中国旅行 http://www.westpassion.com

中国旅行、中国観光、中国最新の観光情報を詳しく紹介!

西安の名物料理 食べたくてたまらない~

2008-10-23 13:13:51 | Weblog
ホームページ:http://www.westpassion.com

西安の食の文化は歴史が長く、独自の特色ある食文化を形成しています。餃子が特に有名です。
この西安の中華料理は独特のもので、小麦粉、羊肉、スパイス、香り油(辣油、葱油、山椒油等)などが使われており、今までの中華料理とは異なり、とくに刀削麺、餃子、小龍包などはその味に驚愕することであろう。
  
西安名物「羊肉泡モオ」を楽しもう
軽食の「羊肉泡モオ」は特に有名です。羊肉や野菜を煮込んだスープが効いた、すいとんのような料理です。
    この料理は庶民の間ですぐに広まり、1000年が経った今も、西安の名物であり続けています。西安の鐘楼鼓楼広場には、88年の歴史をもつ老舗店「同盛祥」があります。この店の「羊肉泡モオ」は肉が柔らかく、スープの味が濃いので、人々の間で「美味しい」と評判です。今年6月には、国の無形文化遺産に認定されるなど、高い評価を受けています。
 
 お昼時にもなると、店内はお客さんでいっぱいです。お客さんはおしゃべりを楽しみながら、「モオ」をちぎってスープに入れています。そして、ころあいを見て、食べ始めるのです。
西安といえば、やはり『羊肉泡モオ』ですよ。各地の友人が西安に遊びに来ると、本場の『羊肉泡モオ』を食べたい!とリクエストする人が多いんです。私も『羊肉泡モオ』は大好きだし、ぜひみんなに食べてもらいたい。『羊肉泡モオ』の人気は、永遠に続くと信じています。


秦鎮涼皮
西安の代表的な夏の小吃。小麦や米の澱粉を使い、透明で光沢のある食べ物。

黄桂柿子餅
臨潼県の名物の「火晶柿子」を使って作られたものです。柿と小麦粉をよくこねてお餅の形にして、中に金木犀、氷砂糖、胡桃などの飴を入れ、油で揚げて作ります。

灌湯包子
イスラム風の饅頭で、皮が非常に薄く、具は羊肉か牛肉を主としています。普通の饅頭と違って、具が少ない代わりに、肉汁がたっぷり入っています。そのスープをこぼさないようになるべく一口で食べるのがコツです。
      
西安では主食として麺と饅頭が食べられている。
麺は、細いものから太いものまで多くの種類があり、中でも山西省の名物の刀削面が人気がある。
また、西安は餃子のルーツでもあり、さまざまな具を入れた色形の美しい餃子を「餃子宴」として出す老舗の店も有名である。


代表的な料理は《羊肉泡摸》《餃子》《牛肉ラーメン》《羊肉餅》《シシカバブ》《挟摸》《涼皮》
  

ホームページ:http://www.westpassion.com

西漢武帝劉徹の墓 茂陵

2008-10-23 12:03:34 | 西安観光地
西漢武帝、劉徹の墓である。

西安市から西北40キロの茂陵村に位置している。

現存の陵墓の高さは46.5m、地下底部の一辺の長さは240m、陵園は方形で、一辺の長さは約420m。敷地の面積は5400平方メートルある。

武帝の即位から53年もの長い期間をかけて建設されたものである。
茂陵は巨大で、墓内の副葬品は極めて豪華で数も多い。
劉徹が西漢武帝在位中、漢帝国は最盛期を迎えた、西域への道、シルクロードを切り開き、河西回廊を確保し、南は海南まで勢力を伸ばした。
中華民族の生活領域は広がり、漢帝国の統一、繁栄は世界の東方にその強大な姿をそびえたたせた。
茂陵のまわりには約20の陪塚(ばいちょう・ばいづか)が点在している。
これらの陪塚は方形、円形、山形の三種類に分けられ、李夫人、衛青、霍去病、霍光などの皇族や功績のあった大臣の墓がある。
茂陵から東北に1キロの所には茂陵博物館があり、多くの貴重な文物が所蔵されている。例えば純金、金、銅の馬、秦漢代の肖像画、文字瓦当などで、どれも非常に歴史的価値のある物たちである。

参考:中国旅行専門サイト

鐘楼 

2008-10-23 11:10:53 | 西安観光地

http:www.westpassion.com


http:www.westpassion.com

鐘楼は西安市内の中心にあります。


http:www.westpassion.com
http:www.westpassion.com

ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。
東から西から南から北から
この四つの大通りが市内の交通網の基軸となっています。
http:www.westpassion.com
 

鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。  
昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。
もとは広済街にありましたが1582年に今の所に移りました。
塔の上にかつて、大きな鐘が吊るされていました。
鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わって から東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。 
今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げています。
鐘楼は外から見れば華麗な三階建てですが、実は軒が三層、建築は二層です。
楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。
天井には綺麗な花 の模様が描かれています。
四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。
この壮観な建物の造営のには釘が一本も使われていません。
鐘楼は清代の乾隆五年(1740年)に修理されました。
また、1953年7月から1954年6月にかけて全面的な大修理が行われ、ペンキも塗り直され、 現在の姿は全く昔日と同じです。
楼上からは市内の街並を一望できます。

参考:中国旅行専門サイト

西安観光スポット 唐の第二代皇帝李世民の陵墓

2008-10-23 10:50:29 | 西安観光地
http://www.westpassion.com
 

昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓です。
李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位しました。翌年、貞観と年号を改めました。在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」を作り上げました。
太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築くことに力を入れました。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」です。

昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にあります。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれていますが、昭陵のある峰は日本の富士山の形に少し似ています。しかし、東側から見ると筆置きの形に似ているので、土地の人々は筆架山と呼んでいます。この山が陵墓の地に選ばれたのにはエピソードがあります。中国各時代の皇帝は誰でも皆陵墓の地をどこに選ぶかを大変重視していました。李世民も例外ではなく、大臣の李助と魏徴を派遣して陵墓の地を選定させました。李助は九峻山に着て、頂上の峰に登り、演技の良い印として穴開き銅銭を埋めました。それからなく魏徴も偶然同じ場所に着て辺り景色を眺め、すっかり気に入って彼の立ったところに縁起の良い印として銭を埋めました。李世民はこの結果に満足し、ここを陵墓の地と決めました。

太宗李世民を埋葬した二日目にこの山が一夜のうちに高くなり、以後少しずつ高くなっているという伝説があります。636年、すなわち太宗が即位して10年、文徳皇后長孫氏がなくなったとき、太宗は皇后の「山に埋葬」という遺言によって九峻山に皇后を埋葬し、昭陵と名付けました。それから引き続き造営しました。「山に因って陵を為す」という唐代の帝王陵墓の造りかたの先例となりました。  649年、太宗が亡くなって文徳皇后と合葬されて、これによって陵墓の造営工事は終りました。「山に因って陵を為す」の先例になった昭陵は自然の山(九峻山)を選んで穴を掘って墓室に通じる墓道と峰の底に地下宮殿を造りました。ある資料によると、墓室までの墓道は深さ230mで、墓道に五つの石門が設けられているということです。地下宮殿は広く、華やかで、長安城の宮殿とほとんど変わらず、墓道の両側にはそれぞれ部屋があって、その中に石の箪笥が並べられ、石の箪笥の中に殉葬品の入った鉄の箱が治められているということです。往来の不便を解消するために、岩に沿って桟道を造り、昭陵の上には墓守のために家屋などもあります。

千年あまりの変遷を経て、昭陵の地上の建築物はなくなり、今は遺跡が数ヶ所残っているだけです。陵墓の南の山の下に、朱雀門、献門、北に祭壇、司馬門、東西には小さい建物、西南には宮城(当時多くの家屋がここに建てられていた)がありました。宮城の建物は一度火災に遭いましたが、798年に378間の部屋が建て直されたそうです。献殿の遺跡から、高さ150cm、重さ150Kgの陶製のしゃちほこが出土されましたが、この建物の装飾品から当時の宮殿の雄大さと規模が想像できます。昭陵は周囲80キロ、総面積二万ヘクタールあり、陪塚が167ヶ所あるのが昭陵の特徴のひとつとなっています。
太宗李世民の柩は陵墓の一番北にあって、長安城の北にあった宮殿と同様、高い所から下を臨むことができます。陪塚の中では唐王朝の繁栄を導いた魏徴、李助、李靖の三人の墓が他の墓と異なった形をしています。李助の墓は陰山、鉄山、鳥徳健山であげた彼の輝かしい業績を記念して、その3つの山の形をしています。この墓の前にはまた一組の石人像があって、左側に石羊、右側に石虎がそれぞれ三体ずつ配置されています。そも墓碑は高さ6.65mで、高宗李治が自ら李助のために墓誌を書き、また自筆したものです。この三人の墓の規模から、彼らの業績と唐王朝の特殊な関係がわかります。
また、陪塚の中には西北地区の少数民族の将軍たちの墓もあります。彼らは唐政権の中で重要な職につき、中には唐の皇族と婚姻関係を持ったものもいます。昭陵遺跡にみられるもうひとつの特徴は石刻芸術がリアルな手法で統一されていることです。

