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シルクロード――トルファン編④

2009-07-31 18:58:44 | シルクロードの旅

一方、高昌故城は、交河故城とは対照的に平地につくられた一辺約1.5㎞の四角形をした大遺跡だ。城壁の高さ11m、建物の床の厚さ12mといわれるが、日干しレンガでつくられた城内は、柳の枝や枯れ草を混ぜたレンガが農作物の肥料になることから、長い間に近隣の農民によって持ち出され、遺跡は荒廃した。

 高昌城の起源は、紀元前1世紀に前漢がここに屯田兵を置いて高昌壁を築いたことに始まる。その後、五胡十六国時代に高昌郡が置かれ、沮渠氏の占拠の十数年後、モンゴル系の柔然が漢人による傀儡政権をここに建てて、460年に高昌国が誕生した。5世紀前半のトルファン盆地について『魏書』(「高昌伝」)には、「――(高昌は)敦煌を去りて十三日の行なり。国に八城有り。皆、華人有り。地は多く石磧、気候は温暖にして、厥の土地は良沃なり。北は赤石山にして、七十里に貪汗山有り。此の山の北は鉄勒(トルコ族の一種)の界なり」とある。

 高昌城はシルクロードの要衝の首都として栄え、なかでも麴氏高昌王国は10代、約140年間続いた。柔然、高車、突厥の支配を受けながら、仏教を信仰し、独自の官僚制、郡県制、年号を持ち、銭を発行した。現在残されている城壁はこの王国の麴文泰が建てたものといわれる。ちなみに、628年、玄奘三蔵は国禁を犯した求法の旅の途上、麴文泰に招かれて高昌城に40日間滞在し仏典の講義をしている。

 高昌王国は640年に唐に滅ぼされ、安西都護府が置かれると国際交易都市としてますます栄え、吐蕃、ウイグルの支配を経て、元代に荒廃した。

 現在、高昌故城は巨大な廃墟である。外城、内城、宮城に分かれているというが、広大でその区別は説明されなければ判らない。ただロバ車に乗って城内深くに入っていくとき、靜謐なその空間に、栄枯盛衰を経た時の流れを見出すばかりである。

 また、高昌故城の北4㎞にアスタナー(阿斯塔那)古墳がある。東西約5㎞、南北数㎞の広大な墓地に、600基に及ぶ地下に築かれた墓室群が眠る。ほとんどが3~8世紀の漢民族の墓で、壁画などから高昌国当時の生活を知ることができ、1300年前のミイラをみることができる(「アスターナ」とはウイグル語で「都」の意味である)。

参考:中国観光専門サイト-西部旅情

シルクロード――トルファン編③

2009-07-29 09:32:56 | シルクロードの旅
ふたつの故城で遠い「過去」に出会う    
 郊外の東西に、トルファンの歴史を伝える遺跡がある。町の西11㎞の交河故城と南東46㎞の高昌故城である。肥沃な土地とシルクロードの通商の利権のために、大国に翻弄された小国の悲哀をいまに伝える遺跡である。

 交河故城は、前漢のころの車師前国の都だった。サルマタイ系遊牧民族の車師前国は、大国の匈奴と漢との対立の間を、両国に服従しながら苦心を重ねて細々と生き抜きその命脈を保つたが、442年に、北魏に滅ぼされた北涼の沮渠氏がこの地に逃れ高昌郡を占拠する際に滅ぼされた。後に、交河城は高昌国の副都となった。

 交河故城は、その名のとおり、交わる河と河(二道溝と三道溝)の間の細長い台地の上にある。断崖は高さ30mで天然の要害をなし、南北1000m、東西の幅は最も広い所で300m。世界でも珍しい「彫刻都市」で、黄土の台地を上から掘り下げて町をつくったものだ。つまり、中国一般の日干しレンガを積み上げた町ではない。そのためか2000年を経過したいまも保存状態はよく、滅んだときの姿を風化に任せたままいまに残しているようで、故城のなかには車師前国の人々の息づかいが満ちているようだ。

 故城へは南門から入り、城の中心には幅3m、長さ350mの大道が通じ、西北に寺廟や仏塔、中央に官署、東南に住宅が残され、いちばん奥に塔林がある。

 巨大な船の形をした台地のうえに廃墟が続き、路地から路地を巡って住宅跡に足を踏み入れたり、甬道から地下建築のなかに導かれたりしていると、さながら時間の迷路に迷い込んだような気がしてくる。

