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井上井月句碑 上伊那郡内(全昌寺 聖徳寺 飯島町文化館 大草城址)😐😐😐井月有縁の地に建つ句碑

2020-10-22 14:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。
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1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われ、いたるところで昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活を続けて、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたとも伝えられる。
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「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指していたという。同地の趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたというが、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。


 ❖ 「全昌寺」句碑  「医王山 全昌寺(いおうざん ぜんしょうじ)」は、国道153号信号交差点「宮田村役場前」から車約5分の「上伊那郡宮田村大字北割」にある曹洞宗の寺院だ。1449(宝徳元)年、僧「八玄破(はちげんぱ)」により、現在地の西方500m「堂平」に天台宗祈願寺として開基、正保年間(1644~1647)に、現在は中央自動車道になっている地に移転し、1653(承応2)年に「真慶寺」2世僧「閑説」によって再興されて、以来同寺末寺として現在に至っているという。1972(昭和47)年に「中央自動車道」建設によって、現在地に新築移転されている。宮田村指定有形文化財の本尊「薬師如来像」は、鎌倉時代中期の制作と考えらる檜寄木造立像で高さ89.1cmだが、秘仏で60年に1度の御開帳での公開だ。
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現在は住職不在で、無人のお堂脇には、句碑「雁鳴くや町の明かりの小田にきく 井月」(かりなくやまちのあかりのおだにきく)が、1988(昭和63)年に建立されている。「上伊那の地」のいたるところで、昼寝をすれば野宿もする浮浪の生活を続け、旧家や俳諧趣味の家などから酒食のもてなしを受けて日を暮らしたという井月の日記に、「明治17年7月16日全昌寺御開帳の祭礼にやって来」ての顛末が書き留められていることから、「井月百年忌に当りこの有縁の地に碑を建て」たという。

 ❖ 「聖徳寺」句碑  JR飯田線「田切駅」駅前の山号「石上山」院号「太子院」寺号「聖徳寺(しょうとくじ)」は、本尊が「阿弥陀如来」、本山が「知恩院」(京都市)の浄土宗の寺院だ。はじめ、聖徳太子自作という「聖徳太子像」を安置した「太子堂」だったが、寛永年間(1624~1645)に「相誉了頓和尚」が、現在の「飯島町田切北河原」で「太子院聖徳寺」として興したと伝わる。
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1715(正徳5)年「中田切川」の洪水で流失し、1717(享保2)年に現在地に移転再建した。その後、2度の火災で「聖徳太子像」などを焼失したというが、1961(昭和36)年の宗祖750年忌記念事業で、ほぼ現在の寺観になった。「法身(ほっしん)」(真理そのもの)、「報身(ほうじん)」(修行して成仏した姿)、「応身(おうじん)」(人々の前に現れる姿)の「三身(さんじん/さんしん)」(仏の身のあり方をいう)をなぞった三つの石を配した枯山水の庭園を持つ、「伊那七福神福禄寿の寺」だ。
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井月が、寄宿寄食の放浪の中で立ち寄ったという同寺の「鐘楼門」手前左に、「井上井月百回忌記念」として、「霜除る菊や小庭のしき松葉 井月」(しもよけるきくやこにわのしきまつば)の句碑が、1987(昭和62)11月に建立されている。

 ❖ 「飯島町文化館」句碑  井月の日記の1884(明治17)年2月26日に「申刻時分聖徳寺へ寄、茶漬無心。日陰坂寄。六時過七久保新花亭投じ泊、馳走。肴北海の如し。 灰に書く西洋文字や榾明り」の記述がある。「新花」は「松村伝平」の俳号で、井月を手厚くもてなしたというが、井月の満足し悦ぶ様子が思われる。
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ここ「飯島町文化館」敷地内にその句碑「灰に書く西洋文字や榾明り 井月」(すみにかくせいようもじやほたあかり)が、1993(平成5)年3月に建立されている。

