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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

小陳(シャオチェン)(2)

2010-07-16 16:17:07 | Weblog
ホテルで読んだ新聞に、成都では最近若いOLたちに「洗脚」が流行っているという記事があった。洗脚とは、日本でいうなら「フットケアマッサージ」のことだ。

贅沢だとか、いい若いもんが按摩なんかするもんじゃねぇ、とかいう批判も一部にあるが、疲れが取れるし、ストレスが解消できて心身ともにリフレッシュできる、と好評なのだという。

経済発展につれて中国の若い女の子も富裕化してきていることがこの記事でも知ることができる。が、それはさておき、私は大のマッサージ好きなのである。これはひとつ体験してみるべきではないか、とチャレンジ精神がひくひくうごめき始めた。

それにはまず事前調査が必要だ。私は街をぶらぶらしながら観察してみた。洗脚と看板に出ている店を何軒か見かけたが、結構豪華で規模が大きい。ある店なんかは4階建てのビルで、そのすべてがマッサージに使われているようだった。ロビーもゆったりと広くホテルのようである。

料金は、例えば90分80元(当時のレートで1元15円で換算すると、1200円程度)とか書いてある。その他のサービスの料金もいろいろ書いてあったが、中国としてはかなりなお値段である。

しかし、何しろここは中国である。何か男性向きの特殊なサービスがあったりしてもおかしくないし、そんな店に一人で入るのは警戒心が邪魔をする。

それでもOLの女の子が行くぐらいだから、まぁそういかがわしいこともないだろう、という考えも一方ではあり、根が臆病な私は気持ちが揺れた。

ただ、街を観察していてついでに発見したことがもうひとつあった。これは洗脚の店よりはるかに多いのだが、あちこちに「盲人按摩」と書かれた看板を揚げた店があるのだ。

盲人とあるが、ちらっと覗いた限りでは、スタッフは目が不自由ではなさそうな健常者にしか見えない。この種の店は規模も小さく、普通の家の1階とか、3、4階建てのアパートの1階部分だけの、いたって簡素な、まぁ普通のマッサージ屋さんといった風情だ。

ではあるが、ある店では派手なワンピースに網タイツの脚をこれみよがしに組んで、見るものを悩殺せんとたくらむ、どう見ても素人さんとは思えない女性がいたりしたから、やはりそれなりに風俗的なサービスを提供する店もあるのではないかと思う。

考えすぎかもしれないが、どっちに転んでも風俗関係の懸念は消えそうにもない。現地に知人でもいれば情報も得られるが、残念ながらそれはない。いつまで考えても時間の無駄だ。覚悟を決めてとにもかくにも物は試しで一度入ってみるしかない。

私はホテルの前の総府路という大通りを東の方へ歩いていった。

総府路はすぐに大慈寺路と名前が変わり、それからまた東方路と変わる。ややこしい。

しばらく歩くと川があり、橋を渡って南へ折れ、めぼしをつけていた洗脚の店やその近くの盲人按摩の店を覗いてみたが、どうもピンとこない。なぜか入る気が起こってくれないのだ。

しかたなく、また大通りへ戻り、今度は大通りの北側へ入ってみた。行き当たりばったりは私の特技だが、いい加減にしないと道に迷ったり、結局時間切れということになりかねない、と少しばかり焦りも出てきた。

私はまた横道に入り込んでみた。そのあたりはいわば下町の住宅地のようなところで、3階建てや4階建てのアパートが軒を連ねていた。そしてそこにまたもや盲人按摩の看板を見つけた。隣は美容院だった。

マッサージ屋の店の前では麻雀卓を囲んでスタッフらしい女の子たち5、6人が盛り上がっている。中国人は香港だろうが大陸だろうが賭け事がお好きである。

ちょっと足を止めたが、誰も見向きもしてくれないので通り過ぎた。だが、その先へ進んでも何もなさそうだった。しゃーないなぁ、と私は回れ右をした。

また戻ってきたが、マージャン中の女の子たちは相変わらず客になるかもしれない通行人に関心がない。昼下がりの客の少ない時間帯なので、休憩がてらのんびり気晴らしをしているようで勤労意欲のかけらもない。

