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シルクロード――敦煌編②

2009-06-30 10:38:56 | シルクロードの旅
敦煌は、河西回廊の西端のゴビ灘のなかに位置し、オアシスとしての長遠な時間を刻んできた。敦煌の「敦」は「大きく」、「煌」は「かがやく」の意だという。敦煌の名は、いまでは、世界遺産「莫高窟」によって広く世界中に知られている。

 古くは紀元前11世紀にすでに羌戎と呼ばれる遊牧民族が生活していたといい、『書経』では、この地を「三危」と呼び、住民を「三苗」と呼んでいる。春秋時代から瓜州と呼ばれ、戦国時代から秦代にかけて大月氏族がこの地を占め、次いで匈奴が支配した。『史記』の「大宛伝」には、

 「始め月氏は敦煌、祁連の間に居りしも、匈奴の敗る所と為るに及び、乃ち遠く去り、宛(ウズベク共和国フェルガナ)を過ぎ、西のかた大夏(アフガニスタン北部にいた部族)を撃って之を臣とし、遂に嬀水(アム・ダリヤ河)の北に都して王庭と為す。其の余の小衆、去ること能わざりし者は、南山(崑崙山脈)の羌を保ち、小月氏と号す」

 と記されている。その後、前漢の武帝のときに匈奴を討ち、紀元前1世紀に「河西四郡」が置かれて敦煌郡となり、初めて敦煌という名が使われた。敦煌は、西域との境界である河西回廊の西端に位置することから、漢の西域経営の拠点として重視されることになったのである(ちなみに、これに先立ち張騫が対匈奴同盟勅命を帯びて訪れたのが、『史記』の記述にあるアム河の北のサマルカンド辺りを都としていた大月氏である。宛は大宛と呼ばれ、汗血馬と呼ばれる名馬の産地で、前漢はこの馬を得るため大宛まで兵を派遣している)。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編①

2009-06-29 10:10:56 | シルクロードの旅
中国の至宝・莫高窟で世界に轟くオアシス都市――敦煌

 真っ夏の光に輝くどこのオアシスも「奇跡」であるといって過言ではないです。甘粛省の西端の都市・敦煌も、広大なゴビ灘のなかにあって、信じられないほどの輝きに満ちています。

  1700年の時空を流転した莫高窟、2000年の時を経た漢の遺跡・玉門関と陽関、ゴビのなかに忽然と聳える鳴沙山と3000年を砂丘のなかにあって枯れることのない月牙泉

 
 敦煌は「奇跡」に満ちた「大きくかがやく」町であります。 

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――嘉峪関編③

2009-06-26 11:10:28 | シルクロードの旅
彩色画像磚墓にみる1700年前の生活

 新城魏晋墓は、市の東北17kmの新城郷のゴビのなかにある。周囲10kmに魏晋(220~419年)のころの墓1000余りがあるといわれ、1972年から79年にかけて13墓が発掘調査されたが、すべて盗掘されていた。しかし、これらの墓は幅34.5cm、高さ17cmの磚に彩色画像が描かれていることが特徴で、13基中の8基がこの彩色画像磚墓だった。ひとつの磚にひとつの絵が描かれ、墓の主人の生活・農業・牧畜・養蚕・狩猟・炊事・歌舞音曲など当時の漢民族の日常が軽快奔放な筆致で描かれ、それらがいまに甦る発見となった。現在、このうちの第6号墓が公開されている。

第6号墓は地下十数mに4つに区切られた墓で、最初の墓門には白虎、朱雀があって夫婦の墓であることが示されている。磚を巧妙に積み上げた構造をもつ前室には、狩猟・鷹狩り・豚を料理する・牛を料理するなど生活の場面のほか、シルクロードのラクダを引くキャラバン隊などの鮮やかな彩色画像磚がある。ここには小さな耳室と呼ばれる穴はある。中室ではシシカバブーを食べる(1700年前にも食べていたのだ!)、音楽を演奏するなどが描かれ、2つの柩が置かれていた後室には、墓の主人とその家人の生活が描かれている。

