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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

またまた17歳の頃

2009-09-13 16:59:13 | Weblog
さて、寝場所についての話をしなければならない。下関には知人がいたのでそこで泊めてもらえたが、後は長崎と阿蘇でユースホステルに泊まった以外、すべて無料の寝場所だった。学校、駅、お寺、それから見ず知らずの農家などだ。

学校の場合、当時は宿直の先生がいて、ほとんどは講堂に寝ることを許可してくれた。寝袋があるから、屋根と壁と床があればどこでだって寝られるのである。ただ1度だけ保健室を使わせてくれた学校もあった。

たったひとりで広い講堂のステージの上で寝たこともあるが、別段恐いとは感じなかった。多分すべてが初めての経験で、気分が高揚し、アドレナリンがばんばん出ていたのだろう。今の私ならとてもじゃないが薄気味悪くて寝られない。

ある日の夕方、水俣の手前あたりの一軒の農家に納屋を貸してもらえないかと頼んだら、家に上げてくれて晩飯をご馳走してくれ、風呂に入れてもらい、客間でふかふかの布団に寝かせてくれて、翌日にはひとりでは食べきれないほど大きな弁当をもらった。その厚意には、さすがに厚かましい私も思わず涙がこぼれそうになった。

昨今では駅で寝ることすら無理だろう。学校なんか、市役所で使用許可を取って来い、とかいわれて拒否されるに決まっている。しかし、当時の日本は高度成長真っ最中だったが、まだまだのどかな人情味のある時代だったのだ。

自立を目指すと言いながら人様の厚意に甘えるなんてのは思いっきり矛盾した話だが、その無分別なところが若者の特権なのである。人を傷つけるようなことをしない限り、前向きなことならば大抵のことは許される。そんな社会でないと、若い人は伸びようがないではないか。

三月の末に私は16歳から17歳になった。その日は一日雨だったが、自転車で走っている分には濡れても身体が熱くて平気だった。自転車の敵は上り坂と向かい風なのである。

濡れそぼった私は夕方鹿屋市の市民会館へ行って、当直の係りの人に一晩寝かせてもらえないか、と頼んだ。その人はちょっと考えていたが、舞台の裏の倉庫ならいいだろう、と言ってくれた。そこにはたくさん長机が積まれていたので、何台か使ってベッド代わりにした。

それから街へ出て夕食をとり、市民会館へ帰った。そして、私は旅の途中でもらった赤玉ポートワイン(現在はスィートワインと呼ぶそうです)を飲みながら、倉庫の裸電球の灯りの中で、ひとりで17歳の誕生日を祝った。

この旅で味をしめた私は、調子に乗ってさらに高三の夏休みには三週間かけて本州を半周した。同級生たちは受験勉強に追われていたが、田舎の高校で成績が中の中でしかない私は、全国レベルではまったく優秀ではないわけで、勉強をサボっても失うものはなかったのである。

けれど、その旅行は苦い味を残す結果となった。

諺にも言うが、柳の下に二匹目の泥鰌はいないのである。2回目の旅行は同じことの繰り返しでしかなかった。もちろん色んな経験もしたし、出会いも多々あった。しかし、最初の旅のあの心躍るような驚きと新鮮さはもう味わうことはできなかった。

若者の特権である無分別も、一度目は許されるが二度目となると、これはもう単なる甘えに過ぎなくなってしまう。より高いものを目指す行為なら、若さの特権でまた大目に見てもらえるだろうが、同じレベルじゃ駄目なのである。

何かが違うなぁ、といった気持ちでペダルを踏み続けるのは辛い。一夜の宿を頼む時も、まるで乞食をしているような心境にさえ陥ってしまうのだった。それがなぜかを、日々走っている中で私は自分で発見したわけである。それは苦しい学習だった。こんな形の旅行はもう卒業しなくちゃならんということを、私は深く心に刻み込んだ。

でも、「まぁ、それもよしや(ジョゼ風に)」と思う。同じことを繰り返しても進歩はないということを学んだこともひとつの収穫だったといえるのではないか。苦い味ではあったけれど、これもまた得がたい貴重な経験であり、若い私が経るべき過程だったのだろう。

ただ、強いて自慢するとしたら、ある日福井の九頭竜川から大阪まで219キロを一日で走りきったことがある。それは一日の走行距離では私の最高記録となった。誰にも誉めてもらえないので、よく走ったものだと自分で自分を誉めてやっている。

これが私の17歳の頃だった。才能溢れるスターたちの眩いばかりの活躍には較べるべくもないが、私も私なりに何かを求めて奮闘努力の青春をしていたようである。


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