 ❖ 「大草城址」句碑  国道153線で、伊那市方面からは信号交差点「坂戸峡」左折、飯田市方面からは信号交差点「中川中学校入口」右折、車約5分の「上伊那郡中川村大草」にある「大草城址」は、南北朝時代「後醍醐天皇(ごだいご てんのう)」(1288/正応元年~1339/延元4年)の第8皇子、南朝方「宗良親王(むねよし しんのう)」(1311/応長元年~1385/元中2年)を迎えて、手厚く守護したという「大河原城」主「香坂高宗(こうさか たかむね)」(生年不詳~1407/応永14年)が、重要拠点として南北朝時代初期に築城したと伝わる城址だ。
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その「大草城」は、1581(天正9)年の織田軍による伊那侵攻後に廃されたというが、現在は地元の熱心な取り組みで、中央アルプスの山なみを背景に、10種以上の桜を眺める景観がつくりあげられている
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ここ「大草城址公園」に、「われらの父祖たちの風雅」を追想し「井月を慕って」、1989(平成元)年に句碑「秋も良面白うなる瓢かな 井月」(あきもややおもしろうなるふくべかな)を建立したという。

井上井月句碑 駒ヶ根市内(伊那森神社 火山峠 駒ヶ池 など)😐😐😐酒食のもてなしを受けて日を暮した同地での井月を偲ぶ句碑

2020-10-20 13:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われ、いたるところで昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活を続けて、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという。
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俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたとも伝えられる。
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「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指していたという。同地の趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたというが、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる俳人だ。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。

 ❖ 「駒ヶ池」句碑  「駒ヶ池」は、中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分の「駒ヶ根高原」にあって、中央アルプス「宝剣岳」や「千畳敷カール」の四季折々の姿を眺めることの出来る観光スポットだ。
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その池の畔に、酒好きで上伊那地方を中心に南信州で放浪生活を送りながら作品を詠んだ「越後」生まれの井月の句碑「鴈かねに忘れぬ空や越の浦 井月」(かりがねにわすれぬそらやこしのうら)が、1987(昭和62)年に建立されている。
 ❖ 「火山峠」句碑  
国道153号「上伊那郡宮田村」の信号交差点「河原町」から車約10分、県道18号線「火山峠」から「駒ヶ根市東伊那」側へ約550メートルの同県道脇に「火山峠芭蕉の松」がある。
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1970(昭和40)年に「駒ヶ根市 史跡名勝天然記念物」の指定を受けた樹齢約400年と言われる赤松で、俳人井月の門人たちが「付近一帯が松茸の産地であることから、芭蕉の句の中よりこの地にちなんだものを選んだ」ということで、「者世越 松茸や志良ぬ木乃葉能遍はり都支」(まつだけやしらぬこのはのへばりつく)の句碑を1869~1870(明治2~3)年に建立して以来、「芭蕉の松」と呼ばれるようになったと言われている。
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芭蕉の句碑があることからこの呼び名がある「火山峠芭蕉の松」だが、その芭蕉の句碑に並んで、「塩原折治(梅関)」筆による井月の辞世「井月終焉の道 闇幾夜毛花能明りや西乃旅 井月」(くらきよもはなのあかりやにしのたび)の句碑が、1987(昭和62)年5月に建立されている。


 ❖ 「伊那森神社」句碑  国道153号「伊南バイパス」信号交差点「古田切」から車約5分の「駒ヶ根市東伊那伊那耕地」にある「伊那森神社」は、1909(明治42)年に「殿村八幡社」「神明社」「富士浅間神社」「天白社」が合祀され「伊那森神社」と改称された神社だ。祭神は、「建御名方命(たけみなかたのみこと)」「大日孁貴(おおひるめのむち/天照皇大神)」「誉田別命(ほんだわけのみこと)」「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」で、9月最終日曜日が例祭日だという。
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御神木ではないが、境内には樹齢約250年の欅があり、市の景観保存樹木第2号に指定された幹回り6.8m高さ34mの見事な姿を見せている。その境内に、句碑「よき酒のある噂なり冬の梅 井月」(よきさけのあるうわさなりふゆのうめ)が、1993(平成5)年春に建立された。

 ❖ 「小鍛冶大橋西」句碑  国道153号「伊南バイパス」の信号交差点「下市場」から車約5分の「駒ヶ根市下平」で、「県道18号伊那生田飯田線」に接続する「天竜川」に架かる橋梁「小鍛冶大橋」西に、句碑「鰷若し橋も小舟もある流れ 井月」(あゆわかしはしもこぶねもあるながれ)が、1989(平成元)年秋に建立されている。

