき合いが容易にできたということになるのではないだろうか。お互い貧乏人同士、見栄を張る必要もなければ隠すものもないのである。