vol256.同窓会でヤーコン茶王づくりに協力してくれた友のことを思い出しました

2011年10月27日 | Weblog
大学の同窓会に続き、中学校の同窓会に参加しました。
中学校の同窓生は約150人ですが、最も思い出の詰まった仲間達です。
同窓会は結婚披露宴と同様ほのぼのと温かく、安らぎの一時でもあります。

今回参加してくれた中に、みずほフィナンシャルグループの名誉顧問であり、
元第一勧業銀行の頭取であった近藤克彦君がいます。
平成7年以来、ヤーコンを日本に広める推進力になってくれた友人です。

彼はヤーコンにかける私の想いを理解し、行内に応援隊を設けてくれました。
健康雑誌社にヤーコンの記事を掲載するよう薦めてくれたり、サンパウロから、
ヤーコン茶を入手してくれたりと、個人では不可能に近いことを手伝ってくれました。

現地のヤーコン茶は商品名を”CHA-YAKON”といい、ヤーコン葉を加工したものでした。
中南米では糖尿病に効果ありとのことで、平成8年の中頃に送ってもらいました。
この時初めてヤーコン葉がお茶になる事を知りました。

日本では平成8年の終わりに全薬工業から、平成9年秋に弊社も販売を開始しました。
近藤君は平成8年からヤーコンジュースの愛飲家でもあり、現在も続けてくれています。
彼なくしてはヤーコン茶の開発も遅れ、弊社にとって彼の存在は絶大のものがあります。

良き友に出会えた偶然を神様に感謝をする毎日です。わが人生はその積み重ねです。
だからこそ、「人生は出会いが全てだ」といい続ける所以でもあります。
百聞は一見にしかず。ヤーコン葉がお茶になった現物を目にした事は大きかったですね。

vol.255 原発事故により、ヤーコン茶原料の産地が問題になっています

2011年10月19日 | Weblog
ヤーコンの産地が福島県の周辺に多い事から、ヤーコン茶原料の産地が問題になってきました。
最近、ヤーコン茶の原料となる乾燥ヤーコン葉の産地の問い合わせが増えてきました。
来週も関東から、バイヤーの方が弊社に来られます。今だったら原料手配は間に合います。

弊社でもこれまで国産とだけ表示をしてきましたが、今後は産地名を入れることになりそうです。
なぜなら放射能の問題は今年だけの問題ではなく、長く尾を引くと考えられるからです。
中にはお茶だけでなく麺にもヤーコン葉を入れているところがあり、芋か葉かの表示も必要です。

折角時間をかけて産地形成を図り、地元の特産品として定着していますのにこの有様。
栃木、茨城、福島、山形、秋田、青森、岩手と産地を廻りましたが、
ヤーコン茶はどこでも売られていました。今後は風評被害を含めて売れなくなることでしょう。

私がいつも大切にしている習慣の一つに「危険を予知し対策を立てる」があります。
既に思考回路が出来上がっていて、交通事故に至るまで危険から遠ざかる事が出来ます。
これもお世話になった元の会社で、危険予知訓練の場で徹底的に鍛えられたお陰です。

「原発は安全で最も安いエネルギーだ。電気料金も一番安い」と私たちは洗脳されてきました。
しかし、結果的には一番高いものとなりました。一度事故を起こせば弁解できません。
ヤーコン事業にとっても他人事ではありません。改めて放射能の深刻さを感じています。

vol.244 ”目標が明確な人は元気である”と同窓会に参加して実感しました

2011年10月14日 | Weblog
大学の同窓会が滋賀県長浜市で開催され参加しました。
28人中15人が出席。
多くの仲間が体調を崩しており、自己紹介は病気の話ばかりでうんざりしました。
今取り組んでいる事、これから取り組みたい事を話したのはごく一部の人でした。

サラリーマン生活を終え、第二の人生を芸術家顔負けで活躍している友がいました。
帰社してすぐに彼のホームページを覗いて見ました。
名前は金谷紘二と言います。
福島県矢祭町に住み、油絵、陶芸、随筆に精出している見事さがそこにありました。

彼とは工学部長宅の6畳2間を襖で隔てた離れで、3年間一緒に過ごした仲です。
当時から絵の才能があり、彼の提案で田舎に無銭旅行をした事がありました。
宿泊の礼に彼の書いたスケッチ絵をあげると自信満々だったことを思い出します。

自分で事業を始めた人、親の事業を継いだ人、写真家を目指している人など、
忙しく歩き回って苦労をしている人は概して元気でした。
来週は又、中学校の同窓会があり、メガバンクの頭取をした友もおり楽しみです。

現在の私も、やるべきことが山ほどあり、病気の方が恐れて近づきません。
なすべき事を決めて立ち向かう人は皆健康であることを確かめる旅でもありました。
皆にヤーコンドットコム、特に社長日記を覗いてくれと頼む事は忘れませんでした。

今回、竹生島を訪れ、宝厳寺に参詣。境内に樹齢400年のモチの木があり、
持ち帰り挿し木しました。
関が原の頃の多くの武将達を見てきた木だとの感慨と、
モチの木を探して鳥モチを作り、
メジロを追っかけた子供の頃を懐かしんでの事でした。