邪馬台国

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2013年02月11日 02時48分01秒 | 日常
2/9朝8時過ぎ、携帯電話への着信。着信元を見ただけで、何があったのかすぐわかりました。
「お父さんだ。おばあちゃんが亡くなった。」
ああ、やっぱり…。詳しいことも聞かずに電話を切り、とりあえず3連休を実家で過ごせる分の着替えを用意して、すぐに家を飛び出しました。



2年前の3月、ばあちゃんは具合が悪くなり、病院へ運ばれました。多臓器不全ということでした。先生曰く、「まともなところを探すのが難しい。生きてるのが不思議なくらい」とのこと。もういつ急変してもおかしくない状況、入院してすぐに一度お見舞いに行きましたが、次にここに来る時には…ということを意識してしまっていました。

しかしやっぱり97歳まで生きてきた精神力の賜物でしょうか、奇跡的に体調を持ち直し、また家に戻ってきたのでした。
時は流れ、昨年9月。親不孝者、祖母不幸者の僕は、あれ以来実家にはずっと帰っていませんでした。"便りがないのはよい便り"ではないですが、母親も家を出てしまっている今、僕が実家に帰るのは何かあった時くらいになってしまっていた。
この時は何で帰ろうと思ったのか?多分「帰りたい」、じゃなくて、「帰らなきゃ」という意識がピークに達したんだと思います。この日はばあちゃんはデイサービスで昼間を過ごしていました。付き添いがないと歩けませんでしたが、寝たきりだった時とは見違えるようでした。

今年1/2、久々に正月に帰省しました。嫁さんの実家で正月を過ごすのが当たり前になってしまっていたこの頃ですが、今年はやっぱり顔を見せないとと思い立ったのです。正月に帰ったのは5年ぶりくらいかな。
ばあちゃんはまた入院していました。病室のばあちゃんは「餅が食べたい、餅が食べたい」と言い、僕が帰る時には「また来いよ」と絞るような声でそう言ったのでした。その声はずっと忘れられません、ばあちゃんの声を聞いたのは結局それが最後だったな。
次は3月だな。暇を見つけて出来るだけ顔を見せないとな。なんとか100まで生きてもらいたいな。今年いっぱいはなんとかなるはずよな。
そう考えていた矢先の出来事でした。



電車を乗り継いで実家に帰ったのは12時前。真っ先に座敷へ。正月に会った時と全く同じで、とても安らかな顔でばあちゃんが眠っていました。
前の晩では普通だったのに、朝になって看護婦さんが検温に訪れたところ、既に意識は無かったとのこと。連絡を受けた父が駆けつけましたが、看取ってやれなかったようです。
先月の胃カメラでガンが見つかっていたとのことですが、直接の死因は老衰ということでした。
99歳、100歳まであと9ヶ月…。


ばあちゃんの5人の子供の中で唯一の男の子、それも長男の一人息子とあって、僕はとにかくばあちゃんに可愛がられました。両親が共働きだったので、毎日保育園に迎えに来てくれるのはばあちゃんだったし、よく面倒を見てもらいました。
母との嫁姑仲が極限的に悪かったことを除けば、本当に最高のばあちゃんでした。色々考えましたが、ばあちゃんに怒られた記憶は一度としてありません。ばあちゃんの押し入れから金を盗んだのがバレた時に未遂になったくらいです。
一番の面白エピソードは、友達と家で燃えプロをやってたのを見た時、本物の野球中継と勘違いしたこと。「あれ、今日はもう野球やってるだかい?」あの言葉は今でも覚えています。


家族の葬儀は今回が初めてです。親族として葬儀に列席するだけでは分からないことばかり経験しました。
昼には農協の葬儀担当がやってきました。祭壇にはこういう盛花を出す、一基17500円、花輪だったり饅頭だったり果物だったり。列席者が何人で香典返しは何にするか、通夜の弁当、告別式の弁当はどうするか、何人食べるか…etc.
もうチャリーンチャリーンって感じです。葬式は金が掛かりますね。全部で300万くらいになりそうです。香典でトントンの皮算用。
喪主や親族代表挨拶の雛形みたいなのも持ってきました。ここに亡くなった時の状況や、故人のエピソードをなんて欄が。何も知らなくても困らないように出来てるんですね。


日付変わって今日2/10は出棺でした。お上人さんの都合で通夜と告別式が2/14、15と間が開いてしまうので、先に火葬という流れになったのです。

姿を見るのが今日で最後と思うと、昨日と違って泣いて泣いてしょうがなかったです。やっと実感が湧いたというか。
ばあちゃんの息子たちも泣いていましたが、父だけは泣いていませんでした。強いな。僕はこの人が泣くところを一生見られないんでしょう。

今日はまだ火葬が一組目だったということで釜が暖まっていなかったらしく、ばあちゃんが骨と化すには1時間くらいかかりました。昔の人にしては太い骨だとみんな口々に言っていました。ズッシリの骨壷に、最後に入れ歯を入れて蓋。
戻ってまたお経を聞き終わったのが16時過ぎ。
喪服から着替えて叔父さん(次男)の車に乗り込んだのが18時半、海老名SAで飯食ってからそのまま降りて帰ってきたのが22時、なんやかんやあって日記を書いているのが現在2時45分。そろそろまぶたが重くなってきました。
多分今週木金の通夜告別式のことは日記に書かないので、今回のことを書くのは多分これが最後です。


最後に。
99歳、あと9ヶ月だったと弔問に来てくれた人が口々に言いましたが、享年は数え年で表すものだそうです。11月生まれのばあちゃんは去年の11月で100歳、年を越して101歳。
101歳まで生きたんだよ。43歳で旦那さんを亡くして、女手一つで5人兄弟を育ててきた。ほんと想像を絶する苦労があったはずだよな。
ほんとお疲れ様でした。