『ロイヤル・アフェア』は5月の末に、『偽りなき者』は先日(6月18日)に、いずれも【京都シネマ】で見てきた。
【 偽りなき者 】
『偽りなき者』は3ヶ月前ほどから予告編が流されるのを見て、スクリーンにかかるのを心待ちにしていた。だから、『マッツ・ミケルセン』のあの特徴ある顔は映画への期待度と共に脳裏に焼き付けられていた。
そこに、たまたま『ロイヤル・アフェア』が上映され、そこに同じ顔が出ていた。王宮にお入り王紀と《禁断の恋》で結ばれる侍医・ストルーエンセ役としてである。
だから、『マッツ・ミケルセン』という俳優の存在とその名前を知ったのもその時が最初である。しかし、頬骨の張ったこの手の顔は、どうも好きになれない。どうしても劇中の人物・キャラクター、ましてや王紀に取り入る役柄に違和感を感じてしまう。まっ、それはどうでもいいことだ。
『ロイヤル・アフェア』は、18世紀末の『絶対王政末期』のデンマークを舞台としている。映画の宣伝コピーの字幕に踊るような《禁断の恋》だの《宮廷内の不倫》とか行ったような《現代的な感覚》では捕らえきれない、その時代特有の背景がある。
能力に関係なく『世襲』しなければならない『王位』と、その周囲に群がる取り巻連中。そんな王が精神的な病を持ち、14歳の他国の王室の娘を妻にめとったらどんなことになるか、《まともな夫婦生活》も、《王室の権威を維持する》ことも難しいことだと想像できるというものだ。-そこに、能力も経験もある侍医が付いたら、さらにどんなことになるのか。
イギリスでもスペインでも形こそ違うとはいえ、王位継承をめぐっていろいろな問題が起こり、それが絶対王政の崩壊の引き金となった事は、絵画の世界でも表現されていて、『怖い絵』などでも紹介されてきた。
史実として、デンマークでもこのような《事件》があったということは興味深かった。
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一方、『偽らざる者』の時代と背景は、現代のとある小さな村である。現在のデンマークは、『世界一、幸福度が高い国』と言われている。(調査によっては「ブータン」が第一位とも)
確かに社会保障は行き届き、医療費、教育費、介護費用は国が保障しているから、最低限度の生活で困っているという話もあまり聞かれない。だからというわけでもないだろうが、日本の中流以下の庶民の感覚・問題意識とちょっと違うようなところがある。
この映画での《事件》は、離婚中で幼稚園に職をえた男(マッツ・ミケルセン)が、園児に性的虐待を与えたという嫌疑で《村八分》になるというものである。虐待を受けたという女の子は、男の親友の娘だが、ものの弾みで事実無根の《ウソ》をついてしまい、様々な要因が重なり『ウソだった』といえなくなり、男を予想もしない不幸に追い込んでしまうことになる。その辺の描写は巧みでうまいと思うのだが、園長や親である《親友》の心の変化の表現が不自然でぎこちない。そんな簡単に、人の心が右に左に変わるものかと思ってしまう。
もっと意外に思うのは、村の人間の《仕打ち》である。これが福祉国家(関係ない?)で、先進国で民主国家での出来事かと疑ってしまう。スーパーに買い物に行っても、討ってくれない。犯罪者かどうか不確かなのに、挙げ句に、暴力を振るわれ店を追い出される。日本では、影で噂こそすれ、そこまでの仕打ちはあからさまにはしない。もしされたら、された方が警察に届けるだろう。実際、デンマークでは《あり得る事》なのだろうか、大きな疑問を感じた。
昨日まで、《カタキ》のように思われた人間が、手のひらを返したように《仲良く》なっているのにも、びっくりする。その辺の表現が実に不自然なのだ。
それで、《最後の銃声》はいったい何なんだ。 制作者・監督は、いったい何を訴えたいのか、全くその主張・意図がわからない映画だった。
『ロイヤル・アフェアー』-公式サイト
『偽りなき者』-公式サイト