弥右衛門の暇つぶし

写真、動画での旅行記、ビックリ仰天記事など。

トロントの釣り師ジミー狩野さん

2019-02-27 22:53:27 | 世界のビックリニューズ

宮城県出身ですでにカナダ、オンタリオ州トロント市に50年近く住まわれている狩野さんは知る人ぞ知る釣り名人である。 ジミーさんは数年前に50ポンドを超す”マスキー“をセントローレンス河ガナノクエで仕留めている。 この数年間、現在まで、このジミーさんの記録はおそらく破られていないと記憶する。もちろん、それは彼の釣り人生の中での最大のトロフィーだろう。 と言うのも、この魚、通称マスキー”Muskellunge”はカワカマスの一種で死ぬまで貪欲に捕食し、巨大化する。 これまでの記録では体長が2メートをこえ、体重も110ポンド、約50キロの大物がミシガン湖で釣れたとある。 マスキーは口に鈎がかかったと知るとたちまち水しぶきをたてて大飛躍し、渾身の力をふるってファイトする。しかし大食漢だが大変用心深く、気まぐれで、マスキーは釣りにくい魚であること、釣り師は誰でもみとめている。 なので、20ポンド物がつれたら一週間ぶっつずけで祝杯しろなどといわれているぐらいだ。 釣り師の間では一生に一度はこのマスキーの大物を仕留めたいと誰もが夢見るのだ。

その昔、開高 健氏がやはりこのマスキー釣りにオンタリオ州のヒュウロン湖のジョウジアンベイ、セントローレンス河のガナノクエ、そしてオタワのリドゥ運河で2週間の間挑戦した。 そしてついに首都、オタワの、それも近代都市の中を流れる運河でついに念願のマスキーを仕留める。 その時のことを”オタワの奇跡“として詳しく著書、写真集”もっと遠く!“の中で書いている。 その時仕留めたマスキーは約30ポンド、氏はキャッチ・アンド・リリース、釣った魚は放流する主義だったが、この時ばかりはこれをまげて、この魚を持ち帰り剥製にして、長く書斎の壁に飾ったとある。 余談だが、湘南の茅ヶ崎の氏の邸宅は開高さん没後、市民団体の方が管理され、一般に公開されており、この書斎のマスキー剥製を見たことがあるが、開高さんのこの
マスキー釣りについての思い入りを垣間見たような気がした。

私もトロント滞在時には何度かジミーさんの釣りに同行させてもらった。 Credit Riverのサーモン釣り、オンタリオ湖から産卵のため遡上してくる陸封のキングサーモンなみの巨大な鮭科の魚がいる、Ganaraska Riverのレイボウトラウト、通称スチールヘッド、Lake Cimcoでのアイスフイッシングなどだ。 みんな楽しい経験であったが、なかでもLake Cimcoでのアイスフイッシング、結氷した湖上での釣りは良い思い出だ。 夕暮れ前に湖に着き、生餌のスメルト(日本のクチボソ)を用意する。 その後、あらかじめ予約してあった釣り船屋にお目当ての“ハット”釣り小屋に雪上車で運んでもらう。小屋は約一坪弱の大きさで、両サイドにベンチのような椅子があり、床の中央が40センチx80センチぐらい切れていて、そのまま氷結した湖面も同様に切り開いてある。 この穴から釣り糸を垂らして手釣りをするのだが、釣り糸は天秤のような装置に置いてあたりを待つ。 室内はカーバイトのランプが明かりと暖房を兼ねる(チョット古いけど)。 もちろん換気窓もある。 ここで一晩中釣りをするのだが、ジミーさんがおでんや食料とワンカップ大関を用意してくれて、それを食べながら、飲みながら、だべりながら、寝そべりながらアタリをまつ。 狙いは“レイクトラウト”、気温が低い所に生息する魚でイワナと同類の魚だ。 夏は気温の低い湖底にいるので釣れないが、冬になると中上層を回遊する。 これを撒き餌のスメルトをまいて誘うのだが、このスメルトは生きたままコップに入れシェイクする。 それを湖面にまくとスメルトは目を回しているので一直線に下にもぐっていく、そして中層に至り、トラウトを誘うとユウ訳だ。 この晩はあいにくお目当てのトラウトは来なかったがホワイトフイッシュが釣れた。 白身の魚で、ジミーさんがその場でさばいてくれて刺身で食べた。 サッパリして美味だっ
た。

それにしてもカナダの魚はデカイ。 そして何処へ行っても文明と野生がうまく住み分けられている。 開高さんもまさかマスキーが都会の真ん中の、それも運河で釣れるとは思わなかっただろう。 

この記事は数年前に他のサイトに投稿したものを再投稿しました。



笠間の誇る画家、田中嘉三記念館

2019-02-22 22:03:32 | 旅行
笠間の誇る画家、田中嘉三記念館

春節を迎え、少し春めいて来たので、ぷらっと秋葉原から”やきものライナー”に乗って茨城県笠間市まで行ってきました。巷では茨城県には見どころが無いと言う方々が多いのですが、これは間違い、水戸市を始め隠れた名所が沢山あります。ここ笠間も地味ですが隠れた名所が沢山、”笠間芸術の森公園”、”茨城県陶芸美術館”、”笠間日動美術館”、笠間稲荷神社”中でも芸術の村にある田中嘉三記念館は知る人ぞ知る美術館です。
田中嘉三は明治42年笠間に生まれ58歳で生涯を閉じるまで、ここ笠間で画家として一生を過ごしました。この記念館は嘉三が生涯を閉じるまぎわに、長男真一に渡したスケッチブックに書き残した”今すこし命をください”この言葉に触発された残された家族が協力、苦節11年をかけて建てた記念館だそうです。展示されている日本美術院入賞作品を始め数々の感銘深い作品がありますが、嘉三の妻、ミツの記念館建造についての手記にも心打たれました。

展示作品の中で特にこの“唐招提寺講堂”が印象的でした。

ここ芸術の村には”春風萬里荘”、北大路魯山人のかっての住居を鎌倉から移設し、手製の道具その他の品物を展示している館も見ものです。
笠間日動美術館を竹藪うまく配した静かなたたずまいで、彫刻が数多く展示されてます。

この日動美術館の隣りが有名な笠間稲荷神社で、ここはさすがに人出が多く参道にはお土産や並んでました。
笠間駅前の観光案内所で電動自転車を借り、一日かけてそこかしこ観て回り、昼は自然薯入りのそばを食べ、これはうまいです。

帰りも”やきものライナー”を使いましたが、高速道路が渋滞するため三郷ジャンクションの先の八潮インターで、降ろしてくれて筑波エクスプレスに乗り継ぎが出来ます。余分な料金はわずか100円で秋葉原駅まで乗れます。茨城交通バスの粋な計らいです。これで30分以上早く到着しました。
この田中嘉三記念館はNHKの旅プログラム”小さな旅”で紹介されたこともあるそうですが、文字どうり今回の笠間の訪問は感銘深い小さな旅でした。