昭陵は唐の有名な美術家閏立徳のデザインに基づいて造営されたもので、規模や配置などに独特の風格を持っています。「昭陵六駿」のレリーフはその代表的なもののひとつです。六駿とは唐の太宗の愛馬で、この六頭の馬に乗って戦場を駆け巡りました。この六頭の馬は唐王朝の統一の戦いで業績をあげたので、太宗の命によって石に刻まれ、昭陵の北の祭壇に安置されました。馬の姿がそれぞれ異なり、強健でたくました、生き生きとしています。熟練した職工と簡潔な手法で実物を表現し、きわめて高い芸術的価値を持っています。
残念ながら、これらの珍しい芸術品は1920年に盗まれ、そのうちの二つはアメリカのフィラデルフィアのペンシルバニア大学博物館に保存されています。残る四つは密輸中に発見されて、西安に運び戻され、現在碑林石刻芸術博物館に展示されています。密輸中にこの六点はいくつかに割れてしまって、現在は馬に射かけられた矢も見えず、レリーフに書かれていた太宗の題字とその馬の名前も見えなくなってしまいました。
幸い、北宗の遊師雄が立てた昭陵六駿の石碑がまだ残っていて、それに線刻の手法で、この六駿のレリーフを詳しく、名前、毛色の特徴、功績及び太宗が書いた称賛の全文の記録が六駿の他に安置されていました。

唐の時代、墓の前に石碑を立てたり、墓室の中に墓誌銘を安置したりすることが盛んでした。昭陵も同じで、これらの石碑には唐初期のすばらしい書が残されています。その中で、書道に熱心だった太宗の石碑の多くが昭陵博物館に保存されています。また、昭陵から出土した陪葬品は特に数が多く、内容的にも豊富です。石俑、木製俑、陶俑、色釉俑などいろいろあり、そのうち色釉俑は昭陵から出土した文物の特色を代表するものです。
唐の時代は、非常に繁栄した時代でした。それに加えて唐の太宗は功績が多く、すばらしい皇帝だったので、彼の陵墓である昭陵は「天下の名陵」と言われています。1961年に国務院は国家重要文化財に指定し、併せて昭陵博物館を建てて、国内外の観光客を新たな顔で迎えています。

参考:中国旅行専門サイト

西安歴史の名所  水陸庵  

2008-10-22 16:46:32 | 西安観光地



西安歴史名所、有名な観光地である水陸庵は西安の東南50キロの秦嶺の麓にあり、無類の美しさを持ち多種多彩な塑像を所蔵する。 

水陸庵は東向きに立てられ、山門内には前殿、中殿、大雄宝殿とその他の建築があり、殆どが明清のものである。この水陸庵は唐代あるいはその前の南北朝時期に創立されたものと見られるが、当時の地上建築は跡形もない。今に残る配置は明の時代のものである。
 


水陸庵の彩色塑像はきらびやかな上に壮観で、大殿内の南と北の2つの高い壁、殿内正面の仕切りの間の西壁と両側の軒つきの壁の4つの部分からなる。その中で、南北2つの壁の塑像群の面積が最も大きく、精彩を放っている。これらの壁にほどこされた塑像群は連続物語のごとき形式で配置され、南側から北側へと上下に並べて釈迦牟尼の略伝が紹介されている。 

人物としては多くの仏と菩薩、飛天と供養者があり、鳥獣としては竜、鳳凰、獅子、象、牛、麒麟などが見られ、景観としては庭園、山河、楼閣や他の家屋などがある。人物像の外観と表情はそれぞれ真に迫り、いずれも個性がはっきり現れている。 これらの壁にほどこされた塑像群は非常に多くの内容を含み、塑像の数も簡単に数えることができないほど多い。

参考:中国旅行専門サイト

西安歴史名所 草堂寺

2008-10-22 16:27:04 | 西安観光地
 草堂寺は西安城の西南、秦嶺山脈の北の麓にあり、西安市から役50キロ離れています。 
 草堂寺の建立は東晋、十六国に遡ります。この寺は後秦の皇、姚興のために造営した逍遥園を基礎として修理し、建てられたもので、唐代の宣宗大中九年(855年)のことでした。 
 
 後秦の欧、姚興は弘治三年(401年)に当時の涼州(現在の武威)に滞在していたインドの高僧クマラジュを国師として長安に迎え、逍遥園の住まわせました。クマラジュは長安に持ってきた多くのサンスクリット経典を逍遥園で姚興及び三千人の弟子と一緒に漢語に翻訳し、校正しました。また、クマラジュは仏教の小乗学、大乗学を明らかにしました。従来の中国仏教は後漢に明帝の時代に伝来したもので、その法教理も決まっていませんでしたが、クマラジュは仏教教理を漢語の経文によって明確に仏法論理として成立させました。この経典は合計97部125巻に及び、古代中国に最も早く輸入された大量の外国書籍の翻訳でした。そのため、のちの唐の皇帝太宗李世民はクマラジュの偉業を称えて、「十萬流沙来たり振錫、三千弟子共に訳経す・・・」と書きました。 彼は弘治十五年(413年)に入寂しました。70歳でした。 彼は中国の本格的な仏教を伝えた僧です。
 
