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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

小陳(シャオチェン)(2)

2010-07-16 16:17:07 | Weblog
ホテルで読んだ新聞に、成都では最近若いOLたちに「洗脚」が流行っているという記事があった。洗脚とは、日本でいうなら「フットケアマッサージ」のことだ。

贅沢だとか、いい若いもんが按摩なんかするもんじゃねぇ、とかいう批判も一部にあるが、疲れが取れるし、ストレスが解消できて心身ともにリフレッシュできる、と好評なのだという。

経済発展につれて中国の若い女の子も富裕化してきていることがこの記事でも知ることができる。が、それはさておき、私は大のマッサージ好きなのである。これはひとつ体験してみるべきではないか、とチャレンジ精神がひくひくうごめき始めた。

それにはまず事前調査が必要だ。私は街をぶらぶらしながら観察してみた。洗脚と看板に出ている店を何軒か見かけたが、結構豪華で規模が大きい。ある店なんかは4階建てのビルで、そのすべてがマッサージに使われているようだった。ロビーもゆったりと広くホテルのようである。

料金は、例えば90分80元(当時のレートで1元15円で換算すると、1200円程度)とか書いてある。その他のサービスの料金もいろいろ書いてあったが、中国としてはかなりなお値段である。

しかし、何しろここは中国である。何か男性向きの特殊なサービスがあったりしてもおかしくないし、そんな店に一人で入るのは警戒心が邪魔をする。

それでもOLの女の子が行くぐらいだから、まぁそういかがわしいこともないだろう、という考えも一方ではあり、根が臆病な私は気持ちが揺れた。

ただ、街を観察していてついでに発見したことがもうひとつあった。これは洗脚の店よりはるかに多いのだが、あちこちに「盲人按摩」と書かれた看板を揚げた店があるのだ。

盲人とあるが、ちらっと覗いた限りでは、スタッフは目が不自由ではなさそうな健常者にしか見えない。この種の店は規模も小さく、普通の家の1階とか、3、4階建てのアパートの1階部分だけの、いたって簡素な、まぁ普通のマッサージ屋さんといった風情だ。

ではあるが、ある店では派手なワンピースに網タイツの脚をこれみよがしに組んで、見るものを悩殺せんとたくらむ、どう見ても素人さんとは思えない女性がいたりしたから、やはりそれなりに風俗的なサービスを提供する店もあるのではないかと思う。

考えすぎかもしれないが、どっちに転んでも風俗関係の懸念は消えそうにもない。現地に知人でもいれば情報も得られるが、残念ながらそれはない。いつまで考えても時間の無駄だ。覚悟を決めてとにもかくにも物は試しで一度入ってみるしかない。

私はホテルの前の総府路という大通りを東の方へ歩いていった。

総府路はすぐに大慈寺路と名前が変わり、それからまた東方路と変わる。ややこしい。

しばらく歩くと川があり、橋を渡って南へ折れ、めぼしをつけていた洗脚の店やその近くの盲人按摩の店を覗いてみたが、どうもピンとこない。なぜか入る気が起こってくれないのだ。

しかたなく、また大通りへ戻り、今度は大通りの北側へ入ってみた。行き当たりばったりは私の特技だが、いい加減にしないと道に迷ったり、結局時間切れということになりかねない、と少しばかり焦りも出てきた。

私はまた横道に入り込んでみた。そのあたりはいわば下町の住宅地のようなところで、3階建てや4階建てのアパートが軒を連ねていた。そしてそこにまたもや盲人按摩の看板を見つけた。隣は美容院だった。

マッサージ屋の店の前では麻雀卓を囲んでスタッフらしい女の子たち5、6人が盛り上がっている。中国人は香港だろうが大陸だろうが賭け事がお好きである。

ちょっと足を止めたが、誰も見向きもしてくれないので通り過ぎた。だが、その先へ進んでも何もなさそうだった。しゃーないなぁ、と私は回れ右をした。

また戻ってきたが、マージャン中の女の子たちは相変わらず客になるかもしれない通行人に関心がない。昼下がりの客の少ない時間帯なので、休憩がてらのんびり気晴らしをしているようで勤労意欲のかけらもない。

開け放たれたドアを通して見ると、中では客が二人ベッドにうつぶせになってマッサージをしてもらっている。表は全面硝子の窓で、中は明るくオープンな感じだ。これなら安全だろう、と私は踏んだ。

とは言うものの、誰に声をかけていいものやらわからず、私は麻雀卓を見下して、ちょっと立ちすくんだ。

その時、マージャンを打たずに見物していたひとりの浅黒い肌の大きな目をした女の子がふと頭をあげ、私と視線が合った。

「マッサージ?」

と女の子は聞いてきた。

「洗脚やってる?」

私が訊ねると、その女の子は立ち上がり、

「中に入ってよ」

私の返答を待たずにさっさと中に入っていった。

小陳(シャオチェン)との遭遇である。



小陳(1)

2010-07-15 16:50:30 | Weblog
四川大地震は二年前の五月のことだ。

言い古された言葉だが、光陰矢のごとし。時間がたつのが速くて嫌になる。特に年を取ってからはその速度が更に加速している。それにしても、あの地震からもう2年以上たったのか。

地震の1ヶ月前に私は四川省の成都にいた。最初は3泊4日もしたら重慶へ移動するつもりだったが、成都は大きい。都江堰へ行ったり街をぶらぶらしていたりしたらあっという間に日がたち、面倒臭くなって重慶行きは止めにした。

私はもともと名所旧跡や観光地などには興味がない。とはいうものの、成都の売りのひとつは観光だから、武侯祠や杜甫草堂なども一応行ってはみた。しかし、結局面白いのはその途中で見た街の様子や現地の人たちの生活のありようだった。私には一種の覗き趣味があるのである。

そんなわけで有名なパンダ公園には行かなかった。パンダより人間を見ているほうが数倍面白いからだ。

けれど、所詮通りすがりの旅行者である。残念ながら現地の人民と直接触れ合ってその生活を垣間見るなどという幸運に遭遇する可能性は極めて低い。話をするといっても、食堂や喫茶店などで注文する時に二言三言話を交わすのが関の山だ。これはとても人間同士のふれあいとはいえない。

かといって、街を歩く人にやぶから棒に声をかけるわけにもいかない。そんなことをすると変な人と見られて気味悪がられるだろうし、それにめったやたらと人と接触してこっちが変な人に引っかかる可能性だってある。