 ❖ 「駒見大橋東」句碑  国道153号「伊南バイパス」信号交差点「古田切」から車約4分、「天竜川」に架かる「駒見大橋」から約650メートルの「駒ヶ根市東伊那伊那耕地」に、1999(平成11)年11月、「駒見大橋の竣工を祝し、この地にゆかりの深い俳人井月の句碑を記念として建立」したという。
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「井上井月」は、同地でも旧家や俳諧の手ほどきをした趣味人の家などから、酒食のもてなしを受け、野宿もする生活を続けて、酒と漂泊を主題に俳句を詠んだ俳人だ。晩年には乞食の風体極まったというが、1886(明治19)年師走に路傍で行き倒れているところを発見され、「塩原折治(梅関)」宅で看病を受けるも、1887(明治20)年3月10日に65歳で没したという。
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野晒しのような終焉にこそ本意があったのかもしれぬ井月の句「舟を呼ぶこゑは流れて揚雲雀 井月」(ふねをよぶこえはながれてあげひばり)が、「中央アルプス」「天竜川」を望む句碑となって佇んでいる。

井上井月句碑 駒ヶ根市内(蔵沢寺 光前寺 桃源院 長春寺)😐😐😐井月を追悼する寺院の句碑

2020-10-17 22:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指した俳人だ。
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1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。「北越」から「江戸」へ、「東海道」で「京」から「大坂」、そして「須磨」に至り、引き返して「伊賀」を経て、「美濃」から「北信濃」を行脚し、1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われる。
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同地では放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという。いたるところで、昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活で、俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたと伝えられる。
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趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたといい、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。

 ❖ 蔵沢寺  「国道153号伊南バイパス」信号交差点「古田切」から車約10分、「駒ヶ根市中沢中割」の「広善山 蔵澤寺(こうぜんざん ぞうたくじ)」は、1394(応永元)年、高見城(駒ヶ根市中沢中割)主の「倉沢但馬守重清」により開基され、はじめ「香華院」と呼ばれたが、1489(延徳元)年に「蔵沢寺」と改称された本尊「廬舎那仏」の曹洞宗寺院だ。
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武田氏により寺門衰頽に追い込まれたが、1599(慶長4)年に「白鳥山 金龍寺(きんりゅうじ)」(愛知県北設楽郡)5世「来円宋擦大和尚」によって再興されたという。1797(寛政9)年建立の「三門」は、表が入り口の反対側という裏向きの建て方になっている。庶民の菩提寺は武家の菩提寺と同じ格式の「三門」を持つことを許されなかったという当時の建築で、心はあくまでも服従せず「鐘楼堂」と称して、「三門」を建てたと伝えられる。
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境内に樹齢300年を超えるという枝垂桜を持つ同寺の境内に、句碑「駒ヶ根に日和定めて稲の花 井月」(こまがねにひよりさだめていねのはな)が、1987(昭和62)年5月に建立された。

 ❖ 桃源院  「国道153号伊南バイパス」信号交差点「古田切」から車約10分、「広善山 蔵澤寺」とは車約5分の「駒ヶ根市中沢本曾倉」にある「白華山桃源院」は、「池康山 泉龍院」(下伊那郡豊丘村)を本山とする本尊「観世音菩薩」の曹洞宗の寺院だ。
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「白華山大通寺」開創の武田信玄の姉が、「桃源院」壇越(だんおつ/開基)となって、1552(天文21)年「久岩存昌大和尚」により開山、その後の武田氏没落による衰頽で両寺は慶長年間(1596~1615)に統合、「白華山桃源院」として現在地に建立されたという。
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境内は里山の中腹で、同寺関係者の生活の営みを感じさせながら佇むが、桜の花が訪れる時期は一層情趣深い。その同寺境内に、句碑「暇乞立ちそこね帰り後れて行乙鳥 柳の家」(いとまごいたちそこねかえりおくれていくつばめ)が、1988(昭和63)年11月に建立された。

 ❖ 光前寺  中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ 」から右折して1.3Km、車約2分の中央アルプス山麓にひろがる本尊「不動明王」の「宝積山 光前寺(ほうしゃくざん こうぜんじ)」(院号「無動院」)は、大伴氏没落と藤原氏の摂関政治確立へとつながった事件で、四大絵巻物と称される国宝「伴大納言絵詞」の題材となった866(貞観8)年「応天門の変」と同時代の860(貞観2)年に、比叡山延暦寺末として開基された天台宗の寺院だ。
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これは、905(延喜5)年奏上の「古今和歌集」や935(承平5)年ごろの成立と考えられている「土佐日記」、あるいは10世紀半ばまでの成立と考えられている「竹取物語」などから遡ること半世紀から1世紀前のことだ。
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遠州府中(現在の静岡県磐田市)における怪物退治を語り継ぐ「早太郎伝説」の古刹でもある同寺に、句碑「降るとまで人には見せて花曇 井月」(ふるとまでひとにはみせてはなぐもり)が、「宝積山光前寺」鐘楼の左手奥に1988(昭和63)年4月に建立された。