 酒泉郊外の西溝画像磚墓、丁家閘5号墓を含めて、これらの壁画群をみていると、絵画が時を越えて伝えてくるもののあまりに多いことに、今更に驚かされる。

 市の西北約20kmの黒山の断崖に2kmに渡ってみられる黒山石刻画像もまた、時代は異なるけれど、そのような石刻画群だ。最も古いものは新石器時代といわれ、さまざまな動物や、狩猟・牧羊・騎馬、ラクダに乗る人などの岩画がある。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

シルクロード――嘉峪関編②

2009-06-24 19:20:33 | シルクロードの旅
「天下雄関」の城内で知る夢の跡

 嘉峪関は、市の西南にある。明の長城の西端を護る砦で、東端は遥か東方の山海関(河北省)である。全長6350kmの長城は、渤海を飲む山海関を頭に、ゴビのなかを伸びる長城を尾とする巨龍に譬えられる(長城の東端の海に入る部分は「老龍頭」と呼ばれる。東の長城は北京郊外の八達嶺にみられるように磚で築かれた威容を誇るが、西の長城は黄土を突き固めた版築で築かれていて、それがゴビのなかに伸びていくさまは龍の尾であるという譬えを納得させてくれる。)北の合黎山・馬鬃山の山並みと、南の祁連山脈に挟まれた河西回廊は、ここに至って幅約15kmと最も狭まり「河西第一隘口」と呼ばれる。古くから漢民族にとっての軍事上の要衝となってきたこの地点に築かれたのが嘉峪関だ。嘉峪関の西方には広大なゴビ灘が広がっている。

 嘉峪関は明の洪武5年(1372年)に築かれた。明の長城の関としては最も保存状態が良いといわれ、馬鬃山を背景に城壁の上に3つの城楼が聳えるシルエットが印象的である。内城、甕城、羅城、外城などからなり、見学には外城の東の閘門から入る。外城と内城の間はかつては店舗、旅館などがあった場所で、いまは兵士たちを慰めるための京劇などが行われた劇台と文昌閣などが残っている。東西両門の前に防御を強化するために付けられた甕城があり、南側から入って直角に曲がって内城の門を潜る構造になっている。

 関の中枢である内城は、東の城壁が154m、南北が各160m、西の城壁が166mの台形で、城壁の高さは10.7m、城壁上の外側に磚を積んだ垜墻を築いて凸凹をつけている。東西両門の上に高さ17m、3層の楼閣が建っており、東を光化楼、西を柔遠楼と呼ぶ。城内には400人の兵士が常駐し、官庁、兵営、倉庫などがあったというが、現在は遊撃将軍府と官井を残すだけで、がらんどうの空間だ。二つの門の内側北寄りに急な坂の馬道があり城壁の上を巡ることができる。

 西門の外側には甕城を囲んで、もう一重の城壁である羅城があり、この上に1987年に再建された嘉峪関関楼が建つ。羅城中央の門が正門で、この西側200mに「天下雄関」の碑が建っている。また、羅城の南北は長城と連結していて、北側の長城は黒山の山頂まで伸びているが、そこが明の長城の最西端だ(嘉峪関から7.5kmの黒山の斜面は急斜面で「鉄壁懸空」といわれ、この長城は懸壁長城と呼ばれている。)

 甕城から東門のアーチを潜り、黄土の城壁に囲まれたがらんどうの空間や、馬道の少しきつい坂を登って城壁の上を歩いていると、そこは結局いまは無人の城であることが思い知らされて、「兵どもが夢の跡」という気持ちになってくる。変わることのないゴビと南北の山の連なりのなか、数百年を経た城楼からは時の流れる音が聞こえてくるようだ。

 城内には、東西の門の内側脇に「撃石燕鳴」の石と、西門の上に「一枚磚」がある。「撃石燕鳴」は、城に住む燕の夫婦のうち雄が道に迷い、やっとのことで戻ったときに門が閉ざされていて、悲しみのあまり城壁にぶつかった――。大石を石で撃つといまもその悲しい囀りが聞こえるというものだ。実際に撃ってみると、チッ、チッという音が返ってくる。一方、「一枚磚」は、嘉峪関が建ったときに磚が一枚しか残らなかったというその磚が置かれていて、当時の工匠たちの腕の確かさを伝える逸話となっている。