 
参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

シルクロード――トルファン編②

2009-07-23 12:07:51 | シルクロードの旅
天山山脈南麓のトルファン盆地は、新疆ウイグル自治区の東西のほぼ中央に位置する。中国のシルクロード上で最も海抜の低い盆地で、トルファン市街地の海抜は24m、市の南100㎞のアイディン(艾丁)湖はマイナス154m(死海の392mに次ぐ低さ)だ。中心都市トルファンは、市と2つの県からなり、総面積4050k㎡、オアシス面積はこのうちの9%、大部分は四囲を囲む岩石と砂漠である。市の北側には東西に延々と火焔山が屏風のように続いている。

 かつては火州と呼ばれ、年間雨量16~22mm、年間蒸発量3000mmという乾燥地帯であるうえに、夏の暑さと大風も特徴で、最高気温48℃という記録や、風速40mの風が13時間にわたって吹き続けた記録もあるという。真夏の火焔山の地表温度は80℃に及ぶというから凄まじい(『西遊記』に描かれる「火の海の火焔山」も、あながち物語のこととは片付けられないリアリティがあるということができる。)

 古くは姑師と呼ばれ、漢代には車師前国の都・交河故城の東側に、漢の植民基地として高昌壁が設けられた。五胡十六国のころに高昌郡、5世紀なかばには高昌国が建てられたが、車師前国、高昌国ともに匈奴や突厥など遊牧諸民族と、西域を治める拠点にしたい漢民族との間に狭まれた小国として翻弄され続けた。シルクロード・西域北道(天山南路)のオアシスとして重要な地点であったことに、トルファンの繁栄もあり、諸民族の争奪の的になり続ける悲劇もあったのである。唐は高昌国を滅ぼして西州とし、安西都護府を置いた。8世紀末には吐番(チベット)の支配下に入り、その後西ウイグル国、チンギス汗、東チャガタイ汗国、カシュガル汗国、ジュンガル部の支配を受け、清のころに新疆省が成立して鎮迪道に属し、1984年にトルファン市となった。

 現在、トルファンの人口は54万人(市の人口は25万人)。ウイグル族74%、漢族20%、回族ほか6%という人口構成になっている。

 過酷な気象条件であっても、かえってそのためにこの地は葡萄や瓜などの果物の栽培に適し、地味は豊かで、夏のオアシスは強い日差しのなかに、鮮やかな緑を溢れさせて美しく輝く。小さなトルファン市街や周辺の村には、冗談好きで陽気なウイグル族の男たち、彫りが深く控えめな女たちや人懐っこい子供たちがいて、つまりは、この人たちこそが「オアシスの華」なのだと思わずにはいられない。どこのオアシスも砂漠の宝石ではあるが、トルファンはことのほかその思いを強く感じさせる。日干しレンガを積んだ風通しのよい葡萄小屋、天山山脈の地下水が湧く井戸を地下水道でつなぐカレーズなども独特の風物詩を奏でる。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――トルファン編①

2009-07-22 11:29:39 | シルクロードの旅
燃える山の麓のオアシスの美しさに酔える町―トルファン

トルファンはシルクロードにひときわ輝く宝石であり美酒である

火焔山が連なる麓にカレーズが清冽な水を運び

真夏の光のなかに人も緑も生命の讃歌を歌うように輝く

歴史に翻弄された小国の悲哀を重ねた土地は、それでも

ウイグル族の陽気な表情が心好く滲みて

緑陰で憩う午後のワインのように訪れる人々を酔わせる


参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編⑧

2009-07-16 16:21:33 | シルクロードの旅
敦煌故城、西千仏洞を訪ねる



敦煌市街から西南に陽関へと向かう道の途中には、敦煌故城、西千仏洞があり、陽関の近くには南湖がある。陽関を含めてこれらを見学する折りのコースに入れると都合がいい。道は、市街地から周辺の農村を抜け、南側に鳴沙山の連なり、北側にゴビ灘の広がりが現れるその間を直進するので、鳴沙山の全景を眺めることもできる。

 敦煌故城は、1987年に日中合作映画『敦煌』(井上靖原作)を撮影するために、宋代の敦煌城を再現したオープンセットをそのまま残して開放したものだ。鳴沙山を背景に城壁を巡らした城は雄大な風景のなかでは小さく感じられるが、見学してみるとなかなか大きなもので、映画撮影用に造られたことに驚く。城内には、干乾しレンガの町が再現され、その間を歩くと日本の明治村などのテーマパークと同じような楽しみが味わえる。