 ❖ 長春寺  「国道153号伊南バイパス」信号交差点「琴平町」から車約5分、「駒ヶ根市下平」の「東光山 長春寺(ちょうしゅんじ)」は、本山「比叡山 延暦寺」(京都府)で、本尊「阿弥陀如来」の天台宗の寺院だ。
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鎌倉時代中期に、当時の「赤須城(東光城)」城主「赤須孫三郎為成」が比叡山「横川正覚院学頭俊淵(しゅんえん)僧都」に帰依して開山し、「赤須氏」祖先の名前から寺名にしたとされる。
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1582(天正10)年、織田の兵火で城とともに焼失し、1593(文禄2)年に現在地で再建されたというが、その記念樹として植えられたと伝わる樹齢400年を超える「高野槙」は、幹回り約4m高さ約25m で、2001(平成13)年に市の景観保存樹に指定された見事な姿を見せている。同寺では享保年間(1716~1736)建立の「三門」が最古の建物だが、2012(平成24)年11月に改築工事が完成した。
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住職不在の数十年を経て現在に至っているというが、地方の鄙なる情趣を感じさせる寺院の「三門」脇に、句碑「ほととぎす旅なれ衣脱日かな 井月」(ほととぎすたびなれころもぬぐひかな)が、2006(平成18)年9月に建立された。

井上井月句碑 伊那市内(伊那橋 春近大橋 蟻塚城跡 ほか)😐😐😐地域の人々のカルチャーを高める井月の句と書

2020-10-16 14:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指した俳人だ。
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1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。「北越」から「江戸」へ、「東海道」で「京」から「大坂」、そして「須磨」に至り、引き返して「伊賀」を経て、「美濃」から「北信濃」を行脚し、1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われる。
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同地では放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという。いたるところで、昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活で、俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたと伝えられる。
◇ ◇ ◇
趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたといい、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。
 ❖ 「伊那橋 控柱(袖柱)」句碑  国道153号線(旧道)の「伊那橋」控柱(袖柱)には、1939(昭和14)年5月3日、傾倒する井月墓参を目的に「伊那町」(現在の「伊那市」)を訪れた山頭火の「あの水この水の天龍となる水音 山頭火」(あのみずこのみずのてんりゅうとなるみずおと)の句碑が建つが、向かい合って「柳から出て行舟の早さかな 井月」(やなぎからでていくふねのはやさかな)が、2000(平成12)年7月に建立された。



 ❖ 「春近大橋 控柱(袖柱)」句碑  「県道209号沢渡高遠線」の「天竜川」に架かる「春近大橋」は、西側で国道153号とつながる長さ300メートル、幅員8メートルの橋梁だ。1991(平成3)年3月竣工のその「春近大橋」控柱(袖柱)には、井月の句がプレートになって埋め込まれる。
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「西春近側」は、向かって右「西南親柱」に「春風に待つ間程なき白帆かな 井月」(はるかぜにまつまほどなきしらほかな)、向かって左「西北親柱」に「礎は亀よはしらは鶴の脛 井月」(いしずえはかめよはしらはつるのはぎ)が選ばれている。
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「東春近」側は、向かって右「東北親柱」に「降りかくす麓や雪の暮さかい 井月」(ふりかくすふもとやゆきのくらさかい)、向かって左「東南親柱」に「暮遅き鐘のひゞきや村渡し 井月」(くれおそきかねのひびきやむらわたし)が選ばれている。

