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泉岳寺 浅野長矩および赤穂義士の墓所🙂😐😐途切れることなく参拝者が訪れる「赤穂事件」に関わる墓所

2020-08-02 11:30:00 | 神社仏閣
曹洞宗「萬松山(ばんしょうざん)泉岳寺(せんがくじ)」は、「徳川家康」(1543/天文11年~1616/元和2年)が、幼年期に身を寄せた駿河の戦国大名「今川義元(いまがわよしもと)」(1519/永正10年~1560/永禄3年)の菩提を弔うため、孫と言われる「門庵宗関(もんなんそうかん)」(1546/天文15年~1621/元和7年)を招いて、1612(慶長17)年に、現在の警視庁周辺「外桜田」に開基した寺院という。
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しかし、1641(寛永18)年に焼失し、三代将軍「徳川家光」(1604/慶長9年~1651/慶安4年)が、現在地「高輪」への移転再建を、「毛利(もうり)」「浅野(あさの)」「朽木(くつき)」「丹羽(にわ)」「水谷(みずのや)」の五大名に命じて以来、「浅野家」と「泉岳寺」の「壇越(だんおつ/だんおち)」(寺に布施をして後援する信者)としての関係が始まったという。
 ❖ 浅野長矩公之墓   江戸城内「松之大廊下(まつのおおろうか)」刃傷事件を発端に、吉良上野介邸討ち入りに及ぶ仇討「赤穂事件」で知られる顚末によって、刃傷事件のあった元禄14年3月14日(グレゴリオ暦1701年4月21日)、播磨赤穂藩第3代藩主「浅野(あさの)内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)」(1667/寛文7年~1701/元禄14年)の即日切腹が決定し、遺体は浅野家家臣「片岡高房」「糟谷勘左衛門」らが引き取って、ここ「泉岳寺」に埋葬したという。戒名は「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」で、享年33だった。
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「赤穂事件」が題材の「仮名手本忠臣蔵」など、脚色されて語られる「赤穂義士」(「泉岳寺」では「赤穂義士」と呼ぶ)が流布している故か、義士墓碑前へは、海外からの旅行者も加わって、途切れることなく参拝が続き、焼香の煙も絶えることなく立ち上るが、「浅野長矩公墓所」に関心を向ける参拝者は少なく、静かに佇む墓碑が印象に残った。
 ❖ 浅野長矩公夫人之墓  夫の播磨赤穂藩第3代藩主「浅野長矩(あさの ながのり)」が、江戸城内で刃傷事件を起こして即日切腹となるも、泰然と事にあたったと伝わる夫人「阿久里/阿久理/阿久利(あぐり/おぐり)」(1674/延宝2年~1714/正徳4年)は、実家「三次浅野家」下屋敷に引き取られ、「落飾(らくしょく)」(貴人が髪を剃り落して仏門に入ること)し「瑶泉院(ようぜんいん/ようぜいいん)」として、夫の菩提を弔ったという。赤穂浪士の生活を支えたり、遺児たちの恩赦に尽力したというが、享年41で死去している。戒名は「瑶泉院殿良瑩正燈大姉」で、「浅野長矩」と同じくここ「泉岳寺」に埋葬されている。
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「赤穂事件」が題材の「仮名手本忠臣蔵」など、脚色されて語られる「赤穂義士」(「泉岳寺」では「赤穂義士」と呼ぶ)が流布している故か、義士墓碑前へは、海外からの旅行者も加わって、途切れることなく参拝が続き、焼香の煙も絶えることなく立ち上るが、やはり「浅野長矩公墓所」同様に「瑶泉院墓所」へ関心を向ける参拝者は少なく、静かに佇む墓碑が印象に残った。
