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シルクロード――喀什編④

2010-01-11 09:36:12 | シルクロードの旅
エイティガール寺院ほか市内にも見所は多い

イスラムの文化を濃厚に反映したカシュガルは、町のなかを歩くだけでも刺激にあふれている。特に、町の中心にあるエイティガール寺院の周辺は、バザール街であり、ウイグル族の生活のなかにどっぷりとつかるおもしろさに満ちている。中国の町では少なくなったと言われている毛澤東像も人民東路人民公園前に健在だ。市内中心地は歩いても1時間あれば回ることが出来るので、歩くことをお薦めする。また、レンタサイクルを利用するのも便利である。ロバ車は市の中心部は走行禁止になっているので、郊外に行く時に利用するようにしよう。

中国最大のイスラム寺院といわれるエイティガール寺院は、カシュガルのシンボルだ。

寺院の総面積は1万6800㎡。門楼の左右に建つ18mの円筒形の小塔(毎朝、ここから礼拝の呼びかけが行われる)を見ながら12mの門楼を潜ると、広大な敷地のなかに多くの建築物が連なっている。全長160m、奥行き16mの礼拝堂は140本の柱をもち、天井には花草模様があしらわれている。400人の学生が住み96教室をもつ教経堂などの建物もある。

寺院の創設は、1442年ころにカシュガル王が建てた小清真寺がその基で、18世紀後半、旅行中にカシュガルで病死したウイグル女性の遺産によって現在の大寺の基礎がつくられたと伝えられる。1872年にはさらに大修建が行われ、現在の規模になったものだ。

モスクは本来、異教徒の立ち入りを禁止するが、観光名所でもあるここでは礼拝の時間以外に見学ができる。ただし、短パンなどラフな服装は不許可だ。

寺院前の石段にはたくさんのウイグルの人々が腰をかけている。日の出・朝・昼・日没・夜の5回礼拝が行われる寺院のなかの厳粛さとは全く異なる開放的な光景だ。

寺院前の広場は普段でも多くの人で賑わう。路上の床屋、ナンなどの食べ物やさまざまな物を売る屋台などが並び、おなじみのシシカバブーや、ときにはイスラム料理ではないが砂鍋と呼ばれる鍋料理に出会えるかもしれない。少し油濃いスープだが、イスラム料理にあきた旅行者には最適であろう。寺院の周辺の賑わいは、日本でいえば東京の浅草のようなものだろうか。寺院を中心にちょうど浅草の仲見世のような具合に、前を走る解放路を挟んだ両側周辺の路地はバザールとなっている。因みに、バザール(市場)という言葉はペルシャ語が原語で、日本でも、明治時代は「中近東諸国の街頭市場」という限定された意味で使われていた。こんなことからも、歴史的に東側(中国)の世界よりも西側(中央アジア・中近東)の世界の影響を強く受けてきたカシュガルを理解できる気になってくる。民族ナイフ・ウイグル帽・鳥打ち帽・金属食器・新疆シルクや刺繍があざやかなチョッキ、背広の布地、仕立屋、アクセサリーなどの店が所狭しと並んでいる。

繊維類を扱う店が集中する通りはウイグル族女性のファッションのメッカとなっている。また、自分の好みに合わせてその場で加工してくれる貴金属店で品定めをしているイスラム女性に出会ったりする。イスラム女性も金の指輪が大好きなのだ。こうした所を覗いて見るのもおもしろいだろう。総合食料品売り場となっている地下街には、地方色に富んだ品々が並ぶ。


寺院に向かって左の通りをまっすぐに行くと職人街があり、道の両側に、帽子・靴・金属アクセサリー・民族楽器・木工細工・台所用金属製品などの店が並び、それらを製造するトントン・カンカン・コンコンという音が響き、商店が店一杯に並べられ、店によっては通路まで溢れている。通りを歩いていると、いろいろな店から心地よいリズムの音が聞こえてくる。そこには、今なお手作り職人芸にこだわる人々の生活がある。しかし、年々少しずつ変わってきており、今でインドやパキスタンの製品を並べる店もある。

さらに、市街地からホージャ墳に行く途中の吐曼河を渡った付近一帯では日曜バザールが開催されている。ここには、衣類から日常生活用品とあらゆる物がそろっているほか、その一角は農貿市場となっていて、近郊から、野菜や家畜などが集まり大勢の人が集まる。羊を追うための大切な馬も売りに出され、時には走らせて市にかける。まるで、競馬の予行演習みたいである。馬具用品もずらりと並び、大盛況である。

人込みを離れてのんびりしたいと思ったら、毛沢東の前から人民東路を東に400mほど行ったところにある東湖公園がお薦めだ。人造湖だが湧き水に恵まれ、魚釣りをする市民の姿もみられる美しい公園だ。人民東路をさらに東に進んだ左手には絲綢之路博物館がある。シルクロードの歴史をしりたいと思ったら立ち寄ってみよう。