開け放たれたドアを通して見ると、中では客が二人ベッドにうつぶせになってマッサージをしてもらっている。表は全面硝子の窓で、中は明るくオープンな感じだ。これなら安全だろう、と私は踏んだ。

とは言うものの、誰に声をかけていいものやらわからず、私は麻雀卓を見下して、ちょっと立ちすくんだ。

その時、マージャンを打たずに見物していたひとりの浅黒い肌の大きな目をした女の子がふと頭をあげ、私と視線が合った。

「マッサージ?」

と女の子は聞いてきた。

「洗脚やってる?」

私が訊ねると、その女の子は立ち上がり、

「中に入ってよ」

私の返答を待たずにさっさと中に入っていった。

小陳(シャオチェン)との遭遇である。



小陳(1)

2010-07-15 16:50:30 | Weblog
四川大地震は二年前の五月のことだ。

言い古された言葉だが、光陰矢のごとし。時間がたつのが速くて嫌になる。特に年を取ってからはその速度が更に加速している。それにしても、あの地震からもう2年以上たったのか。

地震の1ヶ月前に私は四川省の成都にいた。最初は3泊4日もしたら重慶へ移動するつもりだったが、成都は大きい。都江堰へ行ったり街をぶらぶらしていたりしたらあっという間に日がたち、面倒臭くなって重慶行きは止めにした。

私はもともと名所旧跡や観光地などには興味がない。とはいうものの、成都の売りのひとつは観光だから、武侯祠や杜甫草堂なども一応行ってはみた。しかし、結局面白いのはその途中で見た街の様子や現地の人たちの生活のありようだった。私には一種の覗き趣味があるのである。

そんなわけで有名なパンダ公園には行かなかった。パンダより人間を見ているほうが数倍面白いからだ。

けれど、所詮通りすがりの旅行者である。残念ながら現地の人民と直接触れ合ってその生活を垣間見るなどという幸運に遭遇する可能性は極めて低い。話をするといっても、食堂や喫茶店などで注文する時に二言三言話を交わすのが関の山だ。これはとても人間同士のふれあいとはいえない。

かといって、街を歩く人にやぶから棒に声をかけるわけにもいかない。そんなことをすると変な人と見られて気味悪がられるだろうし、それにめったやたらと人と接触してこっちが変な人に引っかかる可能性だってある。

ホテルで見たテレビの潜入取材番組でも、男性を女の子に引っかけさせてぼったくりレストランに連れ込み、法外な金を要求する組織的な犯罪グループの事件を報道しているくらいだから、中国の都市も相当危ないのである。今の中国は何でもありで、牧歌的な場所ではないのだ。

農村だって人身売買なんていうことが行われて、誘拐された女性を金を出して買って嫁にする、とかいう話もある。こういう世界で見ず知らずの人間に無邪気についていったりすると運が悪ければひどい目にあいそうである。

何かあったりして新聞沙汰にでもなると、私の場合「まさかあの人が」ではなくて、「あの人が・・、やっぱりね」なんて言われてしまうのが落ちだから、ここは自重を深く肝に銘じる必要がある。

だから、小陳に出会ったのは、やはり運がよかったのだ。

またまた17歳の頃

2009-09-13 16:59:13 | Weblog
さて、寝場所についての話をしなければならない。下関には知人がいたのでそこで泊めてもらえたが、後は長崎と阿蘇でユースホステルに泊まった以外、すべて無料の寝場所だった。学校、駅、お寺、それから見ず知らずの農家などだ。

学校の場合、当時は宿直の先生がいて、ほとんどは講堂に寝ることを許可してくれた。寝袋があるから、屋根と壁と床があればどこでだって寝られるのである。ただ1度だけ保健室を使わせてくれた学校もあった。

たったひとりで広い講堂のステージの上で寝たこともあるが、別段恐いとは感じなかった。多分すべてが初めての経験で、気分が高揚し、アドレナリンがばんばん出ていたのだろう。今の私ならとてもじゃないが薄気味悪くて寝られない。

ある日の夕方、水俣の手前あたりの一軒の農家に納屋を貸してもらえないかと頼んだら、家に上げてくれて晩飯をご馳走してくれ、風呂に入れてもらい、客間でふかふかの布団に寝かせてくれて、翌日にはひとりでは食べきれないほど大きな弁当をもらった。その厚意には、さすがに厚かましい私も思わず涙がこぼれそうになった。