 西千仏洞は、市街地から30㎞の党河北岸に穿たれた石窟群だ。党河沿いに樹木が繁り、断崖の高さ20数mの中腹に170mに渡って19窟があり、さらに東3.5㎞の下流に3窟、計22窟がある。現存する石窟は少ないが(党河が大きく湾曲する場所にあるため、急流によって崖が削られ多くの石窟が崩れ落ちたと考えられている)、莫高窟、楡林窟と並んで敦煌三大石窟と呼ばれ、北魏、隋など初期の石窟があることで注目されている。営造の始まった時期ははっきりしていない。敦煌から陽関(西千仏洞から23㎞先)に向かう途中にあることから、陽関から西にタクラマカン砂漠へ踏み出す旅人が心の拠り所としたことが想像されている。

 石窟は、莫高窟のような細心人念な修復の手が加えられていないため、首のない塑像や損傷を受けた壁画などがあって残念な感じがするが、石窟が築かれる場所が共通してもっている靜謐を漂わせた神韻縹渺の雰囲気を味わうことができる。

 陽関のほど近くには、漢の武帝に献上された天馬の産地と伝えられる南湖がある。地下水の湧出によってできた湖で、敦煌で供される魚はここで獲られるという。1984年にダムがつくられてからは大オアシスを形成し、果樹園を主とする農村の緑が眩しい別天地である。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編⑦

2009-07-10 17:34:32 | シルクロードの旅
ゴビ灘のなかの2000年を経た関門玉門関と陽関

 敦煌市街の西北90㎞に前漢時代に築かれた玉門関があり、ここから南80㎞(市街の西北70㎞)に漢代に築かれた陽関がある。敦煌城と玉門関、陽関はほぼ正三角形をなし、玉門関は西域北道(天山南路と天山北路)に対する漢民族の最西端の関門、陽関は西域南道の最西端の関門であり、重要な軍事拠点として機能した。特に、玉門関は武帝の西域への進出に伴って築かれたもので、敦煌郡の設置より早いとみられている。武帝は秦の長城をここまで伸ばし、敦煌を西域へと進出する補給基地、玉門関をその最前線の砦としたのである。

ともにゴビ灘のど真ん中にあって、特に、玉門関へ行くにはゴビ灘のなかを車で2時間余り行くことになり、周囲を見渡す限り地平線であるゴビ灘に身を晒す冒険気分を味わうことになる。

 2000年の時を経た玉門関は、現在、一辺約25m、高さ約10mの黄土の砦をひとつ残すばかりだが、

 黄河遠く上る白雲の間
 一片の孤城万仭の山
 羌笛何ぞ須いん楊柳を怨むを
 春光度らず玉門関

 と、唐の詩人王之渙が「涼州詞」で歌った悲壮感はいまも感じとることができる。鈍色のゴビ灘のなかを渡って砦を仰ぐと、「春光度らず玉門関」という感じがしみじみ伝わり、辺境の要塞を守った兵士の姿が目に浮かぶようだ。砦は北と西に門があり、当時の検札所だったとみられている。北に疏勒河沿いの古道があり、光る水面とそれに沿って緑が広がるのが遠望できる。玉門関から東に10㎞には食糧貯蔵庫であった河倉城、西5㎞には保存状態のよい漢代の長城がある。

 また、同じく唐の詩人王維が「送元二使安西」(元二の安西に使するを送る―安西はいまの安西ではなく、安西都護府が置かれていたいまのクチャのこと)で、

 渭城の朝雨軽塵を浥おす
 客舎青青柳色新なり
 君に勧む更に尽せ一杯の酒
 西のかた陽関を出れば
 故人無からん

 と歌った陽関へは、玉門関からゴビ灘のなかを車で1時間30分程度でいくことができ、別に敦煌市街からも道が通じている。

 玄奘三蔵が天竺から帰る折りに通過したといわれる陽関は、長くその所在が分からなかった。陽関の場所が断定されたのは、1972年の酒泉地区文物調査隊が大型の版築遺跡を発見してからで、現在はそこに「陽関故祉」と刻まれた碑が建てられている。このあたりは、砂のなかから古銭や矢じりなどの「骨董」がみつかることから骨董灘と呼ばれ、遺跡の端の墩墩山には烽火台があり「陽関の耳目」であったといわれてきた。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編⑥