 市街地のなか、新華南路の外れにある長城博物館は、中国最初の長城の専門博物館だ。規模は小さいが、一口に万里の長城と呼んでいるものをさまざまな角度から展示してよく理解できる構成となっている。特に、戦国時代から明代までの長城について中国全図のパネル上でそれぞれを豆電球の点滅でみせてくれるコーナーなど、素朴な仕掛けだがわかりやすい。長城の構造などもよくわかり、嘉峪関と併せてみると実感を伴った理解ができる。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情 

シルクロード――嘉峪関編①

2009-06-22 11:17:29 | シルクロードの旅
「河西第一隘口」に築かれた巨龍の尾   嘉峪関

巨大な龍に譬えられる万里の長城に西端の砦として明代に築かれたのが嘉峪関だ。南北から祁連山脈と馬鬃山脈が迫る狭隘なゴビ灘に西への備えとして築かれた。現在は巨大な製鉄コンビナートの街である。

 嘉峪関市は、1958年に開始された酒泉鋼鉄公司の建設によってつくられた街である。65年に市となったが、それまでは酒泉市に属し、明代の万里の長城の西端の砦・嘉峪関がゴビのなかに聳えるだけの無人の土地に過ぎなかった。

 酒泉市から21km。現在は、人口12万人。鏡鉄山の鉄鉱石による製鉄の街であり、ほかに、電力・セメント・化学・機械などが盛んな工業都市だ。街の周囲を鏡鉄山から鉄鉱石を運ぶ鉄道が巡らされ(蒸気機関車が走っている)、市街地の東側から北側にかけて巨大な製鉄コンビナートの煙突が林立する。その様子は壮観で、ゴビのなかにはほかにもたろえば玉門市の石油コンビナートなどがあり、西域の豊富な鉱物資源が中国のシルクロードを現代に蘇らせたということができる。酒泉鋼鉄公司は西北地方最大の製鉄工場であり、年間に鉄鉱石500万t、生鉄120万t、鋼100万t、鋼材55万tを生産している。

 つまり嘉峪関市は、「企業城下町」であり、「人工都市」である。整然と区画された街には、力を漲らせた労働者像のモニュメントがあって、新中国の建設に従事した人々の意気込みが伝わる。コンビナートの建設によって東北地方から移住した人々も多く、言葉は北京語であり生活習慣も西北地方のそれとは異なるといわれる。

 市街地には長城博物館があり、郊外には「天下雄関」と讚えられた嘉峪関、嘉峪関から伸びて明代長城の西の端を占める懸壁長城、新城魏晋墓、黒山石刻画像などの見所がある。

 
参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

シルクロード――酒泉編④

2009-06-18 09:30:13 | シルクロードの旅
地下の墓室というタイムカプセル

 酒泉から嘉峪関に向かう西の郊外には、酒泉西溝画像磚墓、丁家閘5号墓がある。地下に築かれた墓室で、壁画、石刻などから築かれた時代の生活などを知ることができる。それぞれ酒泉から10km、8km。

 酒泉西溝画像磚墓は、国道312号から右に農村地帯を深く入った果園村にある。塀に囲まれた敷地内に三つの地下墓があり、1号墓は盛唐のもので1987年に発見され、2・3号墓は中晩唐のもので1993年に発見された。

 1号墓が規模が大きく、前室と後室からなり、後室には伏斗式(枡を伏せた形)の天井が牙磚模様で精巧に築かれている。4隅を柱が支えるような石組みで、壁画には12支のほか、金剛力士、楽士、武士、兵士などが彫られている。奥には蓮の華の図案をあしらった台座がある。墓の主は河西回廊を統治した台座がある。墓の主は河西回廊を統治した将軍で、1.8mの夫、1.6mの妻が葬られていたという。

 2.3号墓は同一の一族の墓とみられ、どちらも単室である。1号墓と異なるのは磚に焼付けられたレリーフの画像が彩色されていることで、2号墓には武官と文官が一対のさまざまな場面が描かれており、3号墓の画像は彩色が細かくはっきりとしていて、「安長宜」という画家の名と思われる墨書がある。
 