 ❖ 赤穂義士墓地  播磨赤穂藩第3代藩主「浅野長矩(あさの ながのり)」の江戸城内刃傷事件を発端に、吉良上野介邸討ち入りに及ぶ仇討「赤穂事件」で知られる顚末によって、元禄15年12月14日(グレゴリオ暦1703年1月30日)に、仇討という本懐を果たした赤穂藩筆頭家老「大石内蔵助良雄」以下「赤穂浪士」は、幕府の命により元禄16年2月4日(グレゴリオ暦1703年3月20日)に切腹し、45名(一般に「四十七士」と呼ばれる)が「浅野長矩公」のあとを追って、直ちに「泉岳寺」へ埋葬されたという。
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同寺には「大石(おおいし)内蔵助(くらのすけ)良雄(よしお/よしたか)」(1659/万治2年~1703/元禄16年)以下45名の「赤穂浪士」の墓と、遺族が遺体を引き取った「間新六(はざま しんろく)」、赦免された「寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)」、討ち入り前に切腹した「萱野三平(かやの さんぺい)」の3名は、埋葬を伴わない供養塔があって、国指定の史跡となっている
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史実としての「赤穂事件」を見つめてなのか、「赤穂事件」が題材の「仮名手本忠臣蔵」などで脚色されて語られる「赤穂義士」(「泉岳寺」では「赤穂義士」と呼ぶ)が流布している故なのか、義士墓碑前は、海外からの旅行者も加わって、途切れることのない参拝が続き、焼香の煙も絶えることなく立ち上っている。
 ❖ 大石内助蔵良雄之墓  播磨赤穂藩第3代藩主「浅野長矩(あさの ながのり)」の江戸城内刃傷事件を発端に、吉良上野介邸討ち入りに及ぶ仇討「赤穂事件」で知られる顚末によって、元禄15年12月14日(グレゴリオ暦1703年1月30日)に、仇討という本懐を果たした「赤穂浪士」は、幕府の命により元禄16年2月4日(グレゴリオ暦1703年3月20日)に切腹し、45名(一般に「四十七士」と呼ばれる)が「浅野長矩公」のあとを追って、直ちに「泉岳寺」へ埋葬されたという。
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赤穂藩筆頭家老「大石(おおいし)内蔵助(くらのすけ)良雄(けよしお/よしたか)/戒名 忠誠院刃空浄剣居士」(1659/万治2年~1703/元禄16年)は、「赤穂事件」を題材とした創作「仮名手本忠臣蔵」で「大星由良助(おおぼし ゆらのすけ)」の名前で登場し、大人物として語られるが、史実としての「赤穂事件」を見つめてなのか、脚色された「仮名手本忠臣蔵」などで語られる「赤穂義士」(「泉岳寺」では「赤穂義士」と呼ぶ)が流布している故なのか、墓碑前は、海外からの旅行者も加わって、途切れることのない参拝が続き、焼香の煙が絶えることなく立ち上る名蹟となっている。
  ❖ 大石主税之墓  播磨赤穂藩第3代藩主「浅野長矩(あさのながのり)」の江戸城内刃傷事件を発端に、吉良上野介邸討ち入りに及ぶ仇討「赤穂事件」で知られる顚末によって、元禄15年12月14日(グレゴリオ暦1703年1月30日)に、仇討という本懐を果たした「赤穂浪士」は、幕府の命により元禄16年2月4日(グレゴリオ暦1703年3月20日)に切腹し、45名(一般に「四十七士」と呼ばれる)が「浅野長矩公」のあとを追って、直ちに「泉岳寺」へ埋葬されたという。
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播磨赤穂藩筆頭家老「大石内蔵助良雄」の嫡男「大石良金(おおいし よしかね)通称 主税(ちから)/戒名 超倫院刃上樹剣信士」(1688/元禄元年~1703/元禄16年)は、「赤穂四十七士」最年少だが、吉良邸討ち入りでは後門隊の隊長を務めた「仮名手本忠臣蔵」で「大星力彌(おおぼし りきや)」の名前で登場する「大石良金/主税」の墓碑前は、海外からの旅行者も加わって、途切れることのない参拝が続き、焼香の煙も絶えることなく立ち上っている。

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