ホテルで見たテレビの潜入取材番組でも、男性を女の子に引っかけさせてぼったくりレストランに連れ込み、法外な金を要求する組織的な犯罪グループの事件を報道しているくらいだから、中国の都市も相当危ないのである。今の中国は何でもありで、牧歌的な場所ではないのだ。

農村だって人身売買なんていうことが行われて、誘拐された女性を金を出して買って嫁にする、とかいう話もある。こういう世界で見ず知らずの人間に無邪気についていったりすると運が悪ければひどい目にあいそうである。

何かあったりして新聞沙汰にでもなると、私の場合「まさかあの人が」ではなくて、「あの人が・・、やっぱりね」なんて言われてしまうのが落ちだから、ここは自重を深く肝に銘じる必要がある。

だから、小陳に出会ったのは、やはり運がよかったのだ。

またまた17歳の頃

2009-09-13 16:59:13 | Weblog
さて、寝場所についての話をしなければならない。下関には知人がいたのでそこで泊めてもらえたが、後は長崎と阿蘇でユースホステルに泊まった以外、すべて無料の寝場所だった。学校、駅、お寺、それから見ず知らずの農家などだ。

学校の場合、当時は宿直の先生がいて、ほとんどは講堂に寝ることを許可してくれた。寝袋があるから、屋根と壁と床があればどこでだって寝られるのである。ただ1度だけ保健室を使わせてくれた学校もあった。

たったひとりで広い講堂のステージの上で寝たこともあるが、別段恐いとは感じなかった。多分すべてが初めての経験で、気分が高揚し、アドレナリンがばんばん出ていたのだろう。今の私ならとてもじゃないが薄気味悪くて寝られない。

ある日の夕方、水俣の手前あたりの一軒の農家に納屋を貸してもらえないかと頼んだら、家に上げてくれて晩飯をご馳走してくれ、風呂に入れてもらい、客間でふかふかの布団に寝かせてくれて、翌日にはひとりでは食べきれないほど大きな弁当をもらった。その厚意には、さすがに厚かましい私も思わず涙がこぼれそうになった。

昨今では駅で寝ることすら無理だろう。学校なんか、市役所で使用許可を取って来い、とかいわれて拒否されるに決まっている。しかし、当時の日本は高度成長真っ最中だったが、まだまだのどかな人情味のある時代だったのだ。

自立を目指すと言いながら人様の厚意に甘えるなんてのは思いっきり矛盾した話だが、その無分別なところが若者の特権なのである。人を傷つけるようなことをしない限り、前向きなことならば大抵のことは許される。そんな社会でないと、若い人は伸びようがないではないか。

三月の末に私は16歳から17歳になった。その日は一日雨だったが、自転車で走っている分には濡れても身体が熱くて平気だった。自転車の敵は上り坂と向かい風なのである。

濡れそぼった私は夕方鹿屋市の市民会館へ行って、当直の係りの人に一晩寝かせてもらえないか、と頼んだ。その人はちょっと考えていたが、舞台の裏の倉庫ならいいだろう、と言ってくれた。そこにはたくさん長机が積まれていたので、何台か使ってベッド代わりにした。

それから街へ出て夕食をとり、市民会館へ帰った。そして、私は旅の途中でもらった赤玉ポートワイン(現在はスィートワインと呼ぶそうです)を飲みながら、倉庫の裸電球の灯りの中で、ひとりで17歳の誕生日を祝った。

この旅で味をしめた私は、調子に乗ってさらに高三の夏休みには三週間かけて本州を半周した。同級生たちは受験勉強に追われていたが、田舎の高校で成績が中の中でしかない私は、全国レベルではまったく優秀ではないわけで、勉強をサボっても失うものはなかったのである。

けれど、その旅行は苦い味を残す結果となった。

諺にも言うが、柳の下に二匹目の泥鰌はいないのである。2回目の旅行は同じことの繰り返しでしかなかった。もちろん色んな経験もしたし、出会いも多々あった。しかし、最初の旅のあの心躍るような驚きと新鮮さはもう味わうことはできなかった。

若者の特権である無分別も、一度目は許されるが二度目となると、これはもう単なる甘えに過ぎなくなってしまう。より高いものを目指す行為なら、若さの特権でまた大目に見てもらえるだろうが、同じレベルじゃ駄目なのである。

何かが違うなぁ、といった気持ちでペダルを踏み続けるのは辛い。一夜の宿を頼む時も、まるで乞食をしているような心境にさえ陥ってしまうのだった。それがなぜかを、日々走っている中で私は自分で発見したわけである。それは苦しい学習だった。こんな形の旅行はもう卒業しなくちゃならんということを、私は深く心に刻み込んだ。

でも、「まぁ、それもよしや(ジョゼ風に)」と思う。同じことを繰り返しても進歩はないということを学んだこともひとつの収穫だったといえるのではないか。苦い味ではあったけれど、これもまた得がたい貴重な経験であり、若い私が経るべき過程だったのだろう。

ただ、強いて自慢するとしたら、ある日福井の九頭竜川から大阪まで219キロを一日で走りきったことがある。それは一日の走行距離では私の最高記録となった。誰にも誉めてもらえないので、よく走ったものだと自分で自分を誉めてやっている。

これが私の17歳の頃だった。才能溢れるスターたちの眩いばかりの活躍には較べるべくもないが、私も私なりに何かを求めて奮闘努力の青春をしていたようである。


また17歳の頃

2009-09-11 17:40:29 | Weblog
私の自転車旅行は九州を半月かけて一周することだった。毎日のバイトや通学、それに田舎だからどこに行くにも自転車しかなかったので脚には自信があった。家が丘の上にあったから、その坂道を上ることも自然と鍛錬になった。

当時は、くそっ、なんで俺の家はこんなところにあるんだ、と不満たらたらだった。牛乳配達を終えて一旦家に戻るのに坂を上り、学校が終わって帰宅するのにも上らねばならない。しかし、毎日最低2回坂道のぼりをやって脚力が自然と鍛えられたのだから、人間何が幸いするかわからない。

自転車の後ろの荷台にはバニアバッグという振り分け荷物型のバッグを掛けて、リュックサック(今のディーバッグより古風なものである)とその上に冬用の寝袋を載せて縛った。