 丁家閘5号墓は国道312号を右に折れたゴビのなかにある。東晋時代のもので、1977年に発見された。墓道を33m下る地下12mには前室と後室があり、漆喰の上に描いた壁画がみられる。

 前室の天井には蓮の華が描かれ、壁には、天、人間、大地の3層に分けられた壁画に、東王公、西王母らの伝説の神、翼の在る神、天馬、3ツ足の鳥、龍の頭のほか、西涼国の大臣だったといわれる墓の主人の家族の幸せな生活振り、雑技をする人、桑の木や蚕をとる人などが描かれている。後室は柩を置いた部屋で床に蓮を描いた磚が敷かれている。

 参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

中国旅行 万里の長城

2009-06-17 12:50:32 | Weblog
人類史上最大の建築――万里の長城はあまりにも有名であり、世界遺産に登録されていることは勿論であるが、その規模は世界最大で、月から見える唯一の建造物であると言われている。



 長城の建造は紀元前の春秋戦国時代に始まり、17世紀の明朝末まで2000年余にわたって続けられた。万里の長城は東から西へ山々に跨がり、峻険な峰々を越え、草地を穿ち砂漠を越えて、中国北方の大地を横断している。



 万里の長城は軍事防御工事として、その宏大さ、建築の困難さ、継続時間の長さから見て、中国史上のみならず、世界史上においても稀に見るものである。そのために世界7大奇跡に数えられている。



 1987年、長城は国連ユネスコの「世界の遺産リスト」に正式に登録され、人類共通の財産となった。

 万里の長城はほぼ山の尾根に沿って建造されており、起伏が非常に激しく、平らな箇所もあれば、勾配の急な階段もある。

 遠くから見ると長城の城壁の上を歩くのは簡単であるように思える。確かに簡単に楽に歩けるところも多いが、急勾配の階段が問題である。



 写真ではよく分からないが、階段が急勾配であることに加え、その段差がまちまちであり、これが歩行のリズムを崩す。その上、階段の縁がすり減って丸くなっており、滑りやすいことこのうえない。

 階段を下りるとき、下を見ればあたかも崖の上に立ったような感じの場所が少なからずある。ここで滑って転べば勾配のないところまで転がり落ちることは間違いない。写真でもわかるように、なんの支えもなく降りられる人は少なく、殆どの人は城壁両側に付けられた手すりにつかまり、ソロソロと降りている。

 急な勾配、段差の揃っていない階段、極めて狭い通路、これらは全て外敵の侵入を容易にさせないための手段と思われ、よく考えて造られている。

 万里の長城はそのスケールの大きさを体験する意味から、一度は訪れてみる価値はあるが、二度以上はあえて訪れる気持ちにならない観光スポットである。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

西安観光案内 大唐芙蓉園

2009-06-16 14:17:05 | 西安観光地







大唐芙蓉園は2005年4月にオープンした西北地区最大の文化テーマパークである。

敷地面積は67ヘクタールで、その中にある湖は20ヘクタール、総投資額は13臆元に

上るという。元唐代芙蓉園遺跡の北側に建設され、楼閣、湖、園林、劇院、唐の街

等、数多くの美しい景観をもっている。世界最大の水幕映画、戸外香花プロジェク

ト、唐代建築を有し、中国で初めて全面的に盛唐の様子を再現、展示する大規模な

皇室庭園式文化テーマバークである。

参考:中国旅行専門サイト

シルクロード――酒泉編③

2009-06-16 12:42:38 | シルクロードの旅
「酒の泉」が2000年前の故事を伝える

酒泉公園(泉湖公園)は、酒泉の地名の謂われを伝える場所であるとともに、オアシスの緑に溢れた瑞々しい美しさを堪能できる公園だ。鐘鼓楼の1.9km東にある。



 それにしても、武威、張掖、酒泉、敦煌という河西四郡の地名のうち、酒泉の名だけが、武張った感じを帯びていない。「酒の泉」という名は一人歩きをして、西域のオアシスのロマンを漂わせ、酒を愛する人々の憧れをかきたててきた。漢の郭弘は皇帝に「封を酒泉に得ば、実に望外に出づ」と答え、杜甫は「飲中八仙歌」のなかで酒豪の汝陽王のことを「恨不移封向酒泉」(封を移して酒泉に向かわざるを恨む)と歌った。

