YouTubeで「荷車の歌」を見た。
昭和31年に発表された「荷車の歌」は、農村婦人の間で異常な反響を巻き起こし、
やがては全国の農協婦人部320万人の10円カンパから製作資金を生み出して映画化されたというものです。
主人公の女性の苦労に共感を覚えた女性が多かったのでしょね。
配役は望月優子(セキ)、三国連太郎(茂市)、岸輝子(セキの姑)、左幸子(オト代)、左時枝(オト代の少女時代)ら。
セリフが聞き馴染みのある言葉で、舞台はどこ?と思ったら、
広島県北部の三次だった。
三国さんのご出身は当地ではないかと思ったくらいに、
方言やイントネーションが全く自然に耳に入ってくるのです。
農村版、当時のごく普通の女の一生を描いた作品だ。
大なり小なり、こんな感じではなかっただろうか・・。
《あらすじ》
田畑も持たない家に嫁にはやられん!と、親に反対されるが
親に勘当されながらも茂市のところに来たセキではあったが、
女手一つで炭焼きをして茂市を育てた姑からは暖かく受け入れてはもらえなかった。
茂市は郵便配達の仕事では一生、身上持ちにはなれん、と言って、
いずれは荷車の問屋になるという夢を抱いて荷車引きを始めた。
それで嫁のセキも一緒に荷車を引くことにした。
夜中の12時に布野から荷を引いて三次の町まで行き、
帰りの荷を引いて往復十里を毎日通った。
子どもが生まれても姑に世話を頼んで仕事に出て行かざるを得なかったが、
嫁が気に入らない姑はろくに面倒も見てくれず、家に帰るといつも濡れたオムツのままだった。
子ども連れで仕事にでたくても、茂市に「おっかぁに当てつけになる」と言われるセキ。
茂市は母親には頭が上がらない、今で言うマザコン夫だった。
が、セキも退路を断って茂市のところに来たのだから
姑に虐められようが、耐えて辛抱するしかなかった。
育ちの悪い娘のために巡礼の旅に出た甲斐あってか、
(四国までは行けないので、笠岡の神島八十八か所を巡っていた。)
長女のオト代は元気に育ち、気性も強かったため、オババに散々強く当たられた。
母親想いのオト代はオババの目を盗んで母に焼き餅をあげたのを気付かれ、
雪の日に外の柿の木に括りつけられたがオト代は頑として謝らなかった。
結局オト代のためにも芸者の里子に出すことになった。
オト代を預けたその帰りに茂市に買ってもらった乙女肌(スキンクリーム)を見た姑は怒った。
若い後家の身でそんな物もつけられなかった自分と比べて、
若い夫婦に嫉妬する姑。
姑にいびられながらもずっと耐え、その後もセキは4人の子どもを産み育てた。
茂市夫婦は念願の荷車の問屋を始めて、借金して家も建てた。
その頃から病の床についていた姑、セキは心の底でそれを気味よく思う自分のことを
近所の心の支えになっていた女友達に相談すると、
「相手の身になって姑に仕えたらいい」と諭してくれた。
苦労して育てた一人息子を嫁にとられた姑の気持ちも分かる気もする、
セキは心を入れ替え献身的に看病をすれば、いつしか姑も今までの自分を悔やみ
セキに詫びるのであった。
姑が他界し、
家に戻っていたオト代やほかの子どもたちも成長し
それぞれ家を出て仕事についた。
やがて、鉄道が敷かれ、荷車の時代は終わった。
今度は鉄道の枕木にする木を切り出す仕事を請け負うことになり、
家も活気づいていた。
祭りに帰省してきた家族の団欒のシーンは、セキの嬉しそうな笑顔が印象的で、
これまで忍従してきた甲斐あって訪れた幸福かと思えた。
ところが今度は夫の茂市が隠れて妾を作っていたのだ。
そしてとうとう、行くところがないと言うその女を家に連れて来てしまった。
セキは苦労して建てたこの家から自分が出て行くわけにはいかないと、
またしても妾との同居生活に苦渋を飲んだ。
そして、太平洋戦争が勃発し、二人の息子も召集されていった。
が、次男の三郎は脱腸で徴兵検査を通らず、戻されてきた。
その時、茂市は世間体が悪いと、家にも入れようとせず、妾にまで恥ずかしいとバカにされる。
セキは「こんな時のために、自分が家に残っていてよかった。戦争に行かんでも国に尽くす道はいくらでもあるけぇの」と優しく迎え入れた。
が、厚かましく家に居座り自分をもバカにした物言いをする妾に三郎はキレて、
自分は手術をしてまた戦地に志願して行くと言い、
その妾に「家から出て行け!」と怒鳴り、
安心して戦地に行くためにもこの妾を家から出してくれと茂市に頼んだ。
その時、茂市は何も言えずにそっとその場から逃げるだけだった。
煮え切らない茂市に妾は「行くところもないけぇ、橋の下で乞食にでもなってやるわ!」と、自分で出て行った。
その後、三郎は沖縄で戦死、次女は広島で原爆に遭い安否も分からずじまいとなる。
終戦となったが長男はいまだ復員してこず、
農地解放で田畑は自分のものになった。
年老いた二人で代掻きをしていて、茂市は倒れた。
今わの際に「セキよ、長い間ワシみたいなもんに、よう辛抱して添い遂げてくれたのぉ」と礼を言い、
喀血を繰り返して、家族に看守られ茂市は亡くなった。
広島に娘を探しに行った時に被爆したものと思われる。
茂市の葬儀も終わり、皆で笹餅を作って爺さんに供えようと、
薪と熊笹を取りに孫たちと荷車を引いて行く先に、、
復員姿の長男虎男が手を振っていた。 ーENDー
何もかも当たり前にある現代は現代で、違う生きにくさもあるかもしれないが、
人権も何もないこの時代から見たら、何を言ってるのか…と思う。