とろとろしたブログ

なんとなくとろとろとしたゲームヲタクが最近のニュース等を取り上げ、
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真珠湾攻撃:日本の戦後は終わっていない

2006年12月09日 | 国内問題
12月8日付・編集手帳・・・読売新聞
 武者小路実篤は筋金入りの平和主義者として、大の軍人嫌いとして知られた。その人が「十二月八日は大した日だった」「勝利はよき哉(かな)」と随筆に書いている◆65年前のその日、世を覆った高揚感がいかほどであったかは、当時の空気を吸い、当時を生きた人でなければ、肌で分からないのだろう。今年も日米開戦の日が巡ってきた◆時折、不思議に思うことがある。戦争を肯定した、戦争に協力したとして戦時中の言動をとがめられた文学者には情の深い、大衆のことを親身に案じてきた人が少なくない。武者小路しかり、林芙美子しかり、菊池寛しかりである◆戦後、公職追放になったとき、菊池は憤りをこめて語った。「僕はこんな戦争に賛成ではなかったが、始まった以上は、全力を尽くして負けないように努めたのは当たり前だし、誇りに思っている」と◆人は誰しも、情の深い人はなおさら、戦地にいる兵隊さんの力になりたいと思う。戦争は雪の玉に似ていよう。最初に雪を丸めたのが無謀で乱暴な軍部であったとしても、いったん転がりだせば、平和を愛する人、良識ある人をも巻き込んで大きくなっていく◆だから転がしてはいけない、始めてはいけないのが戦争だろう。8月15日の終戦記念日と同じように、それ以上に、「不戦の誓い」の重さをかみしめる日である。
(2006年12月8日1時51分 読売新聞)

 今でも日本を縛り付けているあの日米開戦の始まりとなった真珠湾攻撃から65年が経過したのですね。アメリカからすればパールハーバーは12月7日となっており、9・11テロと並んでの屈辱の日とされています。そんな運命の12月8日に私は徹夜作業だったわけでして(笑)、眠い目を擦りながら思ったわけです。当時の帝国海軍を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官は真珠湾攻撃を起案した作戦参謀黒島亀人の作戦に基づいて指揮を執ったわけですが、彼は強烈な”日米開戦反対派”であり、机上演習でもアメリカには勝てないと国内で言及し続けていた訳です。そんな彼はこの日の朝の心境とはいかほどであったのかと。

 あの戦争は政治家も軍部もメディアも国民も、日本人全てが望んで突き進んでいったものであったことを忘れてはならない訳です。国民は騙されただけだ、こういった言葉が今でもどこぞの反戦家には聞かれるわけですが、全くもってとんでもない。この読売新聞の手記からもそれが伺われますね。小説家であり、当時従軍記者でもあった山岡荘八氏は「小説太平洋戦争」の中で、戦前は熱烈な戦争支持者だった者が、戦後になると似非平和主義者に転じることも少なくなかったような旨のことを書いています。うーん、分かりやすく言いますと、典型例は朝日新聞でしょうか。正確にはかの新聞社はもうちょっと粘ってますが。

 ではなぜあの戦争が起きたのか。底の浅い言い方をすれば軍部や政治家が馬鹿だったからだと評す見方が多くあります。そう言い切るのは簡単ですが、それでは歴史を我々は省みることが出来ません。当時の陸海軍の上層部はエリートばかりでした。そのエリート達は成績の良い順番に中央の参謀本部、軍令部などに配属されていった訳です。知識、知能でいえば我々のほうがよっぽど馬鹿です。しかし、上記のような成績順から始まり、年功序列を守る組織体制、それを頑なに守ろうとする時に起こる硬直化、和を重んじすぎたために責任が曖昧となった体質、方針転換を図る為のリーダーシップも取れない制度、調べれば調べるほど考えなければいけないことは沢山生まれると同時に、今の日本に足りないものが多々課題として出てくるのです。

 にも関わらず平和主義をむやみに唱える人間に限ってこういった課題に見向きもしません。いや、むしろ無かったかの如く振る舞い、そして日本が行うべきフィードバックが軍事から目を逸らすことであるかのごとく言及しつづけるわけです。そんな悪しき例えをあげれば東京大空襲、硫黄島が米軍の手に陥落したため、東京は火の海となり、多数の日本人死傷者が出るわけです。これは日本が空襲を受けた際の国民の取るべき行動をきちんと決めていなかったためとも言われているのです。そして今でもそれに関する明確な取り決めが行われていません。全くフィードバックされていないんですね。

 12月8日という日は終戦日と同じくらい大切な日であり、こうした正しいフィードバックが行われない限り、日本の戦後は終わらないのではないかと考えてしまうのです。個人的には石破さん辺り超党派が”防衛基本法”でも作ってくれないかなと期待してたりしてますがどうでしょうか。


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