 ❖ 「蟻塚城跡」句碑  「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分にある「蟻塚城跡」は、「伊那市美篶笠原」にあって、築城時の原形が残る中世の山城跡だ。別名「中の城」ともいわれるこの城は、笠原集落東北の里山に全長約230メートル、標高差約40メートル、面積約4ヘクタールに広がり、各郭の間には空堀が巡らされる七段の雛壇式で、標高840メートルに至る山城という。詳細ははっきりしないが、室町時代はじめの14世紀前半、この地域を治めていた豪族の笠原氏によって築城されたといわれる。
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1952(昭和27)年、「二の郭」に「御射山社里宮」が建立されたが、その「御射山社里宮」右手裏に、井月の句碑「山桜古城の跡のあらしかな 霞むべき山は放れて夏木立 井月」(やまざくらこじょうのあとのあらしかな かすむべきやまははなれてなつこだち)が建つ。2014(平成26)年6月に建立された句碑の碑陰記には、「蟻塚城跡の風情に相応しい二句を選び 霞句は井月の真筆 山桜句は真筆が見当たらないので向山修氏が井月書から字を選び句に整えた」と記されている。

 ❖ 「竹林苑庚申窪」句碑  「国道153号」信号交差点「(伊那)市役所入口」から車約3分、「伊那市西春近上島」の「県道146号線南箕輪沢渡線」脇「竹林苑庚申窪」碑の西側に、「竹風子の勉励を」の前書があって、「昼夜を分かたず働き続ける水車のような勤勉を称えたもの」とされる「明安き夜を日に継や水車 井月」(あけやすきよをひにつぐやみずぐるま)の句碑が、2010(平成22)年10月に建立された。

 ❖ 「鉄人公園」句碑  「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分、「伊那市手良沢岡」の「県道207号美篶箕輪線」ロードサイド「下手良公民館」隣接の「鉄人公園」に、句碑「鬼灯を上手に鳴らす靨かな 井月」(ほおずきをじょうずにならすえくぼかな)が、井月没後120年を記念して、2007(平成19)年11月に建立された。
 ❖ 「御園」句碑  「国道153号」信号交差点「水神橋西」から車約2分、「伊那市御園」の「県道87号伊那インター線」ロードサイド「ラーメン大学伊那インター店」前に、句碑「子供にはまたげぬ川や飛ぶ螢 井月」(こどもにはまたげぬかわやとぶほたる)が、2010(平成22)年5月に建立された。

 ❖ 「かんてんぱぱガーデン」句碑  「国道153号」信号交差点「春近大橋西」から車約5分、「伊那西部広域農道」ロードサイドで「伊那市西春近木裏原」にある寒天メーカー「伊那食品工業㈱」の本社と工場周辺には、新緑や紅葉と山野草の庭園「かんてんぱぱガーデン」が広がる。その庭園に句碑「銭取らぬ水からくりや心太 井月」(ぜにとらぬみずからくりやところてん)が、2000(平成12)年4月に建立された。

井上井月句碑 伊那市内(清水庵 吉祥寺 龍勝寺 金鳳寺 ほか)😐😐😐井月に縁故ある寺院に建立される句碑

2020-10-14 09:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって芭蕉の再評価を目指した俳人だ。
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1822(文政5)年に越後長岡藩で生まれ、1858(安政5)年忽然と「伊那谷」に姿を現して以来、同地で放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたが、その風体から女性や子どもたちには「乞食井月」と忌み嫌われていたという。一方、趣味人の男性たちの中には師事する者もいたといい、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。

 ❖ 「清水庵」句碑  「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分にある「清水庵」は、井月が1876(明治9)年3月に十余日滞在し、自ら句選清書した句額を本堂に残している曹洞宗の寺院だ。その最後に選者として詠んだ句「旅人の我も数なり花ざかり 井月」(たびびとのわれもかずなりはなざかり)の「心中を偲んで其事績を後世に伝えよう」と、1971(昭和46)年5月に句碑が建立されたという。
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里山中腹の鄙なる寺院「清水庵」は、はじめ現在地より約300メートル離れた「古清水」にあって「大幅山養泰寺」と称したが、1582(天正10)年に織田氏の兵火にあって焼失、1616(天和2)年現在地に堂を再建し「大洞山 清水庵(だいどうざん きよみずあん)」に改称したという。
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本尊は、60年に一度の開帳に限られる(前回1978年 次回2038年予定)秘仏「観世音菩薩」で、「京都清水寺」「播磨清水寺」の本尊と一木から彫刻された三尊像の一つとの言い伝えがあり、ほかに「十六羅漢」「地蔵菩薩」「毘沙門天」「三十三体観音」に加えて「隠れ切支丹石仏」があるが、かつて信濃飯田城主だった「京極高知(きょうごくたかとも)」(1572/元亀3年~1622/元和8年8月12日)自身も切支丹で、支配地にキリスト教布教を許可していたことがその由来だという。
 ❖ 「吉祥寺」句碑  「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約3分、「伊那市美篶笠原馬場」にある里山中腹の曹洞宗「吉祥寺(きちじょうじ)」に、句碑「照返すもみぢ気高き時雨かな 井月」(てりかえすもみぢけだかきしぐれかな)が、2010(平成22)年4月に建立されている。

