水無月より

つれづれなるままにブログというものを書き綴ってみます。

浦上天主堂で祈る人々

2010-08-09 14:30:10 | ニュース
浦上天主堂で祈る人々=長崎原爆忌


長崎は9日、65回目の原爆の日を迎えた。爆心地に近い平和公園で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、被爆者や遺族らが参列し、原爆死没者の冥福を祈る。写真は浦上天主堂で早朝から祈りをささげる人たち 【時事通信社】


浦上天主堂
1945年(昭和20年)
8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。

1958年(昭和33年)
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。


※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の長崎司教・山口愛次郎は、『天主堂の立地には、江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』という意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
当時の長崎市長・田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。
ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。(Wikipediaより)


原爆ドームのように、後世に残さなかったことは、とても残念に思いました。以前TVの特集番組で、教会のあのような無残な姿を全世界のキリスト教徒に見せたくなかったアメリカの思惑で撤去されたのではと語っていました。田川市長の選択は、絶対間違っていたと思います。



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