 彼の死後、草堂寺に堂宇とクマラジュ舎利塔を建立し、彼の骨灰を奉納しました。舎利塔は乳黄色の大理石造りで、高さ2.33m、八面十二層です。このため、八宝石塔とも称されます。 
 
 塔身には精巧な浮彫りの紋飾りがあり、1500年を経た今、貴重な史実の証として珍重されています。 寺内の殿宇は後年の建物ですが、両側の回廊の壁に二十基の石碑が嵌められています。最も有名なものは第二門の前、碑亭の中に立っている石碑(定慧禅師伝法碑)です。これは唐代の書道家柳公権の篆書です。
 
 また、境内には老木が多く、井戸が1つ残っています。唐代にこの井戸から煙が立ちあがり、地上から天上まで繋がって空に漂い浮かんでいたと言います。 そのため、古くから伝えられる「草堂煙霧」は長安八景のひとつに数えられています。

 

参考:中国旅行専門サイト

西安旅行案内 法門寺

2008-10-22 15:31:04 | 西安観光地
 法門寺は西安から138キロ離れた扶風県の北にあり、後漢の恒帝と霊帝の時代(147-89)に建立された寺です。寺の境内には塔があって、法門寺はこの寺で有名です。

http://www.westpassion.com

 後漢の時代から北魏の時代まで、この寺は阿育王(アショカ)寺と称されました。アショカ王は古代インドの国王で釈迦牟天が入寂した200年後、(前272-前226)仏の骨(舎利)を八萬八千四百に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられています。中国では19基の仏真身舎利塔が建立されました。法門寺塔はその中で第五基といわれています。

 隋の文帝開皇三年(583年)にこの寺は成実道場と改名され、唐の高祖の武徳七年(624年)に法門寺と名付けられました。 法門寺塔は最初四層の木造でしたが、明代に潰れてしまったので、明の神宗は万暦七年(1579年)にこの塔を十三層の煉瓦造りの塔に造り直しました。塔身は高さ54mあります。塔の二層から十二層までそろぞれ各層に八つの仏壇があり、その中にそれぞれ銅製の仏像と
菩薩像が一体ないし三体安置されています。合計104尊あり、大部分の仏像は背に文字が刻まれていて、刻銘の内容によって、これらの仏像の奉納者は主に明代の官僚であったことがわかります。仏像のそばに南宋と元の時代の写本の経典と復刻の経典が置かれていました。

 清の順治年間(1644-1661)に地震のため、塔が傾き、中に亀裂が生じました。また、1981年8月24日に雨で塔身の側面の半分が倒れたため、1987年1月から塔を修理し始めたところ、4月3日、塔の地下に地宮を発見し、旧暦4月8日、地宮後室で一枚の仏の指の舎利を発見しました。

 この指の舎利は八重の宝石箱の最も内側の、第八重目の純金製の小塔の中にある銀柱の上に挿してありました。この八重の宝石箱は、塔の懿宗が奉納したもので、金?銀?珍珠?漢白玉石?白檀などを材料として製作されています。八重の宝石箱の両側には石刻の四天王が舎利を護持するために侍立しています。第二枚の指の舎利は地宮にある漢白玉石製の小塔の中に安置してありました。第三枚は地宮後室にある小龕の中の鉄箱にありました。この鉄箱の上辺に「奉納皇帝敬造釈迦牟尼仏真宝函」と刻まれています。第四枚は地宮の前室にある彩色の菩薩舎利塔の中に安置してありました。
 
 これまで、釈迦の指の舎利と称される舎利は四枚発見されていますが、その中の1枚だけが釈迦の本当の指です。これは(霊骨)と呼ばれ、他の3枚は(影骨)です。影骨は霊骨から複製したものですが、仏教の世界では影骨もやはり聖骨で、仏の真身舎利と考えられています。この四枚の指の舎利は世界で始めて発見されたもので、現在も指舎利はこれしか存在しません。

 その他、法門寺塔の地宮からは首の無いガラスの壷、青い釉薬の水差し、純金の糸で刺繍した礼拝用のクッション、真珠の瓔珞を付けた金めっきの菩薩像が掘り出されました。さらに、金銀の器131点、錦、綾、羅、紗などの織物700点、珍珠や宝石400点、ガラスの器17点なども出土しました。皿や碗、瓶は上辺に青、黄、緑、白などの色がつけられ、とても綺麗です。ガラスは西域から中国に伝来したもので、西アジアの特徴があります。これらの珍品の中で純金の「単輪十二環錫杖」は非常に精巧です。
 
 法門寺は長い間皇族の御用寺院として歴代の皇帝から崇められました。北魏の時代にその塔の地宮を開いて釈迦の指の舎利を見せたことがあると伝えられています。唐代のほとんどの皇帝が仏教を崇拝し、方門寺の仏骨を何回も宮廷に迎え盛大な行事を行いました。