2009-07-06 10:45:14 | シルクロードの旅
幻想を誘う不思議な空間 鳴沙山と月牙泉

 鳴沙山は、敦煌の南にあって、東西の長さ40㎞、南北の幅20㎞に及ぶ大砂丘群だ。東の断崖に莫高窟があり、西は党河に至る。40㎞にわたる三日月型の砂丘の連なりは、あたかも金色の龍が、敦煌のオアシスを抱いているようで、オアシスの緑と強い対照をなしている。古くは神沙山、沙角山とも呼ばれ、砂丘の最も大きなものは高さ250mに及ぶ。風の強いゴビ灘のなかに忽然と現れる砂丘の連なりは、なぜここにだけこのような砂丘ができたのか、その生成自体が不思議に思える。



 古文献によれば、鳴沙山の砂丘は夏の暑い日に自ずから鳴り出し、金鼓(陣鉦や陣太鼓)の音がするという。「沙嶺晴鳴」と呼ばれ、人馬が踏めば数十里に響き、端午の日に城中の子女がみな登り一斉に駆け降りると雷のようになったといい、ここから鳴沙山と呼ばれるようになったという。細かい砂は、紅、黄、緑、白、黒の5色からなり、5色沙と呼ばれている。

 一般に鳴沙山と呼び観光客が訪れるのは、市街地から6㎞の、月牙泉を抱く砂丘群のなかの高さ50~60mの砂山である。

 夏の日中は酷く暑いため、夕方に訪れる人々が多い鳴沙山前の賑やかな通りを抜け、入口に着くと、たくさんのラクダがいて、月牙泉のある砂山の麓まで乗って行くことできる。砂山を登るのはやや骨が折れるが、頂上からの眺望は絶景である。鳴沙山の峰を繋ぐ稜線が鋭利な刃物で削り取られたように続き、その斜面はゆったりと放物線を描いている。眼下に月牙泉があり、砂丘の向こうに整然と広がるオアシスの緑、あるいは地平線まで続くゴビの広がりをみることができる。



 麓の月牙泉は、3000年来その水が枯れることがないといわれる泉だ。砂丘のなかにあって、砂に埋まることもなく、枯れることもないという泉は、鳴沙山の生成と同じようにその存在が不思議なものに思える。特殊な小環境において、風が昼夜ぐるぐると回っているから周囲の砂丘が月牙泉を侵食しないのだといわれ、泉が枯れないのは祁連山脈の地下水がそのような小環境が何千年と維持されていることが不思議に思われてくる。葦に囲まれ三日月の形をした泉は、東西218m、南北54m、深さ2~5m。泉の畔から周りを囲む砂丘を見上げると、自然の不思議なバランスがこの泉を守っている気がしてくる。

 この不思議さの感覚は、鳴沙山を「神山」、月牙泉を「神泉」とみるいくつもの伝説を生んでいる。例えば、泉のなかには食べると薬効がある鉄背魚という魚が棲んでいたが、高く取り引きされるようになるとその薬効が失われたとか、かつては水辺に安産の効能がある七星草という草が生えていたが、そのために採り過ぎていまはなくなってしまったという伝説などである。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編⑤

2009-07-03 10:18:04 | シルクロードの旅
中国芸術の至宝、人類への遺産 敦煌莫高窟

敦煌莫高窟は、敦煌市から東南に25㎞離れた鳴沙山の東端の断崖にある。三危山と対峙する大泉河の西岸に、南北に1.6㎞にわたって600に近い窟が穿たれている。市街地を離れ、空港を左にみながらゴビのなかの真っ直ぐな道を走っていくと、草木ひとつない鳴沙山と三危山が迫る峡谷に、一筋の紐のように細長い小さなオアシスがみえてくる。右前方のポプラの繁る細い帯の向こうに、2段、3段に窟を穿たれた断崖が続く。「ここに!」と思わせるショッキングな出会いである。


莫高窟の芸術性の質量は、1日じっくり鑑賞しても味わい尽くせるものではない。写真は、高さ34.5mの大仏を収める第96窟。9層の楼閣は莫高窟のシンボルでもある。

 莫高窟の開鑿は、現存する「重修莫高窟仏龕碑」(武周聖暦元年・唐代・698年)によると、前秦の366年(建元2年)である。清の地史学者徐松は『西域水道記』卷三に「重修莫高窟仏龕碑」を引いて、