前輪の上にはフロントキャリア(要するに前輪つける荷台だ)をつけて、そこに四角いフロントバッグを載せたが、これらすべてがあちこちからの借り物で、自転車関係の部品は懇意にしてくれた自転車屋のガラクタの中から拾い出したものだ。荷物を積んだ自転車は、一見、カタツムリのように見えなくもなかった。

九州は福岡県から長崎県方面へと西側を先に回り、その後鹿児島から今度は宮崎県へと東側を北上するコースを取った。

第一日目に約140キロを走って下関に到着したが、翌日に筋肉痛になったり、疲労が残ることもなかった。大体1日120キロから140キロが平均的な走行距離だったと記憶しているが、あの頃の体力があればツール・ド・フランスの全コースを走破するなんて目じゃない。まあタイムは横に置いといての話だけれど。

自転車旅行者は大抵が一人旅だった。だが、同じルートを走っている旅行者に出会うと、よく二人で一緒に走ることになった。1日だけのこともあれば3日一緒だったこともある。そして、目的地が違うところまで来ると、互いの健闘を祈ってさよならをした。英語なら「グッドラック」なんていう場面である。

自転車旅行者同士のマナーというものがあった。対向してくる相手には、すれ違う時、お互い笑顔で手を上げて挨拶をする。峠越えで喘ぎながら必死に上っている時、上から猛スピードで下りてくる相手が「がんばれよ、あとちょっとだあー」と声をかけてくれる。逆の場合は私が声をかける。

その「あとちょっと」というのが、まだ大分先のことが往々にしてあったが、それはこちらを励ましてくれているのであって騙しているわけではないのである。

その「あとちょっと」を聞くと、意地でも自転車から降りないぞ、とペダルを踏む脚に力が入るのである。多くの山を越えたが、私はよほどのことがない限り、自転車を降りて押すことはしなかった。

一緒に走った相手とは名乗りあうこともあれば、ただどこから来てどこへ行くのか、とだけ話しただけの相手もあった。名乗らなかったとはいっても、別に気が合わなかったわけではなくて、その時の流れのようなものだ。それで何の不都合もなかったのである。

しかし、中には住所を交換し、しばらく文通を続けたやつらもいる。いちばん長いので10数年も年賀状のやり取りをしたやつもいた。その男は北海道出身だったので、大学に通うようになってから、北海道旅行をした際に、就職先の寮に泊めてもらったことがある。

その後実社会へ出て、もまれ流され時に抗う長い生活の中で、今ではもう誰ともコンタクトはなくなったが、でもみんなまだこの空の下のどこかで私と同じように年をとって、たまに若い頃の経験を思い出していることだろう。

17歳の頃

2009-09-09 14:58:57 | Weblog
先日NHKの「トップランナー」というインタビュー番組に小栗旬が出ていた。その時の話では内田有紀に憧れて、俳優になったら会えるんじゃないか、という本人曰く「不純な動機」で児童劇団に入ったのだそうだ。

で、11歳ですでにNHKの大河ドラマに出演しており、その後も大河ドラマには何度も出ていて、芸歴は予想外に長いのである。2001年に製作された「青と白で水色」の時は1982年12月26日生まれの小栗旬は収録時は18歳(今回は厳密に計算しました)だったが、芸歴としては7年以上もあるわけで、なるほど芝居がうまいわけだ。

しかし、顔が変わったね。今の方がぐっと男前だ。10代の頃はもっと痩せて鋭角な顔つきだったが、最近はふっくらとまではいかないけれど、角が取れてほどよい柔和さが加味されてきている。大人になったんでしょうねえ。

それにしても、小栗にしろ、池脇、蒼井、宮崎、それにゴルフの石川遼と、みんな十代であれだけ活躍するんだからすごいなぁ、と感心するばかりである。もちろん、その裏には本人の努力もあるのだろうが、やはり才能のある人は違うものだ、とつくづく思わされた。

さて、ここで正直に言っておかなければならないが、実は私も16歳や17歳だったことがあるのである。遠い昔のことで、ほんまかいな、と本人も不思議な感じをぬぐえないけれど。

だが、顧みて自分のその頃をこうした才能ある人たちと較べると、なんとまぁ平凡を絵に描いたような高校生活だったことか。田舎では一応進学校といわれる高校に通ってはいたが、成績は中の中をかろうじてキープし、クラブ活動もせず、田舎だから繁華街もなくて遊ぶところといえば友人の家に行くぐらいだった。

それに、保守的な土地柄で、喫茶店の出入りは禁止、外出時は制服着用のこと、制服の下のシャツは無地の白でなくてはならない、等々がんじがらめの校則があった。これは校則というよりも拘束といった方が正しいぐらいだ。

そして、何よりも馬鹿げていたのが、男女共学でありながら、クラスは男女別々に分けられていたことである。恋愛なんぞしては勉強に差しつかえるという学校側の妙な理屈でそうなったらしい。だからクラブ活動などしなければ女子生徒と口をきく機会さえないのだった。

では、それで進学率が上がったかというと、とんでもない、まったく逆で私たちの代では下降線を辿るのみだった。

当たり前である。好きな女の子がいたりした方が勉強にも張りが出ようというもんだ。いい成績をとって尊敬してもらいたい、とかいう野心も生まれてきたりするはずである。

ようやくそれに気づいた学校側は、私たちが卒業して2年後からまた男女混合のクラスに戻したのだった。生徒よりも教師の方がアホだったのである。そのアホな教師たちの実験台にされた私たちこそ全くのはた迷惑であり、もっといえば貴重な青春を無駄にさせられた犠牲者なのである。

今は中学生からだろうが、例え何十年も前の当時でも、高校生なら好きな女の子がいて、多少のおつき合いをするぐらいのことはあって当たり前だろう。(注:この「付き合う」というのは現在の「付き合う」とは違う、もっとずっと手前の次元です。最近の「付き合う」というのはセックスの関係を持つレベルのことを意味しているのだそうで、若い人と話をする時などずっと違和感を感じていたが、まさか「その付き合うって、つまり、あれ?ラブホに行ったりするとか」などとあまり露骨に訊くわけにもいかない。そこで先日知人に訊いてようやく確認が取れた。私も相当遅れてる)