 この酒泉の名には次の伝説がある。―--前漢のとき、霍去病が匈奴を討ってこの地に到ると、武帝は酒を賜ってその功を労った。霍去病は苦楽をともにする全軍の兵士にその酒を与えたいと思ったが、そうするには酒はあまりにも少ない。そこで金泉という泉に酒を注ぐと、泉水はたちどころに芳醇な酒に変わり尽きることがなかった。―--以来、この泉を酒泉と呼び、それがそのまま地名の由来になったと伝えられている。

 酒泉公園には、この「酒泉」があって、いまなお清冽な水が滾々と湧いている。すでに漢代に公園として開放されていたともいわれる。この泉の手前には次にような李白の「月下獨酌 其二」の詩句(一部)が刻まれていて、酒を愛する人の情熱というものは古今東西いまも変わらないものだと思われて微笑ましい。

 天若し酒を愛せざれば
 酒星天に在らず
 地若し酒を愛せざれば
 地應に酒泉無かるべし

 公園内を歩くと、ゴビを吹き渡ってくる真夏の熱風のなかで豊に水を堪える湖の眺めが気持ちいい。蒼空に映えて燦めく柳の大樹、ポプラ、砂漠植物の砂棗などが湖の周囲を覆い、その鮮やかな緑の影を水面に映す。湖畔には清の将軍・左宗棠が新疆に遠征する途中に植えた柳の大木「左公柳」や清代の「西漢酒泉勝蹟」の碑などもある。入口の両脇には、宋のころの創建といわれる仏祖廟(左側)、文昌閣がある。

 鐘鼓楼と酒泉公園のちょうど中間辺りには酒泉市博物館がある。建物は清代の祠堂で、1979年開館、新石器時代から清代に至るまでの酒泉周辺の出土品(石、土、銅、鉄などの器、木簡、仏像、壁画の一部、歴代の貨幣、宋、清の書画、拓本など)4000余件が収蔵されている。特に丁家閘十六国墓の壁画の模写は、この博物館ならではのもので貴重だ。小さな博物館だが、気軽に酒泉の歴史を花垣間見ることができる点が好ましい。また、この辺りは回民族が住んでいて、小さな清真寺などがある。

 酒泉賓館の向かいには解放橋市場があり、野菜や果物の市場が開かれている。回民族の人々も多く、酒泉で収穫される果物など色鮮やかなさまざまな農作物をみて回るのがおもしろい。たとえばラグビーボールのような西瓜、まん丸な茄子など、ひとつひとつをみると日本のものと異なった形をしたものが結構あるのだ。酒泉で収穫した新鮮な果物がおいしい。

参考:中国旅行専門サイト

シルクロード――酒泉編②

2009-06-15 15:32:39 | シルクロードの旅
 シルクロードを望む優美な鐘鼓楼
 中国旅行、中国観光なら、シルクロードの旅をお勧めます。
 東から西域へ向かう旅では、酒泉はゴビ灘のなかで最初に出会うオアシスの町だ。町の中心にある鐘鼓楼の四辺には、通路の上に、

 東迎華嶽(東は華嶽を迎え)
 南望祁連(南は祁連を望み)
 西達伊吾(西は伊吾(ハミ)に達し)
 北通朔漠(北は朔漠に通ず)
 
 の文字は刻まれている。ローマまで通じていた遥かなシルクロードの旅を思うと、「ここからいよいよ西域を目指す旅が始まるのだな」という感じが伝わってくる門の文字である。