カシュガルでは、子供たちの繰り広げる民族舞踊も見学できる。ウイグル族の子供たちが通う民族幼稚園で、観光客のために行っているものだ。舞踊の見学だけではなく、一緒に踊ったり、保育風景を参観したりもできるので有意義な時間を過ごすことが出来る。ウイグル族の子供たちの愛くるしさとやんちゃぶりはなかなかのものだ。ウイグル族の文化に触れるいい機会なので、ガイドさんや旅行社に手配を相談してみる価値はある。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――喀什編③

2009-12-07 10:49:56 | シルクロードの旅
香妃の悲劇を伝える優美な墳墓

町の北東約5kmに、ホージャ(和卓)墳・香妃墓がある。17世紀初めから18世紀半ばまでカシュガルの宗教・政治の実権を握っていたホージャ一族の墓である。ホージャとは、もともとサーマン朝(874~999年)の官職名だったが、その後、イスラム教の宗教貴族として宗教・政治の実権を握るようになった。カシュガルのホージャの初代は17世紀初めにサマルカンドからカシュガルにやってきたマハドム=イ=アゼム。1640年にアファクが父ユースフ(初代の孫)の墓として建てて以来、ホージャ一族の人々が埋葬された。緑と青のタイルで覆われたドームと色とりどりのタイルを用いた柱をもつ優美なイスラム建築のなかに58の墓があり、72人が埋葬されている。

また、この墳墓は「香妃」と呼ばれた女性の伝説によって、一般的に親しまれている。香水をつけないのに砂棗の花の馥郁とした香りがするのでそう呼ばれた香妃は、アファクの孫ジハーンとその兄ブルハン=ウッディーンの連合軍が清朝の大軍の攻撃を受け敗れた時、北京へ連行され、乾龍帝の妃になることを強要される。その後のことは定かではないが、乾龍帝の意に従わず殺され、遺体はカシュガルに運ばれ、この墓地に葬られたと伝えられている。『香妃恨』という京劇の演し物にもなった香妃伝説によって墳墓は全国的に知られ、香妃墓と呼ばれるようになった。建物の中央のひときわ大きな墓がアファクのもの、右手奥の赤い布をかけたものが香妃の墓である。

ホージャ墳には、このほかに本来の一番古い建物である説教壇、54本の柱がそれぞれ異なった装飾をもつ礼拝所、簡単に礼拝を済ますための早礼所などの建物が木々の間に建っている。礼拝をするための建物の内部は何ひとつ装飾的なものを置かないがらんどうで、それがイスラムの雰囲気を濃く感じさせる。ホージャ墳の塀の外には、ホージャ墳の近くを望む一般のイスラム教徒の広大な墓所もあり、前庭から塀の向こうを覗きみることになるが、こちらもなかなか興味深い。広大な墓所のなかのおびただしいさまざまな規模の墓もまた、イスラムそのものである。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――喀什編②

2009-12-01 12:52:42 | シルクロードの旅
タクラマカン砂漠の西に位置する中国最西端の町カシュガルは、シルクロード西域北道(天山南路)と西域南道が交わるオアシスで、古くから東西交易・交流の要の役割を果たしてきた。旅をする者にとっては大切な停泊地であり、旅を続けるための補給や準備、休息ができる貴重な町だ。そのために、東西の商人が集まり、市場の賑わいがうまれているのだ。東西の民族の十字路の町がカシュガルなのである。

カシュガルの人口は27万人で、ウイグル族が68%、漢族が22%を占め、残りの10%は15の少数民族で構成されている。宗教はイスラム教が主流で、全人口の74%がイスラム教徒だ。面積98k㎡、年間降雨量60~80mmと、日本の一ヵ月にも満たない量だが、天山山脈から流れ出てくる雪解け水により水量は豊富だ。そのために、農業が主要な産業として成り立っている。平均気温は、最も寒い1月でマイナス6.4℃、最も暑い7月で25.8℃と、厳しくはない。―

町にはポプラ並木が続き、ロバ車が行き交い、中近東風の音楽が流れ、ドッパ(刺繍を施した四角い帽子)をかぶり髭をたくわえた男たち、矢がすりの民族模様のワンピースを着た女たち、いまではそれほど多くはないがパルダ(顔を覆う布。チャドル)を被る女たちが行き交い、露天の店ではナンやシシカバブーが売られている。「ここが中国なのだろうか」と思わせる最果ての町(中国最西端の市)だ。