昨今では駅で寝ることすら無理だろう。学校なんか、市役所で使用許可を取って来い、とかいわれて拒否されるに決まっている。しかし、当時の日本は高度成長真っ最中だったが、まだまだのどかな人情味のある時代だったのだ。

自立を目指すと言いながら人様の厚意に甘えるなんてのは思いっきり矛盾した話だが、その無分別なところが若者の特権なのである。人を傷つけるようなことをしない限り、前向きなことならば大抵のことは許される。そんな社会でないと、若い人は伸びようがないではないか。

三月の末に私は16歳から17歳になった。その日は一日雨だったが、自転車で走っている分には濡れても身体が熱くて平気だった。自転車の敵は上り坂と向かい風なのである。

濡れそぼった私は夕方鹿屋市の市民会館へ行って、当直の係りの人に一晩寝かせてもらえないか、と頼んだ。その人はちょっと考えていたが、舞台の裏の倉庫ならいいだろう、と言ってくれた。そこにはたくさん長机が積まれていたので、何台か使ってベッド代わりにした。

それから街へ出て夕食をとり、市民会館へ帰った。そして、私は旅の途中でもらった赤玉ポートワイン(現在はスィートワインと呼ぶそうです)を飲みながら、倉庫の裸電球の灯りの中で、ひとりで17歳の誕生日を祝った。

この旅で味をしめた私は、調子に乗ってさらに高三の夏休みには三週間かけて本州を半周した。同級生たちは受験勉強に追われていたが、田舎の高校で成績が中の中でしかない私は、全国レベルではまったく優秀ではないわけで、勉強をサボっても失うものはなかったのである。

けれど、その旅行は苦い味を残す結果となった。

諺にも言うが、柳の下に二匹目の泥鰌はいないのである。2回目の旅行は同じことの繰り返しでしかなかった。もちろん色んな経験もしたし、出会いも多々あった。しかし、最初の旅のあの心躍るような驚きと新鮮さはもう味わうことはできなかった。

若者の特権である無分別も、一度目は許されるが二度目となると、これはもう単なる甘えに過ぎなくなってしまう。より高いものを目指す行為なら、若さの特権でまた大目に見てもらえるだろうが、同じレベルじゃ駄目なのである。

何かが違うなぁ、といった気持ちでペダルを踏み続けるのは辛い。一夜の宿を頼む時も、まるで乞食をしているような心境にさえ陥ってしまうのだった。それがなぜかを、日々走っている中で私は自分で発見したわけである。それは苦しい学習だった。こんな形の旅行はもう卒業しなくちゃならんということを、私は深く心に刻み込んだ。

でも、「まぁ、それもよしや(ジョゼ風に)」と思う。同じことを繰り返しても進歩はないということを学んだこともひとつの収穫だったといえるのではないか。苦い味ではあったけれど、これもまた得がたい貴重な経験であり、若い私が経るべき過程だったのだろう。

ただ、強いて自慢するとしたら、ある日福井の九頭竜川から大阪まで219キロを一日で走りきったことがある。それは一日の走行距離では私の最高記録となった。誰にも誉めてもらえないので、よく走ったものだと自分で自分を誉めてやっている。

これが私の17歳の頃だった。才能溢れるスターたちの眩いばかりの活躍には較べるべくもないが、私も私なりに何かを求めて奮闘努力の青春をしていたようである。


また17歳の頃

2009-09-11 17:40:29 | Weblog
私の自転車旅行は九州を半月かけて一周することだった。毎日のバイトや通学、それに田舎だからどこに行くにも自転車しかなかったので脚には自信があった。家が丘の上にあったから、その坂道を上ることも自然と鍛錬になった。

当時は、くそっ、なんで俺の家はこんなところにあるんだ、と不満たらたらだった。牛乳配達を終えて一旦家に戻るのに坂を上り、学校が終わって帰宅するのにも上らねばならない。しかし、毎日最低2回坂道のぼりをやって脚力が自然と鍛えられたのだから、人間何が幸いするかわからない。