 この鐘鼓楼はかつての酒泉県城の中央に建っている。一辺24.3mの楼台の高さは7.5m、その上に3層の木造の楼閣が建つ。総高26.7m。上にいくほど小さくなる3層の楼閣は優雅で美しい。楼台にはアーチ型の4つの門が通じ、中で交わる中央の天井には八卦陣が描かれている。創建は古く、もともとは五胡十六国時代の346年に築かれた福禄城の東門であった。明代の1396年に城壁を広げる際、新しい城の中央に残され4つの街道を通じたもので、そのときに上に楼閣が築かれ、そこに太鼓を置いて鼓楼とした。現在の鐘鼓楼は清代に再建されたものだ。

 酒泉のシンボルである鐘鼓楼の周辺は、町の中心地でもあり、百貨店、銀行、郵便局、新華書店、映画館、自由市場などが集っている。『甘粛通志』に「風土淳厚。気習剛勇。騎射を好み、礼譲に循う」と書かれている酒泉の人々と触れ合う絶好の場所でもある。

参考:中国旅行専門サイト

シルクロード――酒泉編①

2009-06-12 11:11:47 | シルクロードの旅
今回は中国旅行、中国観光情報及び中国観光地のご紹介をします。

ゴビのなかの「酒の泉」と呼ばれるオアシス――酒泉

酒泉は、河西回廊の中部、ゴビ(戈壁)灘を渡るシルクロードの東に位置する。夥しい石ころを含んだ黄色の大地の際限のない広がりのなかにあって、目に痛いほど鮮やかな緑が映えるオアシスの町だ。祁連山脈を源とする陶勒河と洪水壩河の流れが、このオアシスを潤している。

 酒泉からは真夏にも白雪を輝かせる祁連山脈がはっきりと望める。酒泉からはゴビを隔てた向こうに聳える山脈だが、それでもさながら酒泉の緑のオアシスが祁連山脈に抱かれている感がするほどだ。酒泉の南には祁連山脈の主峰、海抜5564mの祁連山がある。

 河西回廊に沿うように東西に走る祁連山脈の連なりは烏鞘嶺から当金山口まで1000kmに及ぶ。河西回廊の南側に位置することから南山とも呼ばれ、祁連山脈に加え冷竜嶺、党河南山、疏勒南山など計7条の山脈が走ることから、これらを総称して祁連山地とも呼ぶ。大小の氷河は3000余に及び、この雪解け水が降雨量の少ない河西回廊を限りなく潤す水源となっている。山麓は豊な森林地帯で多くの鳥獣が生息し、牧畜に適する草原、薬用の動植物、地下資源などに恵まれ、祁連山地を人々は「聚宝山」「万宝山」とも呼んでいる。ちなみに、酒泉の工芸品として名高い夜光杯にも祁連山脈の玉石が用いられている。

 酒泉の地は、河西回廊では最も早く漢民族の支配下に入った。河西四郡の最初の郡として前漢の紀元前121年に酒泉郡となり、現在の酒泉に築かれた城は「福禄城」と名付けられた。前漢から三国時代までこの地は福禄県と呼ばれ、南北朝に禄福県となり、隋唐から清までは粛州と呼ばれた。別に金泉とも呼ばれた。

 また、酒泉は『唐詩選』のなかの王翰の詩「涼州詞」の詩情によっても、広く知られている。

 葡萄の美酒 夜光杯
 飲まんと欲して琵琶馬上に催す
 酔うて沙場に臥すも君笑う莫れ
 古来 政戦 幾人か回る

 戦に身を晒して、広大なゴビのなかのオアシスで葡萄酒を飲む―。王翰の詩からは、漢民族の前線基地としてゴビのなかのオアシスに築かれた酒泉の町の情感を扱み取ることができるようだ。

 現在、酒泉の人口は4.5万人。漢民族のほか回民族などが住む。槐などの街路樹が植えられた酒泉の市街地は小さく、中心地はほど良く賑やかである。大きなビルなどがない繁華街の街並みは小さなリゾート地のようでもあり、映画館があるのも微笑ましい。町の中心にある鐘鼓楼から20分も散策するとゴビで出してしまうので、自由市場などを楽しみながら、ゆっくりと緑豊かな小さな町を歩いてみることもできる。一方、郊外は小麦の生産量が多く、トウモロコシ、栗などを収穫する農村地帯で、りんご、梨、桃、西瓜などの果物の里でもある。ポプラ並木が続く農村の真夏の濃い緑は本当に美しい。