 俗伝によれば、法門寺唐の舎利は三十年毎に開帳されたそうです。 しかし、唐代の末期から沈黙しつづけました。その唐の地宮に納められた釈迦牟尼の真身仏骨の舎利や歴代の皇帝が供養した金銀などの宝器は人々には容易に想像できない秘蔵の逸品となっていました。法門寺での発見は国外にも中国文化の栄光を示しました。また、世界に仏教界においても喜ばしい大きな出来事でした。法門寺地身やからの出土品を完全に保存するために法門寺博物館が建られ、今日、博物館で数多くの珍品を見学できます。


参考:中国旅行専門サイト

西安観光名所  中国名山華山

2008-10-22 13:30:41 | 西安観光地
http://www.westpassion.com

華山は古来より一本道が特徴で、「華山自古一条路」と言う言葉もあるが、解放軍

兵士や薬草を採取する農民たちは次のように語ります。華山登山は玉泉院からスタ

ート。 谷間に沿って20里ほど歩くと、青柯坪に到着。 その東に「回心石」の文

字が刻まれた大きな石。 これから先が華山の危険なところ、 この三文字を見て体

力の無い者、肝っ玉の小さい者は引き返す。 回心石を過ぎると華山の咽喉、「千

尺棟」に着く。 ここは険しい崖の小道で、370段の石段。 両側にロープがあ

り、ロープを掴んで一歩ずつ登る。 「千尺棟」の幅はとても狭く、下をみると深

い井戸。 ここの崖には「太華咽喉 気呑東漏」の文字が刻まれている さらに進む

と、もっと険しい「百尺峡」に突き当たる。 その後、仙人橋を通り、一段と険し

い「老君犁溝」に至る。 ここは海抜1500m、四方は断崖絶壁で「雲台峰」と

も呼ぶ。と華山の険しさの「語り」は続きます。今、華山にはロープウェイが開通

し、「天下第一の険」と称される山も観光客に身近になりました。 ロープウェイ

の高度差は約800mで、華山の美しさを味わうことができます。 夜、崋山に登

る場合には、崋山の麓の旅館はお薦め(夕方、崋山の麓に着いて、麓の旅館でちょ

っと休憩して、夜23時前後、崋山の麓の屋台にて夕食を取って、夜0時前後からほ

かのお客さん<中国人>と一緒に崋山に登り<登山始まり>、翌日の5、6時頃、東

峰に着く、朝日の出るのを待ちます、朝の崋山の頂上の絶景を見て、ほかの峰<中

峰、南峰、西峰>を回って、午前11時前後、徒歩で崋山の北峰までに下り、ロープ

ウェイとカート(崋山の入山入り口からロープウェイの乗り場まで走っている中型

バス、崋山遊覧車)で12時前後に崋山の麓に到着)。



西安 【崋山の朝日と夕日が見られる時間 】
一月:07:42~07:47、17:45~18:03; 三月:06:35~07:10、18:35~18:56; 五月:05:29~05:44、19:08~19:28; 七月:05:31~05:44、19:44~19:57; 九月:06:15~06:29、18:04~19:10; 十一月:06:03~06:24、17:35~18:47


参考:中国旅行専門サイト

西安観光案内 清真大寺

2008-10-22 10:59:43 | 西安観光地
西安有名な観光地、西安の歴史名所である清真大寺をご紹介します。

 