カシュガルが歴史上に登場するのは前漢(紀元前202~後8年)の時。『漢書』の「西域伝」に次のように記されている。

「疏勒国、王は疏勒城に治す。(中略)東は都護治所に至る二千二百一十里、南は莎車に至る五百六十里。市列有り、西は大月氏、大宛、康居の道に当たる也」

疏勒国とは今のカシュガルのこと。市列とはバザールのことだが、カシュガルは2000年前からシルクロードの要衝であり、東西交易の地としてバザールが盛んだったのだ。また、大月氏に行く張騫がここを通り、班超が活躍し、鳩摩羅什が大乗経を学び、玄奘三蔵やマルコ=ポーロが滞在した地でもある。唐代には安西四鎮のひとつであり、「伽藍数百、僧徒万余」(玄奘)といわれるほど仏教も栄えたが、漢民族の支配が弱まるにつれ、10世紀にトルコ人とイスラム教が流入した。このころからカシュガルと呼ばれるようになったという。西域のイスラム化はこの時期に端を発するといわれている。現在、この地に仏教の痕跡がほとんどないのは、イスラム教が、改宗に厳格なことや偶像崇拝を禁じているために仏像などが破壊されたことによるといわれる。

その後、13世紀にチャガタイ汗国に属し、明代にはカシュガル汗国の首都となった。清の疏勒州、中華民国の疏勒県を経て、解放後の1952年には市制が布かれ、以来、南彊地区の中心都市となっている。

現在、開封政策の進展によって、タジキスタンやキルギスなど、あるいは中パ公路を通じてパキスタンとの交易が行われ、かつての「バザール都市」の面目躍如という熱気を復活させている。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――喀什編①

2009-11-27 10:29:08 | シルクロードの旅
漢字で喀什、カタカナでカシュガル

喀什はカーシーと発音する中国語で

カシュガルの前半だけをとった中国式呼称だ

カシュガルはウイグル語で玉の市場などを意味する

古くから東西交流の拠点として栄え

それゆえに主流のウイグル族と漢族のほか

居住している少数民族は15を数える

東と西の社会のせめぎあいの中で生きてきた町だ


参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編③

2009-11-23 09:31:34 | シルクロードの旅
砂漠に点在する仏教遺跡の数々

郊外に目を転じてみると、数々の遺跡が点在する。いずれも砂漠の中に立つものだけれど、この地域の長い歴史を体現する史跡として興味深く感じられるはずだ。

まず訪れてみたいのが、キジル千仏洞だ。クチャからは西北に約70kmほど行った拜城県にある石窟。ムザルト河北岸の断崖にあり、その長さは延々2kmにもおよぶ。新疆でも最大規模の石窟とされる大きさだ。

現在230余りの石窟が確認されていて、仏殿と僧坊で構成される。この中で最大の見どころとなるのは第38窟で、一般には楽舞洞の名で知られている。入口の壁の上には弥勒菩薩が描かれ、天宮伎楽図(4世紀頃の作)がある。伎楽天の持っている楽器は、弓型ハープ・五弦琵琶・横笛・ひちりき・阮咸などで、日本の雅楽のルーツともいわれている。

特に興味深く感じられるのは琵琶で、琵琶の起原はペルシア・アラビアとされ、やがてインド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来した。シルクロードを伝わってきた楽器を始めとして、さまざまな文化の源流をさかのぼることができるものとして注目されている。

そもそも亀茲国が名高い理由の一つに、亀茲音楽がある。この亀茲音楽は現在もウイグルに引き継がれて今日までのこっているが、クチャに残る遺跡の数々は、当時の繁栄を偲ばせてくれるもの。

この他、仏教経典に関わる故事や人物・山水・動物など、さまざまな種類の壁画が精巧に描かれている。このため多くの調査団が現地でさまざまな発掘調査を行うなど、キジル千仏洞の石窟は専門家から注目されているほど。

クチャの西南、約30kmのところにあるのは、クムトラ千仏洞だ。その昔、玄奘が立ち寄り講演を行ったという場もあるクムトラ千仏洞は、ムザト川の渓谷の東側に位置する。これまでの発掘により、全部で112の石窟が明らかになっているが、石窟には月神、風神などが描かれていて興味深い。また珍しい亀茲文字も見ることができる。

クチャの北方にあるのは、クズルガハ烽火台。砂漠の中の小高い丘の上に立つ土の塔で、漢の時代に造られた狼煙台だ。高さ16mで、上には望楼がある。その昔、約15kmおきに狼煙台が造られ、急を告げる場合にはここから狼煙台が上げられたという。

クズルガハ烽火台の近くには、クズルガハ千仏洞がある。唐の時代に造られたもので、仏殿と僧坊の石窟が確認されているが、なかでも僧坊が多いのがこの石窟の大きな特徴だ。

クチャからほぼ北に車で40分ほど行ったところにあるのは、スバシ故城だ。クチャ川の東西両岸にまたがって造られたもので、新疆最大規模の寺院遺跡として注目を集めている。

