ぶらぶらと 山旅、海旅、里の旅

いつまでも、どこまでも、あてもなく、はてもなく

坊主岩屋(播隆窟)

2010年11月08日 02時14分57秒 | 山旅
ヒュッテ大槍の分岐からほんの少し登ると、有名な播隆窟がある。播隆上人をネットで検索すると色々出てくる。
「播隆上人は、立禅和尚の紹介により、信濃国小倉村(現安曇野市三郷小倉)の中田又重を道案内人として、安曇平から小倉村の鍋冠山・大滝山・蝶ヶ岳を経て、槍ヶ岳を目指しました。
 1回目の槍ヶ岳登山では山頂までは登らなかったものの、山頂へ登れることに確信を持ち、山頂に仏像を安置するため、美濃・尾張・三河・山城・若狭等の各国を巡錫して、浄財を勧募し、また信者に対し布教伝道していきました。
 各地での浄財をもとにして、大坂で仏像を(阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩)を造り、この仏像を奉持して、再び信州へと入りました。そして、中田又重とともに再び槍ヶ岳へと登り、待望の槍ヶ岳初登頂に成功し、山頂にこの仏像を安置して、槍ヶ岳開山を成し遂げられました。時に文政11年(1828)7月20日、播隆上人数え年43歳のことであったといわれております(2回目の槍ヶ岳登山にして、槍ヶ岳初登頂、槍ヶ岳開山)。
 播播隆上人は岩窟(現在、山頂直下にある播隆窟とされる)に入って参籠し、晴天の日などは山頂に登って、そこで一心不乱に念仏を唱えるなど、四十八日間の別時念仏も行い、無事下山して、小倉村へと帰りました。
拡大する  天保4年(1833)8月には、3回目の槍ヶ岳登山を行い、槍ヶ岳までの山道を切り開いて、登山のための道を整備し、翌天保5年(1834)6月18日に4回目となる槍ヶ岳登山をし、53日間滞在し、別時念仏を行うとともに、諸人が槍ヶ岳山頂に登るための安全を図り、山頂付近に藁縄などで作った「善の綱」と呼ばれる綱を設置しました。そして、8月12日に下山しました。
 天保6年(1835)6月24日、5回目となる槍ヶ岳登山を行いました。この時、前年に設置した「善の綱」が傷んでいることを確認し、鉄の鎖に架け替えることを発願されました。
 翌天保7年(1836)には浄財を募り、鉄鎖で作られた、新しい「善の綱」が出来上がりますが、天保の飢饉のため、松本藩に差し押さえられてしまいました。
 ようやく槍ヶ岳への鉄鎖取り付けが許可されたのは、それから4年後の天保11年(1840)のことで、8月頃、信者らによって槍ヶ岳山頂に、鉄鎖で作られた「善の綱」が設置され、播隆上人の発願されたことが、ついに大願成就しました。
 しかし、それに先立つ7月に播隆上人は病のために、玄向寺で伏しており、その病床でこの朗報を聞きました
 その後、播隆上人は9月6日に玄向寺を発ち、各地をまわって、念仏講を行ったり、鉄鎖を架ける際にお世話になった方々に御礼を述べたりしながら、美濃揖斐村の阿弥陀堂に向かいましたが、途中病気が悪化し、中山道太田宿にて往生されました。時に天保11年(1840)10月21日、行年は数え年55歳でした。
 播隆上人は、全5回槍ヶ岳へと登りましたが、ただ槍ヶ岳を初登頂しただけに留まらず、諸人が登山して、そこで念仏をお唱えすることができるようにと、槍ヶ岳へ至る道を整備し、山頂付近の険しい箇所には綱を架けるなど、誰もが安全に登山できるように努められたので、「槍ヶ岳開山」と称されています。」(宗教法人玄向寺Web引用)
すごいお坊さんだ、とただただ感心するばかり。まだまだ、幽霊や妖怪の存在が信じられていたような昔にこんなところで一人で40日も50日もビバークするなど、尋常じゃないよな。
しかし、感心したのは家に帰って調べてからのこと。実際ここへ着いた時には、すでにへばっていて、説明のプレートすら、チラ見するだけでたいして読まない。先に見える槍に向かってただひたすらエッチラ、オッチラ・・・ほとんど素通りである。
(2010年9月北アルプスぶらり)

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