参考資料:中国旅行専門サイト

シルクロード――張掖編④

2009-06-11 16:29:52 | シルクロードの旅
漢長城に時の悠久を感じる

 このほか郊外には、西に黒水国遺址、南に馬蹄寺石窟、北魏の飛天塑像で知られる金塔寺、東に古くから良馬・山丹馬の産地でいまも軍馬を育てる山丹軍馬場、山丹と永昌の間に国道312号沿いに連なる明長城漢長城烽火台などの見所がある。また南郊外には裕固族自治県があって2万人の裕固族が暮らしており、この少数民族を訪ねることもできる。が、いずれにしても、これらをみるためには数日が必要となる。

 明長城と漢長城へは武威方向に国道312号を行く。国道312号は上海―イリの間を繋ぐ長遠な現代のシルクロードだ。1時間余りで山丹という街を過ぎると右側に道に平行して明長城が現れ、そのまましばらく行くと長城と国道が交差する地点に保存状態の良い烽火台がある。漢長城はここから国道の左側の草原を延々と永昌まで続いている。「万里の長城」と言葉でいうのは簡単だが、こうして視界のなかをどこまでも続く2000年間の長城をみると、その余りの壮大さと時の悠久さが思われて溜め息が出る。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情



シルクロード――張掖編③

2009-06-10 10:28:18 | シルクロードの旅
木塔寺など市内を散策する

 張掖の町には、ほかに木塔寺、鼓楼、明清古風街などの見所がある。美しい並木の町のなかを散策すると、張掖の緑の美しさを実感することができる。

 木塔寺は、張掖中学に接して、万寿寺の山門を入った奥にある。正式には万寿寺木塔という。


木塔の内部には何もない。9層から眺望がいい

 高さ1m、一辺15mの基壇の上に建つ八角形、9層の塔は、高さ32.8m。狭い急な階段だが9層まで登ることができ、回廊を回りながら張掖市街、雪を頂く祁連山脈など360度の眺望を見ることができる。7層までの塔身は磚、外周は木造、8・9層はすべて木造で、木造部分は組み合わせてつくられており、釘やかすがいなどは使われていない。中国では木塔は少なく、ほかに山西とフフホトにあるだけだという。創建は北周(6世紀後半)という説が有力で、もともとは万寿寺の塔であったが、寺はすでに失われている。隋の582年などたびたび改築され、元・明のころのものは15層で、機械仕掛けによって塔身が回転したともいわれる。

 鼓楼は張掖の町の中心にある。鐘鼓楼、あるいは靖遠楼ともいう。一辺32m、高さ9mの楼台の上に2層の楼閣が建ち、総高約25m。楼の東南角に唐のころの鐘がかかり、高さ1.3m、ラッパ型の鐘は、叩くと「洪亮」とした音色を発するといわれている。明の1507年の建立で、清代に再建されたものだ。


鼓楼は河西回廊最大を誇る威容で張掖の中心にある


 河西回廊で最大の鼓楼であり、台の4面にそれぞれ門があり、内蒙古、青海、新疆、武威を始めとする甘粛省の東部へとそれぞれが通じている。張掖は古くから河西回廊中部の交通の要衝であったが、鼓楼はその位置を象徴するように町の中心を占めている。鼓楼の近くには甘州夜市があり、夕刻から多くの人々で賑わう。

 県府北街には、明・清代の建築を再現してつくられた街(明清街)がある。ほとんどがレストランで、張掖の人々が大勢行き交う。通りの奥には甘泉公園があり、公園前の広場ではビリヤードに興じる人たちがいる。

参考:中国旅行専門サイト

シルクロード――張掖編②

2009-06-09 11:27:02 | シルクロードの旅
巨大な涅槃像のエキゾチシズム



 大仏寺には、張掖でいちばんの見ものである釈迦涅槃像がある。宏壮な大仏殿のなかに全長35m、肩幅7.5mの釈迦涅槃像が横たわっており、それを囲んで、背後に迦葉阿難らの十大弟子、両脇には十八羅漢と計28体の塑像がある。涅槃像の表情にはどことなく愛敬のある明るさがあり、周囲の塑像の表情も変化に富んで、西方的なエキゾチシズムを漂わせる。回廊を回る壁面には仏伝や『西遊記』の故事を表す壁画があり、迦藍の内部全体が、ひとつの演劇的空間を構成していて見応えがある。