創建されたのは3世紀頃とされ、玄奘が各地の仏教の状況のほか文化・風俗などを書き記したインド・中央アジア旅行見聞録の『大唐西域記』には、「川の東、西には二つ伽藍あり昭怙厘と称す。東昭怙厘仏堂中には玉石あり、黄白帯びた海蛤である。また仏の足跡もあり、長さ八寸、広さ六寸・・・・・・」と記載されているが、この記述がスバシ故城ではないかと言われている。

ここからは貨幣や壁画・仏像・銅・鉄・陶器・木器なども出土し、仏塔や千仏洞の跡や壁画なども残り、当時の繁栄ぶりと仏教の広がりを物語っている。

このほかに、クルクダグ山の麓に、センムイム石窟がある。谷川に沿って彫られた石窟で、周囲には寺院や建物跡も残されている。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編②

2009-11-16 12:39:18 | シルクロードの旅
モスクやバザールでイスラム文化に触れる

クチャ市内での主な見どころとなるものに、クチャ大寺がある。この寺は、明代末期から清代初めにかけて創建されたイスラム教寺院で、この地域で最大規模となる。

もしクチャ滞在中に曜日がうまく合うのであれば、金曜日にここを訪れてみたい。金曜日はイスラム教徒にとっては集団礼拝を行う特別の日とされ、イスラム教を国教とする国ではいわば日曜日のように職場が休みとなる国もあるほど。

イスラム教徒にとって、金曜日は重要な日であるから、残念ながらこの日だけはクチャ大寺にイスラム教徒以外が入ることは許されない。しかし寺院内で一心不乱に神に祈るイスラム教徒の熱心さと熱気を、この寺の周囲で直ちに感じられるはずだ。金曜日以外の曜日であれば、寺院内を見学できる。

なお、モスクを象徴するクチャ大寺のミナレットの高さは20mもある。ミナレットとは、モスクの外郭に設けられた細長い尖塔で、ここからイスラム教徒に祈りの時を告げるアザーンが毎日唱えられる。

クチャ大寺は15~16世紀頃、カシュガルから来たイスラム伝道師が活躍した時代に土造の寺院が建設された。やがて木造となったものの焼失し、現在の建物は1929年に再建されたと伝えられる。

ウイグルスタイルと中国スタイルがミックスされたいかにもこの地にふさわしいモスクだが、アザーンを耳にすればアラブ世界にいるような雰囲気につつまれる。この寺は小高い丘の上にあり、市街地を望むこともできる。

また、クチャにイスラム教を布教したエシディンが葬られるモナエシディン・マザールもある。現在の墓は19世紀後半に修復されたものといわれ、大門・庭院・礼拝堂・墓室などがある。

クチャ大寺の近くには、クチャ博物館もある。一般には、文物保護管理所の名称で呼ばれるこの博物館では、民族衣裳館・亀茲壁画館などがあり、興味深い展示物を見学することができる。

ショッピングを兼ねて、クチャの人々の生活習慣などを知るためにもぜひ寄ってみたいのはバザールだ。バザールとはペルシャ語で、インド・中央アジア・中東諸国などでの市場を意味する。

クチャで最大のバザールが開かれるのは団結新橋の両側で、金曜日に開催されるもの。この地の文化を知るうえでも役立つ布地屋を始めとして、さまざまな日々の生活用品が売られる。またシルクロードを実感できる羊などの家畜の市もたつ。

バザールとはいえ、かなり原始的な雰囲気で、かえってこの地の人々の生活スタイルがかいま見られるはず。お祭りのようなにぎやかさだ。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編①

2009-11-10 10:48:12 | シルクロードの旅
天山山脈南麓の都市としてコルラとアクスのほぼ中間に位置する。ウルムチから約630km、バスで20時間弱かかるオアシス都市で、亀茲国と言われた時代には、西域北道の中心都市の役割を果たしていた。

天山南路の中継地点となるクチャ。付近には遺跡が多い。しかもそれらの遺跡は、現在かなりの影響力を持っているイスラム教関連のものではなく、仏教遺跡が中心となる。遺跡は、かつてのクチャの繁栄ぶりとその文化を無言のうちに伝える貴重なものばかりだ。

そもそもクチャは、その昔、亀茲国として栄えた。前漢時代(紀元前206~後8年)には、クチャ付近の鳥塁城に西域都護が置かれるなど、西域の要衝であった。ちなみに、亀茲国とは中国の史書に記された西域諸国の一つ。2世紀以後、亀茲国は、焉耆(カラシャール)・疏勒(カシュガル)・于闐(ホータン)・鄯善(ローラン)とならぶ西域の五大国として周囲に知られていた。やがて時代は後漢の時代に移り、班超が西域都護としてこの地に駐在した。班超とは後漢の将軍で、西域都護とは西域経営の長官を意味する。

