香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

密入国(4)

2008-03-02 14:55:47 | Weblog
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私の母の密入国は紆余曲折を経ていた。母は深圳の辺防証(注1)を親戚から借りて、2回監視所を通ろうとして、2回とも監視兵に止められた。母が私の兄を深圳の病院に診てもらいに連れて行くという口実を使うと、必ず深圳を通って家に帰るよう命令された。

ある時携帯食を食べつくしたため、深圳の旅館でご飯を買おうとしたが、旅館の従業員は一目見て田舎の農民だとわかると、すぐに母子二人を追い払い、人民元と食糧配給切符があっても、どうしても売ってくれなかった。幸いなことに、中にいた香港から故郷へ帰省中のひとりの老人が見かねて、二人にご飯とお茶をふるまってくれた。それでようやく腹をすかせたまま歩いて家に帰らずにすんだのである。

三回目はお祖母さんが母と兄を連れて、恐怖におののきながら逃げ出した。その晩母は亡くなったお祖父さんがお別れを言いに来た夢を見たが、小さな声でひそひそしゃべるので何を言っているのかわからなかった。お祖母さんは心の中で、ご先祖のご加護があるのだから密入国はきっと成功すると思った。

明け方彼女たちが坂道を急いでいると新しい監視所ができていた。湖南省から来た軍人は監視が厳しく、その上広東省の監視兵より凶暴で、銃で射撃してくるのだ。

途方にくれていると、突然自転車に乗って密入国しようとしていた一組の若い夫婦が山道の端っこから自転車を突き落とし、狂ったように走り始めた。兵士たちは自転車を捨てた人間がいるのを発見した。それを餌に兵士をおびき出し監視所から離れさせる作戦だということはわかってはいたが、しかし自転車は当時極めて手に入りにくいものだったから、兵士たちはすぐに山を飛ぶように走り降りていった。自転車の方が大事だったのである。

監視所には見張りが誰もいなくなり、みんなは大声を上げながら監視所を抜けて行った。

1994年4月、私は香港の新聞「信報」において、もし香港が真に2000年を記念する物を建造しようとするのなら、「自由記念碑」(Freedom Monument)を建て、傍には「自由博物館」を建設し、密入国の文化財と歴史の聞き取りを広く募るのがいいのではないか、と呼びかけたことがある。博物館の傍にはトーチを立て、聖火を永遠に燃やし、密入国で命を失った数多くの魂を追悼するのだ。

記念碑ができたなら、歴史を重視する第一代中国大統領が恭しく献花し、民族の百年来の度重なる苦境の中で自由を追い求めた中国人たちを記念することを期待したい。

文章を発表した後、多くの長年の読者たちから励ましの手紙をいただいたが、これが長期にわたって実現不可能だろうということは誰にもわかっていることだ。中国大陸で文化大革命の記念碑や記念館を建てることができないのと同じように、自由記念碑が存在しないことの方が、より一層国と民族の運命を記念することができるのである。


注1:辺防証
深圳は経済特区のため、域内に入るには許可が必要とされる。