現在西安市には約5万人の回族イスラム教徒がおり、この民族の人口は西安にお

ける40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教のぽ寺

院がたくさんあります。 清真大寺は、鼓楼のすぐそばの市内いの中心地近くにあ

り、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺中に保存されている石碑の

記載によれば、この寺は唐の玄宗の天宝元年(742年)の建立であるが、明代の

1384年に大修理が行われています。 寺院は楼・台・亭・堂の4つの部分に分

かれ、敷地は一万二千平方m、建築面積は約四千平方m、ほぼ完全な古代建築群で

構成されています。 前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛檐の木牌坊がありま

す。第二院には石碑坊が一ヶ所あり、石碑には明、清代にこの寺を修理したことが

記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。これは礼拝のと

き、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿

とも呼ばれており、信者は毎日五回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前に

シャワーを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方mで、一回に千人以

上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用

し、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んであります。この寺は全て中国の

イスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼・台・亭・堂の

四種類を形成しています。また、寺の建物は全て対になっています。その形式は

広々として、堂内の彩画は精密で古典的な建築の特徴を残しています。 人々の生

活習慣、風俗などが民族によって異なることは言うまでもありませんが、特にイス

ラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。 彼らは豚肉も酒

も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。 結婚式は午後、新婦を迎

え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読み、メッカに生涯を誓います。女性は

ほかの民族とは結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣もありまし

た。 葬式のときも読経します。棺は使わず、28mほどの木綿の織物で遺体を包

んで埋葬します。服装は漢族とかわりませんが、年配で回族意識の高い男性は白い

フチのない帽子をかぶっています。

参考:中国旅行専門サイト

西安の風俗習慣

2008-10-21 18:57:02 | Weblog
秦腔

             
秦腔とは主に西安地方で有名な中国の地方劇です。秦腔は、昆曲、弋陽、柳子などと共に、南昆(南の昆曲)、北弋(北の弋陽)、東柳(東の柳子)、西木邦(西の木邦子:秦腔)として、中国の古代戯曲の四大声腔体系の一つとして並び称されています。今日、一般に秦腔と言う時、いわゆるこの西安秦腔を指すことが多いです。

秦腔のその盛況振りは大変なものであったことが覗われます。いわゆる特技(難度の高いパフォーマンス)では、吐火や吹火などの火を操る技が有名で、身段(しぐさ)の分野では、拉架子、担柴担、水担などと呼ばれるものが有名です。なお、この秦腔の演劇としての特徴ですが、いわゆる行当(劇の役柄)は、主に老生、鬚生、小生、幼生、老旦、正旦、小旦、花旦、武旦、媒旦、大浄、毛浄、醜(道化役)など十三類(呼び名も京劇とは若干異なる)に分かれています。

特に、花臉(悪役)の大音量で、声高・激越する歌い方は有名です。また、文場(弦楽伴奏楽器)には二弦子、板胡、二胡、笛子、三弦、揚琴などが使われおり、武場(打楽器伴奏)には暴鼓、干鼓、堂鼓、勾鑼、小鑼、木邦子などが使われています(建国後は一部の西洋楽器も使われるようになりました)。

皮影劇

         
皮影劇は中国伝統芸術の一つだが、今は行う団体も少なくなっているそうだ。光と影の織りなすドラマは非常に幻想的な上に、その音楽、演唱もいかにも中国的ですばらしい。

現在、皮影は西安や太原などで生産をされ、かなり高額で売られているている。だが、古いの皮影は、現在の工場で作られたものなどと比べようもないほど貴重ですばらしいものだ。珍しいところでは、皮影という影絵芝居に使われる棒で操る人形などもある。

剪紙

      
剪紙は、幸せを願う人々の心を切り紙という形で
切り取った中国の民俗芸術です。
今も人々の生活の中で愛されている剪紙を
皆さまとご一緒に愉しんでいきたいと思います。

古都の文化と伝統を受け継ぐ西安人は、今日でも中国の文化の潮流をリードしている。常に身近なものとして歴史に触れている西安人は、文化的素養が高く、特に文学芸術界でその才能を発揮している者が多い。

http://www.westpassion.com

陝西省の八つ面白いこと

2008-10-21 15:41:11 | Weblog
陝西省の地方により、衣・食・住など、民俗がずいぶん違っている。よその地方におかしいなあと思われることがいつくかある。普通は陝西省の八つ面白いことと言われているが、十大面白いことと言われているのもある。
  http://www.westpassion.com
一、「面条像腰带」(ラーメンはベルトのよう)
幅はなんと5センチ、厚さは0.5センチ程のラーメン。陝西省のあたりは面食を主食としている。そのラーメンの中には野菜、大蒜、お酢、味の素、特に唐辛子をたくさん入れている。
  http://www.westpassion.com
二、锅盔像锅盖 (焼きパンは鍋の蓋のよう)
陝西省の焼きパンは全国でもとても有名。直径は40-50センチ、厚さは6-7センチ。農村のお鍋の蓋の大きさと同じくらい。中国の農村では、木で作った分厚い蓋を使っている。その焼きパンは常温で十日以上も持つから、昔、遠くまで旅に出る人は、よくこれを持って出掛けた。
この焼きパンの由来について、面白い説がある。唐の時代、則天武后の乾陵を作るのに時間に迫られ、兵士らは工期に遅れることにしばしば懲罰された。時間を節約するため、ある兵士はかぶとで焼きパンを焼いて、頭にかぶって仕事をした。お中が空いたら、それをちぎって食べた。それで広がって、今の焼きパンになったそうだ。 
  http://www.westpassion.com
三、辣子是道菜 (唐辛子は一つの料理)
「辣子」は唐辛子のこと。陝西省では質の良い唐辛子の産地である。湖南人、四川人などの人々は唐辛子を調味料としているが、陝西省の人は唐辛子を一品の料理として、食べている。熱くした油を事前に塩を入れた唐辛子の粉の中に入れるだけでできあがり。とても簡単な料理で、陝西省の人々の食卓には欠かせないものである。蒸したての饅頭の真ん中に挟んで食べるのは最高!
  http://www.westpassion.com
四、盆碗难分开 (たらいか茶碗かは見分けがつかない)
陝西省の農村ではなんと直径約一尺の茶碗を使って、村の人たちと一緒に、話をしながら、外で食事をする風景がよく見られる。農村では肉体労働なので大食いの人が多いのか?いずれにせよ、お代わりしなくてもすむところはいいことね!
  http://www.westpassion.com
五、帕帕头上戴 (ハンカチは頭にかぶる)
 巾白巾白はハンカチや手ぬぐいのこと。ほこり、風、雨、強い日差しを防いだり、汗を拭いたりすることができ、実にとても実用的なものである。いざというときに、風呂敷にもなれる。これほど便利なものはない! 
 http://www.westpassion.com
六、房子半边盖 (家屋の屋根は半分) 
雨が少ないから、陝西省の農村では屋根が半分に建てられているのはよく見かける。年間総雨量はわずか600mmしかない。水が足りないため、雨の日に雨水を貯めて飲む。雨水が他人のところに流さないため、また建築材料を節約するため、半分に立てられたのである。人口が増加し、土地が足りないのももう一つの原因であろう! 
 http://www.westpassion.com
七、姑娘不对外 (お嬢様はよそにお嫁にいかない)
 「姑娘」は未婚の女性の事。昔の長安は国際都市として隋唐の時代に文化や経済などがたいへん盛んだった。ここは土地が肥え、地方の人々が憧れるところである。ここに生まれたことに誇りに思っているお嬢様はよそにお嫁にいかないのであった。
 http://www.westpassion.com
八、唱戏吼起来 (芝居は大喝)
陜西省の地方劇秦腔を歌うと、まるでだれかを怒鳴っているようである。よその人は冗談げに「秦腔をするのに、第一、舞台が丈夫でなければ壊れる恐れがある;第二、俳優の体が丈夫でなければ持てない;第三、聴衆は肝っ玉が大きくなければ、ひどくびくびくするでしょう」と言っている。

