一方、高昌故城は、交河故城とは対照的に平地につくられた一辺約1.5㎞の四角形をした大遺跡だ。城壁の高さ11m、建物の床の厚さ12mといわれるが、日干しレンガでつくられた城内は、柳の枝や枯れ草を混ぜたレンガが農作物の肥料になることから、長い間に近隣の農民によって持ち出され、遺跡は荒廃した。
高昌城の起源は、紀元前1世紀に前漢がここに屯田兵を置いて高昌壁を築いたことに始まる。その後、五胡十六国時代に高昌郡が置かれ、沮渠氏の占拠の十数年後、モンゴル系の柔然が漢人による傀儡政権をここに建てて、460年に高昌国が誕生した。5世紀前半のトルファン盆地について『魏書』(「高昌伝」)には、「――(高昌は)敦煌を去りて十三日の行なり。国に八城有り。皆、華人有り。地は多く石磧、気候は温暖にして、厥の土地は良沃なり。北は赤石山にして、七十里に貪汗山有り。此の山の北は鉄勒(トルコ族の一種)の界なり」とある。
高昌城はシルクロードの要衝の首都として栄え、なかでも麴氏高昌王国は10代、約140年間続いた。柔然、高車、突厥の支配を受けながら、仏教を信仰し、独自の官僚制、郡県制、年号を持ち、銭を発行した。現在残されている城壁はこの王国の麴文泰が建てたものといわれる。ちなみに、628年、玄奘三蔵は国禁を犯した求法の旅の途上、麴文泰に招かれて高昌城に40日間滞在し仏典の講義をしている。
高昌王国は640年に唐に滅ぼされ、安西都護府が置かれると国際交易都市としてますます栄え、吐蕃、ウイグルの支配を経て、元代に荒廃した。
現在、高昌故城は巨大な廃墟である。外城、内城、宮城に分かれているというが、広大でその区別は説明されなければ判らない。ただロバ車に乗って城内深くに入っていくとき、靜謐なその空間に、栄枯盛衰を経た時の流れを見出すばかりである。
また、高昌故城の北4㎞にアスタナー(阿斯塔那)古墳がある。東西約5㎞、南北数㎞の広大な墓地に、600基に及ぶ地下に築かれた墓室群が眠る。ほとんどが3~8世紀の漢民族の墓で、壁画などから高昌国当時の生活を知ることができ、1300年前のミイラをみることができる(「アスターナ」とはウイグル語で「都」の意味である)。
参考:中国観光専門サイト-西部旅情