 「莫高窟は、その初めは秦(前秦)の建元二年、沙門楽僔なるものあり、戒行清虚にして、熱心恬靜たり。嘗て錫を林野に杖き、行きて北の山に至るに、忽として金光を見る。状、千仏あり。その状、千仏にして(5字缺)窟として一龕を造る。次で法良禅師なるものあり、東より此に届り、又僔師の窟の側に、更に即きて営建す。伽藍の起りは二僧に濫觴するなり。復、刺史建平公(北周の刺史建于義)、東陽王(北魏の王)あり、(7字缺)後、州の黎庶(庶民)を合せて造作し相仍ぬ。実に神秀の幽厳、霊奇の淨域なり。(中略)秦の建元二年より大周聖暦の辰(則天武后のころ。698年)に至る。楽僔、法良はその宗を発し、建平、東陽はその迹を弘めたるなり。甲子を推すに四百他歳、窟室を計うるに一千餘龕。今は僧徒を置くを見る」

 と記されている。この地を訪れた僧・楽僔が三危山に輝く夕日に千仏をみて、ここに一龕を築き、ついで東からきた法良禅師がその傍らに窟を営造したことに始まるというのである。ほかに352年または353年という説もあるが、いずれにしても、その開鑿は4世紀なかばである(この中国最初の仏教石窟・莫高窟の造窟は、五胡十六国のころの敦煌を中心とする河西回廊上の仏教の興隆を背景にまず周辺に波及し、酒泉の金塔寺石窟、文殊山石窟、張掖の馬蹄寺石窟、武威の天梯山石窟、さらに東の蘭州の炳霊寺石窟、天水の麦積山石窟、西ではトルファンのベゼクリク千仏洞の造窟へとそのうねりを伝えている。)

 莫高窟には、唐代にはすでに1000余りの窟龕があったといわれており、現在は、十六国、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元の10王朝の石窟など492窟が残されている。それぞれの時代の文化、生活を知るうえでの貴重な資料である上、その規模は、壁画総量45000㎡、彩色塑像2400体余、唐・宋の木造りの洞窟5座にわたり、世界最大の画廊、第一級の仏教芸術の宝庫となっている。

 また元代以降、歴史上から忘れ去られた莫高窟が(清代にも重修は行われたが)、その生命を取り戻すのは、清末の1900年、莫高窟の前に住んでいた王円籙という道士によって、偶然「蔵経洞」(第17窟)が発見されたことがきっかけとなる。なかにいっぱいに積み上げられた5万件に登る古文書が、1907年から1925年の間にイギリスのスタイン、フランスのぺリオ、アメリカのウォーナーなどによって持ち出され、皮肉にも国外において注目を浴びて「敦煌学」を生んだ。その後、いわばゴビ灘のなかに放置されたまま風前の灯であった莫高窟は、辛うじて1943年に荒廃しきった莫高窟に赴いた常書鴻を中心とする現在の敦煌研究院の献身的、不屈の努力によって、一つひとつ補修され、環境の整備がなされて、今日の輝かしい世界遺産として蘇生したのである。

 ちなみに、敦煌石窟と総称する場合、最大の石窟である莫高窟(千仏洞)のほかに、西千仏洞、安西の楡林窟(万仏峡)を指す。このほか敦煌周辺には、安西の東千仏洞、粛北モンゴル族自治県の五個廟石窟などがある。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編④

2009-07-02 10:16:35 | シルクロードの旅
市内では白馬塔、博物館が面白い

観光都市としての世界的な名声からは意外なほど、敦煌はこぢんまりした、質素で素朴な気風を漂わせる町である。周辺をオアシスの農村に囲まれる町は、歩いても30分くらいで端から端に達してしまう。莫高窟を始めとする名所旧跡は郊外に多く、市街地の見所としては、白馬塔(正確には敦煌の町を西側に出て党河を渡った旧城内にある。町から3km)、敦煌博物館などが挙げられる。

 白馬塔は敦煌の旧城内の党河郷にある。4世紀、亀茲国を討った帰途に武威に後涼を建てることになる将軍呂光が、亀茲(クチャ)から高僧鳩摩羅什を伴い、2000頭のラクダに財宝を載せて敦煌に来たとき、鳩摩羅什の乗っていた白馬が斃れた。羅什に対する尊敬の気持ちから、敦煌の人々が馬を葬り白馬塔を建てたという伝説が伝えられている。塔は基部が8角、上部は円筒形の9層で、ラマ塔を思わせる白色が印象的である。建立の年代は不明で、19世紀半ばに改築されている。周囲の緑に白色が映える美しい塔だ。近くには、敦煌旧城の城壁の一部残されている。

