*殻便*[カ・ラ・ダ・ヨ・リ]*2004-2005

コリアン・ディアスポラ・アーティスト Yangjah の日々の旅をおすそわけ。

『その名にちなんで』

2004-11-20 | ひびのたび
うつくしい「流れ」の小説にであった。
ジュンパ・ラヒリの『その名にちなんで』

今までにであったマイノリティー(ここではディアスポラという意味)をなんらかのカタチでテーマにあつかった作品に、わたしのこころの琴線に触れるものはなく残念な想いを抱いていた。そんなわたしのこころの霧を晴れやかにしてくれた作品である。

この作品では、名前がキーワードになっている。
世界中に存在する少数派の民族にとって、「名前」はなんらかの意味を持つ。
主人公のゴーゴリは著者と同じベンガル系のアメリカ人。両親がインドから移民してきたのだ。彼自身はアメリカ生まれのアメリカ人。
そんな彼は名前を変える。

わたし自身が19歳4か月ごろ、名前を変えた。

理屈っぽい大人たちの言いなりになって、民族名に変えるのは嫌だった。
なにかが違うと直感が静かに主張していたから。
18年以上もつきあってきた日本名と、民族名(パスポートや外国人登録などの公的な氏名は生まれた時から民族名)の両方を日常生活の中で使おうと試してみたこともあった。
もうなんだか面倒になってきた。
なによりも昔から、自分の日本名の「音」が好きではなかった。
名前の響きはわたしのからだに直接届く。

わたしが19歳の終わりに日本を飛び出しタイで1年を暮らした時、アフリカ系アメリカ人の男性に出逢った。一般的なアメリカ名を生まれた時から持つ彼は、30代からモロッコ、ネパール、タイと様々な地域で暮らしていた。わたしが最近名前を変えたという話にいたく感心していた。そして数年前、彼も名前を正式に変え、次はアフリカのギニアで暮らしはじめた。彼の名前はアフリカ名ではない。彼が夢の中でみた名前。彼自身がオーナーの本屋さんの店名でもある。

小説に話を戻す。
1世、2世間のギャップの描写が自分の体験と重なって微笑みがもれた。(私は3世だが)
例えば、ゴーゴリの実家でパーティが開かれる時は、母が数日前から料理を仕込み、友人をこころおきなくもてなす。
それに対して、ゴーゴリーが付き合ったアメリカ人の彼女の家に招待された時、シンプルな接待といつものままの食事に驚く。心地よく驚く。何の飾りも力みもしていない家族たち。
私が日本で感じることも似ているかもしれない。
とはいっても生まれ育った場所ではない韓国でももちろんギャップを感じる。

ゴーゴリが結婚した相手は、ひとりでパリに暮らしていた時がいちばん自由だったという。
その感覚はわかる。
アメリカではアメリカ人になりきれなく、ベンガルではベンガル人になりきれなく。
わたしも20代は自分の暮らしていく場所を探すのに必死だった。
外国を旅したり暮らしてきたのも、今思えば楽しんでいうよりは、自分の全存在を賭けていたかもしれない。今はもう疲れから一種の明るいあきらめが生まれたので、以前よりは生きやすくなったけれど。
ボヘミアンのような生き方を否定する必要はない。
浮き草のようでもいい。
毎日が旅なのには変わりはないから。



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