 ❖ 「龍勝寺」句碑  国道153号 信号交差点「(伊那)市役所入口」から車約45分、JRバス関東の場合は高遠線「高遠駅」乗換、長谷循環線「西勝間バス停」で下車して徒歩約1時間半、市井と隔絶した森閑たる「雲居山 龍勝寺(うんござん りゅうしょうじ)」は、本尊「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」で、末寺が上伊那郡内に十六ヵ寺あるという曹洞宗の寺院だ。
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1887(明治20)年2月16日、66歳で没したと伝えられる井月について、ここ龍勝寺過去帳に「発句師塩翁斎柳家井月居士 二月十五日 井上勝蔵 六十五年」とあるという。1990(平成2)年9月に建立された句碑「何処やらに寉の声きく霞かな 井月」(どこやらにたずのこえきくかすみかな)の筆跡は、臨終にあたって六波羅霞松の求めに応じた絶筆とされるが、はじめ1940(昭和15)年3月に美篶小学校裏(美篶太田窪)の路辺に建立され、1967(昭和42)年「六道の堤」に移された井月はじめての本格的句碑といわれる句碑に重なる。
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なお、両大本山として「大本山 永平寺(えいへいじ)」(「福井県吉田郡永平寺町」)「大本山 總持寺(そうじじ)」(「神奈川県横浜市」)を仰ぐ「龍勝寺」の由緒は、1334(建武元)年「播磨守赤松則村入道圓心(はりまのかみ あかまつ のりむら にゅうどう えんしん)」が隠遁行脚のなかで現在地に草庵を結んだのがはじまりで、圓心子孫「東岩正丘和尚(とうがん しょうきゅう おしょう)」が「雪窓一純大和尚(せっそう いちじゅん だいおしょう)」を勧請し、開山したと伝えられている。
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その後火災や裏山崩落などが重なったが、1996(平成8)年「位牌堂」新築で、ほぼ現在の寺観になったという。なお「西勝間」からは、車1台がようやく通行できる道路を、慎重に約15分ほど進まねばならないので、林道の運転経験がなければ、他の手段を選ぶ方がよいかもしれない。

 ❖ 「金鳳寺」句碑  国道153号 信号交差点「(伊那)市役所入口」から車約15分、「伊那市富県北福地」にある里山中腹の曹洞宗「萬年山 金鳳寺(きんぽうじ)」への参道脇に、句碑「人の日や釜にこころの移る朝 井月」(ひとのひやかまにこころのうつるあさ)が、1994(平成6)年1月に建立されている。
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本尊「聖観世音菩薩」の「金鳳寺」は、「駿河の国」現在の「静岡県浜松市天竜区二俣町阿蔵」にある「阿蔵山 玖延寺(きゅうえんじ)」の「天宗元康大和尚」によって、1470(文明2)年に開山されたという。
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また、「県道18号伊那生田飯田線」からの参道の中間で石垣の上には石仏群があり、本堂への石段の最上段右には、夫を亡くして悲嘆に暮れた「上原於三」が、七昼夜その上に座って悟りを開いたと言い伝えられる「於三の坐禅石」がある。
 ❖ 「法正寺」句碑  「伊那西部広域農道」信号交差点「諏訪形」から車約2分の「神守山 法正寺(ほうしょうじ)」は、「阿弥陀如来(無量寿如来)」を本尊とし、「峰山寺」(伊那市高遠町)が本山の曹洞宗の寺院だ。1561(承応3)年開山の同寺参道の櫟は樹齢400年を超えていると言われ、積み重なった時間の重さを感じさせられる。
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酒と放浪の俳人「井上井月」が、かつて同寺に立ち寄って句を詠んだと伝えられており、境内には辞世「闇き夜も花の明りや西の旅」(くらきよもはなのあかりやにしのたび)の句碑が、1992(平成4)年4月に建立されている。