そういう訳で、未だに我母校に対して何の愛着も起こらない。これまた不幸な話ではある。

そんなただだらだらと高校生活を送っていた私だったが、高二の夏休みに国道を走る自転車旅行者たちを見て、いっちょう俺もやってみるか、という想いが芽生えた。男の子は冒険してみたいものなのである。

それで、決行は高二の終わった春休みにすることにした。わが家が貧乏だったので、私は毎朝牛乳配達をして自分の小遣いを稼いでいた。

夏休みには氷屋でアルバイトをした。当時はまだ電気冷蔵庫があまり普及していなくて、特に食堂や旅館などの業務用の冷蔵庫は氷を使っていたし、一般家庭でも氷の冷蔵庫を使う家がまだ結構あった。

工場から来る大きな氷の塊はひとつが16貫目あった。それを大きなのこぎりで半分の8貫目、さらに4貫目と切っていく。家庭へ配達する場合は1貫目がほとんどだったので、4貫目を4等分するのである。

ガシッガシッというのこぎりの音と手ごたえは今でもよく憶えている。メジャーで正確に測って切るのではなくて、目分量で切る。けれど、慣れればほとんど等分の大きさに切れるようになるものである。今やれといわれるとちょっと自信がないが、少し練習させてもらえればできるようになるだろう。

それに冬休みには酒屋の配達のアルバイトもした。早朝の牛乳配達を終えて家に帰り、朝飯をかっくらって酒屋へ行く。8時半から6時までがアルバイトの時間だった。まだまだ現在のようにあっちでもこっちでもアルバイトがある、という時代ではなかった。ハードな生活ではあったが、若かったから身体にこたえるようなことはなかったし、それも自転車旅行のための体力作りに役立った。

旅行の旅費はそのバイトの賃金から作った。これは親が貧乏だったからだけではなく、当時の自転車やヒッチハイクの若い旅行者のほとんどがそうだったと思う。親の金でそんな旅行をするのはみっともないというか、男らしくない、という価値観がまだ生きていた時代だったのである。自立をめざすことが目標とされる時代でもあった。

死に損ないと若さ

2009-09-04 16:39:30 | Weblog
脳死が人の死として法律で決められているらしい。私は今年心臓手術をした際、心肺を停止して、人工心肺を使って手術した。

よく事故や事件で死亡した際、「すでに心肺停止状態だった」と報道されるが、ということはつまり心臓と肺が止まっているのは生物学的には死んでいることになるんじゃなかろうか。で、私は手術の間死んでいたことになる。

だが、1時30分に開始した手術は無事に終わり、深夜10時に眼が覚めて、死に損なって今も生きているわけだ。

自分でも予想していなかったが、この手術のおかげで人生観が変わった。例えば、一昨年作詞家の阿久悠が70歳で亡くなった時の私の感じ方はこうだった。

「ああ、70までならまだ十何年あるなぁ」

しかし、手術後はそれが「もう十何年しかないなぁ」に変化した。

人生の見方の角度が180度転換して、死を実態として意識するようになったわけである。死ぬことが身近になった。

私のケースの手術では手術中の死亡率が5%とか7%とかいわれていた。それが高いか低いか受け取り方は様々だろう。だが、医師もスタッフも人間だからミスということもあるだろう。胸をばっさり切り開き、心臓も肺も止めるわけだから、大手術と言えば大手術だし、される側としては楽観はできない。ひょっとしたら死ぬかもしれんなぁ、とさすがにしんみりした。

ではあるけれど、まあええか、手術中なら眠ったままあの世行きや、苦痛もなしで極楽大往生やな、と達観することにした。

これは、手術をなめていたのか、病院を信頼していたからか、それとも鈍感だからか、またそれとも自分でも意外なことだが、私にもいささかなりとも潔いところがあったからか、それは我ながらよくわからない。

私は無宗教だから、現時点では、死んだらそれは電源のスィッチがオフになるのと同じで、意識も消え、ただ真っ暗になるだけだ、と考えている。

それにしても年をとれば、誰しも死ぬわけで、それは避けようがない。それが早いか遅いかという問題は残るが、やりたいこともそこそこやってきたから、凡人としては、俺の人生こんなもんちゃうか、と特別思い残すこともないのである。これ以上もう伸び代もないだろうし。

若さを取り戻したいか、と問われると、めっそうもない、としか答えようがない。

私のことだ、若い頃に戻っても、また同じように、わっと顔を覆いたくなるような失敗を何度も繰り返すだろう。それに何よりも貧乏暮らしだったから、もうごめんである。お金持ちの家に生まれるなら、考え直してもいいかもしれないが。

とはいうものの、最近邦画のDVDをあれこれ観ているが、ほとんどが若い俳優さんの主演するものばかりで、彼らの若さを見るにつけ、やはり若いということはいいもんだなぁ、と思ったりもするのである。

彼らも出始めの頃は、監督にだめ出しをくらい泣きそうになったり、NGを何度も繰り返して、多くのスタッフに囲まれ、いたたまれないような思いをしたこともあるだろう。

そんな経験を繰り返しながら、天才的な人も努力家型の人も、有名な人もそうでない人も、一段一段階段を上って俳優として演技力を獲得していっているのに違いない。

プライベートではいやなやつ、鼻持ちならない生意気なやつもいるだろうが、演技の現場ではみんな真剣に必死の思いでやっているだろう。映画を観終えると、そういった若さの良さのようなものが心地いい残像としてしばらく私の中に留まるのである。

おっと、ここで訂正しておかねばならないことがある。

前回、「青と白で水色」について書いた時、宮崎あおいと蒼井優が17歳だったと書いたが、これはある方のコメントをいただいて間違いだったことが判明した。

コメントを読んでいただくのがいちばんだが、このドラマは2001年の12月にテレビで放送されたのだそうだ。だから、製作している時点では11月生まれの宮崎あおいは15歳で、蒼井優は多分16歳となり、17歳と書いたのは私のミスである。

往生際の悪いことを言うようだが、DMMの作品紹介では製作年は2002年とあるので、まず責任の半分をDMMに転嫁することをお許し願いたい。で、月日を考慮せず、同じ年生まれやからええやろ、と二人とも17歳で括ってしまったのは私がずぼらなせいである。