亀茲国時代は現在のイスラム教とは異なり、仏教文化が非常に栄えていた。630年頃に亀茲国を訪れた人物の記述が残っている。

訪れたのは、長安を出発し天山南路からインドに入った三蔵法師の名で知られる玄奘だ。その時の模様を玄奘は、伽藍が100ヵ所余り、僧侶が5000人もいる上座部仏教の地、と記している。上座部仏教とは正式には南方上座部仏教と呼ばれ、現在は、スリランカ・タイ・ビルマ・ラオスなどで信奉される戒律を尊ぶ仏教だ。

7世紀に入ると、亀茲国は唐と戦ったものの敗れ、ついに滅亡する。その結果、唐は西州の安西都護府をこの地に移し西域経営の重要拠点とした。亀茲故城がその所在地だったと言われている。

そして9世紀半ばになると、この地に一大変革の兆しがあらわれた。その中心が、現在この地で多数派をしめるウイグル人だった。ウイグル人の勢力が増し始め、彼らは亀茲ウイグルと呼ばれるようになり、いつしかこの地ではイスラム教が仏教を押しのけて中心となり始めた。

その後、遼・モンゴルなどの支配下に置かれた。1758年になりと清は遠征を行い、その時に、現在の地名となる庫車に改めたという。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫爾勒編②

2009-11-02 10:20:06 | シルクロードの旅
見所は鉄門関やボステン湖など

しかし変わらないものもある。コルラの名所旧跡だ。市内から北へ10kmほど、孔雀河をさかのぼった渓谷には鉄門関がある。

  この付近その昔、タリム盆地へ入る重要な通路として関所が設けられた。建設は3世紀頃とされ、その関所は見るからに堅固なところから鉄門関と呼ばれるようになったといわれている。

  盛唐の詩人で岑嘉州とも呼ばれる岑参は、すぐれた辺塞詩を残したことで知られている。その岑参は、8世紀の半ばにこの鉄門関を通り、3作の詩を残している。詩の題材になり得るほど鉄門関は強い印象を与えると同時に、ここからさらに異郷の印象が鮮明にされたのであろう。ちなみに、辺塞詩とは、中国の西・北方の国境地帯での戦争を主題とする漢詩の意味。

  さらに、コルラには東北部に1つ、南部に2つ、計3つの城が築かれていた。これらを総称してコルラ故城という。

  市街地からもっとも近いのは、南へ1.5kmほど行ったところにある玉子干旧城。ただし、ここは今では畑となってしまい城は残ってはいない。ここからさらに南にあるのが、狭爾乱旦旧城。城の周囲は1kmほどで、土の小山となっている。町の東北に位置するのが、羊達克沁旧城。

  どの城も現在では崩れさり、往事を偲ぶことはできないが、遺跡からは貴重な発掘が行われたという。

  このコルラ周辺から発掘された貴重な品品を見学するには、市の中心部にあるコルラ博物館を訪れてみるとよい。

  ここには、楼蘭遺跡から出土した貴重なミイラが展示されている。楼蘭は、漢・魏代の西域諸国の一つで、新疆ウイグル自治区ロプノールの北西にあったオアシス都市。ガンダーラ文化の影響を示す遺品・漢式鏡・漆器などが発掘されたことで世界的に有名だ。だが、現在、楼蘭へ行くには許可証が必要とされるものの、一般の旅行者には許可がおりない。それだけに、楼蘭への思いをはせることができる博物館として、ぜひ訪れてみたい。

  このほか、内陸部では最大の淡水湖とされるボステン湖が、コルラから30kmほどのところにある。湖の周囲は約950kmといわれ、琵琶湖の1.5倍の大きさだ。コルラからはタクシーで30分ほどかかる。

参考:中国旅行専門サイト-西部旅情クラブ

シルクロード――庫爾勒編①

2009-10-28 12:02:58 | シルクロードの旅
その昔、天山南北往来街道の重要なポイントでもあったコルラ。市内のコルラ博物館や、郊外にある、昔の関所「鉄門関」などを見て回れば、かつてのシルクロードの雰囲気をあじわえる。

  古代この地は楼蘭・盤営からタクラマカン砂漠の中を行く道が北行して焉耆・トルファン盆地へ向かうものと、クチャ・アクス、さらにカシュガルへと至る西域に向かう分岐点として、古代シルクロード天山南北往来街道の重要なポイントでもあった。

  1907年にこの地を訪れた日野強少佐は、『伊犂紀行』の中でコルラの様子を次のように記している。

  「纒頭回民(回教徒)が多く、戸数2000、開都河は市街を貫流し、付近を灌漑す。水田、火田(一種の焼畑)また少ながらず。繁華の一市街をなせり。この地は羅布涅爾に通ずる順路の分岐点にして該路は辛うじて車輌を通ず」だが、そのコルラも、今では大きく様変わりした。南疆鉄道の終着駅として、また巴音郭蒙古自治州の州都として発展し、現在にいたっている。

