敦煌は、河西回廊の西端のゴビ灘のなかに位置し、オアシスとしての長遠な時間を刻んできた。敦煌の「敦」は「大きく」、「煌」は「かがやく」の意だという。敦煌の名は、いまでは、世界遺産「莫高窟」によって広く世界中に知られている。
古くは紀元前11世紀にすでに羌戎と呼ばれる遊牧民族が生活していたといい、『書経』では、この地を「三危」と呼び、住民を「三苗」と呼んでいる。春秋時代から瓜州と呼ばれ、戦国時代から秦代にかけて大月氏族がこの地を占め、次いで匈奴が支配した。『史記』の「大宛伝」には、
「始め月氏は敦煌、祁連の間に居りしも、匈奴の敗る所と為るに及び、乃ち遠く去り、宛(ウズベク共和国フェルガナ)を過ぎ、西のかた大夏(アフガニスタン北部にいた部族)を撃って之を臣とし、遂に嬀水(アム・ダリヤ河)の北に都して王庭と為す。其の余の小衆、去ること能わざりし者は、南山(崑崙山脈)の羌を保ち、小月氏と号す」
と記されている。その後、前漢の武帝のときに匈奴を討ち、紀元前1世紀に「河西四郡」が置かれて敦煌郡となり、初めて敦煌という名が使われた。敦煌は、西域との境界である河西回廊の西端に位置することから、漢の西域経営の拠点として重視されることになったのである(ちなみに、これに先立ち張騫が対匈奴同盟勅命を帯びて訪れたのが、『史記』の記述にあるアム河の北のサマルカンド辺りを都としていた大月氏である。宛は大宛と呼ばれ、汗血馬と呼ばれる名馬の産地で、前漢はこの馬を得るため大宛まで兵を派遣している)。
参考:中国観光専門サイト―西部旅情
古くは紀元前11世紀にすでに羌戎と呼ばれる遊牧民族が生活していたといい、『書経』では、この地を「三危」と呼び、住民を「三苗」と呼んでいる。春秋時代から瓜州と呼ばれ、戦国時代から秦代にかけて大月氏族がこの地を占め、次いで匈奴が支配した。『史記』の「大宛伝」には、
「始め月氏は敦煌、祁連の間に居りしも、匈奴の敗る所と為るに及び、乃ち遠く去り、宛(ウズベク共和国フェルガナ)を過ぎ、西のかた大夏(アフガニスタン北部にいた部族)を撃って之を臣とし、遂に嬀水(アム・ダリヤ河)の北に都して王庭と為す。其の余の小衆、去ること能わざりし者は、南山(崑崙山脈)の羌を保ち、小月氏と号す」
と記されている。その後、前漢の武帝のときに匈奴を討ち、紀元前1世紀に「河西四郡」が置かれて敦煌郡となり、初めて敦煌という名が使われた。敦煌は、西域との境界である河西回廊の西端に位置することから、漢の西域経営の拠点として重視されることになったのである(ちなみに、これに先立ち張騫が対匈奴同盟勅命を帯びて訪れたのが、『史記』の記述にあるアム河の北のサマルカンド辺りを都としていた大月氏である。宛は大宛と呼ばれ、汗血馬と呼ばれる名馬の産地で、前漢はこの馬を得るため大宛まで兵を派遣している)。
参考:中国観光専門サイト―西部旅情