女性にとって年は重要なものだし、17歳と15歳ではこれは大違いだ。責任の残り半分を謹んで宮崎蒼井両ファンの皆様に深くお詫びします。

いやぁ、それにしてもディープなファンもおられるのでうかつなことは書けないなぁ、と反省しているのだが、私のことだから2度あることは3度あるで、またやってしまいそうだ。このブログの内容は話半分に読んでくださるとありがたい。また、できれば前回分のコメントにも目を通していただきたい。

それにしても宮崎あおい、15歳であれか。す、すごい、としか言いようがない。

「青と白で水色」では、蒼井優のいじめに耐え切れず、宮崎あおいはとうとう校舎の屋上の鍵を開け飛び降りようとする。そこを小栗旬に引きとめられることになる。このあたりの場面は作品を見て欲しい。(こんなこと書くとDMMから何か送ってくれるかな。ぜひそうして欲しい。宣伝してあげてます。けど閲覧者数が少ないからねぇ。それは無理だな。こういうのをゴミブログとか呼ばれるんだろうが)

その後屋上に大の字に寝て空を見上げながら、宮崎が言う。

「屋上から見る空って青いんだね」

すると、小栗が答える。

「空なんてえ・・・、どこから見たって青いよ」

宮崎が微笑む。

「そうか」

そこにチャイムが鳴る。宮崎は立ち上がり、屋上の手すりに手をつく。小栗が坐ったままで声をかける。

「どうすんの」

その声は、さっぱりしたトーンで、もう小栗が宮崎は昆虫が脱皮するように一段成長したことを感じ取っている声だ。

宮崎は手すりに手を置いて外を向いたまま、わずかに微笑を混ぜて、決心したようにきっぱりと答える。

「わたしぃ、教室もどるね」

小栗が少し顔を傾け、小さく微笑む。

「そう」

宮崎の横顔がアップになり、決意を含んだ笑みで、自分にも言い聞かすように力を込めて頷く。

「うん」

小栗が微笑んだ時からロック調の曲のイントロが流れ始める。この曲がとても効果的だ。

その曲に押されるかのように宮崎が花を挿したガラスの小さな花瓶を両手で持って廊下を教室へ向かって歩いていく。これまで嫌がらせで置かれていた花瓶だ。(それをこの時どこで手に入れたのかは、こんな場合聞かないのが約束である)

教室に入ると、同級生たちの中を顔を上げて最後列窓際の自分の机まで歩き、花瓶を置く。そして椅子に坐り、しゃんと背を伸ばし、それまでのおどおどしたものとは違うしっかりした目でまっすぐに正面を見つめる。

その視線は、いじめられていた女の子が成長したことを表すと同時に、15歳の宮崎あおいの、女優としてやっていくんだ、という強い意志をも放っているように見えた。


青と白で水色

2009-09-01 19:04:15 | Weblog
レンタルビデオ屋さんへ行くと、旧作がどんどんなくなっていっている。

ちょっと前ツタヤに行って池脇千鶴の「丘を越えて」をさがしてもらった。すると、

「すみません。もう在庫がないんです」

「えっ、1週間ぐらい前棚にあった気がするんやけど」

「2、3日前に整理したみたいで、申し訳ありません」

との返事。

まぁ店側としても、新作がガンガン入ってくるから、置き場に困るわけで、借りられないDVDをいつまでも在庫で抱えているわけにはいかないのだろう。その辺の商売事情はよくわかる。たまにあまりにもぎゅうぎゅうに棚に並べられてるもんで、引っ張り出してみて元に戻そうとしても、窮屈すぎて中に入らないこともあるしね。

だからとうとうDMMに加入した。別にツタヤでもいいんだが、DMMの方がホームページで作品の探し方が簡単なような気がしたからで、テレビの宣伝の「ネットで借りてポストに返却~」という宣伝にひっかかったわけじゃない。いや、ちょっとそれもあるか、深層心理では。

ホームページで見るとかなり以前の作品も充実しているから、現在邦画での遅れを取り戻すべく奮闘努力している身としてはかなり助かる。それにレビューがたくさん載っていて、それも参考にできるため、知らない役者さんの作品でもその評価の星の数を基準にいっちょう観てみるか、という気も起こったりすわけである。

もちろん、レビューはあくまでも評価する人の好みにかかっているので、星の数が少ないからといって、必ずしも私に合わないというわけではないし、逆もまた言える。星は多いが、いやあちょっとなぁ・・・、というのもあるのである。

でも、五つ星が満点のところで四つ星がついていると、かなりの確率で当りがある。星三つの場合は完全に観る者の好みで分かれる。例えば、自分が好きな役者さんだとそれだけで少々の欠点には目をつむれたりするからだ。

ただ、ネットで借りる場合の欠点は観たい作品が即観られるというわけにはいかないところだ。レンタル店の場合だと、棚にあればすぐに借りられるが、ネット注文では、一応自分のリストを作って、その中で在庫があれば送ってくるシステムになっているから、次に何が来るかは相手任せということになってしまう。人気作品は競争率も激しいらしくなかなか来ない。

そこで、近作でどうしてもすぐ観たい場合はツタヤの店舗に行って借り、待てる分、あるいは、旧作で店舗にない作品はひたすら待つ、という二刀流で行くことにしたわけである。

現在のところ池脇千鶴と蒼井優の線を中心に注文を入れているわけだが、今回蒼井出演の「青と白で水色」が届いた。レビューでは星5個の満点だが、たった一人しか投稿がなかったので、一抹の不安はあったけれど、これがなかなかよかった。

日本テレビシナリオ登龍門2001大賞受賞作品とタイトルに書いてあったが、時間も46分と短くテンポもいい、かといって短編というほど短くは感じない。新人でこんな脚本を書ける人がいるとは、世の中には才能のある人はごまんといるんだなぁ、と恐れ入った。

内容は高校のいじめをテーマにしたもので、主演は宮崎あおいだ。恥ずかしながらいい年をして蒼井優ファンのおじさんとしては、蒼井優がいじめ役というのが、う~んそんな役やって欲しくないなぁ、となるところだけれど、まぁ仕事ですからねえ、仕方ない。

しかし、蒼井も宮崎も共に1985年生まれで、2002年製作だから両者ともに17歳の時に、高校生が高校生を演じたということだが、いやぁ宮崎あおいはうまいです。17でこれか、というぐらい熱演してます。これからは宮崎あおいも自分のファンリストに入れることに決定した。

「篤姫」はNHKの時代劇だから演技にも制約があったんだろうし、ちらちらと観たぐらいであまり感心しなかったが、このドラマでの演技力はほんと保証します。ま、私が保証しても何の価値もないけれどね。