西安観光の名所 碑林博物館

2008-10-20 16:14:46 | 西安観光地
西安観光スポット碑林博物館は西安主な観光地、西安歴史観光名所です。





 西安城南門の東にあります。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味します。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられました。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれています。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点あります。

 博物館は南北に細長く、門をくぐると木牌坊が見えます。右に折れて正面をみると東西両側に展示室が続いています。その間の遊歩道の両側に石造りの動物模様の門柱や八角円堂の碑閣が立ち並んでいます。もっと奥に進むと碑林の展示室に着きます。

 まず目に入るのは碑亭の中に立っている石台孝経です。この石碑は高さ5.7m、唐の玄宗皇帝の天宝四年(745年)の自筆で、内容は孝経に関する解説で、碑額の題字は皇太子李亨(後の粛宗皇帝)の書です。碑文の中に、「身体髪膚これを父母に受く」という明言もあります。 七つの石碑展示室には大型の石碑と墓誌銘が千基ほど展示されています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代にわたっています。石碑には歴史実録、仏教、古代の名著などが刻まれていて、石碑は当時では文化を伝える重要な手段でした。

 第一展示室には高さ2mの開成石経の石碑が114基あり、碑の両面に65万252の文字が刻まれています。開成石経は唐の文宗皇帝李昴が国子監(文部大臣)鄭罩の建議により、文宗の大和四年(830年)から開成二年(837年)までに艾居梅と陳王界らによって楷書で刻まれたものです。これらの碑の完成には約七年の月日を費やしたと伝えられています。文宗の開成年代に完成したのは開成石経と名付けられました。

 当時の統治者は、この石経を長安城務本坊の中に置き、大学生と文士たちに勉強させました。石経とは、十三種の儒教経典の意味で、即ち、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。刻文の内容は中国の古い封建制度の道徳の倫理で、これにしたがって官僚を養成するのが当時の支配者の目的でした。また、地理資料、民間詩歌、貴族の冠婚葬祭の制度、名人の問答談話の収録、歴史文献など、数多くの典籍の精華が網羅されています。

 第二室には唐代の有名な石碑を展示しています。唐多宝感應碑は唐代の大書道家願真卿四十四歳の自筆です。碑文の内容は唐代の名僧楚金禅師により多宝塔建立の経過文で、この中に唐の玄宗皇帝が多宝塔建立にため、当時のお金で五十万銭送ったことが記載されています。

 顔家廟碑は、彼の七十二才の時に自家顔氏の家廟のために書いたもので、内容は顔家の家史の総括です。顔真卿の作品は古今を通じて、顔法字として尊重されています。

 唐玄秘塔碑は唐代の有名な書道家柳公権が六十歳の時に大達法師のために揮毫した墓碑です。内容は、大達法師が唐の徳宗、順宗、憲宗皇帝から受けた厚恩について記載されています。