自転車の後ろの荷台にはバニアバッグという振り分け荷物型のバッグを掛けて、リュックサック(今のディーバッグより古風なものである)とその上に冬用の寝袋を載せて縛った。

前輪の上にはフロントキャリア(要するに前輪つける荷台だ)をつけて、そこに四角いフロントバッグを載せたが、これらすべてがあちこちからの借り物で、自転車関係の部品は懇意にしてくれた自転車屋のガラクタの中から拾い出したものだ。荷物を積んだ自転車は、一見、カタツムリのように見えなくもなかった。

九州は福岡県から長崎県方面へと西側を先に回り、その後鹿児島から今度は宮崎県へと東側を北上するコースを取った。

第一日目に約140キロを走って下関に到着したが、翌日に筋肉痛になったり、疲労が残ることもなかった。大体1日120キロから140キロが平均的な走行距離だったと記憶しているが、あの頃の体力があればツール・ド・フランスの全コースを走破するなんて目じゃない。まあタイムは横に置いといての話だけれど。

自転車旅行者は大抵が一人旅だった。だが、同じルートを走っている旅行者に出会うと、よく二人で一緒に走ることになった。1日だけのこともあれば3日一緒だったこともある。そして、目的地が違うところまで来ると、互いの健闘を祈ってさよならをした。英語なら「グッドラック」なんていう場面である。

自転車旅行者同士のマナーというものがあった。対向してくる相手には、すれ違う時、お互い笑顔で手を上げて挨拶をする。峠越えで喘ぎながら必死に上っている時、上から猛スピードで下りてくる相手が「がんばれよ、あとちょっとだあー」と声をかけてくれる。逆の場合は私が声をかける。

その「あとちょっと」というのが、まだ大分先のことが往々にしてあったが、それはこちらを励ましてくれているのであって騙しているわけではないのである。

その「あとちょっと」を聞くと、意地でも自転車から降りないぞ、とペダルを踏む脚に力が入るのである。多くの山を越えたが、私はよほどのことがない限り、自転車を降りて押すことはしなかった。

一緒に走った相手とは名乗りあうこともあれば、ただどこから来てどこへ行くのか、とだけ話しただけの相手もあった。名乗らなかったとはいっても、別に気が合わなかったわけではなくて、その時の流れのようなものだ。それで何の不都合もなかったのである。

しかし、中には住所を交換し、しばらく文通を続けたやつらもいる。いちばん長いので10数年も年賀状のやり取りをしたやつもいた。その男は北海道出身だったので、大学に通うようになってから、北海道旅行をした際に、就職先の寮に泊めてもらったことがある。

その後実社会へ出て、もまれ流され時に抗う長い生活の中で、今ではもう誰ともコンタクトはなくなったが、でもみんなまだこの空の下のどこかで私と同じように年をとって、たまに若い頃の経験を思い出していることだろう。

17歳の頃

2009-09-09 14:58:57 | Weblog
先日NHKの「トップランナー」というインタビュー番組に小栗旬が出ていた。その時の話では内田有紀に憧れて、俳優になったら会えるんじゃないか、という本人曰く「不純な動機」で児童劇団に入ったのだそうだ。

で、11歳ですでにNHKの大河ドラマに出演しており、その後も大河ドラマには何度も出ていて、芸歴は予想外に長いのである。2001年に製作された「青と白で水色」の時は1982年12月26日生まれの小栗旬は収録時は18歳(今回は厳密に計算しました)だったが、芸歴としては7年以上もあるわけで、なるほど芝居がうまいわけだ。

しかし、顔が変わったね。今の方がぐっと男前だ。10代の頃はもっと痩せて鋭角な顔つきだったが、最近はふっくらとまではいかないけれど、角が取れてほどよい柔和さが加味されてきている。大人になったんでしょうねえ。

それにしても、小栗にしろ、池脇、蒼井、宮崎、それにゴルフの石川遼と、みんな十代であれだけ活躍するんだからすごいなぁ、と感心するばかりである。もちろん、その裏には本人の努力もあるのだろうが、やはり才能のある人は違うものだ、とつくづく思わされた。

さて、ここで正直に言っておかなければならないが、実は私も16歳や17歳だったことがあるのである。遠い昔のことで、ほんまかいな、と本人も不思議な感じをぬぐえないけれど。