  現在、コルラの人口は約30万人ほど。ウイグル族・漢族・回族らが混じり合って住む。州名にもあるモンゴル族は、かつては多く住んでいたものの、現在は天山の草原地帯で生活している。

  コルラが大きく様変わりしたのは、石油が発掘されてからのこと。豊富な埋蔵量が確認されているタクラマカン砂漠への表玄関として発展し、メインストリートとなる人民路を中心に政府機関の建物や、銀行・デパートが建ち並ぶ。また、現在進められている南疆鉄道のカシュガルまでの延長工事のためにヒトやモノが集まり、さらに賑わいをみせている。

参考:中国観光専門サイト-西部旅情クラブ

シルクロード――伊寧編④

2009-10-26 10:19:40 | シルクロードの旅
国境の町にも足を伸ばしてみよう

サリム湖のある天山山脈の峠から南西に下ると町がある。ここが清水河子で、この町の中心のロータリーから西に向かうとカザフスタンとの国境の町・コルガスに着く。国境からカザフスタンの首都アルマトイまでは約350kmだ。

 カザフスタン国境ゲートの左側には国際貿易市場が開かれ、毎日カザフスタンより、バスや車で買い物や仕入れに数千人の人々が訪れる。ここで売られているのは、日常生活品のほか、靴、衣服、玩具などが多い。

 検問所の辺りは水のないホコロス河で、河は小石の砂漠だが、ここから見る万年雪を頂く山並みは美しい。許可書があれば見学することもできる。町にはホテルもあり、一泊して市場を見学した後、ウルムチまたはイーニン行きのバスに乗ることもできる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――伊犁編③

2009-10-23 12:58:32 | シルクロードの旅
恵遠城鐘鼓楼など郊外にもみどころが

伊寧の町からウルムチへ行く途中約30kmのところに恵遠鎮という小さな村がある。村に入る道は高いポプラ並木が続き、やがて突き当たると城が見えてくる。あたりには数台のロバ車が客待ちをしているからわかりやすい。ここが伊犁将軍府(恵遠城)の跡で、1897年に建てられた鐘鼓楼が残っている。土台は煉瓦で覆われ、四方にアーチ門があけられている。楼は3層の木造建築で地上よりの高さは20.5mに達し、登ることもできる。楼の四隅には金柱があり、一層から三層まで通じ、各層には檐柱があり、軒をささえている。

 清朝の末期、名臣・林則徐(1785~1850年)は、アヘンを持ち込むイギリスの商人に対して、所有するアヘンを全部提出するように命じた。提出をしぶったイギリス商人には軍隊をもってこれを承服させ、没収したアヘン20238箱を焼却したのである。イギリスは、この事実を口実にして中国に開国を迫り、ついにアヘン戦争をおこすことになる。イギリスは強力な軍事力で清朝政府に迫ったため、弱腰になった清朝政府は、林則徐将軍を解任してしまう。

 そして1841年、林則徐は、アヘン戦争を引き起こした罪を問われ、西北の辺境の地・伊犁への追放処分を受けた。

 3年間この地ですごした林則徐は、漢民族とイスラム教徒との紛争を公正に処理し善政を施いた。館の跡は、現在、解放軍病院になっている。

 伊犁を最初に訪れた日野強少佐も、ここ恵遠城で7日間滞在している。

 天山山脈は、タクラマカン砂漠北辺に沿いながら、西はパミール高原から東はモンゴル国境まで続く東西2000kmの大山脈である。最高峰はポベダ峰で7439mあり、3000m~4000m級の山が悠遠に続く。

 この山中に、古代よりシルクロード天山北路として利用された交易路がある。

 賽里木湖は、伊犁から北へ130km、博楽県、温泉県境の天山山脈の峠(海抜2070m)付近にある周囲100kmの広大な湖で、透明度は高く美しい。湖の周辺は水草が茂り、湖の形は卵型で、面積は454k㎡である。

 ウルムチとイーニンを結ぶバスは必ず通るところだから、ウルムチからイーニンに入る時、またはイーニンからウルムチに戻る時に寄ることができる。しかしバスは、明け方や夜になることが多く、見る機会が少ない。どうしても見たい時は、途中下車して次のバスを利用すればよい。真冬はむろん4月頃でも凍ることがあり、一面凍りついた湖は神秘的である。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――伊寧編②

2009-10-20 09:47:04 | シルクロードの旅
            町中の回教寺院巡りとイリ河河畔散策

 町のメインストリートは、州政府や伊犁飯店、郵便局、公安局などがある斯大林街だ。そして、州政府と伊犁飯店の間から北西に延びている解放路沿いにはデパートや長距離バスターミナルがある。解放路の民族貿易商場そばの交差点を南西に行くと韓国系の大型レストランや友誼医院などがあり、北に向かうと空港だ。

