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シルクロード――ウルムチ編③

2009-09-25 10:29:58 | シルクロードの旅
                天池!この天上世界に遊ぶ

ウルムチの東に、天山山脈東部の最高峰ボゴダ峰(海抜5445m)がある。この中腹に天池があり、西域の旅では異質な、さながらにアルプスのような緑滴る高山の風景が広がる。ウルムチからは車でおよそ110kmの行程である。



 車は、鳥奇公路を行く。鳥奇公路はウルムチから米泉(米がうまいことで有名)、吉木薩爾を経て奇台へと続く天山北路の一部である。車は北東に草原を走り、阜康の手前で東に折れ、天池公路に入って、ボゴダ峰の山麓を三工河に沿って登っていく。山麓にはパオが点在し、浅瀬を流れ下る水は清冽だ。



 天池は、海抜1980m、半月形で南北3400m、最大幅約1500m、深さ約100m。20万年前におきた寒冷期と温暖期の繰り返し際に氷河が溶けてできた湖だといい、古くは瑤池と呼ばれ、氷池、龍潭、神池とも呼ばれてきた。天池の名は、清代の1783年にウルムチ都統の明亮がここに灌漑用の渠口を築いた際の「霊山天池疏鑿水渠碑記」により、文中の「見神池浩、如天鏡浮空」から取られた。

 伝説も多く、周の穆王が8頭立ての馬車で諸国を歴遊し、最後に西王母の国に来た折り、西王母が天池で一行をもてなしたと伝えられている。天池の下には、西王母が足を洗ったといわれる東小天池、西小天池の2つの池がある。

 澄んだ水を堪える蒼い湖の正面には、万年雪におおわれたボゴダ峰が輝き、湖の周囲を雲杉の樹木が囲む。大パノラマ風景のなかを遊覧船で遊び、周辺に遊牧するカザフ族のパオを見学するうち、俗世間を離れて、清浄な空気に包まれた別世界に遊ぶような気持ちになってくる。

 馬で小一時間先の山中にカザフ族を訪ねることもできる。山中のなかに草原が広がり、そこで実際に生活する、人なつっこく、素朴なカザフの人々と触れ合うよい機会だ。もちろんここでもカザフ族のパオの見学ができ、牛乳茶、小麦を綿の油で揚げたボグルサックなどでもてなしてもらいながら、カザフの生活を知ることができる。



 また、ウルムチの南へコルラ公道を60km行くと南山牧場への検問所がある。天山の大小の峡谷の中に広がる草原地帯で、カザフ族の放牧地となっている。樹林が茂り草花がおおう広大な農場であり、最も風景が美しいといわれる西白楊溝で高さ40mの滝を堪能したり、南山牧場で、カザフ族が馬で遊ぶ際の伝統遊戯などがみられる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――ウルムチ編②

2009-09-07 10:06:26 | シルクロードの旅
現在、新疆ウイグル自治区には、ウイグル族、漢族、カザフ族、回族、モンゴル族、キルギス族、シボ族、タジク族、ウズベク族など40を越える種族が住んでいる。さながら多くの種族の坩堝だが、これも西域の、諸民族の興亡の歴史がもたらしたものといえるだろう。

 漢代には卑陸国とされ、唐が庭州を置いたウルムチは、天山山脈の北麓を通る天山北路のオアシス都市として発達した。西域の諸都市と同様多くの種族の支配を経て、清代(18世紀末)に迪化県が置かれ、清末(19世紀末)にロシア帝国の脅威に備えて新疆省が置かれると、迪化は省都となり、軍事と貿易の基地として西北最大の都会へと成長した。中華民国のときに市政が布かれ、新政府成立後の1953年に市名がウルムチと定められた。解放後は天山山脈の豊富な鉱物資源によって。鉄鋼、石炭、機械などの工業都市として発展し、1955年の新疆ウイグル自治区の設置からは、区都として政治、経済、文化、交通の中心を担って繁栄し、現在では、高層ビルの林立する近代的な都市へと変貌を続けている。現代のシルクロードの旅においては、西側の玄関口でもある。

 ウルムチとは、モンゴル語で「美しい牧場」という意味だとも、ウイグル語で「団結」の意味だともいう。人口は140万人。天山山脈の麓の街は、南部の海抜は920m、北部は680mで、南から北へと傾斜している。自治区の区都を担う近代的な街としての整備は着々と進むが、一方で街のいたるところにバザールがありウイグル族など少数民族の匂いもまた各所にモザイク模様のように濃厚に漂っている。どこの海からも2300km以上離れていて、世界中で海から最も遠い都市である。気候ははっきりし、日差しの強い夏とダイヤモンド・ダストが舞う冬しかないといわれる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――ウルムチ編①

2009-09-02 12:05:17 | シルクロードの旅
新疆ウイグル自治区は広い。広大な中国の6分の1を占める最大の省区である。ユーラシア大陸のほぼ中心部にあって、面積約160万k㎡、広いところで南北約1650km、東西約2000kmにわたる。果てしない砂漠、どこまでも続く山脈が、その広さを伝えてくる。西側は、インド、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタンに隣接し、なお東側をモンゴルに接するとりとめなくも広漠とした地域だ。

 自治区の北辺にはモンゴルとを隔てるアルタイ山脈があり、西辺のタジキスタンに接するパミール高原とパキスタンに接するカラコルム山脈を経て、南辺には崑崙山脈、アルチン山脈がある。自治区の中央部をキルギスから海抜5000~7000mの峰を連ねる天山山脈が東西を貫き、北側のジュンガル盆地(グルバンチュンギュト砂漠)と、南側のタリム盆地(タクラマカン砂漠)とに分けている。タリム盆地はアジアの心臓と呼ばれる。

 かつて、この地域は漢民族によって「西域」と呼ばれ、多くの民族が興亡してきた。そのことが、この地域の歴史を複雑で理解しにくいものにしているが、ともあれ西域への漢民族の進出は、前漢の武帝が張騫を大月氏に派遣したことに始まる。以後、漢は匈奴と西域の覇権を争い、紀元前60年に西域都護府をいまのクチャとコルラの間のビュグル(輪台)に置いた。漢のときには、班超が亀茲(いまのクチャ)に西域都護府を置く。しかし、前漢と漢の場合も、あるいはその後も、その支配が弱まると、諸族が割拠し、匈奴やモンゴル族が威をふるった。唐代には、伊州(ハミ)、西州(トルファン)、庭州(ウルムチ)を定め、亀茲に安西都護府とその下に安西四鎮<亀茲、疏勒(カシュガル)、庭州(ウルムチ)、于闐(ホータン)、焉耆(カラシャール)>を、庭州には北庭都護府を置いてシルクロードを確保し、やがて西域全体を支配した。9世紀には、モンゴル高原にいたトルコ系のウイグル族が、キルギスに追われて庭州や高昌、天山西部に進出し、10世紀にはカシュガルを中心にイスラム教に改宗しつつ西域に定住・混血して、現在のウイグル人の祖先となっていった。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