だが、顧みて自分のその頃をこうした才能ある人たちと較べると、なんとまぁ平凡を絵に描いたような高校生活だったことか。田舎では一応進学校といわれる高校に通ってはいたが、成績は中の中をかろうじてキープし、クラブ活動もせず、田舎だから繁華街もなくて遊ぶところといえば友人の家に行くぐらいだった。

それに、保守的な土地柄で、喫茶店の出入りは禁止、外出時は制服着用のこと、制服の下のシャツは無地の白でなくてはならない、等々がんじがらめの校則があった。これは校則というよりも拘束といった方が正しいぐらいだ。

そして、何よりも馬鹿げていたのが、男女共学でありながら、クラスは男女別々に分けられていたことである。恋愛なんぞしては勉強に差しつかえるという学校側の妙な理屈でそうなったらしい。だからクラブ活動などしなければ女子生徒と口をきく機会さえないのだった。

では、それで進学率が上がったかというと、とんでもない、まったく逆で私たちの代では下降線を辿るのみだった。

当たり前である。好きな女の子がいたりした方が勉強にも張りが出ようというもんだ。いい成績をとって尊敬してもらいたい、とかいう野心も生まれてきたりするはずである。

ようやくそれに気づいた学校側は、私たちが卒業して2年後からまた男女混合のクラスに戻したのだった。生徒よりも教師の方がアホだったのである。そのアホな教師たちの実験台にされた私たちこそ全くのはた迷惑であり、もっといえば貴重な青春を無駄にさせられた犠牲者なのである。

今は中学生からだろうが、例え何十年も前の当時でも、高校生なら好きな女の子がいて、多少のおつき合いをするぐらいのことはあって当たり前だろう。(注:この「付き合う」というのは現在の「付き合う」とは違う、もっとずっと手前の次元です。最近の「付き合う」というのはセックスの関係を持つレベルのことを意味しているのだそうで、若い人と話をする時などずっと違和感を感じていたが、まさか「その付き合うって、つまり、あれ?ラブホに行ったりするとか」などとあまり露骨に訊くわけにもいかない。そこで先日知人に訊いてようやく確認が取れた。私も相当遅れてる)

そういう訳で、未だに我母校に対して何の愛着も起こらない。これまた不幸な話ではある。

そんなただだらだらと高校生活を送っていた私だったが、高二の夏休みに国道を走る自転車旅行者たちを見て、いっちょう俺もやってみるか、という想いが芽生えた。男の子は冒険してみたいものなのである。

それで、決行は高二の終わった春休みにすることにした。わが家が貧乏だったので、私は毎朝牛乳配達をして自分の小遣いを稼いでいた。

夏休みには氷屋でアルバイトをした。当時はまだ電気冷蔵庫があまり普及していなくて、特に食堂や旅館などの業務用の冷蔵庫は氷を使っていたし、一般家庭でも氷の冷蔵庫を使う家がまだ結構あった。

工場から来る大きな氷の塊はひとつが16貫目あった。それを大きなのこぎりで半分の8貫目、さらに4貫目と切っていく。家庭へ配達する場合は1貫目がほとんどだったので、4貫目を4等分するのである。

ガシッガシッというのこぎりの音と手ごたえは今でもよく憶えている。メジャーで正確に測って切るのではなくて、目分量で切る。けれど、慣れればほとんど等分の大きさに切れるようになるものである。今やれといわれるとちょっと自信がないが、少し練習させてもらえればできるようになるだろう。

それに冬休みには酒屋の配達のアルバイトもした。早朝の牛乳配達を終えて家に帰り、朝飯をかっくらって酒屋へ行く。8時半から6時までがアルバイトの時間だった。まだまだ現在のようにあっちでもこっちでもアルバイトがある、という時代ではなかった。ハードな生活ではあったが、若かったから身体にこたえるようなことはなかったし、それも自転車旅行のための体力作りに役立った。

旅行の旅費はそのバイトの賃金から作った。これは親が貧乏だったからだけではなく、当時の自転車やヒッチハイクの若い旅行者のほとんどがそうだったと思う。親の金でそんな旅行をするのはみっともないというか、男らしくない、という価値観がまだ生きていた時代だったのである。自立をめざすことが目標とされる時代でもあった。