 唐同州聖教序碑は初唐の大書道家楮遂良の自筆で、内容は玄奘三蔵法師の苦労を称賛したものです。これは晩年の彼の傑作でもあります。皇甫誕碑は、歐陽通が書いたもので、道因法師が大慈恩寺で玄奘三蔵奉仕の経典漢訳の仕事を助けたことが記されています。

 有名な三蔵聖教序碑もこの展示室にあります。この碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師がインドから持ち返った膨大な仏教経典を漢語に翻訳し、皇帝に献上したという玄奘の功績を賞賛したものです。碑文の文字は主に書聖と称賛される王義之も原拓を懐仁法師が集めたものです。

 また、太宗皇帝の勅命によって、民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を一字一字選んだものです。書聖の原拓の収集には、唐の太宗の貞観二十二年(648年)から唐の高宗の咸亨三年(672年)まで、実に24年間が費やされたと言われ、【一字千金】に値するという言葉が生まれました。

 碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もあります。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑です。この碑を刻んだのは唐の建中二年(781年)で、もとは長安大秦寺にありました。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派です。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっています。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、入らん、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在しません。

 唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことです。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授しました。これが所謂三国三大法師の関係です。

 この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆です。 中尼合文之那陀尼経憧碑は中国語とネパール語の古い文字が刻まれています。唐王朝と友好応対を頻繁に行ったことの記載です。不空三蔵は唐の玄宗皇帝の勅命を受けて、この碑文を唐語に翻訳したという記載もあります。

 第三室から第七室までには漢、唐、宋、明、清など。各時代の有名な書道家、芸術化の名筆があり、観音菩薩像、孔子像、達磨大師像や山水風景の日、漢曹全碑はいずれも傑作です。石刻展示室はこの博物館の重要な場所です。この展示室には陜西省に散在した数多くの石刻の中の代表的な作品が転じされています。前漢から唐までの逸品は70点あり、陵墓石刻と宗教石刻の二種類に分けられます。老子、武士、ダチョウ、牛、獲物を狙う獅子、石人に引っ張られる獅子、重さ10トンの石犀、神話の西王母と東王公の石像、石棺など、多くの石像があります。特に、唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿は最も有名な芸術の珍品です。この六駿は唐代の大画家閻立本の絵を模写して、高さ2.5m、幅3mの石版に彫刻されています。六駿は太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬です。したがって、それぞれに故事来歴があり、史実を反映しています。


参考:中国旅行専門サイト

西安観光案内  西安観光名所大雁塔

2008-10-20 16:12:22 | 西安観光地
 西安名所旧跡である大雁塔は西安観光地、西安歴史名所として、とても名高いです。各王朝 が都を定めた長安、その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。  

 慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は 僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。  

 現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されています。講堂前の大雄殿には釈迦如来の三身仏と十八羅漢があります。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金したり、塗装して現在に至っています。

 塔の東南に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が八基あります。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられています。  

 シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った『西遊記』ゆかりの唐代の高僧、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺をすばらしい寺として、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願い出ました。高宗は『西遊記』ゆかりの唐代高僧、玄奘(三蔵)法師の願いを適え、玄奘(三蔵)法師の建議によってインドの塔婆を 真似て、五層の塔を建てました。これは652年のことでした。この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米で、内部を土で築き、外面に煉瓦を積みまし た。塔が一日でも早く出来あがるように、玄奘(三蔵)法師は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられます。 

 塔が竣功してから、玄奘(三蔵)法師の持ち返った仏像などがその中に安置されました。そして、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間に亙って続けました。  

 大雁塔は則天武后の長安年間(701-704)に大改造を行って十層になりましたが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊してしまいました。  

 現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は碑と漸く擦れ違うことができるほどの幅ですが、最上階まで登ることができます。ま た、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いています。  

 塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑があります。碑文の内容は玄奘(三蔵)法師の苦労を称えたものです。  

 唐の下部の東西南北側にそれぞれ石門の上に横木が一本ずつあります。南の石門の横木を潜ると、中央広間の回廊の南側の石碑の上に科挙の合格者の名前と出身地が刻まれています。他の石門の横木にはそれぞれ精巧な線刻の仏像と天王像があります。特に西側の石門の横木に陰刻した釈迦説法図と殿堂図は圧巻です。  

 五門単層四注造りの仏殿が拓本取りで真っ黒になっていますが、陰刻された鴟尾や屋根などの状況は鮮明です。この仏殿図は日本の奈良?平安時代の木造建築の原形となっただけでなく、中国建築市場でも唐代の建築様式、絵画、彫刻芸術を伝える重要な文化財です。  

 大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に度見舞われていますが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せています。

 慈恩寺のあたりには、大雁塔曲江風景名勝区になっていて、植物園、博物館、曲
江春暁園、玄奘文化苑があり見所が満載になっています。


 
参考:中国旅行専門サイト―西部旅情