 町の中心を東西に走る斯大林街の一本南側の通りである新華東路を東に向かい勝利路を過ぎた右側にモスクがある。これが陝西大寺。1781年に建立されたもので、当時は寧固大寺と名づけられていたが、その後陝西大寺に改名されている。この寺が建てられる時、回族の信徒たちは、遠く雲南省まで出かけてお布施を集めて建てたという。このことから人々は回族大寺と呼んでいる。建物は礼拝堂、宣礼塔、大殿、経房からなり、塔は3層の亭楼形式のもの。周囲を廊下で囲んでいる大殿は、間口7間、奥行きは40mもある大型の建物で、上から見た形が凸字型をしている。全体的に漢族式を取り入れたものである。

 また、州政府や伊犁飯店がある交差点から解放路を南に下がり、新華西路を渡ったところには、陝西大寺と同じく回教の寺院の清真寺がある。ここはイーニンで一番大きな回教寺院だ。

 市街地の南西にはイリ河が流れている。天山に源を発し、イーニンを通り、はるかカザフスタンのバルハシ湖にそぞく全長930kmの河だ。イーニンでは、イリ河より引かれた用水路によって灌漑され農耕が広く行われている。天山より流れる水は美しく、唐代には伊犁水とも記されているくらいだ。

 春の晴れた日には、イリ河大橋付近には露店もならび、親子連れや恋人同士、カメラを向ける人で賑わう。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――伊寧編①

2009-10-14 10:30:27 | シルクロードの旅
その昔、ウズベク王国であった伊寧は、「西北辺境の真珠」と呼ばれ、豊かなオアシスであった。それゆえに、古くから中国王朝や遊牧王朝の紛争の的になってきた。いまは、緑豊かな国境の町である。

古代よりシルクロード天山北路の重要なオアシスとして栄えてきた伊寧は、現在、人口30万人で、伊犁カザフ自治州の州都として、政治、経済の中心都市となっている。三方を天山山脈に囲まれ、気候は温暖で水源にも恵まれている。緑豊かな盆地であり、カザフスタンとの国境に接し、中央アジアとの出入り口でもある。ここに住むのはカザフ族をはじめ、ウズベク族、キリギス族、タタール族、シボ族、満族、回族、漢族など、その数は40の民族が住んでおり、まさにシルクロードの街である。

 その昔より、「西北辺境の真珠」と呼ばれ、かつてはウズベク王国であった。
 
 6世紀頃からトルコ系遊牧民族西突厥の拠点の一つ弓月城が置かれていたが、やがてモンゴル帝国の支配となる。やがて、チャガタイ汗国が建設され、その後、ジュンガル汗国へと移る。そのジュンガル汗国も、1755年には清朝の征討をうけて滅んでしまう。

 ジュンガル汗国を滅ぼしてしまった清朝は伊犁将軍は置き、1764年、イリ河北岸に恵遠城を建てて居城とした。

 19世紀に入ると、ロシアの中央アジアから新疆にかけての進出が盛んになる。
 
伊犁に最初に入った日本人といわれる日野強少佐の『伊犁紀行』(1907年)がある。それによれば「伊犁一帯はロシア人の勢力旺盛で、何事もロシア人の意のままであったが、ロシア敗北後形勢は一転して彼らは非常に慎重になったこと、また土地の者が、日露戦争がなかったら新疆はもう清の領土ではなかったであろうと言った」と報告している。

 1914年、伊寧と改名し、1952年に県から市になる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――ウルムチ編④

2009-10-12 09:39:49 | シルクロードの旅
 ウルムチ市内では、新疆維吾爾自治区博物館、バザール、紅山公園などが見所だ。

 新疆維吾爾自治区博物館は西北路に面している。新疆最大の博物館で収蔵品は50000点以上。入って右側が考古陳列館、左側が民族陳列館だ。それぞれ約1000点が陳列され、考古陳列館には新疆各地から出土した文物、民族陳列館には新疆の12の民族の衣食住に関わるものが展示・解説されていて、その内容は充実している。

 特に、考古陳列館の奥には、楼蘭美人として有名な羅布泊鉄板河畔で発見された4000年前のミイラが展示されている。「木乃伊」ではなくて「古尸」と表記されているが、どのミイラも、干からびていないその姿は、いまも眠っているようだ。楼蘭古尸と、3200年前のハミ古尸は、それぞれ45歳ぐらいと12歳ぐらいといわれ、ミイラであっても「睡美人」と呼ばれるほど美しい。トルファンのアスターナ古墳から出土した張雄古尸は唐の左衛大将軍のミイラであり、50歳で眠りについた彼は、千数百年を経たいまも堂々たる体躯と威厳をもって眠り続ける。且末県出土の3000年前の男、女、子供のミイラなどもあり、どれもがみているまえで生き返っても不思議ではない感じさえするほどだ。