 創建は西夏の永安元(1098)年。始めは「迦葉如来寺」と呼ばれたというが、元代には十字寺、明代には宝覚寺と呼ばれ、清代に勅命によって宏仁寺となった。普通には大仏寺と呼ばれている。マルコ=ポーロは『東方見聞録』でこの涅槃像に触れており、その後で“偶像崇拝教徒”がさほど性道徳において禁欲的でないことなどを報告している。ベーチ太后がフビライをここで生んだという伝説もある。

 涅槃像は中国に現存する泥塑臥仏としては最大のものである。回廊を回りながら、幻となった西夏の人々に思いを馳せると、涅槃像の大きな目の表情などが心に残るような気がする。大仏殿の入口の左右の外壁に一対の精緻な石刻レリーフがあり、これも見ものだ。

 このほか境内には、大仏殿のうしろに蔵経閣があり、奥に明代創建といわれる高さ33mのチベット仏教式の土塔などがある。蔵経閣には7000余件の経が集められているといい、土塔の前の仏教展庁では、「皇帝聖書」(明の時代の皇帝の肉筆)、教典(「妙法蓮華経」木刻版の写真など)、「大唐西域記」などがの展示がある。

参考:中国旅行専門サイト

シルクロード――張掖編①

2009-06-08 17:32:08 | シルクロードの旅
西側をゴビ灘に望む位置によってシルクロード上の国際交易都市であった張掖はまた、祁連山脈から流れる黒河が大地を潤す河西回廊第一の穀倉地帯でもある。町も、郊外の農村も燦めく緑が実に美しい。

 張掖の名は、前漢の武帝が河西四郡を定めた折り、「断匈奴之右臂 張中国之臂掖」(匈奴の右臂を断ち、中国の臂掖(腋)を張る)という句に拠ったといわれる。西域へ版図を積極的に拡大した漢の意気込みを伝える話だが、西側をゴビ(戈壁)灘に接する張掖の地勢をみると、「臂(腋)を張る」という語感が伝わってくる。河西回廊は、張掖の町を出るとやがてゴビの広がりとなって、そのなかに点々とオアシスが続くようになる。酒泉、敦煌もそのようなオアシスの町であり、張掖はゴビの東端の町となっている。武威、張掖と回廊の草原地帯を伸びてきた漢の勢力が、酒泉、敦煌を望むゴビを前にして「臂(腋)を張る」というのは“いかにも”という感じがする。逆に、西域から広大なゴビのなかの道を渡ってきたシルクロードの隊商が張掖に辿り着くとホットしたであろうことも想像できる。
 
 シルクロード上のこのような位置から張掖は国際的な貿易都市として栄えた。隋の時にはこの張掖で国際貿易博覧会が開かれている。甘州とも呼ばれ、唐のころには一時吐蕃が支配し、唐の末から五代にかけては甘州回鶻の拠点ともなった。元代には、マルコ=ポーロがフビライ=ハンに謁見するまでの1年間をここで過ごしている。清代には張掖県となり、中華人民共和国となって市制が布かれた。

 張掖はまた、「金の張掖」と呼ばれる。祁連山脈の豊富な雪解け水を源とする黒河(河西四大水系のひとつ)とその支流が肥沃な大地(河西回廊を代表する農地)を形成し、古くから良質な米を産する豊な穀倉地帯となってきた。

 現在、人口は45万人(1市5県)。漢民族のほか、回族、蒙古族、裕固族、チベット族などの少数民族が住む。真夏の町には槐、柳などの並木が緑豊かに日に映えて、ゴビの熱風を受けながら開放的なオアシスの雰囲気を漂わせる。「金の張掖」の呼び名にふさわしく、町の周辺に広がる農村の緑はあくまで濃く豊かで、点在するひまわりの畑が印象的だ。
 
参考:中国旅行専門サイト