 敦煌博物館は街なかにある。1979年に建てられた、小さいけれど好感の持てる博物館だ。蔵経洞に残された敦煌文書の一部である教典の写本、チベット語写経などが展示されているほか、漢長城出土品など漢代以降の遺物も展示され、先史時代からの敦煌の変遷をみることができる。それほど時間を取られずに、数々の興味深いシルクロード都市ならではの展示品をみることができる。清のころの夜光杯も展示されている。売店では工芸品を始めとする土産品も売っている。前庭にはラクダとラクダ追いの男の大きな石像と、ぞの左側に空軍のジェット機の実物が置いてあり、ちぐはぐでどことなく愛敬がある。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情

シルクロード――敦煌編③

2009-07-01 10:19:14 | シルクロードの旅
敦煌は、五胡十六国時代には沙州と名付けられた。唐のころに、一時、吐番(チベット族)の支配を受けるが、851年に豪族の張議潮がこれを駆遂して、敦煌に帰義軍を置いた。これは中原の政権に属しながらも半ば独立した政権で、この帰義軍時代は張氏、曹氏と引き継がれ、11世紀始めに河西回廊が西夏の支配を受けるまで続く。13世紀始めに西夏は元に滅ぼされ、14世紀には明の時代となるが、明は西域経営には関心がなく、16世紀には嘉峪関を建ててその以西の土地を事実上放棄した。このため、敦煌はトルファンの回教政権下に置かれた。敦煌が再び中原の政権に復帰するのは18世紀の清のときであり、敦煌県が置かれ、以来、敦煌の名が定まった。

 一方、流転の歴史を刻む敦煌は、その地理的な位置からいくつもの重要な役割を担った。『後漢書』の「西域伝」には、

 「敦煌より西のかた玉門、陽関を出でて、鄯善に渉る。敦煌より北すれば、伊吾(ハミ)に通ず」

 と記され、『隋書』の「斐矩伝」には、

「敦煌より発して西海(西の砂漠地帯)に至るには、凡そ三つの道あり。各々襟帯あり。(中略)故に知る、伊吾、高昌(トルファン)、鄯善は、皆西域の門戸なり。総て敦煌にあつまる。是れ其の咽喉の地なり」

と記されている。
前漢の敦煌郡の設置によって本格的に漢民族の地として築かれた敦煌は、シルクロードのいずれの道もが収束する「咽喉」であり、西域から辿りつけば、最初に目にする漢民族のオアシスだった。玉や香料、銀器、銅器、名馬などさまざまな西域の物産とその文化を中原にもたらす国際都市として発展し、1世紀には敦煌に入っていたといわれる中央アジアのソグド人をはじめ、多くの西域商人が活躍した。またそればかりでなく、仏教も敦煌を経由して中原へともたらされた。『高僧伝』に「経法の広く中華に流る所以は護の力なり」といわれ、三国時代に多くの教典をもたらした竺法護は敦煌出身の月氏人だった。また莫高窟に最初の窟が築かれた五胡十六国の前涼のころは、前涼の都の武威や敦煌は東西文明の坩堝であり、仏典翻訳の中心地だったのである。

いわば国際的な交易都市、仏教都市として繁栄した敦煌だが、元の末期には「海のシルクロード」の発達に伴う西域シルクロードの衰退によって西域の諸都市とともに歴史から忘れ去られていった。辺境のオアシスとして細々と命脈を保つ長いときを経て、敦煌が再び脚光を浴びるのは、スタインらの探検家によって莫高窟蔵経洞の古文書が西洋に持ち去られ、それらが世界に驚愕を与えたことによってだった。

現在、敦煌の総面積は32200k㎡、そのうちオアシスの面積は4.5%に過ぎない。が、いまも昔も、敦煌は祁連山を源流とする党河流域の最大のオアシスである。年間降雨量39mm、年間蒸発量2400mm。ゴビに囲まれた乾燥地帯でありながらも、豊富な祁連山脈からの地下水によって農業が盛んだ。人口18万人のうち80%が農業や林業、牧畜に携わっているといい、小麦、栗、トウモロコシ、麻、綿花のほか、瓜、西瓜、葡萄などの果物が栽培されている。また、周辺には回族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族などの集落が散在し、かつてのシルクロード都市に多様な民族が暮らした記憶を残している。安西から109㎞、蘭新鉄道の柳園駅から128㎞。西と北は新疆ウイグル自治区に接し、南は青海、チベットへと通じる甘粛省西部の交通の要衝でもある。  
 
参考:中国観光専門サイト―西部旅情