 このほか、張騫西域行路図、新疆石窟分布図、ウイグル語の教典、多くの石器、陶磁器など、陳列品をみるうちに新疆の歴史とその多様なイメージを理解することができる。

 解放南路には二道橋市場(バザール)があって、大変な賑わいを見せている。一歩足を踏み込むと、細い道筋にさまざまな生活用品や食料品を売る店が並び、ウイグル族の生活そのものが氾濫しているようだ。ウイグル族のきらびやかなチョッキ、アテラスと呼ばれる独特の矢がすり模様の生地、イエンギサル(英吉沙)ナイフ、錫や銅の食器、干しぶどうや干し杏など新疆ならではのものはみていて楽しい恰好の土産にもなる。また、バザールの一角には釜のなかに張りつけた焼きたてのナンやジュアファンという羊肉のピラフ、シシカバブーなどを売る店が集まっていて、強烈にウイグルの匂いを漂わせている。味もホテルなどのそれとは違い、直に庶民の味覚を味わう感じがする。

 二道橋市場から北に上がる南門、中山路あたりまではウイグル族が多く、モスク、バザールなどがある。ウルムチは大きな街だが、やはりこの辺りは西域の雰囲気が濃厚だ。

 紅山公園は、市の中心部にある砂岩でできた山に整備された公園で、この山そのものがウルムチ市のシンボルになっている。園内には大観覧車などもあるが、頂上からウルムチ市街の全景を望むことができる。特に、西端の峰には洪水を鎮めるために18世紀に建てられた9層の鎮龍塔があり、ここからの眺めが見事だ。遠い山並みに囲まれ、高層ビルの間をハイウェイが走る近代的なウルムチ市街のシルエットをみることができる。まさに西域の真っ直中に建設された街の今日の近代性とウイグル族を始めとする少数民族の独自の文化が同居するウルムチの表情を、ここから改めて感じとることができる。

 紅山公園の向かいには、人民公園がある。ポート池がある美しい公園で市民の憩いの場だ。この人民公園の裏側の道では、主に漢民族が繰り出す朝市が開かれる。どこから集まるのかと思わせるほど道を埋め尽くす人々で賑わっている。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――ウルムチ編③

2009-09-25 10:29:58 | シルクロードの旅
                天池!この天上世界に遊ぶ

ウルムチの東に、天山山脈東部の最高峰ボゴダ峰(海抜5445m)がある。この中腹に天池があり、西域の旅では異質な、さながらにアルプスのような緑滴る高山の風景が広がる。ウルムチからは車でおよそ110kmの行程である。



 車は、鳥奇公路を行く。鳥奇公路はウルムチから米泉(米がうまいことで有名)、吉木薩爾を経て奇台へと続く天山北路の一部である。車は北東に草原を走り、阜康の手前で東に折れ、天池公路に入って、ボゴダ峰の山麓を三工河に沿って登っていく。山麓にはパオが点在し、浅瀬を流れ下る水は清冽だ。



 天池は、海抜1980m、半月形で南北3400m、最大幅約1500m、深さ約100m。20万年前におきた寒冷期と温暖期の繰り返し際に氷河が溶けてできた湖だといい、古くは瑤池と呼ばれ、氷池、龍潭、神池とも呼ばれてきた。天池の名は、清代の1783年にウルムチ都統の明亮がここに灌漑用の渠口を築いた際の「霊山天池疏鑿水渠碑記」により、文中の「見神池浩、如天鏡浮空」から取られた。

 伝説も多く、周の穆王が8頭立ての馬車で諸国を歴遊し、最後に西王母の国に来た折り、西王母が天池で一行をもてなしたと伝えられている。天池の下には、西王母が足を洗ったといわれる東小天池、西小天池の2つの池がある。

 澄んだ水を堪える蒼い湖の正面には、万年雪におおわれたボゴダ峰が輝き、湖の周囲を雲杉の樹木が囲む。大パノラマ風景のなかを遊覧船で遊び、周辺に遊牧するカザフ族のパオを見学するうち、俗世間を離れて、清浄な空気に包まれた別世界に遊ぶような気持ちになってくる。

 馬で小一時間先の山中にカザフ族を訪ねることもできる。山中のなかに草原が広がり、そこで実際に生活する、人なつっこく、素朴なカザフの人々と触れ合うよい機会だ。もちろんここでもカザフ族のパオの見学ができ、牛乳茶、小麦を綿の油で揚げたボグルサックなどでもてなしてもらいながら、カザフの生活を知ることができる。



 また、ウルムチの南へコルラ公道を60km行くと南山牧場への検問所がある。天山の大小の峡谷の中に広がる草原地帯で、カザフ族の放牧地となっている。樹林が茂り草花がおおう広大な農場であり、最も風景が美しいといわれる西白楊溝で高さ40mの滝を堪能したり、南山牧場で、カザフ族が馬で遊ぶ際の伝統遊戯などがみられる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