それに較べ、蒼井はどういうかなぁ、まぁ役柄仕方ないんだろうけど、いまいちだったな。生意気な女子高生というオーラはがんがん出てたし、憎たらしいいじめっ子という役は十分伝わってきて、こういう女子高生のガキは近所にもおるなぁ、と思ったら、おじさん蒼井優のファンのくせに一発しばきたくなったほどだ。

観るものに憎たらしいやっちゃなぁ、と思わせたということは、一応演技としては成功と言える。

しかし、二人は中学時代にはかなり仲の良いい友達同士だったという設定だから、いじめる際にも何かそうした背景を示唆するものがあってしかるべきだろうと思う。

けれど、顔がアップになった時、表情にもう一ひねりアクセントがない。いじめながら、いじめられ役の宮崎と目を合わせた時に、視線をついそらす、といったあたりに、ある種の後ろめたさを表していると解釈できないこともないが、もうちょっと微妙な振幅が欲しいなぁと思ってしまった。

池脇千鶴ならあんな場面でももうちょっと何か付け加えるような気がする。もっとも池脇にはいじめ役は回ってこないだろうけど、絶対。何しろあの顔だからね。

ま、外野ではいろいろ言えるが、17歳なら監督さんの指示通り動くだけで精一杯だったんだろうなぁ。

ただ、思うのは蒼井優は緻密な演技派ではないんじゃないか、ということだ。だから、どう言ったらいいか、前に池脇千鶴は変化球投手だと言ったが、蒼井優はストレート主体のピッチャーではないだろうか。

つまり蒼井優は細かな演技よりも、各シーンでの存在感で表現するタイプじゃないだろうか。そのシーンシーンで独自の雰囲気を自分にまとわらせて、それをまるごとぽんとそこに置いて見せる。惜しむらくは、この映画の場合はストレートがちょっと一本調子だったんじゃなかろうか。宮崎あおいが熱演してるだけに余計そう思わされるのかもしれないが。

もっとも宮崎が主演で、蒼井はサブの立場だから、フルに力を発揮できなかったとしても無理はない。あまり多くを要求するのも酷な話ではあるな。

蛇足になるけど、小栗旬が結構おいしい役をもらって、うまい演技をしている。日頃テレビのドラマは観ない主義なので、なんかチンピラっぽいやっちゃなぁ、という偏見を持っていたが、このたび心を入れ替えました。

小栗も結構やりますな。そんなん、ちょっとかっこ良過ぎるで、と冷かしたいぐらい、いい味出してます。小栗旬の女性ファンの方なら観て損はないと思う。あ、もちろん男性ファンの方もどうぞ。

アルフィー最後の夏イベ

2009-08-28 11:31:48 | Weblog
アルフィーが1982年以来続けてきた恒例の夏イベントである野外コンサートが今年で終わった。周辺への騒音問題などで野外活動が難しくなったというのが一番の理由らしい。

という話は実はメリーアンからのメールで知ったのである。メリーアンはもちろん本名は中国名だ。以前も書いたが、生まれも育ちも香港の中国人で長年アルフィーの追っかけをしている。

友人からの紹介で知り合い、15、6年くらい前初めてのアルフィーのチケットを私たちが手配してやった。それ以後毎年のようにコンサートを見に来ていたが、1回目の会場で知り合った同じ追っかけの日本人たちと友達になり、2度目からは彼らがチケットの世話をしてくれている。

しがないOLなんだから、そんなことに金を使わずに少しは貯金しろよ、とおせっかいなことを言ったことも1度や2度ではないが、その都度へらへら笑って話をはぐらかしゃがるのである。

しかし、5、6年前にファイゴーと付き合い始めてからはさすがに将来のことを考え始めたようで、コンサートに行きたいけどお金がね、と殊勝な口振りをするようになった。まぁ結婚は何かと物入りだ。お金がなければ始まらない。

ただ、私たちが香港へ行っても、スケジュールが合わなかったりで、もう3年くらい会ってない。それにメールも途絶えていたから、ひょっとして「掟煲(鍋を投げる)」してしまった、つまり別れたんじゃないかと内心心配していたのである。

そこへ突然この12月に結婚式をすることになったから、式に出てくれないか、とメールがきた。そして最後だから今回のアルフィーの夏イベに来るが、会社をあまり休めないので、8月の8日、9日、10日しか滞在できない。申し訳ないが、大阪まで来られない、と書いてあった。

いや、こっちも体調がいまいちなので来てもらっても接待できないから、それはそれで都合がいいわけだし、体調の説明をして、式には残念ながら出席できない、と返信した。

しかし、まぁとにかくおめでたいことではある。彼女ももうすぐ40になる。昨今は大陸妹と結婚する香港男性が増えているから、早いとこ片付かないとそれこそ「老姑婆」になってしまうところだ。

長年アルフィーの追っかけばかりに夢中になり、一時は人生を棒に振るんじゃないかと心配していたが、人間結局落ち着くところに落ち着くものである。よかったよかった。

今後は家庭を持ち、融通も独身時代ほどはきかなくなるだろうから、今回はいよいよ最後の最後で、これで足を洗って堅気に戻るなんて決死の覚悟で来たのかもしれない。

メリーアンという名前はもちろんアルフィーの歌の最初のヒット曲「メリーアン」からつけたものだ。アルフィー命なのである。新聞記事によると、今回のコンサートではアルフィーが「メリーアン」を歌い始めた瞬間、会場のボルテージが一気に盛り上がったそうだ。当然、メリーアンも血圧計が測定不能になるぐらい頭に血が上ったに違いない。いい年をして絶叫して失神した可能性も考えられなくはない。

今のところ、そのコンサートでどうだったかの報告メールは届いていないのだけれど、アルフィーのコンサートで外国人が脳内出血で死んだというニュースは流れてないし、多分無事だったんだろう。いや、まぁその程度の事件なら新聞にも出ないだろうけれど。

それにしても、今年の2月にも阿豪の結婚式があり、退院直後だったためこれにも出席できず、不義理のしっぱなしやなぁ、と心が痛い。いつか何かでお返ししないといけない、と若干プレッシャーがかかっているところだ。

そうそう、阿豪からの式への招待状にはぴんぴんの10香港ドル札の入った赤い利是袋(いわばお年玉袋みたいなものだ)が同封されていた。これは縁起物で、結婚式の招待状には必ずつけるものだという。

それは我家の壁に飾ってあり、一応我々としても日夜阿豪の新婚生活の平穏を祈ったりしてもいるのである。

池脇千鶴とマダックス

2009-08-25 10:03:43 | Weblog
メジャーリーグ屈指の技巧派投手グレッグ・マダックスは昨年引退した。5008回と三分の一イニングス投げ、355勝上げた。与えた四球はわずか999個という恐るべきコントロールの持ち主だった。

私は特に野球ファンでもなく、メジャーの試合も、よほど閑な時にたまに見るか、スポーツニュースで見るぐらいだ。それでも1度マダックスの投球は見たことがある。とにかくテレビで見ていても球の切れと、正確無比のコントロールはびんびん伝わってきた。

例えば、2ストライク1ボールの場面で、カーブがストライクゾーンいっぱいの外角低めぎりぎりに鋭く曲がってすとんと落ちる。バッターはピクリとも動けず見逃しの三振だ。いや、すとんと落ちるというより縦にスパッと空気を切り裂くみたいに落ちる。うはっ、あれは打てんわなぁ、と正直感動した。これが噂のマダックスか。

ストレートの球速は140キロちょっとぐらいだそうだが、あそこまで厳しい変化球をコーナーをついて投げられれば、ストレートの速さなんか必要ないだろう。さすが精密機械と呼ばれるだけのことはある、すさまじい制球力だった。

さて、池脇千鶴には「ジョゼ虎」ではまっちゃったわけで、その後立て続けに何本も見たし、演技力がすごいとはプロも認めるところだということは前にも書いた。

ところが、先日「丘を越えて」を見たが、いまいちしっくりこなかったのである。

池脇は亡くなった父親は的屋の親分、母親は三味線を弾きながら色町で稼ぐ、という家のちゃきちゃきの下町娘の役で、それがつてを伝って文芸春秋社へ就職し、菊池寛の個人秘書として雇ってもらえることになった。で、仕事へ行くからファッションも着物から洋装のモダンガールへ変身し、もてもてになる。

しかし、どこかぴんとこない。まずおしゃれしても幼く見えてしまう。とても可愛くてファンとしては「ちーちゃん可愛い!」と叫びたいところだが、あの手の美人は万人の男にもてる、ということはないんじゃなかろうか。そこにちょいと無理がありそうな気がする。

それと、何よりも彼女の役どころが極めてストレートな性格の女性だということが、池脇の演技力を生かしきれていないように思う。演技はうまいし、それなりにこなしてはいるけれど、型どおりの役に納まっていて、意外性がない。ただ1場面だけ、菊池寛に経歴を偽っていたことを謝る場面があって、そこだけは、池脇やなぁ、と思ったが。

次にスマップの中居が主演していたシリーズ物の「ナニワ金融道 六」を借りてみた。池脇の役はデート商法で男を引っかけては高いものを買わせてリベートを稼ぐ女、という役だが、こっちははまり役だった。

昔の恋人がやくざで、心底惚れ込んでいたから刺青まで入れたが、結局男に捨てられ、その時の借金を返すためにそんな仕事に精を出しているという背景を持っている。

二人は恋仲になるが、最後には別れることになる。それはお互いが、何でも、友情や愛情でさえも金で計ってしまう同じ種類の人間だから、と池脇は言う。

「わたし一目見た時からあんたに惚れてたんよ。それやのにあんたに物を買わせようとしてしもた」

と告白する。そんな二人が一緒になってもうまくいくはずがない。結婚はお互いが相手の足りないところを補い合うもの同士がするもんやと思う、と。

冬の寒い橋の上で話しながら、中居も、そうだね、と同意する。

けど、二人でいた時はほんとに楽しかったよ、と中居が言い、池脇も嬉しそうに、私も、と答える。この場面は二人が本当の自分をさらけ出してしているシーンだが、実はこの時池脇は自分の客を待っているのだった。

そこへその騙されている客の若い男がやってくる。それを見て、池脇がぼそっと言う。

「カモが来たわ」(注:この「わ」は大阪弁の「わ」で女性言葉の「わ」ではありません)

それまでの二人の情感のこもった会話から、瞬時に一変した乾いた声音で、相手を人間じゃなく金になる物としてしか見てないという冷たい語感がすっと伝わってくる。いや、上手やねえ、と感嘆せざるをえない。

その他のシーンでも、とにかく目線とかちょっとした笑い方とか、自分がシーンのメインでないところでも細かいところに神経のいきとどいた演技をする。ほんの少しのことだが、それってなかなかできるもんじゃないんじゃないか。

だから、枠をはみ出てメインを食うほど目立つこともある。特に中居君は大根だから余計そう見えてしまうんだろうが、そうした演技は計算でやっているのか、それとも成りきっているから自然にできるのか、いちど本人に聞いてみたいところだ。

余談だが、実は知人の娘さんが中学の時池脇の1年上の先輩で、ちょっと知った仲だったそうで、実家もどこか知っているという。それを聞いた時、これはまんざら可能性がないわけでもないか、と一瞬欲が出た。けれど、もう一家そろって東京へ引っ越してしまい、こっちへは帰ってこないだろうという話で、これははかない夢で終わりそうだ。残念。

話を戻すが、池脇にはやはり複雑系の役が似つかわしいと思う。そういう型にはめられるのは本人は嫌かも知れないが、ストレートなわかりやすい性格の役では、池脇千鶴の本領が発揮されないんじゃないだろうか。

「音符と昆布」ではアスペルガー症候群の女の子を演じ、「ストロベリーショートケイクス」では振られた男の脚にしがみつき路上をひきずられ、それでもめげずに「恋がしたいっすねえ・・・」と空を見上げる、ある意味しぶとい女の子をやった。

だから、演技を野球に置き換えてメジャーで言えば、池脇千鶴はノーラン・ライアンのような剛速球ピッチャーではなく、マダックスみたいに、ボールの縫い目にまで神経のいきとどいた投球をする技巧派のピッチャーだ。

まぁ、実のところまだその域まではいけてないかもしれないけれど、少なくともそれを目指して欲しい。池脇千鶴には変化球が似合う、と思う。これからも切れ味鋭い変化球を投げ続けて、おおっとそんなのもありか、とこちらを驚かせて欲しいものである。まだまだ先は長いんだから。


スタンレーから電話

2009-08-22 17:27:19 | Weblog
7時半に携帯が鳴った。

発信人を見るとスタンレーである。香港から国際電話をかけてきた。

「もしもーし、スタンレーか?」

「そや。元気かぁ」

こっちはアンテナがばっちり立っているが、いつになく音声が悪い。

「麻麻地(まーまーでい)やなぁ」

広東語で麻麻地とは、「あんまり良くない」ということである。

「きちんと食事して静養してんのか?」

「食欲はあるし、家でのんびりしてんねんけどな。どうも慢性肺炎の方がなぁ、うまいこといけへんねん」

実は私は1月に心臓の手術をして、退院後免疫力が弱まっている時にリハビリに精を出しすぎたのが裏目に出て、慢性的な肺炎にかかってしまった。またこれがしつこいのである。

「あんな、栄養つけんとあかんで。滋養のあるスープ作って飲むねんで。今度作り方教えたるわ」

またこれだ。中国人は何かというと身体のために「湯」、つまりスープを作って飲めという。しかし、困ったことに日本人は伝統的に長時間ぐつぐつ煮込んで栄養を煮出したスープを飲むという習慣がないから、作る根性がない。医食同源というのはよくわかっちゃいるんですけどねえ。

普通中国人の友人はこまめに連絡はしてこない。会った時はこれでもかというほど面倒見がいいが、平時の連絡はまめじゃないのだ。しかし、スタンレーはさすが敬虔な仏教徒だけあって慈悲の心が強い。私が病気してからは度々様子うかがいの電話をかけてくる。

入院中は花を贈ってくれたし、手術前にはお経の入った掌サイズのラジオのようなレコーダーを送ってきて、それで気持ちを落ち着けて手術へ備えよ、とのありがたい心遣いである。今は全世界に花を送れる会社があるようだ。もちろん、香港で注文を出し、それを日本の会社が請負う形をとっているのだろうが。

その上、手術の時間に合わせて、跑馬地にあるお寺で私のために読経をして、手術成功の祈願するよう手配してくれた。そのせいかどうか、手術は成功し、まぁこうして生きているわけである。

お経の方は聞いてみたところ、抑揚のあるなかなか聞かせる音楽みたいなものだった。中には女性コーラス風のもあって聞いていると眠くなってくる。精神安定剤である。

こんな風にスタンレーは究極の善人で、博愛主義者だから気の使い方も人一倍だ。ただ、自分が善人だから他人もみな善人だと思っている節がある。いつか商売で失敗しないか、と私も友人として一抹の不安を禁じえない。

「あ、そやそや。漢方やったらええんや。西貢にええ漢方医さんがいてんねん。紹介するわ」

とスタンレーが言った。

「さいこん?さいこんって、あの新界の海鮮料理の西貢かいな?」

いわば漁村で、海鮮料理屋がたくさん並んでいる。店の前の生簀の中から魚や蝦蟹を選んで調理してもらって食べるのだが、最近では結構観光客も多くなって値段も安くはないらしい。20年前は穴場だったが、今ではもう南Y島か、長州島ぐらいまで船で行かないと安い海鮮料理のねらい目はないだろう。

いや、話がそれまくってるが、スタンレーの電話だった。

「俺もな1年前調子悪うて、そこで診てもろうて薬調合してもろたら、調子ようなったわ。2週間に一遍行って、それで薬もろうて帰って毎日家で煮て飲んだんや」

「なら、一回行って薬作ってもろて、日本へ持って帰って自分で煮たらええわけやな」

「いや、そらあかんわ。漢方医ちゅうんはな、脈診たり、症状見てから薬を調合するんやで。一回目の薬が合わんかったら、次にまた患者の様子見て調合を変えたりせなあかんやん。1ヶ月か2ヶ月くらいかかるわな」

をいをい、そんな長い間そっちに住めるか。善人の考えることは時として常人の常識をあっさりと乗り越える。

しかし、どうも電話の向こうの周囲が騒がしく、スタンレーの声が聞きとりにくい。どこかの酒楼(レストラン)でかけてるんだろう、と思って聞いた。

「今どこにいてんねん?」

「電車の中や」

「それでかぁ、えらい騒がしいなぁ。そっちの声がはっきり聞き取れんわ」

自分の広東語のまずさを棚に上げてそう言ってやった。こういう風に書いているといかにも私が広東語がぺらぺらみたいだが、なに、友達同士だから要点さえ聞き取れれば話は通じるのである。

それと、香港の公共交通機関は携帯電話の会話はOKなのだ。だからみんな自由に携帯をかけている。ある時など、座席に坐って独り言を言っている女性がいて、ちょっと不気味な人なのかと思ったら、実はフリーハンドの携帯で話をしていたのだった。けれど、たまに本当に変な人が独り言を言っていたりするので、話がややこしい。

しかし、せっかくの厚意からの言葉である。欧米人のようにはっきりとNO!と言えない日本仔(やっぷんちゃい)としては、無下に断るのも気が引けるので、婉曲にごまかすことにした。

「うん、また明日も検査があるから、それからゆっくり考えてみるわ。」

ということで、電話を切った。

あれ?今日は仕事のはずで通勤は車で行っていたはずだが、何で電車なんだ?昔はBMWに乗っていたが、3年前からベンツに乗り換えていて何度か送ってもらったことがある。まさか事故って修理に出してるんじゃなかろうな。

家は半山区の大坑道で、会社は地下鉄なら杏花邨で降りて、歩いて10分くらいのところだ。杏花邨なんて20年以上前は、東の果て柴湾の手前で何もなかったところで、トラムかバスしか通っていなかったが、今はもう地下鉄の駅ができ、駅前には背の高い小ぎれいなマンション群が建ち並んでいる。

駅中もショッピングモールやきれいなレストランがあり、何だかそこら一帯に中産階級的風情の臭いが漂っている。そう考えると、香港の変化のひとつの象徴のような場所だ。

スタンレーは最近よく30年来の友達やんか、と言う。正確に言うと26年くらいなんだが、そこら辺は大ざっぱなのが中国人だ。それに四捨五入すると30年になるのは間違いない。30年かぁ。ふと武田鉄矢の「思えば遠くへ来たもんだ」という歌が頭をよぎった。